昔のことをグズグズ悩むのはやめよう
なにかおもしろい話してよ、と言う女子はどこにでもいる。
どこにでもいて、その都度男子を困らせている。
おもしろい出来事は、稀にしか起こらないからおもしろいのだ。
人生でおもしろい出来事が一度もなかったという人はザラにいる。
ある日のこと、僕は前哨基地に出向いた。
約束を果たせという香菜の言葉に従って、銃を持って基地に行った。
護衛はふたり、狩人と鈴木だ。
到着すると個室に案内され、僕たちはふたりきりになった。
改めてふたりきりになると緊張するものだ。
尋問室のような殺風景の部屋。
普段は仮眠室にでも使っているのだろう。
無骨なパイプ椅子とテーブルが部屋の中央にあり、壁際にはいくつか寝袋が転がっている。
窓はなく、壁に空いた穴から外の光が入ってくる。
彼女はなかなか口を開こうとはしなかった。
年齢でいえばこちらが上である。
リードしなければと思い、僕は言った。
「なにかおもしろい話して」
「そんな話はない」
愚行だった。
言われて困ることを人に言うものではない。
「マミさんとはいつから親しいの?」
「大学に入ってからだな」
「楽しかった?」
「大学が?」
「そう」
大学に通っていたのが遠い日のように思える。
実際4年前なのだから遠いことには遠いのだが、記憶している大学の光景、匂いは、4年以上前のものに感じられる。
10年は経っているような気がする。
楽しかったかどうか、と訊かれると返答に困る。
そもそも楽しむような場所ではない。
やることといえば勉強くらいしかないからだ。
もともと僕は同年代の人と一緒にいるのを楽しいと感じる人間ではなかった。
世の中には大勢でいることそれ自体を楽しいと感じる人がいる。
そういう意味では、僕は非リア充に属する男だった。
「それなりかな。別に楽しいとも感じなかったけど、つまらないとも思わなかった」
「私は嫌いだった」
「学校が?」
「うん」
出会ったばかりの頃、香菜は小学生だった。
彼女の口から直接学校のことを聞いたことはなかった。
彼女だけではなく、他の人もあまり話したがらない。
僕も大学時代のことを皆に話したのは、指で数えられるくらいの回数しかなかった。
「不登校だったって言ったら笑う?」
「笑わないよ。なんで笑うんだ」
「学校で不登校だったのが私だけだったから」
村上春樹のダンス・ダンス・ダンスに不登校の少女が出てきた。
出てきていろいろ言っていた。
いろいろ言っていたけれど、絵に描いたような不登校児が不自然で気持ち悪かった。
村上春樹が不登校児を悪く思っているのではなく、彼が学生の頃は「不登校」という呼び方が存在しなかったのだという。
別の本で言い訳のように「自分が今小中学生だったら不登校になっているだろう」と言っている。
知らないものを書こうとすると、作家でさえぎこちなくなる。
大人が不登校児に対面したとき、一般的には腫れ物を扱うように優しく、傷つけないよう丁寧に、なるべく刺激しないよう上辺を取り繕って話す。
ゆとり教育のイメージも押し付けられ、「感性が豊かすぎるゆえ」不登校になったと曖昧かつ無責任な言葉で片付けらる。
要するに、自分たちの手に余るのでうっちゃっておく。
最終的には「学校になんか行かなくてもいい」と言う。
学校外の人間ならわかるが、学校関係者でさえ言う。
「そいつはレアだな。学校でひとりだけなんて立場、狙ったってできることじゃない」
「ふざけないで」
「ふざけてなんてない。過去は過去、今は今だ」
「なんで学校に行かなかったのか言ったっけ」
「聞いてないな」
香菜はうつむいた。
言葉を選んでいる風だった。
自分の中でもまだ折り合いがついていないのだろう。
「行きたくなかったわけじゃない、でも、行きたくなかった」
「わかるよ」
「わからないでしょ」
彼女の声音が1オクターブ上がった。
「わからないな」
「どっちなのよ……まあいい。最近、なんで学校に行かなかったんだろうって思うの。ううん、たぶん明日から学校に行けって言われても、行かないと思う。だってさ、学校って退屈じゃなかった? 毎日決まった時間に決まった席に座って、決まった授業を受けるの。終わるまでは許可なくトイレに行くこともできない。これじゃ刑務所じゃん、て思った。それで、気づいたら……」
「不登校になっていたと」
「そう」
僕の頭はフル回転した。
「不登校児にかけるべき用秀句」の領域に検索をかけ、高度な検索で「昔不登校だったことを悔やんでいる不登校児」限定の語句を指定した。
イギリスの作家キップリングが、フランスの詩人ルイ・ブイエに宛てて書いた手紙の文句が引っかかった。
「驢馬、馬、象、雄牛は、御者の思いのまま。そして御者は軍曹の、軍曹は中尉の、中尉は大尉の、大尉は少佐の、少佐は大佐の、大佐は三個連隊を指揮する旅団長の、旅団長は将軍の思いのまま。将軍が従うのは副王、そして副王は女帝のしもべ」
「女帝はマミさん?」
香菜が意地悪く微笑んで言った。
「ちがわい!」
僕はとなりのトトロのカンタのように叫んだ。
「ありがとう。なんか知らないけど楽になった。考えてもきりがないってことね」
「そんなところだ」
大麻狩りに行ったときより機嫌がいいようで、香菜の表情は柔らかかった。
あるいは悩みが解消されてスッキリしたのかもしれない。
いつまでも昔のことをグズグズ悩んでいるのは、老人の仕事である。
若者は前だけを見ていればいい。