4.《封印》
森の気配が変わり始めたのは、カイが十三になった初夏だった。
その変化に最初に気づいたのはリュミエラだ。
朝の風を読むように森の空気を確かめるのが彼女の日課で、その日も同じように指先で風を感じていた。
「……カイ。風が少し、ざわついてるね」
薪を割っていたカイは手を止め、リュミエラの方を向く。
声は低くなりかけていて、幼さの残る高さと新しい低音が混じり合い、不安定だ。
「ざわついてるって?」
「森が落ち着かない。動物の足音が極端に減ってる。風の流れも変わってる。
──何か、大きなものが動いてる気配がする」
リュミエラの声は静かだったが、その瞳は確かに緊張を帯びていた。
カイも耳をすませる。
けれど彼には、まだそこまでの違和感ははっきりとは掴めない。
「……まだ、よく分からない」
「無理に感じようとしなくていいよ。けど、気に留めておいてね。
森は“来るもの”に真っ先に気づくから」
森全体が息を潜めているような、妙な静けさ。
晴れているのに光が届きにくくなったかのような薄暗さ。
リュミエラは日に日に強まる違和感を隠さず、慎重に周囲を観察するようになった。
その姿を見ているうちに、カイの胸にも不安が広がっていく。
——師匠があんな顔をするなんて。
——何が近づいているんだろう。
彼にはまだ察知できない“何か”が森を震わせ続け、その見えない圧に気圧されるように、カイの魔力は時折ふっと揺らいだ。
リュミエラに気づかれないように、カイは深呼吸して制御をやり直す。
(こんなことで乱れたらだめだ。師匠を守りたいって思ってるくせに……)
そんな焦りが積み重なり、森の異変とカイの内側の揺れが、ゆっくりと、静かに重なっていく。
そして——その前兆はある夜、確信へと変わる。
森の奥から、木々が裂けるような低い衝撃音が響いた。
夕食の片づけをしていたリュミエラは、手を止める。
カイも同じ瞬間、びくりと肩を揺らした。
「……いまの、聞こえた?」
「ええ。外を見るわよ。
カイ、ローブだけ羽織ってついてきなさい」
家の扉を押し開け、二人は外へ出た。
湿った初夏の風が、かすかに冷たさを含んで吹き抜けた。
いつもなら鳥の鳴き声が重なり合うはずの木々は、いまは不自然なほど沈黙している。
葉の揺れる音さえ、どこか遠くへ押しやられたように感じられた。
リュミエラは足を止め、空気を嗅ぐようにわずかに目を細めた。
「……気配が濃くなってきた。カイ、私の後ろから離れないで」
低く慎重な声。
その声音に、青年へと変わりつつあるカイの胸はきゅっと縮んだ。
(師匠も……怖いと思うことがあるんだ)
「森の奥……あっちからだよね?」
カイは喉に引っかかる緊張を押し込むように言った。
「ええ。風が止まったのも、そのせい。森が息を潜めているわ」
リュミエラは杖を構え、その先端に淡い光をともした。
それは炎のようでもあり、霧のようでもあり、見る者の心を静かにさせる光だった。
――が。
その光を照らし返すように、森の奥の陰が、ぬるり、と揺れた。
「師匠……来る!」
カイが声をあげた瞬間、巨木の根元から、歪んだ影が大地をえぐるように飛び出した。
獣の形をしている――だが、どこか壊れている。
毛並みは逆立ち、片目は白濁し、背中には本来ありえない黒い棘が螺旋のように突き出している。
初めて見る“突然変異”の魔獣だった。
「下がって、カイ!」
師匠が光を強めた、その刹那――
魔獣の咆哮が、森の空気ごと震わせた。
カイの全身に、呼応するような“熱”が駆け上がる。
胸の奥がぎり、ときしむ。
(……やだ。今じゃない。暴れるな……!)
