マリちゃんの甘い根
明治31年12月の午前9時過ぎ、つまり朝っぱらに勝海舟は言った。
『女郎の事は放って置くのサ。殖やさないようにだけするのサ』
女房というのは昔から口うるさいものと相場が決まっている。
やれ物が足りないだの、庭の芝生が伸びているから剪ってしまえだのと言う。
浮気のこととなるともう手に負えない。
あることないこと持ち出してきて、こちらに非があると認めさせなければ頑として退かない。
幸い僕は、外で女を増やす真似はしなかった。
女のほうで勝手に増えたのである。
また明治30年7月15日の午後3時過ぎ、日本人が嫉妬深いのはなぜかと問われた勝海舟は言った。
『どうしても国が小さいからサ。何でも、誰がしたのか分からないようにして、人が言えばとぼけてしまうのサ』
マミはあまり嫉妬深い性質ではなかった。
そもそも今の若い人は、個人や個物に執着するということが少ないのではないだろうか。
人や物はいくらでも動かせる。
動かせるものを動かないようにするのは馬鹿馬鹿しいことだ。
それは自分自身も同じである。
気を抜けばフラッと外に行ってしまう体を止めることはできない。
僕はマミに浮気はしないと言ったけれど、家に缶詰されるのはごめんだ。
「ちょっと出てくる。夕方には戻るよ」
「どこに行くの?」
「散歩だよ、それから用事が少し」
「外には行かないでね」
外というのは特区の外のことだ。
「心配ない。これは護身用に持っていくだけだから」
僕は手にしているAKMを指差した。
向かったのはバスの待合所だ。
中に入ると既に何人かの人が集まっていた。
臨時の会議室というか、特区内で力を持つ人が集って、今後の方針を決める場所。
僕が会議に参加するようになったのは最近のことだ。
先の戦闘が終わってからしばらくは平和だった特区内も、時間が経つと以前と同じくいくつかの集団が力を持ち始め、何人かの狩人が独自の部隊を組織するまでに至っていた。
希美が嗅ぎつけて僕に知らせた。
解体を命じるかどうか迷ったが、頭を押さえつければ反発するのは自然の感情だ。
存続させるかわりに僕の椅子を用意させた。
彼らは特区が受けた被害を埋める算段をしていた。
戦に金がかかるのはいつの時代も変わらない。
人員減はそのまま物資減を意味する。
「ボス、やっぱり遠征は必須ですよ。一度山側を見て回ったほうがいいという意見で八割が一致しています」
つば付きのニット帽が似合っている、理髪師風の髭を生やした男が言った。
物資調達のための遠征はずいぶん長い間行われていない。
見回りを兼ねた小規模の遠征は随時行っているけれど、建築資材や嗜好品は常にカツカツだ。
いざとなったらその辺に生えてる木を切って小屋でも建てればいいくらいに考えていた僕は面食らった。
「そんなにギリギリなのか」
「ギリギリもいいところですよ。何度も申請しましたが、大阪の件と時期がかぶってたもんで、部隊の派遣は見送るって返事ばっかりで言ってる間に梅雨入りですわ」
立川周辺の街はあらかた回っている。
めぼしい物資はすべて特区に移したから、街は空っぽだ。
手を付けていないのは渋谷区より先にある街や、高尾以西の山間にある街だけだ。
イワンの部隊の助力を得られない以上、長距離の遠征は不可能だ。
必然的に山間から物資を探してくるしかない。
しかし新潟遠征で知れている通り、山は危ない!
「今なら行けるというのがワシらの読みなんですがね」
初老の狩人が手巻き煙草を吹かしながら言う。
「大阪へ向かった部隊が通ったあとなら、ゾンビどももそれほど多くない。調達に行くなら今が好機です」
彼の言い分は正しい。
というか物資が不足しているのなら、部隊の派遣を申請して却下されるという事態にはならない。
派遣を取り仕切っているのはマミだ。
僕はマミから事情のあらましを聞いていた。
物資は足りているのだ。
なぜ彼らが遠征にこだわるのかというと、もう一つの不足品、嗜好品が欲しいからに他ならない。
嗜好品とは大麻のことである。
大麻は通常放っておいてもモサモサ育つ。
正規のタバコの葉を作るより簡単なので、特区内にも畑が作ってあった。
そこをゾンビの大軍が通過した。
なんでも巨大芋虫の一匹が畑を根こそぎひっくり返したのだという。
近くにあった乾燥施設も潰された。
僕は煙草をやらないので大麻も吸わない。
しかし愛用者たちが求める気持ちはわかる。
常人の思考ではとてもやっていけない世の中で、いつまでも平時の法に従っている道理はない。
大麻を吸えば心の平穏が保てるというのなら、ぜひ吸ってくれと思う。
けれどもマミは違った。
彼女は法を重んじる。
「仕方ない。僕が人員を集めよう」
「本当ですか! ありがとうございます!」
「ただし一度きりだぞ」
「わかってます。ワシらも人でかき集めて“マリちゃんの甘い根”を捜索します」
マリちゃんの甘い根というのは大麻の隠語だった。
彼らも自分たちが吸っているものをおおっぴらに「大麻」と呼ぶ気概はないらしく、表向きは普通の煙草を吸っているように見せていた。
呼び名の由来は戦争と平和に出てくる植物で、ロシア兵が勝手に土を掘って食ってるもののことだ。
味は苦く毒があるので食べると顔面が痺れるらしい。
なぜその名で呼ぶのかは謎だ。