イワンとユキのケンカ
5月頭、イワンが急に工場に現れた。
彼はウォッカの瓶を片手に、一人タイフーン-Kから降りると、ものも言わずにそのままバーラウンジへと直行し、飲み始めた。
つまみ用の缶詰を勝手に開けて食べ(別に構わないが)、何度もため息をついては虚空を見つめる。
まるで恋に悩む男子高校生のようだった。
僕たちは二階からイワンの様子をうかがっていた。
何かがあったのはすぐに分かった。
けれどもあのイワンをここまで落ち込ませる要因に対し、僕たちにできることがあるだろうか。
マミは香菜と遊んでいる。
田中は例によって読書中。
鈴木と阿澄は恋愛中。
僕が行って聞いてくるしかない。
覚悟を決めて下に行き、イワンの隣に腰掛けた。
酒の量もだいぶ減っている。
その中から一本、アルマニャックの瓶を取り、グラスにあける。
「らしくないじゃんか、何があった」
僕は尋ねた。
イワンはおざなりな相槌をうつだけで、しゃべろうとしない。
瓶から直接ウォッカを呷って、母国語でブツブツ言っている。
「блядь……」
「どうしたってんだよ。ユキとケンカでもしたのか?」
「俺はユキのためを思って言ってやったんだ……」
「何があったのか順番に説明してくれよ」
「あいつがフェンタニルを隠し持ってたんだ。何に使うつもりだと言ったら、化学兵器を作るんだと……フェンタニルは麻薬さ。ヘロインより強力な」
「そのフェンなんとかって、ユキが自分で見つけてきたのか?」
「分からない。ショックだよ、ユキが麻薬に手を出していたなんて」
「待ってくれ、ユキが使っているところを見たわけじゃないんだろ。使っていると決めつけるのは早計だと思うけどな。ユキが化学兵器に使うと言ったら、化学兵器にするつもりなんだろう」
「そうかな。あの様子からは信じられない。俺が聞いたら怒鳴るように否定したんだ」
「使っていないと?」
「そう。ムキになって否定するのは余計に怪しい」
本人たちにしか知り得ないことについては何も言えない。
ただ常日頃から麻薬をやっていれば気づくはずだ。
それに妊娠を一番喜んでいたのはユキではないのか?
その彼女が麻薬に手を出すとは思えない。
「マタニティブルーってやつじゃないのか」
「マタニティ、なんだって?」
「マタニティブルー。妊娠している最中はホルモンバランスが崩れてイライラしやすくなるらしい」
「そんなことが起こるのか……知らなかった」
「ロシアじゃどうしてるんだ? その、妊娠中の女性がイライラしたりなんかしたときは」
「聖書を読む」
「キリスト教徒以外なら?」
「ウォッカを飲む」
「どっちもユキには勧められないな。飲むか?」
イワンの瓶が空になったのを見て、アルマニャックを勧めた。
彼は頷いたので、グラスを取って注いでやる。
「もうすぐ出産だろう。男がそばにいてやらないでどうするんだ」
「無線機はもたせてある」
「そういうことじゃない。ユキ自身が一番不安になっているときに、憶測が元で喧嘩して、家を飛び出して、それで胸を張って自分はユキの旦那だと言えるのかどうかってことだ」
イワンはアルマニャックを口にふくみ、舌の上で転がして味わっている。
「戻ってやれよ。フェンタニルのことは、あとで落ち着いた時に聞けばいい」
「そうだな、冷静になろう」
彼は言って、車に戻った。
「ありがとう。帰ってユキと話してみるよ」
「くれぐれも刺激しないようにな」
「ああ、気をつける」
去っていくイワンを見送って、僕は二階に戻った。
鈴木が何事かと聞いてきた。
「ユキとイワンの喧嘩だ。フェンなんとかって薬をユキが持ってて、それで喧嘩になったんだと」
「薬? 俺たちがあげたやつのことかな」
「あげた?」
「船を取りに行っている時に、ユキが呼んでた本に化学兵器に関するものがあったんだ。それでここに使えそうな薬はないかって言うから、物置に病院から盗んできた薬が置いてあるって教えた。俺は薬のことなんか詳しくないから、好きなのを持ってけって言ったのさ」
薬の出処は僕たちの物置だったのか。
てっきりイワンの持ち物からくすねて使っているとばかり思っていたのだが、心当たりのない薬品を妻が所持しているとなれば驚くのは当たり前だ。
イワンがマンションに着く頃に連絡しなければ。
まったく人騒がせな夫婦である。