第九話 「九月三日という分岐点」
「ねぇ、崇。私、あなたと一緒にいていいでしょ?」
ヨウコが語る、もう一つの「九月三日」。
化粧瓶の衝撃で失われたのは、記憶か、
それとも現実と夢を隔てる境界か。
壊れかけた太陽を抱きしめながら、俺はもう一人の自分へと同化していく。
【フェーズ5】
「え、忘れたの? 九月三日のこと」
ぼーっとユキノのことを考えていた俺に、突然、ヨウコの声が聞こえた。
「え、あ、いや、今、別のこと考えてた」
「何?恵理さんのこと?もう七~八年も前のことでしょ。いつまで引きずっているのよ」
「いや、半分、そうだけど、半分は別のこと」
「何、半分って? ……そうよね、崇にとって恵理さんは特別な人だもの。でも後の半分ってなあに?」
「どうして俺はヨウコと付き合うようになったんだっけなぁって、ぼーっと考えてた」
「もう、すぐ、そうやって忘れたふりしてからかうんだから。いい、よく聞きなさい。私が自動車メーカーとの交渉で失敗して落ち込んだ時にあなたが慰めてくれたの。私、四年前に他の会社から引き抜かれる形でダイコーに入って、自信満々で仕事してたの。ダイコーに入ってからも、次々と新しい取引先見つけて、業績もどんどん上がって、会社からの信頼も得て……。そんな時に性能と耐久性の説明であなたと一緒に大手自動車メーカーへプレゼンに行ったのよね。私、性能の説明は得意だけど、耐久性とか細かいところが、その時、わかっていなかったのね。それで、そこを相手メーカーから突っ込まれて、しどろもどろになりそうな時に崇が助けてくれたんじゃない」
「……ああ、そうか。あのプレゼンね。まぁ、自分の部門のことだから助けるっていうより、ちゃんと相手に伝わるように説明したってだけだよ」
俺はヨウコが言っている状況で、俺は自分のしそうなことを言ってみた。
「うん、そんなこと、前にも言ってた。でも、私にとってはそれが悔しかったの」
「へ?」
「なんでも自分一人でやれると思ってきたこの私が、人から助けてもらうなんてあり得ない!って」
「わお、激しいなぁ」
俺はわざと大袈裟に笑ってみせた。
「でも、何回か一緒にいろんな企業にプレゼンに行くうちに、製品の良いところだけじゃなくて、懸念点もしっかり誠実に伝えるあなたを見て、この人なら信用できるって思うようになったの」
「品管としては当然です」
「だけど、私、もっと大きな仕事とってきたいと思って、ある企業に一人で乗り込んだのね」
「……それで?」
「それで、『ダメだ、お宅みたいな小さな会社と取引はできない』って言われたんだけど、どうしても諦めきれなくて、何回か交渉に行ったの。そしたら、常務っていう人が出てきて、『取引してもいい』って。その代わり……って私の頬に手を伸ばしてきたの」
「え、それは」
「『何するんですか!』って言ったけど、『うちと取引したいんだろう?』って言われて、嫌だったけど……。でも結局、私の体だけが目的で取引は成立しなかった。なんて自分は馬鹿なんだろうって、私は一人、その頃出来た喫茶店、そうこの前行ったオアシスでひっそり泣いていたわ。そこに何故か崇が来たのよ」
「え、俺、あの店に行ったの? なんで?」
「なんか、学生の頃に行ってた喫茶店と同じ名前だから入ってみた、みたいなこと言ってたじゃない」
「……学生の頃、行っていたお店とおんなじ名前……、ああ、そうだった。そうだった」
(そうか、きっともうひとりの俺の方は『オアシス』の名前に惹かれてこの店に行ったんだな)
俺がそんなことを考えているなんて気づかないヨウコは自分の話を続けた。
「それで、その時、崇が私の話を聞いてくれたの。あの時、あなた、私が恵理さんみたいに壊れてしまわないか心配って言ったのよ」
「それが、九月三日?」
「そうよ。あなたが、泣いてる私に気づいて、『あれ、吉田さん、どうしたの?』って。私は恥ずかしくって目を逸らしたけど、あなたは、崇は、何か気づいたみたいで、『ここいいかな』って横に座ったの。それで何にも言わないの。ただ横にいてくれた。そして顔を隠して泣いている私の背中が震えてるがわかったら、優しくさすってくれて、そのまま、私が喋り出すまで、ずっと待ってくれた。それで、私、それまでのことをゆっくり全部話して、そしたら少し落ち着いてきて、『どうして、こんなに優しくしてくれるんですか?』って訊いたら、あなた、恵理さんのこと、教えてくれて。恵理さんと同じ営業部に入った私が、彼女みたいに壊れてしまうんじゃないかって心配だったんだよって言ってくれたんじゃない」
「俺が、そんなこと言ったの?……覚えてないなぁ」
俺は、とぼけたように言った。
