2.《灯火》
朝の空気は澄んでいて、開け放たれた窓からはひんやりとした風が流れ込んでいた。
テーブルの上には焼きたての薄いトーストと、香りのいい薬草茶。
カイはまだ少し小ぶりな手で、その温かいカップをそっと包んでいる。
窓の向こうには、色とりどりの花が咲き乱れていた。
季節の境目を無視した色彩。
その外側にだけ、茂みが壁のように生い茂り、風景は急に暗く途切れている。
そこに、目には見えない結界が張られているのだと、魔法使いが見ればわかる境界線。
家の中は穏やかで、外界とはまるで別の世界のようだった。
パンをちぎって口に運んだところで、リュミエラが淡々と告げる。
「今日から、訓練を始めるわよ」
声の調子は普段と変わらない。
しかし、それだけで空気が揺れるような気配があった。
カイは姿勢を正し、小さく、しかし迷いなくうなずく。
「はい」
リュミエラはそれ以上何も言わず、黙って食事を終える。
彼女が立ち上がると、カイも自然に後を追っていた。
結界を抜け、森の静寂の中へ。
リュミエラは足を止め、ゆっくりとカイと向かい合った。
一定の距離が空いている。
それだけで緊張が走った。
鳥の声も、風の揺らぎも、遠い。
カイは喉が渇くような緊張を抱え、しかし目を逸らさない。
怖い。
けれど、決して背を向けたくはない。
リュミエラはローブの袖を一度整え、淡々と告げる。
「――構えて、カイ」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥が熱を帯びる。
あの日ベッドで名乗った名前が、初めて“魔法使いの弟子”として呼ばれた。
そのわずかな熱が、恐怖を消し、緊張へと変わる。
カイは小さく息を整え、両足を踏みしめた。
ここからが、本当の始まりだった。
胸の奥の灯りは、最初は静かなもので、あたたかい痕跡のようにそこに“ある”だけだった。
だが、意識を向けるほどに、その灯りはわずかに脈打つように揺れ始める。
カイは眉を寄せた。
呼吸が浅くなり、無意識に肩が強張る。
――熱い。
でも、嫌ではない。
ただ、掴み方がわからない。
灯りは次第に大きくなり、
胸の内側でぼんやりと形を変えながら膨らむ。
その瞬間だった。
リュミエラの声が鋭く、しかし静かに落ちた。
「……カイ、そこで止まりなさい」
指一本動かしていないはずなのに、彼女の声だけで空気が変わった。
灯りはさらに揺れ、胸の内側がびりりと震える。
――暴れている?
カイが戸惑いで顔を上げかけた瞬間、リュミエラが片手を軽くかざした。
それは魔法を使う仕草としてはあまりに控えめで、無駄のない、洗練された動きだった。
「焦らないで。そのまま——息を整えて」
淡々とした声なのに、不思議と強い。
リュミエラの掌から、風でも光でもない“静かな圧”のようなものが広がり、カイの胸の揺らぎへと触れた。
灯りが柔らかく包まれる。
暴れそうだった気配が、波紋のように静まっていく。
カイは息を吐いた。
胸の緊張がほどけ、灯りが“ただそこにある”状態へ戻る。
リュミエラは手を下ろし、短く告げた。
「……今のが、魔力」
カイは驚きと実感の狭間で、言葉を失った。
胸の奥は温かく、指先にはまだ微かな痺れが残っている。
リュミエラは一歩だけ近づき、カイを見下ろす。
「暴れたのは悪くないわ。
初めて触れたなら、あれくらいで当然よ」
淡々とした声。
けれど、わずかに柔らかい。
「もう一度いくわ。次は……逃がさないようにしなさい」
その眼差しは、静かで、鋭くて、美しい。
カイは深く息を吸い、うなずいた。
胸の奥の灯りが、再び揺れ始める。
指先に意識を集めながら、カイの胸にはじんわりと違和感があった。
(……魔法って、自分で使っていいんだっけ)
思い出すのは、逃げてきた場所での日々。
魔力は“奪われる”もので、自分のために振るうことなど一度も許されなかった。
魔力を感じれば即座に封じられ、ただ搾り取られる痛みだけが残った。
なのに今――
リュミエラは“使え”と言っている。
初めてだ、こんなふうに促されたのは。
(魔法を……教えてくれる人なんて)
胸の奥が熱くなった。
動揺なのか、期待なのか、自分でもわからない。
光が生まれる瞬間、ほんの一粒の輝きが、リュミエラの金の瞳に映った。
「……やるじゃない」
静かな、しかし確かに認める声。
(この人……)
カイの心に、はっきりとした感情が立ち上がった。
(この人になら、預けてもいい)
思わず胸が苦しくなるほどの確信。
ただ生かされるためじゃなく、
“自分が望んで魔法を使う”という未来へ手を引いてくれるのは、この人しかいない。
(この人のために、魔法が使えるようになりたい)
小さな灯りがふっと揺れ、魔力の温かさが指先から静かに広がっていく。
「その感覚、忘れないで。あなたの魔力は……まだ伸びる」
リュミエラは淡々と告げる。
それなのに、胸にしみるほど温かかった。




