3.《浮光》
その日の午後、リュミエラは研究室で薬草の配合を確かめていた。
窓から差し込む光が棚の瓶をきらりと照らし、淡い香草の匂いが部屋を満たしている。
「師匠、これ片付けておくよ」
カイが軽い足取りで入ってきた。
十歳になった彼は、動きひとつにも落ち着きが出てきている。
それを横目に、リュミエラは手元のページをめくりながら言った。
「そこに置いておいて。後で整理するわ」
淡々とした声。
けれど、どこか安心しきった日常の空気がある。
――ほんの一瞬だった。
リュミエラが振り返る動作で、長い袖が棚の瓶にわずかに触れた。
コトン、と軽い音。瓶がぐらりと揺れ、床へ落ちかける。
その刹那――
瓶がふわりと、宙で止まった。
カイの指先が、無意識に小さく震えている。
魔力が空気に広がり、瓶の周りを柔らかな光が包んでいた。
「……え?」
彼自身が驚いている。
リュミエラもまた、思わず目を見開いた。
「すごいじゃない!」
思わずこぼれた声は、珍しく純粋な賞賛だった。
だが、すぐに胸の奥がざわつく。
(……速い)
教えた浮遊魔法よりもずっと速い。
魔力の形成があまりに自然で、反射のように発動している。
(この反応……意図していない。ほとんど、無意識の防御)
瓶は静かにカイの手元へ運ばれ、床にはひとつの欠片も落ちていない。
カイは照れくさそうに笑った。
「ローブが……引っかかりそうだったから……なんとなく」
“なんとなく”。
その言葉が、リュミエラの胸にひっかかった。
この二年で成長したのは確かに嬉しい。
けれど、魔力が“思考より先に動く”のは――危うい兆し。
(まだ制御が幼い。魔力の流れが広がりすぎている……)
カイに悟られぬよう表情を整え、リュミエラは瓶を受け取りながら言った。
「……上出来よ。だけど、無意識で魔法を使う癖はつけないで。
魔法は“選んで使うもの”。分かったわね?」
「うん、気をつけるよ」
カイは素直に頷いた。
だが彼が部屋を出ていったあと、リュミエラはそっと自分の手を見つめた。
(あの速度……あの精度……)
師として喜ぶべき才能のはずなのに、どこかひどく嫌な予感がした。
(このままでは……いずれ)
この時、まだ誰も知らなかった。
いま何気なく起きた“反射の魔法”が、
数年後、カイの魔力暴走を引き起こす前兆であることを。
リュミエラの家で暮らして四年。
カイは12歳を過ぎ、背も伸び、表情にも幼さだけではない影が差し始めていた。
魔法の習得速度は、もはや子供の域を超えていた。
意識すれば風が集まり、光が形を持つ。
無意識のうちに魔力が揺らぐことさえ増えてきた。
リュミエラは訓練のたびに、ほんの一瞬だけ視線を細める。
それは驚きではなく、測定するような冷静なまなざしだった。
カイは、そのたびに胸の奥が温かく、そして痛くなる。
(もっと認められたい。もっと近づきたい――)
師への憧れは、もはや「家族」だけでは括れない感情へと変わり始めていた。
例の“瓶を浮かせた日”から何度も、同じようなことが起こっていた。
落ちそうな花器、倒れた椅子、吹き飛ぶ書類。
気づけば光に包まれ、ふわりと宙で止まる。
カイはその度に照れながら言った。
「……すみません。勝手に体が…」
リュミエラは静かに首を振る。
「謝ることじゃないわ。ただ、気をつけて。
魔力は便利だけれど、扱いを誤れば牙を剥くわよ」
その声は冷静で、けれどどこか優しかった。
カイは胸が締めつけられるように感じた。
いつか、その優しさが自分だけのものになればいい、とも。
そんなことを考える自分に気づくたび、慌てて打ち消していた。




