スナップショット
氷室暁は世間から「かわいい」と言われるたびに少し機嫌が悪くなる。それをあまり表に出さないのはイメージ戦略のためというより、「言われて不機嫌になる姿がまたかわいい」と言われるのが腹立たしいからだ。せめて余裕を持って受け流しているほうがまだしも「かっこいい」であろうというのが彼なりの抵抗だった。
俺がそういう心の機微を知ったのは、専属みたいな立場になってしばらく経ってからのことだった。
「優斗さん、俺の新しいアクスタ見たぁ?」
楽屋のソファにだらしなく座ったまま、氷室がスマホの画面をこちらへ突き出してくる。画面の中には二頭身にデフォルメされた氷室暁のイラストがにこにこと笑っていた。確か、次回のツアーグッズだ。
「はい」
「なんでこんなチビにするんだろうな。嫌味かよ。俺べつに背低くないのに」
「氷室さんがというより、二頭身のデザインだからでは?」
「そうなんだけどさ。俺だけ他のやつらより頭でかいじゃん。だからチビに見えるんだって」
そう言って不満そうにスマホの画面をじとりと睨む。グッズのデザインはアイドルとしての氷室暁のキャラクターを的確に表しているが、目の前の彼に似ているとは言えない。
俺は曖昧に笑った。
氷室は目鼻立ちがくっきりしているタイプだが、他のメンバーとの差別化をはかるために彼のイラストは目の大きさが強調されている。そのために頭部がやや大きめになっているのだろう。
よりかわいさを強調するバランスで、ファンからすれば「最高」で済む話だが、氷室当人にしてみればそのファンの歓迎ぶりがまた気に入らない。
要するに、かわいいと言われるのが大嫌いで、かっこいいと言われたい人なのだ、彼は。
スタジオでカメラを構えると、レンズの前には“アイドル”がいる。弟系、愛されキャラ、守ってあげたい年下の男の子、永遠の十九歳。事務所が作り、ファンが求め、本人が演じている像。
俺はいつもその像から少しだけはみ出したものを撮る。デフォルメしきれなかった偶像の鋭さを切り取ってカメラにおさめる。そうすると氷室暁のファンは騒いだ。いつもよりかっこいい、男っぽい、暁くんはこんな顔もするんだ、と。
俺が最初に氷室を撮った時もそうだった。単独インタビューの記事撮影。俺はその頃も今もアイドルという存在にほとんど興味がなかったが、それでも氷室暁の顔と名前くらいは知っていた。今人気の綺麗なアイドルという認識でしかなかったけれど。
生で見た彼は鮮烈だった。美しいなんて言葉が陳腐に思えるほどの存在感。周囲の光を吸って自分の輪郭に変えているみたいだった。シルエットも所作も声さえも整えられ、どの角度から見ても選り抜きの一枚のように決まっていた。
十九歳にして、彼は完璧にアイドルという仕事を身につけていたのだ。
だが、休憩の合間にふと表情を解いた一瞬、そこにいたのは国民の弟ではなく、芸能界に長く住んで肝の据わったひとりの男だった。
その一瞬が、俺の中にずっと焼きついている。
当時てんで無名だった俺だが、撮った写真を見た氷室がいたく気に入って、「これから先、俺の写真はあの人じゃないとヤダ」と駄々を捏ねて事務所に押し通したらしい。そうして俺はあっという間に氷室暁のお抱えカメラマンのような扱いになった。
今をときめくアイドルの専属が無名のカメラマンでは箔が足りなかったのだ。彼の事務所の力によって、氷室暁に相応しい程度に肩書きと実績とギャラが増え、依頼も増えた。
片手間の趣味で写真を撮っていたはずの田宮優斗は、一躍“人気アイドルの専属をつとめるほどの凄腕”ということになった。人生が変わったと言っていい。全部、彼の一言で。
「優斗さーん。なんか今、また失礼なこと考えてた?」
「いえ、べつに何も」
