なぜ男性は女子高生に魅了されるのか?
定時制高校に通っていたから制服を着たことがないというディランの話を聞いた松岡、田中のふたりは民家の押し入れを漁った。
居間にあった写真立てには、制服を着た女が写っていた。
どこかに制服があるはずだと、写真の女が使用していたと見られる部屋に行ってみるも見つからない。
家中をひっくり返し、ついには休憩していた部隊員全員を借り出しての制服捜索が開始された。
隊長であるイワンは監視に出ているので、このことを知らない。
「なんで無えんだよお」
「田中さん、ここってもう探しました?」
「探したよお」
田舎の家はでかい。
部隊が仮拠点として選んだ家も相当な大きさだった。
すべての押し入れが開けられ、中身が引っ張り出された。
捜索すること二時間、とうとう制服が見つかった。
虫に食われた穴があるけれど、約4年間ものあいだ放置されていたにしては上等な状態だった。
部隊員はウキウキして制服をディランに渡し、着てみるよう言った。
「でも、恥ずかしいし……」
「こんな機会めったにないよ!」
「前の持ち主を供養すると思って!」
部隊員の口車に乗せられ、ディランはしぶしぶといった感じで別室に着替えに行った。
男はなぜ女子高生に惹かれるのだろう。
女子高生という字面からして、男子高校生とは違う響きがある。
まず男子高校生を略していうことがあまりない。
坂本九が『明日があるさ』を歌った頃から、女子高生は男性を魅了していた。
当時、女子高生の象徴だったのは「お下げ髪」と「セーラー服」で、現代とは若干ニュアンスが異なっているけれども、セーラー服もお下げ髪も時代遅れというほどではない。
やはり制服が重要な要素となっているのだろうか。
太宰治の女生徒は女学生が主人公だ。
田山花袋の蒲団では女学生が使っていた布団の匂いを嗅ぐおっちゃんが出てくる。
夏目漱石の三四郎でも、女学生とのイチャラブが描かれる。
太宰は昭和だが、明治時代は(今でいう)制服など着ていないのに!
どうやら女学生とは存在自体が男性を魅了するものであるらしい。
ちなみに株式会社トンボが作っていた華族女学校のドレスは、見ているだけで涎がでてくるような形状をしている。
「着替え終わりました」
部隊員がいる部屋からふすま一枚隔ててディランが立っている。
まだ開かれてもいないうちから、全員が息を呑みふすまを凝視している。
そこに制服を着た異性がいるというだけで、部屋の雰囲気が一気に変わる。
「ど、どうぞ……」
なぜか男たちのほうが緊張していた。
ふすまが開かれた。
ディランは22歳の健康的な女性である。
体格は並だが、男性に匹敵する運動能力を有している身体は、機能美のような変則的な美しさを演出している。
「これは、反則だろ……」
誰かが言った。
「田中さん、見てますか」
「見てる、いや、見えてる……」
「見えてる……」
もう全員自分がなにを言っているのかわからなくなった。
ディランの美しさというか、可愛さというか、可憐さというか、名状しがたい美しさは筆舌に尽くせぬ有様で、制服を着させた当人たちも言葉を失うほど見入っていた。
「田中さん、田中さん」
松岡が田中の肩を叩く。
「なんだ、今見てるところなんだ。邪魔しないでくれ」
「田中さん、これベンズィーンには内緒にしましょう」
「ベン? ああ、ベンには内緒だ……」
「制服、持っていきますか?」
「ああ、持っていこう……」
ボソボソと呟くようにしか話せないようになってしまった男たちの前に立って、ディランは顔を赤らめていた。
彼女が身につけている制服は、ごく一般的なセーラー服だった。
スカートはちょうど膝まである冬服で、どちらかというと地味な部類の作りをしていた。
しかし、その地味さが部隊員の琴線に触れたのである。
既に高校を卒業している彼らにとって、高校とは規律を意味し、規律の中にいる女子高生は地味でなければならなかった。
現実の女子高生があまり地味とはいえないだけに、部隊員は控えめなディランの態度と制服との調和にやられてしまった。
「あの、なにか言ってください」
ディランは間抜け面をして動かない部隊員にしびれを切らして言った。
「すみません! ええと、こっち向いて“お兄ちゃん”って言ってもらえますか」
「え、はい。いきますよ。お兄ちゃん!」
日テレの番組でインタビュアーの女性に同じ要求をしたデンマーク人がそうであったよう、「お兄ちゃん」と言われた部隊員は「ああっ、萌えですね~」と言って倒れた。
「これにどんな意味があるんですか?」
「心が温かくなるんです」
倒れた部隊員は倒れたまま言った。
「田中さんは、これどう思いますか?」
「いいねで言うと、1213万いいねくらいかな……」
それはランボルギーニのFacebookページにつけられた「いいね」の数と同じだった。
つまりどういうことかというと、ディランの美しさはランボルギーニ・ムルシエラゴようだという意味であり、ムルシエラゴはスペイン語でコウモリを指しているので、『明日があるさ』の歌詞に出てくるこうもり傘にかけて、結果「好きですという言葉が喉まで出かかっているけれども言えない」ということを意味していたのである……。
わかりにくい……。