退屈しのぎの言葉遊び
人間失格で堀木と葉蔵がやっていたみたいに、僕たちは言葉遊びで時間を潰していた。
劇中と違うのは、いくら待っても山盛りのそら豆は出てこないことだ。
「黒の対義語は白で、白の対義語は赤だというのは分かる。でも赤の対義語が黒だというのだけは、どうもしっくりこないんだよな」
僕は言った。
「補色で考えるなら緑だわね」
マミが答えた。
「どんな色でも反対の色を混ぜれば黒になる。ということは、すべての色の対義語は黒ということになるのでは?」
眞鍋が言う。
「厳密には補色の話じゃなくて語義のことだから、曖昧になっているみたいだね。それから思うのは、ドストエフスキーの罪と罰を例にあげて、罪と罰は同義語じゃなくて対義語なのかもしれないと言っているわりに、スタンダールの赤と黒を挙げて、実は赤と黒は同義語だったのかも、と指摘しなかったのはなぜだろう」
「太宰治が赤と黒を読んだことなかったとか」
言ったのは香菜だ。
彼女は去年の夏休みに読書感想文で太宰のお伽草紙を書いたらしい。
「注射が悲劇で医者が喜劇だというのはどういうことだ?」
「ラブレー、鴎外、医者ではないけど免許は持ってた手塚治虫。どう見ても喜劇でしょ」
マミが言った。
「その後すぐ漫画家は大悲劇名詞だという台詞があったぞ。それでいうと手塚は悲劇になる」
「主人公が漫画家だったんだから、その都合で悲劇にしたんでしょう。第一、手塚のデビューから二年後に亡くなった太宰は、手塚治虫の存在すら知らなかったでしょ」
言われてみるとそのとおりだ。
書物でしか偉人を知らない人は、年代から覚える必要がある。
居眠りして聞いていなかった歴史の授業を、ちゃんと受けておけばよかった。
「香菜ちゃんは本好きかい?」
形勢が悪くなった僕は香菜に逃げた。
「嫌い」
「お、おう……」
楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽
船が停まった。
どうしたのかイワンに尋ねると、前を指差した。
「海ゾンビがいる」
「僕には見えないが」
双眼鏡を覗くと、遠方に黒い影があった。
時折海面から顔をだしているが、どうみても魚か何かだ。
海ゾンビはクジラ。
その言葉を思い出し、目を凝らしてみる。
それは確かにクジラに似ていた。
正確には磯撫でのようだった。
「磯撫では人を襲うまで姿を見せないと聞いていたんだが」
「あっちからは見えてないよ。1.5km離れてる」
「磯撫でウォッチングには最適だな……」
海上での戦闘はなるべく避ける。
揚陸艇の武装は外れているので、ガトリング砲などはついていない。
イワンが外したのではなく、元からついていなかったのだという。
「まあいいさ。嵐が過ぎるのは気長に待つに限る」
僕は他人事のように言った。
迂回して進む手もあったが、幸い海の状態が穏やかだったから、磯撫での姿が見えなくなるまで待機した。
「JKのアントは何だ、イワン」
「男子高校生だね」
「違うな、おばさんだ。あるいは成人女性」
「あんた、そんなことばっかり言ってるとそのうち痛い目に合うわよ。香菜ちゃん、あいつには近づかないほうがいいわ。話もできるだけしないで」
「わ、わかりました」
「笑いを取ろうとしただけじゃないか」
「ぜんぜん笑えない。むしろ女の敵よ」
「オ兄サンはヘンタイだね」
「イワンまで僕を変態呼ばわりする気か」
「ヘンタイは日本の文化だよ。Да?」
「ダー」
なぜそこで香菜に同意を求めるのか不明だ。
そしてなんだかよく分かっていない香菜は同意せさられるハメになった。
まあ少なくとも航海は順調で、和気あいあいとした雰囲気である。
ギスギスしているよりはいい。
海に出てからはイワンの良く、行軍のときと比べて口数も増えた。
船に乗った時点で、旅は折り返し地点を過ぎている。
あとは横須賀の米軍基地から上陸して、陸路で工場に帰るだけだ。
「そういえば、イワンは一度横浜に行ってるんだよな?」
田中とユキを連れて、釣りをしたというエピソードを思い出して、尋ねた。
「行ったよ」
「米軍基地の様子はどうだった? 兵士はいたか」
「アメリカ兵には騒動の初期に何らかの通達があったと考えてる。たぶん自衛隊も同じ。駐屯地にも米軍基地にも航空機、艦船がひとつもなかったからね」
銃を盗んでいる興奮で気づかなかったが、確かに不自然だった。
手付かずのままになった装甲車が転がっているわりに、駐屯地にはヘリコプターすら停まっていなかった。
何かが起こっている。
僕はそう直感した。