5.《孤独》
暴走の光が静まったあと、カイはまだ震える手で師匠を抱き上げた。浮遊の魔法ならもう身についている。
胸にそっと押し当てると、微かに熱が伝わってくる。
けれど、彼女の身体は動かず、眠り続けるかのように静かだった。
「師匠、僕のために……」
カイは言葉を呑み込み、森を抜けて家へと向かう。
家の扉を開けると、色とりどりの花々が揺れることなく静まり返っていた。
カイは師匠を慎重に床に下ろし、血や汚れを拭きながら外套を整える。
裂けた袖や傷は、まだ熱を帯びているが、彼は小さな手つきで丁寧に拭った。
「……大丈夫、師匠。ゆっくり休んで」
ベッドに横たえると、シーツをそっと引き、師匠の髪を整え、額の汗を指先でぬぐう。
その手つきは、まだ子どもらしさが残るが、真剣で、優しさに満ちていた。
リュミエラの穏やかな微笑みは、眠る前と変わらずそこにある。
カイはその表情を胸に刻み、そっと手を離した。
「……絶対に、迎えに行く。だから、安心して……」
静かな家の中、風がカーテンを揺らすだけ。
リュミエラは眠ったまま、光も時間も止まった世界の中心で休んでいた。
そして、少年の長い旅が、ここから静かに始まるのだった。
リュミエラをベッドに寝かせ、血や汚れを拭い終えたあと、カイは自分の力だけでは師匠を診ることができないと感じていた。
(……僕だけじゃ、何もわからない……)
そこで彼は、リュミエラの魔法書や道具に目を向け、自分の魔力を工夫して「大人に見える姿」に変える魔法を習得した。
これで、外から医者を呼ぶこともできる。
「……これで、誰も僕のことを疑わないはず」
カイは森の外れから医者を呼び、師匠を診てもらった。
医者は落ち着いた声で告げる。
「怪我は自然と治っていくでしょう。
でも……いつ目を覚まされるかはわかりません。身体は健康です。心配はいりません」
カイは医者の言葉を反芻し、胸の奥で決意を固めた。
(いつ目を覚ますかわからなくても……僕にできることはある。師匠が快適に過ごせるように、守ること……)
その日から、カイの生活は一変した。
師匠の魔法書を読み漁り、魔法の知識をむさぼるように吸収した。
家の中で動く小さな魔法。
温度調整。湿度管理。香りの調整。
寝具をふかふかに保つ魔法。
傷んだ木材を癒す魔法。
埃を払う空気の魔法。
師匠が眠る枕元が、季節に関係なく快適になるように。
そのひとつひとつに、幼い頃の彼女の言葉が重なる。
“カイ、魔法は便利だけど、誰かのために使うほうがずっと強いんだよ”
(なら僕は、師匠のために全部覚える)
いつの間にか、家の花々が少しずつ色を取り戻した。
季節外れの花がひっそりと咲くことも増えていった。
まるで――
家そのものが、カイを主人と認め始めたかのように。
魔法だけでは家計は回らない。
師匠のためにも、カイは稼ぐ必要があった。
「依頼を……受けます。短時間で終わるやつだけ」
魔法使い登録の窓口で、受付の女性は彼を見て少し驚く。
「……珍しいね。こんな若さで魔法使い登録なんて」
(変装、もっと大人にしとけばよかったかな……)
依頼は、最初は雑用や簡単な修復など。
だがカイは短時間で正確にこなし、すぐに評判が広がった。
“腕のいい魔法使いがいる”
“若いけれど異様に落ち着いている”
“魔獣にも臆さないらしい”
そしてカイは、森に出没する魔獣討伐の依頼を優先して受けた。
(師匠を襲った魔獣と同じようなやつは……全部僕が消す)
森に足を踏み入れるたび、彼は強くなっていった。
冷静に、正確に。
攻撃も防御も、すべて“師匠の安全”のために洗練されていった。
多くの依頼主から誘いが来るようになった。
「うちのギルドに来ないか?」
「長期の護衛依頼を頼みたい!」
「魔導士団に入ってほしい」
けれど、カイの答えはいつも同じ。
「師匠が……大切な人が眠っているんです。離れられないんです」
理由は言わなかったが、誰もそれ以上は聞かなかった。
彼の目が、本気だったから。
年月は流れ――
少年の面影は薄れ、カイはいつしか師匠リュミエラの年齢を超えていた。
季節をまたぎ、何十回もの花が咲き、散り、また咲いた。
師匠の寝顔だけは、ずっと変わらない。
カイは毎朝、師匠の手を握り、こう呟いていた。
「……おはよう、師匠」
そしてある朝。
その日の空はやけに透明で、光がやわらかかった。
師匠の指が――ほんのわずかに、カイの手を握り返した。
「…………え?」
呼吸が止まる。
心臓が跳ねる。
ゆっくり、ゆっくり、まつ毛が震えて……
リュミエラが目を開いた。
「……カイ?」
「……師匠」
声にならない。
涙があふれて止まらない。
ずっと待っていた言葉が胸に刺さる。
リュミエラは、眠りについたときのままの若さで微笑んでいた。
ベッドの横には、師匠より年上になったカイが立っていた。
長い長い孤独は、そこでようやく終わった。




