第二話 「俺の知らない日常が、俺を知っている」
声が出ない。目の前の女が誰なのかもわからない。
だが世界は、俺を「夫」として、「社員」として、当たり前のように受け入れていく。
俺の記憶だけが、この世界から弾き出されていた。
(前話からのリフレイン)
「これ飲んで。痛み止めだから」
いつ出したのか白い錠剤を二つ手にしていた。そしてその薬を俺の口に含ませ、コップの水を自分の口に含むと口移しに飲ませようとした。とっさに逃げようとしたが間に合わず、女の口で俺の口は覆われ、すぐに冷たい、でもわずかに温かい水が流れ込んできた。
「いいコだから、ゆっくり休みなさい」
そう言った顔がほんの少し微笑んで、
「おやすみ、タ・カ・シ」
ともう一度、俺のおでこにキスをした。
タカシ。そうだ、俺は確かに崇だ。 しかし、今そばに居るこの女は誰だ?はじめて逢った女……のはず。思い出そうとするとそれをさえぎるかのように白い霧が頭の中に深く立ち込め、やかて俺は深い眠りに堕ちた。
*
「よく寝てたわね」
ユキノの声が聞こえた。 ……なんだ。さっきのは夢か。
「そろそろ起きて」
「うん……」
しかし俺はそのまま、また眠りに堕ちた。
*
「よく寝てたわね」
……その声はユキノではなく夢の中の女だった。
また同じ夢を見てるのか?それにしては、いやにはっきりしたり感覚。
「どうしたの? しっかりして崇。 私よ、陽子。わからないの? ヨ・ウ・コ」
(よ……う、こ?)
声に出そうとしたが、声が出ない。
「何にも覚えていないの?」
俺の怪訝そうな表情を見たヨウコと名乗る女は、自分のスマホを取り出し、海岸で二人が並んで写っている画像を見せながら、
「これ、この前、あなたと一緒に行ったでしょ? 南紀白浜の海」
そう言われても、何も思い出せない。
「ねぇ、しっかりしてよ、崇。あーわかった。そうやって私をからかってるんでしょ」
しかし、俺は何も思い出せない。 何も喋らない俺に女は、
「……本当にわかんないの? ねぇ、なんでわからないのよ」
と激しく俺の体をゆすった。
思い出すも何も、はじめて会った女(だと思う)の何を思い出せというのだ。
しかも、なぜか言葉が喋れない。どう伝えればいいのか。俺の頭は果てしないほどの混乱の中にいた。
そうだ、文字で伝えよう。 俺はふと、そう思いつき、女に向かって右手でペンを持って書くような仕草をした。
「何か書きたいのね? じゃ、このスマホのメモに書いて」
女は自分のスマホのメモアプリを開いて俺に渡した。
俺は、それを受け取って、
『あなたは誰ですか? ここはどこですか?』
と打ち込んで、女に見せた。
ヨウコと名乗った女はそれを見ると蒼ざめた顔になって、
「自分の奥さんのことがわからないの?」
と訊いてきた。 俺は、スマホで、
『俺、あなたと結婚してるの?』
と打ち込んだ。
「結婚はしてないけど、もう二年以上、一緒に暮らしてるのよ。あ、わかった。やっぱり私のことからかってるんでしょ。すぐそうやって面白がって、私のこと騙すんだから」
俺はスマホを手から離し、天を仰いだ。
「本当にわからないの?」
俺は首を縦に振った。
「……病院、行きましょう。そうだ、今日、ダイコーに行くって言ってたでしょ。土曜だけど試験が終わってないからって。休むって連絡しとかなきゃ」
(ダイコー?)
