針付きゾンビにご用心
「日本人の役に立ちたいんです」
シェーウは言った。
「私はロシア人です」
イワンは返す。
シェーウは少し考えて「それではロシア人の役に立ちたいんです」と言った。
裏ではクルド人たちが宴会の準備をしている。
彼らは酒を飲まなかったので、豪勢な料理が作られていた。
イワンたちは長居するわけにはいかなかった。
特区で待っている人々は、イワンらの情報がなければ身動きが取れない。
再び降雪の時期になれば足止めを食うのは必然で、気温が高いうちに距離を稼いでおかなければならなかった。
つい先程まで雲ひとつなかった空に、黒雲が立ち込めてきた。
雷鳴がとどろき、雨がぽつぽつ降ってきた。
小津安二郎が好きそうな雨が、雨雲が、長野県側から赤石山脈を越えてやって来た。
「ディランさんって何歳なんですか?」
「馬鹿、女性に歳を聞くやつがあるか」
「女性なのに、肉体労働はつらくなかったんですか?」
「馬鹿、女性なのには余計だろ」
料理の支度に行こうとしたディランを引き止めた部隊員たちは、彼女を囲んで質問攻めにした。
ディランは顔を赤らめて、その場にちょこんと座っている。
見かねた田中が割って入り、部隊員に命令した。
「お前ら、料理ができるまで表の警備でもしてろよお!」
「へーい」
実質副リーダーの立場である田中に命令されては、部隊員は従うしかない。
上官の命令には絶対服従と決められているから、部隊員はぞろぞろ表に出ていった。
残されたのはイワンと田中のみになった。
「あいつらを許してやってくれよお。あれでいて、特区にヨメを残してきたやつもいるんだ。きっと寂しいんだよお。まあ、ヨメのいる身でなにやってんだって話だが」
「田中さんにはいないんですか? ヨメ」
「オイラは一匹狼よ……」
田中は虚空に目をやり、しみじみと言った。
空想の彼女が死んだと泣きわめいていた頃からは信じられない表情をしている。
宴会が始まると、必然的に話題はアノ方向になった。
部隊員が戻ってきてディランを取り囲む前に、イワンと田中が左右を固めておいたので、彼らはしぶしぶ他のクルド人の近くに座って豪快に料理に食らいついた。
「クルド人もやっぱりイスラム教なんですよね」
無謀にも田中はデリケートな部分に突っ込んだ。
「そうですよ」
ディランが答えた。
「なんとか派とかあるじゃないですか。日本人からしたらそれがよくわからないんですけど、あれってなんなんですか?」
「大雑把に説明すると、仏教が日蓮宗とか真言宗みたいに分かれてるのとだいたい同じです」
「はえ~」
「ディランさんは何派なんですか?」
「ここにいる人はみんなアレヴィー派ですよ」
「はえ~」
「ピンと来ないんですけど、わかりやすく端的に言うとどんな感じなんです?」
「扱いが似ているというだけでいうと、無教会主義キリスト教みたいなものです」
「はえ~」
田中はキリスト教のパンフレットをよくよく読み込んでいたから、この例えがピンときた。
ピンとこない人のためにいうと、アレヴィー派はイスラム教の宗派の中でもしごくこぢんまりとしたマイナーなものである。
マイナーであるがゆえにたびたび迫害の憂き目にあったけれど、マイナーであるがゆえにひっそり生き延びてきた。
雨脚は強まるばかりだった。
話し相手に飢えていたクルド人たちはのべつ幕なしに喋りまくった。
話題があちこちに飛び、イワンはアニメ好きだというシェーウと人生で初めて観たアニメについて話し合っていた。
イワンは『撲殺天使ドクロちゃん』で、シェーウは『けんぷファー』だった。
宴もたけなわになった頃、あるクルド人(彼は910mm×1,820mmの石膏ボードを一度に六枚持ち、8時間ぶっ通しで運べる筋肉ダルマのような男だった)が先日見かけた奇妙なゾンビの話をした。
それは特区近辺に出没した針の生えたゾンビの特徴と似たものだった。
「そういうのは見たことがないな。ねえ隊長」
アニメ話に夢中になっていたイワンは、呼びかけられて少し不機嫌になりながら聞き返した。
「なにを見たことがないって?」
「針付きのゾンビですよ。俺たちいろんなゾンビを見てきましたけど、針の生えてるやつなんて今までいませんでしたよね」
「針付きってのは知らんな」
筋肉ダルマのクルド人は、針付きのゾンビと出会ったときのことを事細かに説明した。
5日前、自治区の周辺を見回りしていると、昭和通りをまっすぐ歩いてくるゾンビがいた。
このままでは自治区に侵入してくると思ったクルド人は、消防手斧を手にゾンビへと近づいた。
ゾンビはまるでLSD中毒者のように痙攣しており、ひと目で通常のゾンビと違うと感じたクルド人は、ある程度まで近づいたところで接近を中止し、一定の距離を保ちつつ観察することにした。
次の瞬間、ゾンビの全身から黒色の棘が無数に飛び出し、下部の突起がボロボロになったアスファルトに食い込んで、バランスを崩したゾンビは転がるよう道路脇に移動し、側溝に落ちて動きを止めた。
見るからに異様な風体のゾンビを警戒したクルド人は、消防手斧でタコ殴りにする戦法はやめて、かわりに弓で蜂の巣にする作戦をとった。
針付きゾンビが完全に制止するまでに消費した矢の本数は70本。
その死体は燃やしてしまったので、現在側溝には黒焦げの塊がはまっているだけである。
「それが事実なら脅威だな」
話を聞き終わって、イワンが真剣な顔をして感想を述べた。
「特区にも同じのが出てるんかね」
田中が言った。
「わからん。少なくとも俺たちが通った道にはいなかった」
クルド人のひとりが、使用した弓を持ってきた。
それは彼らがどこかの街の中学校に忍び込んで盗んだ弓道部の弓だった。
「やむを得ず盗んだ物です。いえ、借りた物です」
「それはわかってるよ」
イワンや部隊員はともかく、米軍基地から銃を盗んだ経験のある田中には彼らの気持ちが理解できた。