クルド人自治区
特区を出立したイワングループは、山梨県中部、昭和通りの子安八幡神社があるあたりを進んでいた。
目立った障害もなく順調に行程を消化していたイワンたちだったが、昭和通り横にある見慣れない文字の書かれた看板の前で足を止めた。
看板には『منطقه خودمختار مردمان کرد』と書かれている。
「何語だろう」
照準器で文字を読んだ田中は、これまでの人生で一度も見たことがない、ミミズがのたくったような言語に困惑して言う。
「わかんね」
イワンもミミズがのたくったような文字には造詣がなく、お手上げだった。
部隊は看板のある場所から50mほど離れた地点に陣取って、様子を窺っていた。
このまま無視して進むかどうか、イワンと田中、それから腕の立つ数名が話し合った。
近くに人影はなく、あの看板がいつ立てられたものかも分からない。
しかし、周囲の建物が軒並み朽ちて潰れているのに対し、看板はちょっとやそっとじゃ倒れないくらい頑丈に立てられていて、手入れが行き届いているように見える。
太い支柱に据え付けられた木片に文字が書かれているのだが、丁寧にペンキでオレンジ色に下塗りした上に黒く『منطقه خودمختار مردمان کرد』とあり、更にその上からニスが塗られていた。
どうすべきか話し合っていると、遠くにある掘っ立て小屋のような建物から、数名の人間が出て来るのが見えた。
気づいたのは監視任務についていた部隊員である。
すぐさまイワンのもとに駆けてきた部隊員は、看板に近づいてくる者がいると報告した。
看板の文字はペルシア語だった。
看板に近づいてくる男たちはクルド人だった。
相手がゾンビでないことがわかると、イワンは通りに出て叫んだ。
「おーい! 危害を加える気はない、今からそちらに行くぞ!」
イワンはペルシア語が喋れなかったので日本語で言った。
すると向こうも日本語で返してきた。
「お・も・て・な・しするよ!」
国家をもたない最大の民族であるクルド人は、世界各地に散らばっている。
国家をもたないといっても、ユダヤ人のように自ら好き好んで放浪しているわけではなく、もといた場所を取り上げられてしまったので放浪するはめになってしまった民族だ。
日本にも少数ではあるがクルド人が住んでいて、多くが日雇いのような肉体労働に従事していた。
荷揚げのアルバイトなどでは外資系企業以上に多数の国籍の者が入り混じっているから、彼らが職場で奇異の目で見られるということはないが、クルド人といえば世界最強の軍隊と呼ばれるくらいなので、その仕事ぶりは生きるブルドーザー、いい意味で目立っている。
楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽
外観は掘っ立て小屋でも、内装は豪華なその建物は、クルド人たちが一から作り上げたものだった。
発電施設も備え付けられていて、中には電気が通っている。
室内に通された部隊員は玄関で靴を脱ぎ、カーペットが敷いてある床に直に腰掛けた。
先ほどの三名に加え、新たに五名のクルド人が現れ、計八名が部隊員の前に座った。
「よくぞお越しくださいました」
浅黒い顔のクルド人が言った。
「表の看板はなんなんですか?」
田中が尋ねた。
「クルド人の自治区という意味です。あなたは日本人ですね? 誠に勝手ながら、我々はここに自分たちの国を建国することにしたのです。このようなご時世、土地は早い者勝ちですので。もちろん、行政からなんらかの指示があれば退去するつもりです。指示があればね」
クルド人はニヤリと笑った。
「申し遅れました。わたくし自治区の代表をしていますシェーウと申します」
シェーウは若者だった。
彼は在日クルド人の二世だった。
シェーウというのは通名で、意味は「夕食」だった。
本当は別の名前があったけれども、クルド人が抱えている問題が解消された今、堂々と母国の言語に由来のある名が名乗れると新しい名前を作ったのだ。
悲しいかな、彼が知っているクルド語は「夕食」だけだった。
話は自然と来歴に及んだ。
クルド人たちはもともと埼玉県にある建築事務所に勤めていた。
仕事で遠方に向かい、ゾンビパニックに巻き込まれたのは帰りの道中でだった。
はじめのうちはゾンビと戦いながら各地を転々として過ごしていたけれど、やがて戦いに疲れた彼らは一箇所に定住することを決意し、比較的ゾンビの少なかったこの場所に居着いた。
「看板は洒落っ気ですよ」とシェーウは言った。
だが目は本気だった。
立川に特区を作ったイワンたちは、クルド人が日本の土地を自治区として占領していることを強く咎められなかった。
ゾンビに占領されるよりはいい、と誰もが思った。
「それで、あなたたちは何者なんですか」
シェーウは部隊員の武装を見て言った。
彼らにとって、ロシア製の武器は複雑な感情なしには見られなかった。
イワンは大阪遠征の計画を包み隠さず説明した。
「なるほど……ディラン! こっちに来なさい」
ディランと呼ばれた女性が、シェーウの傍に寄った。
「ディラン、彼らに手を貸してあげなさい」
「わかりました」
部隊員は顔を見合わせた。
ディランは顔を包み隠していたスカーフを外し、お辞儀をした。
絶世の美女!
クルド人はトルコ人といろいろあり、トルコ人をはじめとする東洋人は西洋人といろいろあったのでこういう言い方は非常にアレなのだが、スカーフを外したディランは人類学的な美少女で、混合的な美に満ち満ちていた。
かつて西洋人は中東の人々を幼児的(被後見者的)と評した。
差別的な仰々しい文句であるこの見方も、「ちょっぴり控えめな」と言い換えればなんと魅力的になることか!
「申し出は嬉しいのですが、我々は今の人員で充分……」
断ろうとしたイワンの口を、部隊員たちが塞いだ。
「ぜひご一緒しましょう!」
こうして、大阪遠征にクルド人が同行することが決まった。