1.《浮遊》
森の奥で、空気そのものが静かに揺らいでいた。
その揺らぎの中心――リュミエラは、ミルクティー色の長いソバージュをさらりと風になびかせ、開いた本へと静かな視線を落としていた。
指先からは淡い金色の魔力がほどけるように流れ、彼女の周囲には花弁がゆっくりと浮遊している。
季節外れの花すら、彼女の魔力に呼ばれるように開いていた。
「……よし。今日の調整は悪くないわね」
落ち着いた少し低め声。
その響きは、森を満たす魔力と自然に溶け合っていた。
リュミエラが杖を軽く振ると、花弁たちは霧のように散り、空気の揺らぎはぴたりと止まる。
その一瞬――
《ドサッ》
不意に重みのある音。
花弁ではない。動物でもない。
リュミエラの眉が僅かに寄った。
彼女は本を閉じ、杖を構える。
「……人の気配?」
音の方へ向けて片手を振ると、魔力が細い糸のように走り、森を静かに探っていく。
すぐに、倒れている“何か”が見えた。
「……子ども?」
足音も立てず、彼女は数瞬でその場に到着した。
落ち葉の上に、8歳ほどの少年がうつ伏せで倒れている。
呼吸は浅く、体温も下がっている。
リュミエラはしゃがみ込み、冷静に状態を確認した。
「多少の外傷はあるけれど、命に別状なし。魔力の暴走……もないわね。」
息があると確認して、ようやく彼女の表情が少しだけ緩む。
「よかった。まだ間に合う」
その声は凛としていて、安心を与える響きがあった。
リュミエラは杖を胸の前に立て、低く呪文を唱える。
「――浮遊」
少年の体がふわりと浮き上がる。
重力がほとんど消えたかのように軽くなり、彼女の腕にそっと収まった。
軽くするためというより、“衰弱した子どもを揺らさずに運ぶため”の魔法だった。
次に、落ちていた本へ目を向ける。
彼女が指をひとつ鳴らすと、本は光をまとってふわりと浮き、彼女の後ろへ静かに並んだ。
「さて……治療と休息が必要ね。
うちなら、自然魔法の集中地帯だから回復は早いはず」
住処の方向へ歩き出す。
季節外れの花が咲く、蔦に包まれた家。
外見は朽ちかけて見えるのに、魔力の流れは美しく整えられていて、近づくだけで“結界の強さ”が伝わる。
「ただいま。
新しい客人よ――静かに迎えてあげて」
花々が風もないのに揺れ、さざめいた。
リュミエラは少年を抱えたまま扉を開け、暖かな生活の香りが満ちた家へそっと足を踏み入れた。
こうして二人は出会った。
のちに運命を変えるとは、このときの少年はまだ知らない。
⸻
柔らかい朝の光が、薄いカーテン越しに差し込んでいる。
ベッドの上で少年はゆっくり目を開けた。天井は見知らぬ木材、部屋の隅には見たこともない紋章が刻まれた瓶や、緑に光る石。近くの机には開きかけの魔法書が無造作に重なっていた。
――ここは……?
身体が軽い。泥だらけだったはずの自分の服は、清潔な布に着替えさせられている。
腕に巻かれた包帯からは、ほんのり香草の匂いがした。
恐る恐る起き上がった彼の耳に、扉を叩く音がした。
「起きたのね。身体はどう?」
入ってきたのは、長いミルクティー色のソバージュを揺らす女性。
年齢は二十代前半に見えるが、その所作には妙な迫力があり、彼女がただ者でないことが一目で分かった。
彼女のローブの裾には淡い金色の紋様が光り、背後の棚には魔法使いの道具が整然と並んでいる。
少年はその一瞬で悟る。
――この人は魔女だ。
そして、魔法使いの中でも「本物」だ。
何かを察したように、女性は微笑む。
「あなたを森で拾ったの。ひどい怪我だったから、少し治療と休息をね。
ここは安全よ。恐がらなくても大丈夫」
少年は喉が少し乾いた声で問う。
「……どうして、助けてくれたの?」
「そうね。困ってる子どもを見捨てるほど落ちぶれてないから、かな」
冗談めかして言ったが、その目の奥には鋼のような強さがあった。
けれど少年は思う。
この人は、見逃すことができなかったのだ。
彼は少し迷いながら、周囲を見渡す。
魔法具。魔法書。薬草。
そして――彼女の手の甲に薄く残る魔力の痕。
「……あなたは、魔法使いなの?」
「ええ。そうよ」
女性は軽く指を弾いた。
部屋の奥から本がふわりと浮き上がり、静かに彼女の手に収まる。
少年は目を見開く。
その魔法の滑らかさ。雑味のない魔力の流れ。
まさに“大魔法使い”の使うものだ。
そんな少年の反応に、女性は少しだけ真顔になる。
「ねえ。君――魔法を、学ぶつもりはある?」
彼は迷う。
けれどその瞳の奥には、確かに力の気配があった。
彼自身それに気づいていた。
逃げてきた場所で、彼の力は“利用価値”として見られていたのだ。
魔法の才能は、この世界では祝福であると同時に呪いにもなる。
まだ幼い子どもに魔力があると判定されれば、丁重に扱われる家もある。けれど――
搾取される子もいる。
力を奪われ、使い潰され、逃げるしかなかった子も。
そして、彼も……その一人なのだと、女性はすでに察していた。
「……学びたい。強くなりたい」
小さな声だが、決意があった。
女性はゆっくり頷く。
「いいわ。今日からあなたは私の弟子よ。私はリュミエラ。あなたは?」
少年は少しだけ視線を遠くにやり、そして戻す。
「……カイエン、です」
名前を言うのが久しぶりで、ほんの少し声が震えた。
リュミエラは一度瞬きして、特に感情を動かすことなく返す。
「……そう。少し長いわね」
間。
「“カイ”と呼ぶわ」
その一言は、優しさではなく“受け入れ”だった。
この家に置くと決めた、魔女の淡々とした結論。
少年の胸がわずかに熱を持つ。
「……はい。カイで……お願いします」
リュミエラは軽くうなずいた。
「ええ。それでいいわ。
魔法を学ぶなら――まず体力を戻しなさい。話はそれから」
冷たく聞こえるのに、耳に落ちると不思議な安心をくれる声だった。
横になったままの少年は、はじめて少しだけ深く呼吸する。
その瞬間から、彼の“魔法使いとしての人生”は、本当に静かに動き出す。