と聞きたいが声が出ず、俺は『ん?』という顔をした。 それに気づいた女は、
「ダイコー精密機械よ。あなたの勤めている会社」
ダイコー……。
確かに昔、勤めていた。しかし、それはもう七年も前のことだ。 俺は七年前にダイコーを辞めて専門学校に入った。その後、今は京都にある総合病院で臨床工学技士として働いている。
(……すると、ここは)
俺はもう一度、スマホを持って、
『ここは神戸?』
と打ち込んだ。 それを見てヨウコは、
「そうよ。当たり前じゃない。何バカなこと言ってんの」
俺は続けて、
『俺を会社に連れて行ってくれ』
と打った。
「何か思い出したの? そうなのね? わかった。今すぐ連れて行ってあげる」
ヨウコはそう言って、俺を部屋から連れ出し、駐車場に停めてあった白いツードアクーペの助手席に俺を乗せ、車を走らせた。
会社へ通う道は懐かしい光景が広がっていた。ヨウコは慣れた手つきで車を走らせている。
「私も久しぶりに会社に行くわ。二年ぶりかな」
前を見ながらそう言って、少しにっこり微笑んだ。
「崇が一緒に暮らそうなんていうから、仕事辞めたけど、これでも結構、キャリアウーマンだったんですからね」
俺は、頭の中でいろんな疑問が飛び回ったが、今は声が出ない。俺は仕方なく首を縦に振るしかなかった。
二十分ほど走って、車は会社に着いた。 入り口の守衛室の前に車を停めると、ヨウコは窓を開けて守衛に話しかけた。
「ごめん、旦那連れてきたから、ちょっと中に停めさせて」
「あ、吉田さんじゃないですか。久しぶりですね。隣は、安岡さんですね。わかりました、じゃあ、奥の品管の前の駐車場に停めといてください。名前と車番は書いておきますから。えっと、吉田さん? 安岡さん?」
「どっちでもいいわよ」
ヨウコが笑ってそういうと、守衛はわかったとばかりに軽く手を挙げた。ヨウコは軽く会釈しながら窓を閉め、車を奥にある事務部専用の駐車場まで走らせた。
「あの守衛さん変わらないわね」
そう言いながら、少しウキウキしているようにも見えた。
奥の駐車場に車を停めると俺とヨウコは車を降りた。 事務所の入り口から人出てくるのが見えた。
「ヨウコさ〜ん」
と手を振りながら近づいてくる。 その声に聞き覚えがあった。 ヨウコはその男に向かって、
「佐藤くんじゃない、久しぶり」
と声をかけた。
「今日はどうしたんですか?」
近づきながら佐藤がそう訊いてきた。
「ちょっと寝坊した旦那を連れてきたのよ」
「そうなんですか。安岡さん、ダメじゃないですか」
佐藤は笑って俺の方を見た。
俺は佐藤に声をかけた。
「佐藤、久しぶりだな」
「久しぶりって昨日も一緒に仕事したじゃないですか」
と、佐藤が言ったか言わないうちに
「あなた、声が出るじゃない!」
ヨウコはびっくりして俺を見た。 本当だ、声が出る。
(声が出るよ)
とヨウコに言おうとしたが、また声が出ない。
「何、どうゆうこと?私とは話したくないってこと?」
おかんむりの顔でヨウコが俺に詰め寄る。
「まぁまぁ、夫婦喧嘩は家でやってくださいよ」
と佐藤が割り込んできた。
「それより、安岡さん、大丈夫ですか? 昨日の仕事終わり、真っ青な顔して帰って行ったから、心配してたんですよ。そしたら今朝も来てなかったし」
「……ああ。まぁ、なんとか大丈夫だ」
「なら、いいんですけど」
「それより佐藤、俺はここで何をやってるんだ?」
「へ? 何って、品質管理課の試験係ですよ。今、新製品の開発で大変なんですから」
「新製品の開発?」
「やだな、しっかりしてくださいよ。本当に大丈夫ですか?」
俺がふざけていると思っているのか、少し笑いながら佐藤はそう言った。 俺は、陽子と話せないことが気になったが、
「今日は、何の試験をするんだっけ?」
と佐藤に聞いた。
「ほら、例の新しい装置のキー部品がちゃんと規準をクリアできるかどうかの耐久テストですよ。今回、これがうまくいかないと自動車メーカーとの取引ができないからギリギリなんです」
「……ああ、そ、そうだったな」
俺は細かい内容がわからなかったが、その場を繕うためにそう言った。
「本当に大丈夫ですか? テストは僕だけでもできますから、安岡さんは休んでもらっていいですよ。あとで携帯に結果送りますから」
「そうか、じゃあ、そうしてもらうかな。あ、その前に久しぶりに来たから、ちょっと中見せてもらおうかな?」
「久しぶりって。だから昨日もいたじゃないですか。どっか頭でも打ちました?」
「いや、まあ、そうなんだ。ちょっと脳震盪起こしたみたいで、ヨウコに介抱してもらってたので、来れなかったんだ」
「な〜んだ、やっぱり陽子さんと仲いいじゃないですか」
佐藤は笑ってそう言った。
