5話:日常のときめき、交差する視線
朝の光が、レースのカーテン越しに優しく差し込み、健太の部屋を淡い金色に染めていた。心地よい暖かさに包まれ、健太はまだ夢の世界を漂っていた。しかし、その穏やかな時間は、小さな足音と、甘く可愛らしい声によって終わりを告げられる。
「お兄ちゃーん!おーきーてー!朝だよー!太陽が眩しいよー!」
妹の愛花の、透き通るような声が、部屋いっぱいに響き渡る。同時に、ふわりとした感触が健太の頬をくすぐった。見ると、愛花の柔らかい栗色の髪が、健太の顔にかかっていた。大きな瞳はキラキラと輝き、健太の顔を覗き込んでいる。まるで、お気に入りのぬいぐるみに話しかけるように。小さな手で、健太の頬を軽くつんつん、とつつく。
「ん……あいか……おはよう……」
健太は、まだ半分夢の中にいる状態で、愛花の名前を呼んだ。まぶたが重く、なかなか目が開かない。
「おはよう!お兄ちゃん!今日は特別な日なんでしょ?早く起きて、かっこいいお兄ちゃん見せてよ!水瀬さんとデートでしょ!早くしないと遅刻しちゃうよ!」
愛花は、健太の頬を軽くつねりながら、さらに畳み掛ける。その仕草は、まるで小動物のようで、愛らしい。健太は、愛花の言葉に、昨日のことを思い出し、ようやく目が覚めてきた。
「特別な日……ああ、そうだった……」
健太は、照れくさそうに呟いた。昨日の放課後、雫と初めて手を繋いで公園を散歩したのだ。その時の、雫の温もり、照れた表情、すべてが鮮明に思い出される。
「えへへ、やっぱり覚えてたんだ!よかったー!早く早く!朝ご飯できてるよ!私が愛情込めて作ったんだから、残さず食べてね!今日は特別に、お兄ちゃんの好きな卵焼き、ハート形にしたんだよ!それとね、水瀬さんの分もお弁当作ったんだ!お兄ちゃんが渡してあげてね!」
愛花は、得意げに胸を張り、健太の手を引いて部屋を出て行った。その姿は、まさに妹属性全開。健気で、可愛らしく、そして、少しだけおせっかい。健太は、愛花の言葉に、ますます照れくささを感じた。
リビングに行くと、食卓には彩り豊かな朝食が並んでいた。愛花が作ったという朝食は、いつもより少し豪華に見えた。ハート形の卵焼きが、朝の食卓を可愛らしく彩っている。そして、可愛らしいお弁当箱が二つ、並べて置かれていた。
テレビをつけると、ニュース番組が放送されていた。画面には、アメリカで発生しているという、虹色の稲妻の映像が映し出されていた。健太は、それをちらっと見たが、「また海外のニュースか。最近、変な天気多いな」と思い、すぐに興味を失った。昨日の雫とのことで頭がいっぱいだった健太にとって、遠い国の天気など、どうでもよかった。
朝食後、健太は愛花に「いってきます」と伝え、家を出た。お弁当箱を二つ、丁寧に鞄にしまう。通学路を歩いていると、前方から、待ち焦がれた姿が見えた。雫だ。
「……おはよう、健太くん!」
雫は、健太を見つけると、花が咲いたように微笑んだ。その笑顔は、朝日に照らされて、より一層輝いて見える。
「……おはよう、水瀬さん!」
健太も、自然と笑顔になった。昨日のことを思い出すと、胸が高鳴った。手を繋いだ時の、雫の温かさが、まだ手に残っているような気がした。
二人は、並んで歩き始めた。
「……ねえ、健太くん、昨日のこと、覚えてる?」
雫が、少し照れくさそうに、健太に尋ねた。頬をほんのり赤く染めているのが、夕日に照らされてよくわかる。
「……もちろん、覚えてるよ。水瀬さんと手を繋いで歩いたこと、すごく嬉しかった。帰り道、ずっとドキドキしてたんだ」
健太は、素直な気持ちを伝えた。
雫は、ますます頬を赤く染め、俯いた。風になびく長い黒髪が、雫の表情を隠している。その仕草は、まさに乙女そのもの。健太の言葉に、心をときめかせているのが伝わってくる。
「……私も……すごく楽しかった……あのね……その……」
雫は、何か言いかけたが、途中で言葉を詰まらせてしまった。
「……どうしたの?」
健太が尋ねると、雫は、顔を赤くしたまま、首を横に振った。
「……ううん、なんでもない……」
雫は、小さな声で呟いた。
