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親友は「うんちくを傾ける」小説の創作をめざせ、と言うが・・・

作者: 畦道一歩

専門家だけが持つ知識を小説にして誰にでも理解されるように伝えたい。基礎的な知識がなくても読まれる「うんちくを傾ける」小説の執筆をめざせ、と言う親友に、私は・・・。

「よう、久しぶり。元気だった?」

 私は8年ぶりに顔を合わせた杉本(すぎもと)の顔をまじまじと見て声をかけた。

 杉本は大学のゼミナールで知り合った親友の1人である。まじまじと見たのは彼の(おつむ)燻製卵(くんせいたまご)のようにつるつるで茶色、顔は色艶(いろつや)もなくどす黒く、すっかり老け込んでいたからである。

「ああ、何とか生きている、元気だよ。歳をとると、身体のあちこちにガタがきて修繕するために医者へ通っているがな。入院も体験したし、薬も飲んでいる。その上、何かと周りからは煙たがられる。俺なんてもう用なしだ。粗大ゴミだな」

 杉本は寂しげに、自嘲をおびた笑みを浮かべ返してきた。

 私は、病状や病名などは訊かないことにした。というのも再会する1年半ほど前に彼から内臓を悪くし入退院を繰り返し、腰や背中も痛めて通院していることをメールで知らされていたし、訊けばお互いに滅入りそうだったから。この再会の喜ばしい時間を暗い話題で満たしたくはなかったから。

「大丈夫だ~。人間、生きてるだけで誰かのためになっている。生きてるだけで丸儲け」

 私は慰めるつもりであえて笑みを作り語気強く言った。

「俺にもいいところはあるって?」

 杉本は私の言葉の真意を確かめるような目で訊き返してきた。

「もちろん、あるさ。心配するな。いいところだけを見ればいいんだ」

 もう一度、元気よく励ましてから改めて訊いた。

「何でもいいと思うけど、脳ミソを使ってるか」

 私の視線は燻製卵を捉えていた。

 それに気づいた杉本は、「おい。俺の頭を見て訊くな。俺はお前と違ってダラダラ生きるタイプだから」と、ようやく頬を緩め、私の頭を見て「お前は若い学生を相手にしてるから、気持も若いままだろ。まだ、フサフサだな」と続けた。

 それにかまわず、私は「ダラダラ生きて、国立大学の事務職員を勤め上げたんだな。お前の生き方は学生時代とちっとも変わらんな。いいんじゃないか」と返した。

「そっちはどうなの?」

 そう訊いてくる杉本の目はお前も何かで病んでいるのか─『同病相憐れむ』─と探っているようだった。

「俺は、今のところはいたって健康だ。でも人間ドックに入ると再検査項目が増えて、そのたびに血液検査だ、CTだ、MRIだ、と脅され医者には診てもらっている。うんざりするよ」

 この場の空気を一掃したくて明るく返してみた。

 杉本には期待外れの答えだったのだろう話題を変えてきた。

「ときどき小説や漫才・落語の小冊子を送ってきてくれるけど」

 小冊子とは私が大学の定期刊行誌に公表している創作のことである。

「ああ、あれな。若い頃にやってみたかったことを今、やってるよ。色んな本を読むとまだまだ知らないことが一杯あって、この歳になっても浅学を悔いている」

「そっかあ。お前は学者だから、勉強ばかりしてもう学ぶことなどないと思うが……根っからの勉強好きなんだな」

「好きか?と訊かれると、勉強は好きだ」

 私はニッコと笑みを作り答えた。

「だろうな」

 杉本は表情を変えずに、納得した声を返してきた。

「俺にとって学問は金を生まないが、人生をほんの少しだけ生きやすくしてくれる」

 私は持論のようなことを口にしていた。

「なるほどォ」と返して、杉本は続けた。「もらった小冊子は斜め読みしかしてないけど、小説、SF、ショートショート、エッセイ、評論、漫才・落語、川柳・俳句・短歌、漫画あらゆるジャンルを読んでいるように思える」

「一応はな。みんな繋がっているから」一拍おいて「絵本や童話も読んでいる」。

「あァ。そうかァ」意外な読書ジャンルに驚いたようだ。続けて「じゃあ、もう専門の経済学は止めたのか」

「いや、論文も書いてはいる。本業だから。経済学にしろ、法学にしろ、その専門の外には驚くほど大きな世界が広がっているんだ。今から2年後の退職後のことを考えて趣味を充実させたいだけさ」