「えっと、忘れ物したような気がするから、ちょっと試験室に入れてくれ」
「いいっすよ。一緒に行きましょう。陽子さん、ちょっと待っててね。愛しのご主人、お借りしますよ」
「もう佐藤くん、何言ってるの。大丈夫だから。あなた、早く忘れ物とってきてね。今日、仕事じゃなきゃ、元々二人で買い物に行く予定だったんだから」
(ああ、わかったよ)
と言おうとしたが、声が出ないので、俺は頷いて、佐藤と一緒に会社に入った。
入り口で営業部の西田部長とすれ違った。 西田部長は駐車場にいた陽子に気づくと、
「やぁ吉田じゃないか。どうしたんだ?」
とヨウコに近づいて行った。 俺は気になって、そのまま二人の様子を見ていた。
「西田部長、お久しぶりです。今日はちょっと旦那が朝から調子悪かったんで連れてきたんです」
「そうか。ところで、君の方の調子はどうなんだい?あれから二年経つし、君がその気ならうちに帰ってきてくれるとありがたいんだがな」
「ありがとうございます。今すぐというわけには行きませんが、そう言ってもらえるのは本当にありがたいです。その時はまたよろしくお願いします」
そんなやり取りが聞こえてきた。と、
「安岡さん、何やってるんですか。早くしないと陽子さんに怒られますよ」
という佐藤の声が聞こえたので、俺はその場を離れて試験室へと向かった。
試験室は七年前とほとんど変わっていなかった。ただ壁や部屋が七年分の歳をとったというか、少し色褪せた感じに見えた。そして、唯一違っていたのは七年前にはなかった操作耐久試験機が奥に見えたことだ。
俺はその試験を見るなり佐藤に向かって、
「あれは?」
と聞いた。
「何言ってるんですか。あれが問題の装置ですよ。部品の素材変えたり、形状変えたりしてやっとここまできたんじゃないですか。試験係の立場からいろんなアイデア出して、設計、開発と作り上げた部品なんだから」
「あ、そうだった、そうだった。どうも頭の打ちどころが悪かったみたいだな」
「やっぱり今日は早く帰って休んでくださいよ。係長がしっかりしてくれないとみんな困るんですからね」
「わかった。じゃあそうするよ」
「で、忘れ物あったんですか?」
「おー、そうだった。えっと……」
俺は自分の机の引き出しを開いて中を確かめるふりをした。 引き出しには何もない。当たり前だ。ダイコーでは自分の荷物は引き出しには入れてはいけないことになっていた。
俺はありもしない忘れ物を探すふりをしながら佐藤にこう聞いた。
「俺のファイルケースってどこだっけ?」
「またですかぁ?後ろにありますよ。まぁ、二日前に保管場所変えたばっかりだからな。先輩、昨日も場所忘れて俺に聞いてましたよね。そろそろ覚えてくださいよ」
苦笑しながら佐藤は言った。
「ああ、そうだった。すまん、すまん」
俺は自分のファイルケースを見つけると、その場で中身を調べ出した。 ファイルケースを漁ると奥に使い古しのB5ノートが出てきた。「2020~」と表紙に書かれていた。どうやらこれが一番最近のものらしい。俺はそのノートを開いた。
そこには今回の製品開発と失敗の話がバラバラのメモのように書かれていた。俺はその殴り書きを見ながら俺の書いた字だなと思った。不思議なもので、はじめてみる内容なのに、文字を読むとまるで記憶が戻ってくるように製品のことが理解できてきた。そして開発の高山課長とのやりとりが書かれたページを読んでいるうちに、自分がその場にいた記憶が自然に浮かんできた。
(あれ、なんでわかるんだろう……)
と思っていると、
「安岡さん、忘れ物あったんですか?」
と不意に佐藤の声がして俺は我に帰った。
「お、あったよ。このノート。これ持って帰るの忘れてたんだ」
「え、ダメでしょ。会社のノート、持って帰っちゃ。大体、安岡さんは仕事とプライベートをきっちり分ける人だから仕事は家に持ち込まないじゃないですか」
そうだった。ここは秘密厳守の会社だ。
「そうなんだが、来週のプレゼンに間に合わないといけないだろ。だから、そういう時だけはこっそり家に持ち帰ってじっくり考えてるんだ」
咄嗟に俺は嘘をついた。
「あ、そうなんですか? 仕方ないですね。無くさないようにしてくださいよ。会社には黙っておきますから」
「ありがとう。じゃあ帰るよ」
俺は佐藤に手を振って試験室から出た。
「ゆっくり休んでくださいね。ノートに気を取られちゃダメですよ。あ、陽子さんにも心配かけたらダメですからね」
「わかった、わかった。ゆっくり休むよ。佐藤、ありがとな」
そう言って俺は、陽子の元へ向かった。
(嘘ついてごめん)
心の中で佐藤に謝った。
駐車場まで戻ると、もう西田部長の姿はなかった。
「遅かったわね」
ヨウコは少し怒っているみたいだった。
(部長は?)
