へべれけデート症候群
「座って、飲んで、駆けつけ三杯」
「時間はあるんだから急かさなくてもいいだろ」
渡されたグラスに口をつける。
一級品だけあって味は格別だが、朝からやるものではない。
朝食をたべたばかりだし、胃にズドンとくる重さだ。
「水族館行きたかった」
「まァな。でも動物園に行ってきたようなもんだろ」
「あんなのは、違います」
「俺ぁゴリラが良かったなぁ」
「あんたは黙ってなさい!」
話に加わろうとした田中のケツを、マミがひっぱたく。
「あんたはどっか行ってなさい!」
「いてっ、ちぇっ、なんだよお」
グラスを手に立ち去る田中。
哀れなり。
「それで、デートってったってどうするつもりだ。ずっと飲んでるわけにもいくまい」
「いいから駆けつけ三杯。早く」
「へいへい」
三杯のラムを飲み終える頃には、あまり酒に強くない僕は結構酔っ払っていた。
マミは酔ったふりをしているが、これでいてまったく酔っていないのは知っている。
「私ね、昔だけど野球を見に神宮球場に行ったことがあるの。両親と一緒にね。最初は楽しみにしてた。間近で見る野球はどんなのだろうって。でもね、球場にいた人間の数のあまりに凄いこと。帰ってから調べて仰天したわ。当日の来客数は3万2千人だった。それでも満員じゃないらしいの。あんなに、アリみたいに仰山いる人が、世界人口と比べると微々たるものだとも知ったわ。そのときに思ったの。私ってなんなんだろうって。私の人生って、なんなんだろうって」
全く同じことを涼宮ハルヒの憂鬱で聞いたなと思った。
たしかそのとき主人公は何も言えなかったはずだ。
高校生がこんなことを聞かされて気の利いたことを言えるほうがおかしい。
だから僕は彼女の横に置いてあったJSミルの本を手にとって、適当なページを開いて読んだ。
「人間は、相互の助力によってこそ、より善きものとより悪しきものとを区別することができ、また相互の激励によってこそ、より善きものを選んでより悪しきものを避けることができるのである」
意味は全然、まったく、これっぽっちもわからなかったが、なんとなく言いたいことはわかった。
「つまり君がK大生として相応の扱いを受けたり、親父が良い会社にいるからと色眼鏡で見られたり、その結果イラつくはめになっても嬉しいことが起こっても、すべてはその3万2千人超の人間がいるからこそなんだな。証拠に君はもうK大生の扱いは受けていない。周りで生きている人間が3万2千人以下になったからだ。小規模の集団においてはK大に通っているとか、年収がいくらかとかは関係ないんだよ」
マミは黙考した。そして、
「われわれの宗教、道徳、哲学は、人間の頽廃形態である。反対運動は芸術。そんな言葉に従ってるうちは駄目ね。もっと感性に身を任せないと」
僕は彼女が何を言っているのか微塵もわからなかった。
しかしお得意のニーチェを引用していることだけはわかった。
「君はフランス文学専攻だろう。ドイツ人の言ったことを持ってくるのはズルいぞ」
「あなたが言ったんじゃない。K大に通ってるなんてことは関係ないって。フランス文学専攻だろうがチェコスロバキア史専攻だろうが、私には関係ないわ」
「そうかい。その本、あの書店で盗ってきたの?」
「盗ってないわよ。私はちゃんとレジにお金を置いてきたわ」
「へえ、いくら?」
「500円」
「その本、907円だよ」
「店のおっちゃんが安くしてくれたの」
「おっちゃんなんて居なかっただろ」
「私には見えてたのよ」
「怖いことを言うんじゃない」
「なんで私、あなたと一緒にいたんだろうね」
「マミがセブ島に行こうって言ったんじゃないか。金は出さないから自分でバイトしてついてこいって」
「そうじゃなくて、その前からよ。大学には他にも大勢人がいたのに、私はその中からあなたを選んだ」
「より善きものを選んでより悪しきものを避けたんじゃないか?」
「フフフ、そうかもね」
僕と彼女は始終こんな調子で話をした。
こんなものがデートと呼べるのか、また彼女が楽しんでいるのか不明だったけれど、時折見せる笑顔が、別に悪い気はしていないことを表していた。
「水族館行きたかったなあ」
彼女が水族館に異様に執着する理由は最後まで聞けなかった。
鯖缶に飽きてブリの照り焼きでも食べたかったのだろうか?