 私のどの言葉に反応したのか解からないが、杉本は一呼吸おいて口を開いた。

「……そうかァ。俺は3年前に嘱託期限が切れて退職した。今じゃ、まったくと言っていいほど文章は書かない。読むのも新聞や週刊誌くらいで、文学にもこれといった興味はないけど、何か新しい発見とか、俺が聞いて面白いことってある?」

 杉本は私の顔を覗き込むようにして訊いてきた。

 私は、ごく最近の読書体験を話した。

「あるよ。頑張ってどう読もうが読み込めないし、ジャンル分けに困る小説というかSFと格闘したばかりだ」

「何だ、それ?」

「ハヤカワ文庫に『異常論文』というタイトルのSFのアンソロジーがあってぇ、ただしSFかどうかも解からん。編者も執筆者もSFの作家たちなんだが……」

 私は説明に窮し言葉を濁した。

「じゃあ、SFじゃないのか」

「でもな、タイトルにあるように論文でもあるんだ」

 すぐには飲み込めるはずもなく、外堀を埋めようと杉本は訊いてきた。

「いじょう、ってどんな字だ」

 私は顔の前で、右手の人差し指をかざし、字をなぞった。

(こと)なる(つね)のほうの異常だ」

「正常の反対語だな」

「そう。正常じゃない論文」

「学者じゃなくて、SF作家が書いたから異常論文と名付けたのか」

 その顔には疑問符が付いていた。

「いや。解からん。でも、編者の樋口恭介の説明から類推すると、現実とフィクションをごちゃ混ぜにした物語のようだ」

「それじゃあ、解からん。それに読み手が類推しなきゃいけないような編者の説明も変だな」

 杉本は少し声を荒げた。

「それほど理解し難いってことだ」

 私は、杉本がこの話題に食いついてくるとは予想だにしなかった。

「理解し難いって、読ませるように書かれてないのか。書き手が自己満足してどうする?」

「そうだよな。金を出して買ってもらうわけだから。でもな、読むにあたって基礎的な知識がないと、どうあがいても俺には読み込めない」

 私は本心を口にしていた。

「その説明もよう解からんが、でも誰が書こうが論文と、SFや一般の小説とは違うだろ。そんなことは俺でも解かるぞ」

 杉本は意味ありげにニタニタと笑った。

「要するに、SFのように書かれた論文、論文のように書かれたSF、ってとこかな」

 私は、うまく説明したつもりだった。

「余計に、解からん」

 杉本は顔をしかめ、疑問符の数を増やした。

「実は俺もよく解からんのだ」私は恥じるように笑みをこぼしてから「SFはどこまでいってもフィクションだよな。論文は新しい発見や真実を報告するよう誰でも解かるように文書にすることだよな」と、それなりの説明を続けた。

 真剣な顔をして聞いていた杉本は自分なりに理解したいのであろう、明確に論文とSFの違いをまとめた。

「論文に書かれた新しい発見や真実をSFのアイディアとするなら解かる。論文ふうのSFを書くのも解かる。が、SFのように書かれた論文というのは解からん。SFはフィクションで論文は真実を核とするから。論文にウソやフィクションがあってはならない。お前も学者として学術論文を書いて厳しい評価を受けてきただろうから、解かるだろ?」

 私は聞きながら─ごもっとも─納得したことを伝えるべく首を上げ下げした。

 杉本はさらに続けた。

「論文は現実の中から見つけた真実を書くものだから、SFじゃなくてミステリーと相性が合うんじゃないの?」

 この正鵠を得た説明を聞かされた私は「真実を見つける、謎を解くという意味では、そのとおりだな」と大きくうなずいた。

 彼なりに理解することができたのか、杉本は「あれかァ、仮想の論文をでっち上げたという感じかな」と自分なりの結論めいたことを口にした。

「そうだな~。そんなとこかな」私は煮え切らない返事をし「俺なんかSFを書いても頭の中に現実が残っていて、とんでもない仮想の世界へ入っていけないのよ」と想像力のなさを口にした。

 そんなお前の事情なんか知りません、という顔で杉本はさらに訊いてきた。

「で、どんな作品が出てるの?」

「たとえば、円城塔の作品なんて数学と哲学の合わさった論文としてしか読めない。タイトルは『決定論的自由意思利用改変攻撃について』。これからSFをイメージできる?」

「できない。哲学だな。でも、数学ならお前も専門で使ってるだろ?」

「俺が使う微分や積分の世界じゃないって。完璧に数学屋の世界さ」

「へ~」ため息を吐く杉本の顔には─数学の不得手な自分には数学自体がSFだ─ギブアップの文字が浮かんでいた。

「SFとして読めたのは『掃除と掃除用具の人類史』という松崎有里の作品だけだな」

「他は?」

「『樋口一葉の多声的エクリチュール ─その方法と起源』。これはタイトルからして人文科学系の論文だ。その他の作品の中には査読コメントに対するリプライまで付いたものもある」

