精神を病んだ時には自分を更に追い込め
ゲロのような粥を毎日食わされ、身動きできないよう(実際には出来たが)拘束される生活が続けば、誰だっておかしくなる。
死ぬかもしれない体験をしたあとで人間はどう変わるのか。
これまでの日常がどこか現実的でなくなり、自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなる。
解放されても死と隣りあわせの生活は続くとなれば、双極性障害一直線コースである。
カフェイン中毒とのダブルパンチも効いた。
未だにあの悪夢を毎晩見るし、幻聴まで聞こえるようになった。
ある日のこと、僕は用をたそうと敷地に出た。
掘っ立て小屋に入ってしゃがんでいると、どこからともなく声が聞こえてきた。
何を言っているのか、あとから思い出そうとしてもまったく思い出せなかったのだが、その時にはなぜか「世界が元通りになった」と思い込んだ僕は、急いでトイレを飛び出して、二階に駆け上がった。
「今そこで人の声がした! みんなもう大丈夫だ。これで元通りの生活がおくれるぞ!」
ぽかんとする一同の視線を浴びて、我に返るまでに数分かかった。
どれだけ説明しても聞き入れない皆の態度に僕は腹が立って、わけのわからないことをまくし立てた。
マミがその場から連れだしてくれなかったら、恐ろしいことになっていただろう。
「龍太郎、あなた疲れてるのよ」
マミはXファイルのスカリー捜査官のようなことを言った。
その時ばかりは名前で呼んでくれた。
「え? ああ、ごめん。どうも最近眠れなくて。君の言う通り疲れてるみたいだ」
「一度イワンに診てもらったら? 軍人のPTSDを治したことがあるって言ってたわよ」
「僕はPTSDじゃないよ。いや、でも行ってみるよ、ありがとう」
このままではよくない。
そんな思いが、僕をイワンの元へ運んだ。
楽楽楽楽楽楽楽楽楽楽
というかイワンが来た。
車が出せないので、彼は徒歩でやってきた。
「こんな時期にすまん。ユキがいるってのに、僕は自分勝手だな」
「監禁されていたのだから、誰でもそうなりマス」
イワンの日本語はかなり上達してきている。
特殊部隊にいるような精鋭ともなると、外国語を覚える速度も超人並みだ。
もともと日本好きのイワンは、驚くべき速さで言葉を覚えていった。
「これは兵士がPTSDになるのとは違います。トラウマでもない。あえて近いものを挙げるなら解離性同一性障害が当てはまります。心が深刻なダメージを負って、それを現実とは認めない動きが働く」
「僕はどうすればいい?」
「この場合は原因がはっきりしているので、それを克服することが治療の第一歩です。イメージトレーニングでも、現実の筋力トレーニングでも、射撃訓練でもいい。強い自己のイメージを作って、次に監禁されたときにどうするかをシュミレートする。放送センターの図面を起こして、脱出経路を何通りも試す。地道な訓練あるのみですよ」
慣れているだけのことはある。
急に「生活に現実感がないんですけど解決法がありますか?」と医者に言ったとしても、ここまでスラスラ対処法を教えてくれるかどうか。
頼りになるのはやはりイワン様である。
「気を紛らすお土産持ってきました。ユキも今、家で作ってます。これどうぞ」
彼が取り出したのは導爆線だった。
ロープ状の爆薬だ。
「何を作ってるって?」
「扉破壊用の爆弾です。グルグル巻いてくっつけて、ドカンとやれば一発ね。工作は気が紛れていいよ。それからこれ、アルミニウムと酸化銅。テルミットで鉄板もドロドロ溶けちゃうよ」
僕はユキとは違うから、兵器を作っても気は紛れない。
むしろ失敗したらどうしようかとかえって鬱になりそうだ。
「気持ちだけ受け取っとくよ。来てくれてありがとう。ああ、それから食料の件も大助かりだ。こりゃあ返せないくらいの借りを作っちまったな」
「その話か……」
イワンの声音が急に真面目になった。
「借りを返せというつもりはないけど、頼みたいことがある」
「なんだ、なんでも言ってくれ」
「オ兄サンにとっては病み上がりになるから申し訳ないんだが、置いてきた船が心配だ。雪が溶けきる前には取りに行きたい。可能なら海を経由して横浜から帰ってくる。それには人手がいる」
「燃料は足りるのか?」
「それは俺がなんとかする」
確かイワンの船があるのは日本海側の港だった。
そこからどう横浜に向かうのか。
津軽海峡を通って行けないこともないが、距離がだいぶ離れている。
大航海となるだろう。
イワンには命を救われている。
船には装甲車に積んであった以上の武装が積まれているというし、かかった金も洒落では済まないはずだ。
取りに行きたいという気持ちはわかる。
「こうなったら地獄行きでも付き合うよ」
「アリガトウゴザマス!」
敷地から外は死ぬか生きるかの世界。
船の上では、はるか昔からそうだった。
板子一枚下は地獄という言葉がある通り、漁師は常に死と隣りあわせなのだ。
こうなったら付き合ってやろうじゃないか。
死ぬかもしれない状況では、現実感がどうのと言ってられないだろうし。