「カイ、呼吸を整えて。あなたは私の声だけを聴いて」
師匠が振り返らずに言う声は、静かで、強かった。
その声が、カイの暴れかけた何かを辛うじて繋ぎ止める。
光と影がぶつかる前の、刹那の静寂。
魔獣の黒い影が森を揺らし、地面を叩きつける。
枝が折れ、葉が飛び散る音があたりに響く。
師匠は一歩前に出た。
杖の先端に淡く光る結界を展開し、魔獣の進行を食い止める。
「カイ、後ろに! 絶対に私から離れないで!」
「師匠……でも僕も、戦える!」
声には迷いがなく、鋭い意思が宿っている。
その瞬間、師匠の瞳がわずかに揺れた——
もう子供ではなくなりつつある青年の目だ、と。
魔獣が跳躍する。
大きな爪が地面を蹴り、黒い瘴気を撒き散らす。
森全体がその襲撃に揺れる。
カイは反射的に魔力を集中させ、黄金の光を指先に集めた。
しかし、光はまだ完全な形を成さず、周囲の木々が微かに浮き上がるほどの圧力を帯びている。
「カイ! 撃たないで! そのままでは——!」
師匠が叫ぶ。
彼女の声だけが、カイの意識を魔力の暴走から抑える唯一の頼りだった。
魔獣の一撃が結界にぶつかり、衝撃が二人を押し戻す。
師匠は魔獣を押し返しつつも、カイの肩を掴んだ。
「落ち着いて、カイ。私を見なさい!
あなたの魔力は、私が守る。だから目を逸らさないで!」
黄金の光がわずかに震え、カイの周囲の空気を切り裂く。
森の動物たちも息を潜め、森全体がその場に息を止めているかのようだった。
カイは必死に魔力を抑えようとするが、恐怖と焦りが混ざり、力の調整が狂いかけていた。
(師匠を守るためなのに……どうしても、制御できない……)
影が再び迫る。
そのとき、師匠の手がカイの胸に触れ、魔力の流れを静かに抑えた。
「信じなさい、カイ。あなたの力は、私が支える。だから——私を信じるのよ!」
カイの黄金の光は、師匠の手に反応して少し落ち着いた。
だが、魔獣の猛攻は止まらない。
森の木々が次々と折れ、地面に亀裂が走る。
そして——
刹那、魔獣の爪が師匠に迫った瞬間、カイの魔力が限界を振り切ろうとしていた。
森は静かに、しかし確実に、暴走への一歩を踏み出す。
魔獣の爪が師匠に迫った瞬間、
カイの胸の中で、抑えきれない衝動が爆発した。
黄金の光が一瞬にして森全体を包み込む。
枝葉は宙に浮き、木々は弾き飛ばされ、
地面の小石は光の波動に巻き上げられた。
「カイっ……! 落ち着いて!」
師匠の声が、森の騒音を押しのけるように響いた。
だが、光の奔流はもはやカイの意識を超え、暴れ狂っていた。
魔獣が衝撃を受けて後退する。
だが、光の渦に押し返された衝撃は、森を震わせ、周囲の木々をも弾き飛ばす。
「これ以上は……危険すぎる」
師匠は冷静に、だが心を裂かれるような覚悟を抱き、杖を掲げた。
彼女の瞳に、決意が光る。
(——ここで、時間を止めるしかない)
呪文を唱え、掌を森の空気に突き出す。
瞬間、世界が一瞬にして凍りついた。
森の風は止まり、魔獣の咆哮も消えた。
飛び散る枝葉も、空中で静止する。
そして、暴走の渦に巻き込まれていたカイの黄金の光も、静かに固まった。
師匠は息を整え、カイの方へ歩み寄る。
しかし、自分の身体にも限界が近づいていることを感じていた。
「……カイ、あなたは安全よ……
私は、少し眠るだけ……だから……」
腕を伸ばし、彼を抱えるように光の中に包み込む。
意識が静かに遠のき、森の時間はゆっくりと停止する。
世界の中心で、二人だけが時間の流れから切り離されたまま——
リュミエラは長い眠りにつく。
カイの黄金の光は、まだ微かに揺れている。
しかし、暴走は止められた。
森は静まり返り、全ての生き物も息を潜めたまま。
未来への第一歩が、ここで静かに刻まれたのだった。