「それじゃあ、どこをどう見ても学術論文だな」

 杉本は口元に笑みを浮かべていた。

「だろ」

 杉本は感想を続けた。

「SFに限らず、〝こういうものだ〟と固定化する思考からいかに逃走するか、迎合しないかが文学に生命を吹き込んでいるように思うが……文学をやってるヤツってそうだろ? あれかァ、SFの世界でもありきたりのタイトルや内容じゃあ、読者が満足しないんじゃないのか。ネット社会になってから世の中、やけに過激や異常を欲しがっている側面もあるし」

 私はたっぷり3秒ほど杉本の顔を見てから答えた。

「そういう感想も正しくて否定はしないが、あれを読んで理解できる読者が何人いるのかなあ。このジャンルは円城塔の十八番(おはこ)らしいけど、あの内容を理解するのは大変だぞ。読んで楽しめる読者はいるのか、という疑問すら感じる。その紹介文を書いている人物の理解だって怪しい。でもな、俺が買った文庫は3刷りになっていた。売れてんだ~」

 (まばた)き一つせずに聞いていた杉本は建設的な感想を口にした。

「こう理解すればいいのか。SFを論文のように書いているわけだから……論文は新しい発見や真実を書くことだから、その発見や真実は新たな知識になるわけだ」

 私は首をコクンと下げ「そうだな」と同意の合いの手を入れた。

「だから、論文イコール知識を拡大解釈して教養をSFにしたものと……」

 この説明を素直に受け入れて聞いている私の視線は杉本の頭に吸い付いていた。

 それに気づいた彼は「おい。さっきからどこ見てんだよ。俺が真剣にしゃべっているのに。頭を見るな。まだ孫もいないのに、5歳若い女房からはお祖父ちゃんって呼ばれてんだからァ」

 理想郷の世界から現実に引き戻してしまった。

「おォ、ごめん、ごめん。本を読まないお前にしては、その頭でいい想像をしているな、上手い説明だな、と思ってさ」私は本心を口にした。

「おい、それは褒めてるの? ちゃかしてるの?」杉本は口元を緩めていた。

「もちろん。褒め言葉だよ。心配するな」急いで付け加えた。

 5秒ほど黙った後、杉本は最後の確認をするよう訊いてきた。

「改めて、訊くけどお前はその『異常論文』という文庫本をどう評価してるのよ?」

 私も数秒、間を取ってから答えた。

「書き手はいいかげんな気持で書いていないし、解かって書いているので、それを理解できないというのは自分に知識や想像力が足りないからだ、と反省している。だって、読める読者もたくさんいるんだぜ。3刷りだからなあ」

「読み手に問題があると?」

「そう。もっと知識を身に付けて想像力も磨かなきゃ」ここで止めておけばいいものを私はつい続けてしまった。「難しいから読まないという人間は、大体において自分の現状を変えたくない人間なんだと思う。俺は難しいからこそ挑むというタイプだから」

「そうだよな~。お前は、ゼミでみんなが嫌がる難しい数式を解くレポーターを進んで引き受けていたよな。変わらんなあ、その性格。……お前は根っからの勉強好きなんだな」

 杉本は納得したような声音でそう言うと、パァッと顔を輝かせた。

 私もつられて笑みを返していた。

 そして杉本は何かが吹っ切れたように続けた。

「『異常論文』の異常さ解釈はおいておいて、じゃあ、お前の今の興味関心はSFにあるんだな」

「いや、違う。さっきお前の口から出てきた知識や教養を小説にする『教養小説』に興味がある」私は即答していた。

 最後の言葉を聞くと、杉本は何か思案げに顔を傾げ、数秒黙ってから口を開いた。

「『教養小説』と言えば、思い出しだぞ」

「何を?」

「学部の教養課程の西洋文学なんたらという科目で聴いたことがある。その言葉の発祥は確かァ、ドイツだよな?」

 この記憶力には私も驚いた。

「よく覚えていたな。半世紀も前の講義だぞ。でもな、その教養小説とは違う」

「どう違うの?」

「ドイツで言う教養小説とは自分の成長史だな。自己形成小説とか発展小説とか教育小説とか呼ばれている。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』がよく引き合いに出される」

「そうそう、それよ。受験勉強の合間にそのゲーテを斜め読みしたことがあって、大学への入学直後の講義で聴いたから印象深くて覚えていたのさ」

 杉本の声は弾んでいた。

「お前にも良書を選ぶ目はあったんだ」私はちゃかしつつもニッコと笑みを浮かべ「でも、俺が考えているものとは違う。俺が言う教養小説とは、あくまでも知識や教養を小説化したものさ」