と聞こうとしたが、声が出ない。
俺はここでヨウコを怒らせてはまずいと思い、両手を合わせて「ごめん」というポーズをし、さらに車を指差して早く乗って帰ろうという仕草をした。
ヨウコは「ふう」とため息のような仕方ないなというような顔をして
「じゃ、帰るわよ」
と言ってリモコンキーで車の鍵を開けた。 そして二人で乗り込むと、ヨウコは車を動かした。会社の出口にある守衛室の前で車を停車させ、ヨウコは窓を少し開けて守衛に敬礼してみせる。すると守衛も「わかった」とばかり笑いながら手を上げた。 動き出した車の窓から、守衛がヨウコの車が会社から出て行く時間を記入しようとする姿がチラッと見えた。
♪ 夏祭り 宵飾り 繋ぐ手と手 伝わる ルルル ルールー ・・・
帰りの車を運転しながら、ヨウコは鼻歌混じりに、この歌を口づさんだ。
俺は、ヨウコを大きな目で凝視した。
これは、みゆきが好きだった歌だ。ヨウコがこの歌を知ってるのに驚いた。
確かにある程度、売れた曲ではあったが、マニアックで知ってるやつしか知らない曲だからだ。俺の反応に気づいたヨウコが、
「崇、私がなんで、この歌知ってるのかって思ったんでしょ?」
(ああ)
と言おうとしたが声が出ないので、俺は大きく頷いた。
「崇、気づいてないでしょうけど、あなた、この歌、よく口づさんでるのよ。どっかで聴いたことことあるなぁって検索したら、私が中学生の時にちょっとだけ流行った曲だった。そのうち、私もこの歌、好きになっちゃった」
(ああ、そうなんだ)
言葉の代わりに俺は、ゆっくりと二回、頷いた。
「さて、今日は買い物やめてやっぱり家に帰りますか。あなたもまだ調子良くなさそうだし、帰って少し寝た方がいいわよ」
ヨウコはさっき怒ってたことを忘れたみたいに俺にそう言った。
喋れない俺は、軽く数回頷いてヨウコの提案を受け入れた。
家の駐車場に着くと、ヨウコは俺を車から降ろして家の鍵を渡し、
「ちょっと部屋で休んでて。ごはんのおかず買ってくるから。帰ってきたらお昼用意するね」
と言って、そのまま車に乗って出掛けて行った。 俺は少しホッとして家に入り、自分が眠っていた部屋に入ってベッドに寝転んだ。寝転びながら、
(……俺は何故、ここにいるんだろう。ユキノは今頃、何をしているだろう)
そんな思いに心を奪われていた。
(……ユキノ)
いや、しかし、それより今は、自分の状況をしっかり把握する方が先だ。
俺は、会社から持って帰ったノートをもう一度開いた。 そこには、俺の知らない新しい製品に関する開発の経緯が書かれていた。しかし、なぜかそれを自分が知っている感じがしてきた。読むほどになぜそんな感覚になるのかわからないが、俺の読む手は止まらなかった。すると急に眠気が襲ってきて、文字がだんだんぼやけて見えなくなり、俺は意識を失った。
♪『君をさがしてる』
君に逢いたくて 逢えない日が
繰り返す毎日 苛立つ想い
今頃 君は この空の下
どこかの街並で
おんなじ星をみつめてるのか‥‥
君を重ねてる
現在の暮らしに
君と居たいから
ふたりで居たいから
嘘じゃない
言い訳じゃない
そんな軽い気持ちじゃない
悲しいほど
君を求めてる
君をさがしてる
あれからずっと
君をさがしてる
ほらまたさがしてる
面影さえ遥か遠く
記憶を滲ませる
狂おしいほど
君をさがしてる