「ほんとかなぁ」
テレビの前ならあざとく唇を尖らせるだろう。今の彼は、大人ぶろうともせずにむくれている子供のはしくれだ。
「優斗さんって結構、顔分かりやすいよな」
「そうですか? 無表情で分かりにくいとよく言われるんですが」
「表情は変わんないけど、空気っていうか雰囲気? 目を見たら分かるよ。俺、優斗さんのことちゃんと見てるもん」
こういうところだ、と思う。平気で人の懐に滑り込んでくる。無邪気な顔をしたまま、こちらの呼吸を乱すようなことを言う。本人は半分ほど自覚し、もう半分は無意識だろう。
彼は嘘つきだ。でも、それを言うなら俺だって同じだった。
***
その日の撮影は男性向け化粧品メーカーとのタイアップだった。柔らかい光や透明感、少し湿ったような眼差し。クライアントの求める氷室暁を撮る。彼は求められる通りに笑い、首を傾げ、唇に指先を添えた。スタジオスタッフはそのたびに「かわいいー!」と歓声をあげる。
そのたびに氷室は嬉しそうににこにこしていた。
どこからどう見ても嬉しそうで、感じが良い。
カットが終わって次のセッティングに移る合間、俺はフォトストレージのデータを確認していた。どの写真も出来がいい。《《売れる》》顔だ。綺麗で、かわいくて、少しだけ危うい隙を見せる。そこに手を伸ばしたくなる。
「優斗さん」
耳元近くで声がして思わず肩が跳ねた。振り向くと、氷室が覗き込むようにモニターを見ている。
「今日の俺、どう?」
「いいと思いますよ」
「なんだそれ、雑。誤魔化しっぽい」
「誤魔化してはないです」
「カメラマンならもっと丁寧に褒めてよ」
褒められることを勝手に大前提においているのに、その傲慢さも少年の愛らしさとして演出されたものだった。
俺はもしかしたら氷室暁という人間が少し苦手なのではないだろうか。レンズ越しではない会話になるといつも困惑させられる。
そもそも人間の被写体が苦手なのだ。こういう風に撮られてくれとレンズのこちらから要求を出すのが。
そこにあるがままの素直な風景を記録しているほうが、どんなに心が安らぐことか。
「俺、優斗さんが撮ってくれる俺が好きなんだよね」
「ありがとうございます」
そこで一度言葉を切って、氷室はストレージの中にいる自分を指先で弾いた。
「優斗さん的にはどう? この俺、好き?」
簡単な質問のはずなのに、答えられなかった。
納得いく仕事かどうかでいえば充分だ。構図も光も整っている。氷室暁の商品価値を余すところなく伝える一枚。ファンも喜ぶし、事務所も満足する。では、俺はこの写真が好きか?
黙り込んだ俺を見て、氷室はなぜか勝ち誇ったように笑った。
「やっぱさー、優斗さん、こういう俺あんま好きじゃないっしょ」
「好きじゃないわけでは、ないです」
「けど好きってわけでもない」
仕事の結果に好きも嫌いもない。だからカメラにおさめた氷室暁はどれも同じで、完璧だった。
「写真っていいよな。本物を写すんだから。イラストは、どんだけ上手く描いてもらっても偽物じゃん。見たまんまの俺じゃない」
「……そう、ですか」
なんと言うべきか思いつかなくて、ひどく曖昧な返事になってしまった。
目の前にある不貞腐れた表情。薄い瞼。伏せた睫毛の影。鼻筋がシャープになる角度。唇に色気が見える瞬間。
写真だって嘘だ。仕上がったものを見ても、俺の目に映っているこいつとは似ても似つかない、出来のいいアイドルが写っているだけ。見たまんまを写し取れているわけじゃない。
どんなにうまく撮れた写真も、俺の網膜に映る氷室暁には到底敵わない。
***
撮影が終わった頃には外はすっかり暗くなっていた。スタジオを出ると風が少し冷える。送迎車が来るまで時間があるらしく、マネージャーが電話対応で離れた隙に、氷室がこっそり俺の袖を引いた。