「おい、それじゃ、小説じゃないだろ。さっきの話しで、SFと同じでぇ、小説はフィクションを書くものだぞ」

 強く返された最後の言葉にも怯むことなく、私は静かに説得するよう答えた。

「俺が言いたのは、知識を専門家の中だけに留めておかないで、小説にして誰にでも解かるように伝えたいってことさ」

「それは要するに知識を易しい言葉で書いて普及させたいってことか」

 杉本は語気強く怖い目をしていた。

「そう、そのとおり」

「それなら学生時代にもあったろ。それ、著名な数理経済学者が書いた『漫画で入門経済学』。確かミクロ経済理論を漫画で解説したものだった。大学生にもなって漫画を読むなんて、という風潮のあった時代だったから、あれは画期的だった」一瞬、遠くを見る目をした。

「それだ。その類だ」と答えてから「よく覚えているな~」と、また感心した。

 かまわず、杉本は不思議そうな顔をして訊いてきた。

「でもよう、今思いついたんだが、知識と教養って、意味が違うよな?」

「……違う」

 痛い所を突かれた私はちょっと間をとってから答えた。

「簡単に言うと、知識は色んな物事を知っていること。あるいはその内容のこと。教養は、〝あの人は教養がある〟って言い方をするだろ。あれってイメージは知識が豊富で人格が優れている人って感じだよな」

 杉本は「うん」と首を下げた。

「教養はその知識を獲得する過程であったり、獲得することによって創る方の創造的な行動ができたり、心豊かな人間性を身に付けること、とも言える」

 私が加えた説明は辞書的であったのか、杉本は反応しなかった。

「だから、そんな専門的な知識を使って小説を書きたいのさ」

 よく飲み込めないのであろう杉本は確認してきた。

「俺がしゃべったようにアバウトに教養イコール知識でいいんだよな」

 また、怒ったように語気は強かった。

「いい。教養の前提に知識があるから」

 私は─あえて反論せず─首を上げ下げして応えた。

 すると杉本は発展的な問いを発した。

「どこからそんな発想を得たの? 理由は?」

「理由は2つある。一つは大学で経済理論を教えていても、その専門知識を一般の人たちは知らないし、知ろうともしない。現実の経済を理解するのに経済理論は役に立つんだが、どうも学生を含めて十分には理解されていない。これを易しく普及させたいってこと」

「それは経済理論をテーマとする小説を書けば事が足りるだろ?」

 問い詰めるような口調だった。

「そう。いくつかは書いて公表もしている。読みたければ、小冊子を送るよ」

「たとえ小説であっても俺はいらない。経済理論は学生時代に単位を取得するのに苦労したから」

 とっさに私は微笑を浮かべて訊いた。

「『漫画で入門経済学』に頼ったのかな?」

 杉本はただニヤニヤと笑って応えた。

「もう一つは、コロナウイルスによるパンデミックの体験だな。専門家たちがマスク・手洗い・三密の回避を声高に訴えても、国民が感染の脅威を理解して協力してくれないことには、いくら専門用語を駆使して説明しても収束させることができなかっただろ」

「いわゆる専門バカじゃダメってことだな」

「そう。だから専門家たちも自分が持っている知識を素人にも解かる易しい言葉で説明する能力が問われたのさ。社会を変えたきゃ、まず専門家が変わらなきゃ」

「確かにそうだわな。mRNAワクチン、スパイク・タンパク質、ブレイクスルー感染、アナフィラキシー、感染速度とその予防効果との相関性なんて言われても素人にはチンプンカンプンだった。業界用語そのものだもの」

「そう思うだろ。この理由が大きいかな」

「じゃ、訊くが、お前自身はどんな知識、あるいは教養を小説にしたいのよ」

「訊きたいか?」

 私は杉本の目を見たまま、わずかに間をあけて確認した。が逆に、しっかりと凝視された。

「たとえば世の中には嫌われ物だけど、他の何かのためによく働いてくれる、役に立つ生き物がいるよな」

「おォ、人間じゃなく、生き物。……マムシのことか。アルコールに浸けられて強壮剤として人間に飲まれているよな。人間の活力源になっている」

「マムシも正解としよう。その他にもいる。人間からは見た目も悪く、気色悪がられ、おじゃま虫扱いされている昆虫や微生物が」

 経済学からははるかに遠い言葉に、「経済学だけじゃなくて、昆虫や微生物にも詳しいのか。ほ~」いかにも感心したという声がもれた。

「だから、さっきも言っただろ。専門の外には大きな世界が広がっているって」

 私は、カリマンタン(旧ボルネオ)島には木と木の間を滑空するワラストビガエルというカエルがいて、脚にある大きな水かきを羽根のように広げて飛ぶことをやや詳細に説明した。

