ユキノ、崇のいない日
崇がいない休日。ユキノはふらりと、オアシスにやってきた。
そこで、崇のかつての片思いの相手と同じように「カプチーノ」を頼むユキノ。
ここは、やはり恋人への想いが似合うお店だった。
カランコロン……。
カウベルが鳴り、ユキノは店に入った。
崇が仕事に行った後の部屋に一人でいると、どうにも落ち着かなかった。
昨夜の彼の寝言が気になっていた。
(そんなにフード付きのトレーナーが嫌だったのかしら?)
と。 それは、まだ知らない誰かの影を感じたからかもしれない。
「いらっしゃい、ユキノさん。一人?」
「……うん、今日はね」
ママにそう答えて、ユキノは、窓際の席に座った。
崇が
「大学時代に通った喫茶店と名前が同じというだけじゃなくて、雰囲気が似てるんだ」
と少し照れくさそうに言っていた席だ。
彼女はメニューを眺め、少し迷ってからママに「カプチーノ」を頼んだ。
運ばれてきたカップを両手で包む。
ユキノは医療従事者。職場の厳しい禁煙ルールも、健康への影響も熟知している。
かつての崇がマッチを擦って浸っていたという「10数年前のスタイル」なんて、今の時代、不衛生でしかない。
(……崇、あの頃、何を見てたんだろう……)
彼女の手元にあるのは、マッチではなくスマホだ。 画面を点けるわけでもなく、ただその暗い液晶を見つめる。 崇が話してくれた「かつてのオアシス」での断片的な記憶。
それをこの「今のオアシス」で再現しようとしたところで、結局、自分は自分でしかない。
カプチーノを一口飲むと、泡が上唇について、それを舌で拭いながら、なんだか自分がひどく格好悪く思えて溜息が出た。
昔の女の影とその頃の崇を想像して、似たようなお店で、似たような飲み物を頼んでいる自分。
「……バカみたい、こんなの自分らしくない」
崇が見ていた景色をなぞってみたところで、温度も、匂いも違う。
結局、自分たちが生きているのは「今」でしかない。
冷めた現実が、カプチーノの苦味と一緒に喉を通った気がした。
「あ、安岡さんの言った通りだ。上唇、泡ついてる」
背後から声がして、ユキノは肩を跳ねさせた。 そこには、少しバツが悪そうに頭をかく佐藤が立っていた。
「佐藤くん……。崇、そんなことまで話してんの?」
「あ、いや、自慢っぽくですよ? 『ユキノはいつもカプチーノの飲み方が下手なんだ』って、すげーニヤニヤしながら」
「……崇のバカ。後で絞めてやる」
ユキノは顔を赤くしながら、乱暴にナプキンで口を拭いた。 格好つけたかったのに、結局、崇の手のひらの上で踊らされている気がして、でも、不思議と胸のざわつきは収まっていた。
「座れば? 陽子ももうすぐ来るから」
「え、陽子さん来られるんですか?」
「知ってたくせに」
「……やっぱりユキノさんには隠せませんね」
「そうよ。私を誰だと思ってるの? 陽子に会いたくてきたんでしょ」
「それも安岡さんから聞いたんですか?」
「そんなの聞かなくたって、見てたらだいたいわかるわよ。気づいてないのは陽子だけ」
「やっぱり、そうですか。はぁ、僕じゃダメなんだろうなぁ」
「そんな弱気でどうすんのよ。
陽子はね、待たれるより、ぶつけられることで“本気かどうか”を見るの。
逃げ腰のままだと、何も始まらないわよ」
と、そこへ、
「ごめん、遅れた……って、え? 佐藤くん? なんでここにいるの?」
陽子が、少しだけメイクの濃い顔で入ってきた。
「安岡さん来れないので、ユキノさんの様子見てこいって言われて……」
「そうなの? ふ〜ん」
陽子はユキノの隣に座るなり、彼女のカプチーノを覗き込む。
「ユキノ、またそんな不味そうな顔して。崇さんのこと考えてるんでしょ、どうせ」
「……うるさいわね。陽子こそ、今日は一段と気合入ってるじゃない」
「はあ? これくらい普通よ。私、か弱い女なんだから、武装くらいしなきゃやってられないわよあ、ママ〜、ブレンドちょうだい」
カウンターの中から、わかったとママが手を上げた。
陽子はわざとらしく髪をかき上げたが、その指先が少し震えているのをユキノは見逃さなかった。
強がって、奔放なふりをして、でも誰よりも一人になるのを怖がっている。
それが目の前の従姉妹。
少しして、ママが運んできたブレンドを運んでくると、陽子はそれに砂糖とミルクを入れた。
「あれ、あんたブラックじゃなかったっけ?」
ユキノが怪訝そうな声で聞いた。
「うん、前はブラックだったけど、このところ、疲れてね。なんか甘いのが欲しいの。体が糖分を欲してる〜。男も欲してる〜」
「バカね。佐藤君がいるのに」
「あ、失礼しました。ごめんね、下品なこと言って」
「……いえ」
佐藤は陽子の方を見ず、コーヒーをスプーンでかき混ぜた。
「私なんて、結局、誰かの代わりでしかないのよね」
陽子が窓の外を向いて、ぼそっとこぼした。
その瞬間、それまで静かにしていた佐藤が、テーブルの上で拳を握った。
「……陽子さん、それ、僕の前で言わないでください」
「え?」
佐藤はコーヒーに視線を落とし、少し間を置いた。
「この前、安岡さんに言われたんです。『俺じゃ陽子を笑わせられないからな』って」
「……もう、崇……さんたら……。佐藤君、そんなこと教えないでよ。
それにね、私なんて、面倒な女よ。君の人生、軽く使っていい相手じゃないの。
冗談言ってないで、もっと君に合う女の子、さがしなさい」
「いいえ、他の人のことなんか考えられないです。……だから、僕が、陽子さんを笑わせます」
と、陽子は思わず吹き出した。
「だから真剣な顔で、冗談言うのはやめてよ。ほんとに笑っちゃうじゃない」
「冗談じゃありません。本気です!」
佐藤の顔は、お世辞にも『女神を救うヒーロー』には見えなかった。
必死すぎて、声が少し裏返っている。
でも、その格好悪さが、かえって真剣さを感じさせた。
「俺、陽子さんが誰かの代わりだなんて思ったこと一度もありません。
……めんどくさい陽子さんが、いいんです」
陽子は目を見開いたまま、固まった。
やがて、ゆでダコのように真っ赤になり、バッグで自分の顔を隠した。
「……やだ。……今の、なし。絶対なし!」
ユキノは、半分笑い、半分ほっとした顔で二人を見た。
「……あーあ。二人とも、本当に不器用なんだから」
次、崇と休みが合うのは二週間後だ。
ユキノは、その日には必ず、崇をここに連れてこようと思った。
窓の外の坂道を誰かが登ってくる。
けれど、それは崇ではなかった。
ユキノは、二週間後にカランコロンと鳴るカウベルを想像しながら、カップをそっと口に当て、最後の一口を飲み込んだ。