「優斗さん、ちょっと散歩しよ」
「駄目ですよ。バレたら騒ぎになります」
「帽子かぶってるから大丈夫だって」
「変装になってません」
「いけるいける。責任は俺がとるから」
思わずため息が漏れそうになるが、すんでのところで呑み込んだ。何かあっても実際に責任をとるのは氷室ではないだろうに。しかし結局、俺が折れた。
スタジオの裏手、人気の少ない川沿いの遊歩道を並んで歩く。毒々しいネオンの反射が浅い水面で揺れて混じる。無意識にスマホを取り出してカメラを向けていた。
「優斗さんって、こういうの好きだよね」
「え。何がですか」
「散歩。あとそこで見たものを撮るの。移動中でもたまに撮ってるでしょ」
「……よくご存じで」
見られていたとは思いもしなかった。周囲の注目を一身に集める存在は、彼自身がどこを見ているのか悟らせない。
「俺が撮影のたびに呼びつけんのって、もしかして迷惑?」
氷室は前を向いたまま、なんでもないことのように尋ねた。街灯の光が横顔の輪郭を白く照らしている。本当に、どこにいても絵になる人だ。
「仕事があることを迷惑だとは思いません」
「人生変わったんでしょ。俺のせいで」
「ありがたい話です」
「嘘くさ~」
「迷惑なら断ってます」
「じゃあ、俺を撮るの好き?」
氷室がこちらを見る。
冗談っぽく笑っていてくれたなら、いくらでもかわせただろう。だが彼は笑っていなかった。まるで帰り道が分からなくなったかのような年相応の顔をしていた。そういう目を向けられるのが、一番困る。
「俺さ、ずっと思ってたんだけど。優斗さんって、好きとか嫌いとか、絶対言わないよね」
「……」
「ほら、黙る」
彼はアイドルとして身につけた高度な処世術を持っている。そのうえ十九歳らしい傲慢さと率直さも持っていて、それが俺にとっては厄介だった。
「かわいいって言われるために笑うし、怒るし、弟っぽく振る舞うし、甘えた声も出すけどさ。仕事だし。それで喜んでもらえるし。でもそういうの、優斗さんには効かないんだよな」
風が吹いて、帽子の隙間から柔らかい髪が揺れた。そんな彼の細部ですら自分の年齢を感じさせられる。
雲がかかり、木に隠れた中途半端な月。文字が欠けたネオンサイン。適当な帽子と洗練されていない安いジャケットを羽織った氷室。俺はスマホを向けて、それらの風景をおさめた。
「あ、ずるい。めっちゃ気抜いてたのに」
「俺はそういう自然な風景のほうが……いいので」
「今の『好き』って言う流れだったじゃん」
「好きなわけではないので」
「けど嫌いなわけでもないでしょ?」
彼の屁理屈に苦笑しながらスマホのカメラロールを見る。揺らぐ水面の隣には彼の写真がある。どこか野暮ったいシルエットの少年とも大人ともつかない人影が、周囲の風景に溶け込んでいる。整えられたアイドルではなく、俺の目の前にいる彼の像だった。
「今度さ、一緒に散歩行こうよ。『プライベートでも仲良くしてます』って通せるのが強いよな、俺たち」
強いという鮮明なようで曖昧な表現が若者らしく感じた。思えば彼のほうこそ決定的な言葉は何も吐いていない。ただいつも、いつの間にか彼の願う状況が叶っている。一体どこまで見据えて俺を専属に仕立て上げたのだろうか。
「優斗さん、返事は?」
「……そうですね。散歩なら」
「やった!」
屈託なく喜ぶ姿はまさしく「かわいい」と表現するほかなかったが、世間で言われるそれとは少し違っている気がした。
俺は以前も今も氷室暁というアイドルにはさほど興味を抱けないでいる。しかし少なくとも俺の目の前にあるこの一瞬の風景は、長く網膜に焼きつけたいと思えるものだった。




