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繰り返す世界と最後の48時間  作者: アスカ・ヴィヴィディア
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1話:繰り返される日常、そして……終末の予兆

1話:繰り返される日常、そして……終末の予兆


朝の光が、レースのカーテンの隙間から、まるで無数の金の針のように部屋に差し込んでいた。健太は重たい瞼をゆっくりと開けた。まだ意識は深い眠りの底を漂っており、身体は鉛のように重い。寝返りを打とうとしたが、身体が言うことを聞かない。


「ん……」


小さく唸り声を上げ、健太は再び目を閉じた。もう少しだけ、この温かい布団の中で眠っていたい。そう思った瞬間、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。焼きたてのパンケーキの、甘く香ばしい匂い。それと同時に、聞き慣れた、甘えた声が耳に届いた。


「お兄ちゃん、朝だよー。いつまで寝てるの?太陽がお尻を焼いちゃうよ!」


見ると、妹の愛花が部屋のドアを開け、顔を覗かせていた。パジャマ姿の愛花は、寝癖で少し跳ねた栗色の髪が可愛らしい。大きな瞳はキラキラと輝き、健太を見つめている。手に持っているお盆からは、湯気を立てるパンケーキの甘い香りが、さらに強く漂ってくる。


「ん……あと5分……お願い……」


健太はそう呟いて、再び目を閉じようとした。しかし、愛花はそれを許さなかった。彼女は軽く膨れっ面になり、頬を膨らませた。


「だめー!今日は大事な日なんでしょ?大事な、大事な、バスケの練習試合の日!早く起きないと、せっかく応援に行く私の立場がないじゃない!」


そう言いながら、愛花は健太の腕を引っ張った。その小さな手は、見た目によらず意外と力強い。健太は抵抗するのを諦め、渋々起き上がり、ベッドから降りた。


「はいはい、わかったよ……愛花ちゃんには敵わないな……」


健太は苦笑しながら言った。愛花は満足そうに微笑み、お盆を部屋の小さなテーブルに置いた。


「朝ご飯、用意しておいたよ。早く顔洗って、着替えてきな。冷めちゃうから」


「ああ、ありがとう。助かるよ」


健太は洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗った。冷水が顔にかかり、ようやく眠気が少し覚めた。鏡に映る自分の顔は、寝不足で少し隈ができている。


リビングに戻ると、朝食の準備は万端だった。お盆に載っていたパンケーキの他に、彩り豊かなサラダや、プレーンヨーグルト、冷えたオレンジジュースなどが並んでいる。テーブルの上には、愛花が健太のために書いたと思われる、応援メッセージ付きの小さな手作りの旗が置いてあった。


「いただきます」


健太は手を合わせ、朝食を食べ始めた。愛花と他愛もない会話を交わしながら、穏やかな時間が過ぎていく。妹とのこういう、何気ない日常の時間が、健太にとっては何よりも大切だった。この時間が、永遠に続けばいいのに、と健太は心の中で思った。


食事が終わると、健太は制服に着替えた。鏡の前で身なりを整え、最後に愛花が作ってくれた旗を鞄にしまった。玄関で愛花に見送られ、少し照れくさく手を振った。


「いってらっしゃい、お兄ちゃん!頑張ってね!」


「ああ、行ってきます」


健太は家を出た。朝の澄んだ空気が心地よい。通学路を歩き始めると、前方から見慣れた後ろ姿が目に入った。長い黒髪を風になびかせながら歩くその姿は、健太のクラスメイト、水瀬 雫だった。物静かで大人びた雰囲気を持つ彼女は、クラスでも一際目立つ存在だった。健太は少しドキドキしながら、雫に追いつこうと歩幅を大きくした。


「おはよう、水瀬さん」


雫の隣に並び、声をかけると、彼女は少し驚いたように振り返った。その顔には、朝露に濡れた花のような、清らかな美しさがあった。


「おはよう、健太くん」


控えめな微笑みを浮かべる雫に、健太は少し見惚れてしまった。心臓が少し早くなっているのを感じる。


「今日もいい天気だね」


健太はぎこちなく話しかけた。普段はもっと自然に話せるはずなのに、雫を前にすると、どうしても緊張してしまう。


「そうね。青空が広がって、気持ちがいいわ。でも……」


雫は空を見上げ、少し憂いを帯びた表情で言った。


「でも?」


健太は聞き返した。


「なんだか少し、空気が重い気がするの。気のせいかもしれないけど……」


雫はそう言って、視線を落とした。その表情は、どこか不安げだった。


「重い?そうかな?」


健太は空を見上げたが、特に変わったところは見当たらなかった。青く澄み渡り、太陽が眩しい、いつもの空だった。空気も、いつもと同じように澄んでいて、重いとは感じなかった。


「うーん……やっぱり、気のせいかもしれないわ。ごめんなさい、変なこと言って」


雫は少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「いや、全然。気にしないで」


健太はそう言ったが、雫の言葉は、彼の心に小さな棘のように引っかかっていた。


二人は並んで学校へ向かった。他愛もない会話を交わしながらも、健太は時折、雫の言葉を思い出していた。空気が重い、という彼女の言葉。それは、健太の心にも、微かな不安の影を落としていた。


学校に着くと、教室はすでに賑やかだった。友人たちと挨拶を交わし、授業までの時間を過ごす。授業中は、眠気と戦いながらも、なんとか集中しようと努めた。しかし、時折、窓の外の空を見上げてしまう。雫の言葉が気になって、どうしても集中できない。