二人は、しばらくの間、言葉を交わさずに、ただ並んで歩いていた。しかし、二人の間には、温かい空気が流れていた。まるで、二人の心が、しっかりと繋がっているかのように。時折、雫の視線を感じ、健太はドキドキしていた。
学校に着くと、朝のホームルームが始まった。その後、授業が始まったが、健太は、時折、雫の方をちらちらと見ていた。雫も、それに気づいているのか、時折、健太に微笑みかけてきた。二人の間には、秘密の合図のような、甘い空気が流れていた。
午後の授業が終わり、放課後になった。健太が教室で帰る準備をしていると、担任の先生が、教室に入ってきた。
「……ああ、そうだった。今日は、皆さんに紹介したい人がいます」
先生の言葉に、教室全体がざわつき始めた。
「……入ってきてください」
先生がそう言うと、教室のドアが開き、一人の少女が入ってきた。
その少女は、艶やかな金色の長い髪を持ち、吸い込まれそうなほど澄んだエメラルドグリーンの瞳を持っていた。その容姿は、まるで海外のおとぎ話に出てくるお姫様のようだった。白い肌は透明感があり、どこか儚げな雰囲気を醸し出している。
教室全体が、その少女に見惚れていた。健太も、思わず息を呑んだ。その少女の美しさは、雫とはまた違った、神秘的な魅力を持っていた。雫の可愛らしさとは対照的に、大人びた雰囲気も持ち合わせている。
「……皆さん、紹介します。今日から、このクラスに転入することになった、エミリー・ブラウンさんです。アメリカから来ました」
先生が紹介すると、エミリーは、流暢な日本語で、自己紹介を始めた。声は透き通っていて、心地よく耳に響く。
「……皆さん、こんにちは。エミリー・ブラウンです。日本に来るのは初めてなので、まだわからないことばかりですが、早く皆さんと仲良くなりたいです。どうぞよろしくお願いします」
エミリーは、天使のような微笑みを浮かべた。その笑顔は、教室全体を明るく照らすようだった。しかし、その笑顔の奥には、どこか憂いを帯びた影が見え隠れしていた。
「……エミリーさんは、お父さんの仕事の関係で、日本に来ることになったそうです。皆さん、仲良くしてあげてくださいね」
先生がそう言うと、教室からは、温かい拍手が沸き起こった。
エミリーは、軽く会釈をし、空いている席へと向かう。健太のすぐ隣、窓際の席だった。
エミリーが椅子に腰を下ろすと、ふわりと甘い香りが健太の鼻腔をくすぐった。フローラル系の、どこか異国の雰囲気を纏った香りだった。健太は思わず息を呑んだ。隣に座ったエミリーの存在感は、想像以上に大きかった。
健太は、さりげなくエミリーの横顔を盗み見た。彼女は窓の外を見つめていた。夕焼けに染まる空は、茜色と紫色のグラデーションを描き出し、まるで絵画のようだった。エミリーの瞳は、その美しい景色を静かに吸い込んでいる。しかし、その瞳の奥には、故郷を想う寂しげな色が宿っていた。遠くを見つめるその視線は、どこか物憂げで、健太の心を掴んで離さない。その表情は、どこか憂いを帯びていて、健太は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
健太は、エミリーに話しかけようとした。自己紹介くらいはするべきだろうと思った。しかし、言葉が喉まで出かかったところで、躊躇してしまった。彼女の周りには、どこか近寄りがたい、特別な空気が流れているように感じた。それは、彼女の美しさからくる威圧感というよりも、もっと繊細で、壊れやすいもののように感じられた。まるで、大切に扱わなければすぐに消えてしまう、儚い硝子細工を見ているようだった。それに、昨日の今日で、他の女の子に話しかけるのは、何となく気が引けた。昨日の放課後、雫とあんなに良い雰囲気だったのに、すぐに他の女の子に気を取られているように思われたくなかった。
エミリーの金色の髪が、夕日に照らされてきらきらと輝いている。その髪は、風もないのに微かに揺れ、彼女の横顔を覆い隠した。健太は、その髪の隙間から見える、彼女の白い肌に見惚れていた。まるで、時が止まってしまったかのように、健太はただ、エミリーの横顔を見つめているだけだった。