「もう、本当に怒るわよ。その後、崇が、恵理さんとのこと詳しく話してくれて、私、なんだかこの人に申し訳ないことしてる気になって。崇は何も悪いことしていないのに、私が振り回してるみたいだなって。で、『ごめんなさい』って言ったら、『よかった、ごめんなさいが言えるんなら、もう大丈夫だね』って言われたの。『なんで?』って聞いたら、『謝るってことは、次に向かって頑張ろうってことだから』って言ってくれて。私、また涙が出てきて、あなたに抱きついちゃった」
「それから、ずっと付き合ってるんだ?」
「そうよ。私、仕事に行くと例のこと思い出して動けなくなるから、崇が『落ち着くまで、仕事に行かなくてもいいよ。俺と一緒に住もう』って言ってくれたんじゃない。それから、私の部屋の方が広いからって、ここで、二人で暮らしてるんじゃない。仕事も休職って形にしてもらって。ね、どう? 思い出した?」
「ああ、そうだったな。それで、今はどうなんだ?この前、西田部長に会った時に、また営業部に帰りたいみたいな話、してたじゃないか」
「聞いてたの?」
「ああ、気になって聞いてた」
「やっぱり、崇、優しい。いつもからかうけど、ポイントでは、しっかり私のこと見ててくれる。ありがとね。でも、あれは社交辞令」
「社交辞令?」
「そ、社交辞令。仕事に復帰してもいいかなって気持ちで崇を会社まで送って行ったんだけど、会社の中に入ったら、また怖くなって、ああ、やっぱり無理だなぁって」
「そうなのか。まぁ、でも、そう簡単に治るものじゃないと思うし、気楽にしてこのまま暮らしたらいいよ」
「ありがとう崇。でも部長にはそんなこと言えないでしょ。だから、そのうちにって言っておいたってわけ。つまり社交辞令」
「なるほどね」
「ねぇ、崇、私、あなたと一緒にいていいでしょ?さっき、いいって言ってくれたよね?」
「ああ、言ったよ」
「よかった、この前、もう出て行ったら? みたいなこと言うから、私、どうしたらいいのかわからなくなって」
「俺、出てけなんて言ったの?いやぁ、そんなこと言わない……と思うけどなぁ。元々、ヨウコの部屋だし」
俺は自信なさげにそう言った。
「そりゃ、はっきり『出てけ』とは言わなかったけど、『そろそろ現場復帰を考えてみてもいいんじゃないか』って言って、私が、『何、出てけってこと?』ってなって大げんかになって、あるもの、ないもの片っ端から投げつけたら、あなたの頭に化粧瓶が当たって、後ろによろけて、机の角に後頭部をぶつけて『痛て』って言ったっきり、あなた動かなくなって……。死んじゃったのかと思ったわよ」
「それって、俺をダイコーに連れて行ってくれた前の晩のこと?」
「そうよ。朝、崇が目を覚まさなかったらどうしようって私、ずっと心配だったの。気づいてくれてホッとしたけど、喋らないし、記憶がないようなことをスマホに打つから、頭に障害が起きたのかと思って焦ったわよ。だから会社連れてって言われて、普通に戻ってくれるかもと期待して連れて行ったの。少しだけ、自分ももしかしたら会社に戻っても大丈夫かもしれないって期待もあったしね」
「そうだったんだ」
これで、あの日のヨウコの行動に納得がいった。 これだけ聞けば、今は充分だ。
「ところで、ヨウコってどんな漢字だっけ?」
「太陽の陽に子どもの子。何?それも忘れちゃったの?」
「そんな太陽の陽子が、いつまでもこんな薄暗い部屋にいちゃいけないと思って、あの時は『そろそろ現場復帰』って言ったんだよ。陽子はやっぱりバリバリやってる姿がかっこいいからね」
「崇……」
「でも、ごめんな。俺、ちょっと焦ってたのかもしれない。そんな簡単に治るってことじゃないもんな。本当に悪かったよ」
と、俺はもう一人の崇もきっとこういうであろうと思える言葉を陽子に言った。
「崇、ありがとう。そしてごめんね。もう化粧瓶、投げつけたりしないからね」
「あったりまえだよ。いまだに後頭部が時々、疼くよ」
「え、そうなの?ごめん」
「……なあんてウソ。もう大丈夫だよ」
「もう、崇ったら」
と言って、陽子は俺に抱きつきてきた。俺は陽子をしっかりと抱きしめた。
抱きしめながら、ユキノのことを考えていた。
(……陽子の過去って、ユキノと似たところがあるな)
そう感じていた俺の頭に、ふと、この曲が流れて込んできた。
♪『トワイライト』
黄昏はもの憂げに
人の寂しさつけこむ
嘘つきなそのくちびる
強がりだと教えてる
意地っ張りな肩を
そっと抱き寄せた
いざよえる空に
おぼろな月が浮かぶ
何もかも 忘れて夜が始まる
何もかも 忘れて愛が始まる
絡まった過去は 遠い昨日に
すべて棄て去って
また一つ 新しい夜が始まる
また一つ 新しい愛が始まる
ただ一つ 変わらない愛を求めて
また今日も 新しい夜が始まる




