菊の花は凍る
霜月の初め頃、小さな領地を治めていたある大名家に一人の娘が生まれた。
季節に因んで、娘は菊乃と名付けられる。すくすくと育ち、菊乃は厳しい父や優しい母、明るい兄に姉達に囲まれて。賑やかに穏やかな日々を過ごした。年月は緩やかに流れ、菊乃は気がついたら二十歳になる。
「菊乃や、某方に縁談が来た」
「あら、どなたでしょうか?」
父が庭で花の世話をしていた菊乃へ声を掛けた。彼女は振り返り、小首を傾げる。
「ふむ、さる大名家の次男だが。名は河辺惟久殿だ」
「はあ、河辺様ですか。なかなかに有名な方ですね」
「そうだな」
父が頷く。菊乃は花の世話を一旦やめ、片付けを始めた。小さく父はため息をついたのだった。
縁談は来たが、河辺家からは幾つかの条件が提案された。文と言う形でだ。
<一つ、侍女は一人だけにする事。二つ、あくまで妻ではなく、人質であると思う事。
三つ、百日後に当家へ嫁ぐ事。これらが守られたら、息女を迎えに行く。河辺惟久>
そう記されていた。父は頭を抱える。やはり、菊乃を嫁がせるには酷なのではないか。心の闇はなかなか晴れない。仕方なく、傍らにいた母もとい、風寧の方に問うた。
「……風寧、某方に聞きたい。菊乃を河辺家に嫁がせて本当に良いと思うか?」
「私に聞かれましても答えに困ります」
「そう言わずに、某方の本音を聞かせてはくれんか」
「本音ですか、そうですねえ」
「儂は躊躇っているがな」
父もとい、古牧房基は苦笑いする。風寧の方も困ったように笑う。
「……殿、私は菊乃の判断に任せたいと思います。あの子も二十歳ですよ、他家に嫁ぐ覚悟は持っています」
「そうだな、菊乃もとっくに大人。当人に任せるのも良いかもしれぬ」
「ええ、菊乃は見かけは嫋やかな感じですけど。なかなかにしっかりしていますよ」
風寧の方がにこやかに言うと。房基は安堵の表情を浮かべた。二人はしばらく、語らうのだった。
房基は菊乃本人にも河辺家からの文を読ませた。内心は穏やかではなかったが。菊乃は文を握り潰すのだけは堪える。
「……父上、こちらを河辺様は愚弄なさりたいのでしょうか?」
「抑えなさい、菊乃。怒りたいのは分かるがな」
「分かりました、怒るのはやめておきます」
菊乃は憤りながらも文を房基に返す。立ち上がり、自室へと戻った。
あれから、菊乃は嫁入りのために衣装を自らの手で縫い始めた。母の風寧の方や姉の久遠姫、侍女の砂月や珠南の五人で道具などの荷造りもやり始める。
「姫様、私や珠南に調度品類などは任せてくださいね!花嫁衣装はお方様達が助けてくださいますし」
「分かったわ、お願いね」
「ええ、砂月さんやあたしがしっかりと荷造りを致します故」
「頼もしいわね、けど。無理はしないでね」
『承知しました!』
二人は同時に言って頷く。菊乃は笑ったのだった。
黙々と衣装を縫う手は止めない。けど、始めてから二月が過ぎた頃に菊乃はしきりに咳や息苦しさなどに悩まされるようになる。最初は夜もろくに寝ず、根を詰めたのが良くなかったのか。そう思い、早めに眠るようにしたが。
なかなか、症状は治まらない。さすがに半月を超えた辺りから、周りも病では?と疑うようになる。
「菊乃、一度は医師に診てもらいなさい。半月も咳やらが出るのはおかしいから」
「けど、まだ衣装が」
「今は休みなさい、分かったわね?」
「……分かりました」
「もう、あなたは昔からそうね。姉としては心配で仕方ないわ」
久遠姫は苦笑いする。菊乃も仕方ないと眉を八の字に下げた。母の風寧の方も心配そうに見守るのだった。
この日の昼過ぎに菊乃は医師に診てもらう。やってきた医師はこざっぱりした三十くらいの男だ。穏やかそうな物腰で丁寧に診察をする。
「……ふむ、姫様は肺病に罹っています。早めにこちらからは離れた棟に移った方が良いでしょう」
「そう、来年までは生きられるかしら」
「難しいでしょうね、しばらくはもつ量のお薬を処方します。また、切れたら知らせてください。なるべく、無理はなさらずに。横になって安静にする事が重要です」
「分かったわ、ありがとう」
「では、失礼します。侍女殿、こちらに」
呼ばれた砂月や珠南が医師に付いて、部屋を出た。菊乃はぐったりと床に臥せる。瞼を閉じた。
三月が過ぎると、症状は徐々に進行していた。菊乃はすっかり痩せ細り、顔もやつれている。咳をすれば、痰と一緒に赤い物が混じっていた。今は自室を出て、離れの棟に移っている。
「姫様、今日は河辺様から文と細工箱が届きました」
「……あら、細工箱?」
「ええ、とても綺麗な蒔絵や螺鈿細工が施されています」
ケホケホと咳き込みながら、菊乃は笑う。細工箱を見やすいように珠南は枕元に座る。
「本当、珠南の言った通りだわ」
「……ええ、河辺様には初めは憤りしか無かったんですけど。今はこまめに文や小物、お菓子などを贈るようになさっていて。あたし、正直驚いています」
涙ぐみながら、珠南が言う。弱々しいながらに菊乃は微笑む。細工箱が初冬の緩やかな日差しに照らされて煌めいた。
四月に入り、師走になった。雪が降り積もる。
肺病で臥せっていた菊乃は酷いかっ血や咳のせいで水すら受け付けずにいた。懸命に砂月と珠南、母の風寧の方は看病を続ける。けれど、師走の十日頃に。菊乃は河辺惟久が約した百日目の夜半、静かに息を引き取った。まだ、二十歳の若さだ。一度も惟久は見舞いに来なかったが。
代わりに、菊乃の葬儀には弔問に訪れた。彼女の名にもなっていた白菊の花を携えていたが。父の房基や母の風寧の方は怒らず、穏やかに彼を迎える。
「……古牧殿、此度は」
「河辺殿、娘が生きていた時に会ってはくださらなんだ。逝ってからいらしても、何も出来ませぬぞ」
「分かっている、俺は思い上がっていた。姫には恨まれているだろうな」
惟久は悲しげに菊乃の棺を見やった。沈痛な表情を房基や風寧の方は浮かべる。深々と雪が降り積もっていた。
――完――




