特区に広がる噂と唐揚げのねぎソース
口ではやめろと言いながら、希美の仕事には大いに助けられていた。
彼女が秘書を務めるようになったのは、一年ほど前。
最近は随分スーツ姿が板についてきた。
人には隠れた才能があるものだ。
希美は射撃が下手で、どれだけ訓練しても上達しなかった。
そのかわり度胸だけは誰にも負けず、どんな凶悪犯罪者の元にでも同行して、着実に業務をこなした。
出会ったばかりの頃は15歳の少女だった彼女も、3年が経ち18歳の可憐な美少女へと成長していた。
島田事件の被害者として大事に扱われたことも関係している。
マミや阿澄は美と強さを兼ね備えているのに対し、希美や理沙、雪菜には儚さがあった。
一歩後ろで主人に尽くし、影から支える大和撫子。
黒いストレートヘアに純日本風の目鼻立ち、奥ゆかしさの裏には健康の二文字が並ぶ。
この街では彼女ら三人は貴重な存在だった。
騒動前を思い起こさせる、平和の象徴。
希美なくしてはこの特区は回らないといっても過言ではない。
東の防衛拠点で警備主任と会った。
各辺に設置されたM2重機関銃、74式車載7.62mm機関銃、Kord重機関銃による警備は完璧だった。
いくら強化ゾンビといえど、17000ジュールの衝撃には耐えられない。
一般的なライフルの威力を2000ジュールとしても、重機関銃は8倍以上である。
「ボスが直接おいでになるとは思いませんでした」
「警備状況を教えてくれ」
髭面の警備主任は、頭を低くして言う。
「これがあればどんなゾンビが来てもへっちゃらですわ。いやはや、12.7mm弾を受けても平気な生き物なんてこの世に存在するんですかね?」
「そんなゾンビが存在しちゃ困るよ」
「ヘ、ヘ、ヘ。仰るとおりで」
こういった必要以上に媚びへつらう態度も、妬みを生む要因だった。
権力を誇示して統率力を高めなければ、集団を維持することはできない。
けれども僕はここまでやれとは言っていない。
「過去一週間分のデータをまとめて、午後イチか、遅くても夕方には工場に届けてくれ。強化ゾンビの戦力分析も忘れずにな。もし工場に僕がいなかったら、悪いがマンションに届けるよう言ってくれ」
「かしこまりました」
僕は腰の低い警備主任の肩を叩く。
「君はよくやってるよ。近いうちに昇給かな」
「ありがとうございます!」
特区では秩序維持と実験のため通貨制度を導入している。
破れる紙幣ではなく、硬貨のみのやり取りだ。
価値については市場の変動に任せてある。
物が増えれば硬貨の価値がなくなるので、物資調達で得た品を、最低限しか市場に流さないのがコツだ。
余った品はマンションに保管している。
緊急用の名目ではあるが、僕はこれを「脱法物資」「脱税」「ピンはねしたやつ」と呼んでいる。
各方角の警備主任と会った後、少し時間が余った。
工場には1時までに着いていればいい。
「時間があるし食事でもしていこう。電気屋だった場所に食事できる店ができたって話だぜ」
僕は希美に言った。
「ボスの奢りなら」
楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽
「いらっしゃいませ、ボス。2名様で?」
「ああ、二人だ。奥の席を頼む」
店に着くと、僕らの他に客が一組いた。
窓際の席で食事している母親とその子供。
一見仲睦まじく、ごく一般的、平和的な親子の光景に見えるけれど、母親のほうは麻薬の売人をしていた経歴を持ち、出会った時には改造した狩猟用ライフルで撃ち殺されかけた。
僕らが入ってきたことに気づいた母親が頭を下げた。
「麻由美さん、景気がいいようですね」
「おかげさまで」
「息子さんはお元気ですか?」
「ご覧のとおりピンピンしてますよ。昨日遠征から帰って来たばっかりなのに、今朝も東の壁からゾンビを一体仕留めましたの。100mも離れたゾンビを拳銃で一発。本当ですよ」
彼女の息子は13歳になるが、肉体が発達していて16歳くらいに見える。
温厚で従順な性格が買われて、警備では重要なポジションに就いている。
給料もべらぼうな額をもらっている。
僕のボディーガードに任命されることが彼の夢だという。
注文を取りに来た給仕に、ビールを頼んだ。
「よろしいのですか? 日が高いうちから飲んで。奥様に叱られますよ」
「どうせ面接でも一杯やるんだ。言い訳なら考えてある」
冷えた自家製ビールがグラスで運ばれてくる。
ここの店主は密造酒づくりのプロだ。
アルコール依存症で、釘打ち機を改造した銃でテロ未遂を起こした過去がある。
僕自身、彼と出会った時に足に釘を打たれている。
「美味いよ。君もどうだ」
「未成年です」
唐揚げのねぎソースを頬張って、薄暗い店内を眺めていると(節約で日中は電気をつけない決まりになっている)ゾンビだらけの世界に生きていることを忘れそうになる。
目の前には美人の姉ちゃん、テーブルには新鮮な肉とビール。
傍らにある自動小銃と、腰の拳銃を視界に入れなければ、平和そのものである。
「このソースは絶品だな。土産に持って行って、面接の時に食わせてやろう。きっと喜ぶぞ」
「それは良いお考えです。ニッカポッカ連合の力を見せる小道具には最適です」
「あの噂を気にしてんのか?」
「気にせずにはいられますか」
「ただの噂だよ。くだらない」
若者三人は新潟県から来たと言っているが、街では彼らのことを刺客だと言う声があった。
東北地方から東京に来て、特区に迎え入れられた狩人(元犯罪者ではなく、銃を所持する資格を持つクリーンな人のこと)の話では、東北に大規模な自治区が存在しているという。
自治区をおさめているのは元政治家で、私兵をごっそり従えているとのこと。
それでここ立川特区に刺客を送りつけてきたというのだが、僕は信じていない。
なぜなら特区を潰す理由がないからだ。
「気にしすぎだよ。ボディーガードに入れてくれという、いつものパターンだろう」
「絶対に入れないでくださいよ」
「見てみなきゃ分からんだろ。あいつら(店の外で待たせている現ボディーガードたち)のように腕が立つなら、使っても損はない」
「私は反対です」
「反対ならそれでもいいさ。それにしても、このねぎソースはマジでイケるぜ」
僕はたっぷりとかかったねぎソースにご機嫌だった。
こんな美味い飯を食いながら、きな臭い話をするのは野暮というものだ。