その時、チャイムが鳴り響いた。放課後の時間が終わりを告げる、無情な合図だった。健太は、はっと我に返った。エミリーに何も言わないまま、教室を出て行くのは、あまりにも失礼だと思った。しかし、結局、何も言うことができなかった。昨日の雫との出来事が、健太の背中を押すことを躊躇させていた。
健太は、急いで荷物をまとめ、教室を飛び出した。廊下を歩きながら、何度も後ろを振り返ったが、エミリーはまだ窓の外を見ていた。彼女の視線は、夕焼けの彼方、遠い故郷へと向かっているようだった。健太は、その姿を見て、胸の奥が少しだけ締め付けられるような感覚を覚えた。
夕焼け空の下、健太は一人、家路を急いだ。彼の心には、雫との甘い時間と、エミリーの存在が、交互に浮かんでいた。雫と手を繋いだ時の温もり、見つめ合った時のドキドキ。それらは、健太の心を温かく満たしていた。しかし、同時に、エミリーの姿も、健太の心に引っかかっていた。彼女の憂いを帯びた瞳、夕焼けを見つめる寂しげな横顔。それらは、健太の心をざわつかせ、何かしらの予感を抱かせていた。
家に着いても、健太の心は落ち着かなかった。夕食の時も、愛花の話に上の空で相槌を打つばかり。愛花は心配そうに健太の顔を覗き込んでいたが、健太は何も言えなかった。頭の中は、雫と手を繋いだ時の温もり、見つめ合った時のドキドキでいっぱいだった。エミリーのことは、夕食の間はほとんど思い出さなかった。ただ、時折、彼女の姿がふと頭をよぎるだけだった。
自室に戻ってからも、健太は窓の外を見つめていた。夕焼けはすっかり終わり、夜の帳が降りてきていた。遠くの空には、星が瞬いている。健太は、昨日のことを思い出していた。雫と二人で歩いた公園の道、手を繋いだ時の感触、見つめ合った時のドキドキ。それらの記憶が、鮮やかに蘇ってくる。健太は、その記憶を大切に抱きしめるように、目を閉じた。
健太は、ベッドに倒れ込んだ。目を閉じると、雫の笑顔が瞼の裏に浮かんでくる。手を繋いでいる時、ほんの少しだけ触れた雫の指先の感触が、まだ残っているような気がした。健太は、その感触を確かめるように、自分の手を握りしめた。
その時、ふと、今日の午後のことを思い出した。転校してきた、エミリーという少女のこと。金色の髪、エメラルドグリーンの瞳、そして、どこか寂しげな横顔。健太は、彼女の姿を思い出すと、胸の奥が少しだけざわついた。それは、恋の予感というよりは、もっと違う、未知のものへの好奇心のような感情だった。昨日の雫との出来事が、健太の心を温かく満たしている一方で、エミリーの存在は、健太の心に小さな波紋を広げ始めていた。
健太は、エミリーのことを考えている自分に、少し戸惑いを感じた。昨日はあんなに雫のことで頭がいっぱいだったのに、もう別の女の子のことを考えている。自分はなんてやつだろう、と少しだけ自己嫌悪に陥った。しかし、すぐに、それは仕方のないことだ、と自分を納得させた。エミリーは、確かに気になる存在だった。彼女が一体どんな女の子なのか、もっと知りたいという気持ちが、健太の中に芽生え始めていた。それは、雫への気持ちを否定するものではなく、全く別の感情だった。
健太は、エミリーのことを考えるのをやめようとした。今日は雫のことを考える日だ、と自分に言い聞かせた。しかし、一度意識してしまうと、なかなか頭から離れてくれない。エミリーの憂いを帯びた瞳、夕焼けを見つめる寂しげな横顔が、何度も健太の脳裏に浮かんでくる。それは、健太にとって、初めて感じる種類の感情だった。
健太は、眠りにつくまで、雫のことを中心に考えながらも、時折、エミリーのことも思い出していた。そして、明日、もし機会があれば、エミリーに話しかけてみよう、と心の中でそっと決めた。それは、雫への裏切りなどではなく、純粋な好奇心からくるものだった。健太は、エミリーのことをもっと知りたい、ただそれだけを願っていた。雫への気持ちは変わらず大切にしながらも、エミリーという新しい存在に、心を惹かれ始めている。そんな複雑な感情を抱えながら、健太は眠りについた。