昼休みは、いつものメンバーで屋上で昼食をとった。空は青く澄み渡り、遠くの山々まで見渡せる。穏やかな時間が流れていく。しかし、健太はどこか上の空だった。友人たちの話に相槌を打ちながらも、心ここにあらず、といった様子だった。


午後の授業が終わると、健太は部活に向かった。所属しているのはバスケットボール部だ。練習は厳しかったが、仲間たちと汗を流すのは楽しかった。しかし、今日はなぜか、いつも以上に体が重く感じた。集中力も散漫で、ミスを連発してしまった。


部活が終わると、健太はいつものように、友人たちと駅前のファミレスに寄った。近況を報告し合ったり、くだらない話で盛り上がったり。楽しい時間はあっという間に過ぎた。しかし、健太はどこか上の空だった。頭の片隅で、雫の言葉が、そして今日の体の重さが、気になっていた。


ファミレスを出たのは、すっかり日が暮れた後だった。健太は一人、家路を急いだ。帰り道はいつも通る道で、特に変わったところはない。街灯が道を照らし、夜風が心地よい。しかし、今日はなぜか、いつもと違う感覚があった。うまく言葉にできないが、何かがおかしい。空気が少し重いような、周囲の音が少し遠く聞こえるような、そんな違和感。そして、昼間に雫が言った「空気が重い」という言葉が、何度も何度も頭の中を駆け巡った。


(なんだろう……本当に、何かがおかしい……)


健太は首を傾げた。周囲を見回したが、特に変わったところは見当たらなかった。街灯に照らされた住宅街は、いつもと変わらない、見慣れた風景だった。しかし、健太の心臓は、なぜか早鐘のように打ち続けていた。


いつもの交差点に差し掛かった時だった。信号は青。健太は横断歩道を渡り始めた。今日は、いつも以上に注意深く、左右をよく確認した。しかし、特に異常はなかった。


横断歩道の真ん中あたりまで来た時だった。けたたましいクラクションの音が、背後から聞こえた。反射的に振り返ると、一台の大型トラックが、猛スピードでこちらに向かってくるのが見えた。ヘッドライトが眩しく、運転手の顔は見えない。ただ、巨大な鉄の塊が、容赦なく自分に向かってくるのが分かった。


(危ない……!)


健太は咄嗟に足を止めようとしたが、体が硬直して動かない。恐怖で全身が凍り付いたようになっていた。足が地面に縫い付けられたように、一歩も踏み出せなかった。まるで、時間が止まってしまったかのように、健太の意識だけが、迫りくる死の恐怖を鮮明に捉えていた。トラックの巨大な車体が、まるで巨大な壁のように、健太の視界を覆い尽くしていく。ヘッドライトの強烈な光が、健太の瞳を焼き付くように照らし、何も見えなくさせる。けたたましいクラクションの音が、健太の鼓膜を突き破るように鳴り響き、逃げ場のない恐怖を煽る。


(ああ……終わる……ここで……)


健太はそう思った。走馬灯のように、様々な記憶が頭の中を駆け巡る。朝、愛花と食べたパンケーキの甘い香り。雫と交わした、短い会話。友人たちと過ごした、楽しい時間。それらは全て、今、この瞬間に終わりを告げようとしていた。


トラックは容赦なく健太に迫る。風圧が健太の髪を逆立て、服を激しく揺らす。死の影が、すぐそこまで迫っていた。


その時、健太は目を閉じた。もはや、何も見たくなかった。ただ、来るべき衝撃に備え、全身を硬く強張らせた。


次の瞬間、激しい衝撃が健太を襲った。まるで巨大なハンマーで叩き潰されたかのような、容赦のない衝撃。身体全体が空中に放り出され、重力に従って地面に叩きつけられる。骨が砕ける音、肉が引き裂かれる感触、内臓が押し潰されるような苦痛。それらが、一気に健太を襲った。


衝撃の直後、健太の身体はアスファルトの上を数メートルも滑っていった。道路に叩きつけられた身体は、あちこちで激痛を発し、意識が朦朧としていく。口の中には鉄の味が広がり、視界は血で赤く染まっていく。


(痛い……痛い……痛い……)


健太は心の中で何度も叫んだ。しかし、声に出すことすらできない。喉は乾ききり、息をするのも苦しい。身体の自由は完全に奪われ、ただ、激痛に耐えることしかできない。


意識が薄れていく中で、健太は空を見上げた。夕焼け空は、血のように赤く染まっていた。その空に、不気味なほど鮮明な三日月が浮かんでいる。その光は、まるで嘲笑うかのように、健太の目に突き刺さる。


(ああ……綺麗だ……)


意識が途絶える寸前、健太はそう思った。しかし、その美しさを感じる余裕は、もうなかった。


暗闇が、健太の意識を完全に飲み込んだ。何も聞こえない、何も感じない、完全な無。永遠とも思える静寂が、健太を包み込んだ。


しかし、その暗闇の中で、微かに、何かが囁く声が聞こえた気がした。それは、遠くから聞こえてくる、風の音のような、かすかな声だった。


「……繰り返す……繰り返す……繰り返す……」


その声が何を意味するのか、健太には分からなかった。しかし、その声は、健太の運命を大きく変える、終末の予兆だった。そして、それは、終わりのない悪夢の始まりでもあった。


健太の意識は、完全に途絶えた。赤い夕焼け空の下、アスファルトの上に横たわる健太の身体だけが、静かに、夜の闇に包まれていった。

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