労働力不足
10世紀生まれのローマ教皇シルウェステル2世は、他の者から魔術師だと思われていた。
理由は本を読むから。
1935年、イギリスのバートランド・ラッセルはこう書いた。
『最近、婦人の地位を向上させることが色々企てられているのにかかわらず、大多数の妻たちたるものの生活は、相かわらず、経済的にみるとその夫に依存している』
特区は労働力不足に見舞われていた。
イワンたちが抜けた穴を埋めるのは簡単ではなく、ただでさえ襲撃に遭って人数が減っているところへ、あの例の棘付きゾンビの出現。
僕たちは昼夜を問わずゾンビ撃退に駆り出され、疲労困憊だった。
僕は目を開けた。
マミも目を開ける。
「本当はあれで終わるはずだったんだ。ポストモダン風に、僕たちは物語の中の住人でした、すべては決められたとおりにしか動きません。後は野となれ山となれ、苦労はあったが実りもあった、で終幕になる予定だった」
「だけど私たちは物語の世界に生きてるわけじゃないわ。現実には決められたことなんてないのよ」
「そうだ、その通りだ。しかし耐えられるのか?」
「どうして? 私しあわせよ」
なるほど、女性はしたたかだ。
社会を維持するために家庭の幸福を犠牲にするのは、もとは社会主義国の戦略だった。
そこでは男女は性別の役割から解放される。
家庭の仕事は外注という形で労働者に振り分けられ、労働者は余計な心配をせず国家事業に従事できる。
わかりやすくいえば、国家を大きな共同体として目に見える形で結束させ、個々の労力を大勢のために使うことによって個々の負担を減らそうということだ。
俺が一番だぜ、という輩が出てこないかぎりにおいてはうまく回る。
労働力不足を解消するにはひとつにまとまる必要があった。
言うならば、工場で暮らしていた頃の生活を特区民全員でやる。
個人主義に慣れてしまった僕たちにはなかなかつらい生活だ。
「行こう、みんなが待ってる」
既に広場には特区民が集合している。
以前難民を迎え入れるときに使用した広場だ。
明日から施行される特区新法で、特区の居住区域は大幅に縮小される。
これまでの区域では警備がおいつかなくなったからだ。
無人になる場所には罠を仕掛け、住民の立ち入りは禁止になる。
移住が完了すると、今後は壁の建設に取り掛かる。
特区の四方を囲んでいる壁は、老朽化が酷く一部に至っては使い物にならない。
棘付きゾンビの強力な針は壁の奥深くに突き刺さり、ゾンビはそのまま壁の側面をつたって登ってくる。
改修するより新しく作ったほうが手間が省けるということで、縮小した居住区域を囲う新壁を建てることになった。
以後の生活、食事は大食堂でおこない、グループごとに順番で食べる。
一度に大量に作ったほうが効率的だからだ。
集まった特区民の前に立って、僕は上記の事柄を説明した。
整列した特区民は皆黙って話に耳を傾けていたが、説明が終わって段を降りると一斉にガヤガヤしはじめた。
一基のサーチライトに照らされているだけの特区民の表情はわからないが、彼らの声音からいって、満足していない者も多数いるようだった。
こればかりは仕方ない。
安全のため、説明を終えた僕はすぐさま場所を移動して、空き家になっている建物に入って一旦休憩をとった。
情勢がきな臭くなっている。
なぜマンションに戻らなかったかというと、説明に納得のいかない特区民の襲撃を恐れてのことだ。
喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、前回のゾンビ襲撃からだいぶ経った今、かつてのような不穏な空気が特区内にあった。
「あれで納得したかな」
「どうですかね。私はいいと思うんですけど」
空き家には明かりがなく、護衛についている村上と数名の警備員の顔はぼんやりとしか見えない。
遅れてやってきた希美が、懐中電灯を手渡してくれた。
彼女は広場に残って、特区民の動向を見届けてからここに来たのだった。
「暴動の兆候はありませんでした。怪しげな集会が開かれたという噂も聞きませんし、マンションに戻っても大丈夫でしょう。念のためあと十五分待ってから出発してください。私は先に行って援護できるよう待機しておきます」
「待ってくれ。マミの様子はどうだ」
「私はずっと広場にいましたから……でもマミさんには鈴木さんと阿澄さん、狩人が着いてますから、なにかあれば使いを送ってきますよ」
「そうだな、悪い、行ってくれ」
懐中電灯を点ける。
護衛してくれているのは信用のおける警備員たちだけれど、不安定な精神では一挙一動が怪しく見えてくる。
頭を振って不安を振り飛ばし、立ち上がった。
「行きますか」
村上が銃を構える。
懐中電灯の光を頼りに道を進んでいく。
慣れている道だが、こういう事態下では心細く感じられる。
マミとデートしたときには考えもしなかったことが色々と浮かんでくる。
たとえばあそこの暗がりから誰かに狙撃されるとか。
「後白河さんを狙う人なんかいませんよ。みんな尊敬してます。明日だって棘ゾンビ狩りに行くんでしょう。イワンさんたちがいない今、ああいう得体の知れないゾンビを相手にできるのは、後白河さんや中島さん、カズヤさんたちくらいですよ」
「そうかな」
「そうですよ。私なんか恐ろしくて行けませんもん」
棘ゾンビを怖がっている村上はブルッと震える身振りをした。
彼だけではなく、特区民は棘ゾンビにおびえていた。
出現から短期間で数を増やし、現在は昔の強化ゾンビほどの数が特区周辺に棲息している。
なぜか棘ゾンビにはユキの対ゾンビ装置が効かない。
それが特区民の恐怖を一段と煽り、外に出れば串刺しになると噂になり、もう二回、食料調達の遠征が延期になっている。
このままでは特区を運営していけなくなる。
だからこそ明日、大々的な棘ゾンビ狩りを行うことによって、棘ゾンビの数を減らし、特区民の恐怖を取り除く。
本音を言えば、僕はちょっと怖かった。
棘付きゾンビの怖さは身近で見た者にしかわからない。