犬の散歩のとき少年時代を口ずさむ
ヒューイの存在をすっかり忘れていた。
僕たちが飲んでいる間、一階は犬にとって暑かったのかヒューイは二階に戻って、窓辺で寝転がっていた。
ふたたび一階に連れてくると、マミに「散歩しよう」と言った。
午後になって翅型ゾンビの数も減っている。
敷地内をぐるっとまわるだけなら心配いらないだろう。
ヒューイの運動不足も気になるし、ここは散歩に連れて行ってやるべきだ。
「ヒューイ、散歩に行きたいの?」
マミが手を出すと、ヒューイは掌をペロペロ舐めた。
「じゃあ行きましょう」
熱がこもりがちな屋内とは違って、屋外は過ごしやすい気温だった。
赤とんぼが道端のススキの辺りを飛んでいるのが見える。
夏が終わろうとしている。
こんなご時世でも季節は巡るんだな、と当たり前のことを考えながら、ヒューイを畑のあるほうへ歩かせた。
野菜は順調に成長している。
この分ならそれぞれ旬の季節には食べられるようになる。
通常、畑で作った一度目の作物は土が育っていないのであまり美味しくない。
味の保証はできないとはいえ、自分たちが育てた野菜が食卓にのぼる日が楽しみだ。
唐突に涼風が吹いた。
小川の方向から吹いてきたので、水で冷やされた風が心地よく頬を撫でる。
本当に、夏が終わるんだと実感した瞬間だった。
思わず井上陽水の少年時代を口ずさむ。
それに合わせたつもりなのか、マミは隣で違う歌を歌い始めた。
何言ってんだこいつ、と思った。
しかし存外ヒューイが嬉しそうだったので、僕も一緒になって歌った。
しばらく畑でそうしていると、田中が野菜に水をやりに現れた。
マミも今度は追っ払おうとはせずに黙って彼が水をやるのを眺めている。
「田中、野菜にモーツァルトを聴かせると美味くなるって知ってるか」
僕はからかって言った。
「知らねえ。モーツァルトってなんだ?」
「外人の作曲家だ。心当たりがある歌を聴かせてみろ」
すると彼は口笛を吹き始めた。
音はやがてメロディーとなって一つの曲となる。
彼が吹いているのはベートーベンの交響曲第9番だった。
「その曲はベートーベンだから違うよ」
「ベートーベンでなんだ?」
論外だった。彼をからかうには根気がいる。
「戻ろう、そろそろ夕食の支度をしないと」
人の消えた街に沈む夕日は本当に美しい。
マミとのデートを終えるのは名残惜しかったけれど、何事も腹八分目、物足りないくらいがちょうどいいのだ。
ヒューイにも餌を食べさせなければ。
僕たちが工場に引き返すときになっても、田中はまだベートーベンを吹いていた。