 杉本は呆れたという顔で「お前、何を読んでそんなこと知ってるんだ?」と不思議そうな目をした。

「ナショナルジオグラフィクだよ」

「横文字の雑誌かい?」怒ったような声だった。

「いや、日本語版だ」優しく答え、話を戻した。「役に立つ生き物? その顔じゃ、知らないようだな」

「ああ、知らない」が、挑戦するような目で訊き返してきた。「まさか蟻ンコじゃないよな?」

「蟻ンコは子供に愛されていることもあるぞ」

「うん。確かに。解からん。普段、考えもしないから」

 杉本はあっさりと白旗を揚げた。

「じゃあ、教えてやろう。昆虫の世界から説明するぞ。カマドウマ、スズメバチ、ゴキちゃんことゴキブリには近くに来てほしくないよな」

「うん。絶対に遭遇したくないね」

 杉本は最後の「ね」を強調した。

「でも、こいつらに頼って生きている植物がいる。たとえばヤッコソウ(奴草)は自分では光合成をせず、シイの根などに寄生する植物で繁殖に不可欠な授粉はこれらの昆虫にしてもらっている。この3種は他のハエやアリよりも体にたくさん花粉を付けて、授粉の貢献度が高いんだ。勤務時間も2交替制で、朝から夕方勤務はスズメバチ、夕方から夜間勤務はカマドウマとゴキブリが担当する場合が多い」

「ほ~ほ~」

 感心の度合いは高まった。

「このうちゴキブリの中には他でも大活躍しているものがいる」

「あの油ギトギトが?」

「そう。その名前はモリチャバネゴキブリ。このゴキちゃんはギンリョウソウ(ツツジ科で別名はユウレイダケ)の種子を食べて、その糞とともに排出し、この植物の繁茂に貢献している。ギンリョウソウも自らは光合成をせずに特定の菌類から栄養をもらって生きている。自力では子孫を残せない。何とこの植物の種子を食べるのはモリチャバネゴキブリだけなのであ~る」

 私はスイッチが入ったように饒舌(じょうぜつ)になり、学生に向かって講義をしている口調になっていた。

「ほ~ほ~ほ~。ゴキちゃん〝命〟だな。」

 杉本はこの話が気に入ったようで、感心度のメモリを上げた。

 私はさらに続けた。

「お次は微生物の話。外国に長く滞在したときや観光旅行をしたとき、加熱しない水や野菜を食べて腹を下した経験はないか」

「ない。絶対にない」

 全力で否定する力強い言葉が返ってきた。

頑丈(がんじょう)な胃袋なんだな」

「いいや。外国へ行ったことがないから」

 杉本はヘラヘラと笑みを浮かべどこか楽しそうに言った。

「そっかァ。このグローバル時代に超レアな人間だな。まあいい。この下痢の症状は血液型によって大きく異なるんだ」

「無用心な人間を探す血液型診断か」

「なるほどォ。上手い言い方をするじゃないか」

「で、どう診断するのよ? ちなみに俺はA型だけど」

「じゃ、おおいに聞く価値はある。よく聞けよ」私は口元に微笑を浮かべて続けた。「旅先で下痢をした人から採取した大腸菌をたっぷりと含んだ水を健康な大人に飲んでもらった」

「えーッ! 糞から出たバイ菌を、の、の、飲んだ!」

 素っ頓狂(とんきょう)な声を上げた。

「そう大げさにびっくりするな。その結果、A型とAB型の人間の8割には、5日以内に治療が必要な下痢の症状が出た」

「そりゃ、出るわ。出ますわ。例えりゃ、半年前に消費期限の切れた牛乳を(ひや)で飲んだも同じ」

「またまた上手い表現だな。で、この割合はB型、O型の人間の約1・44倍もあった」

「その違いは何?」

 まさに我が事のように身を乗り出す勢いであった。

「A型とAB型の人間の腸では病原性大腸菌が分泌するたんぱく質と結びつきやすく重症化する特徴が見られたんだ」

「そっかァ。外国へ行ったら、俺は必要以上に用心して水を沸かしてから飲め、野菜は湯がいてから食べろ、と。なるほどォ。で、その後、被験者はどう治療されたの?」

「抗生物質を服用してもらった」

「ほ~ほ~ほ~ほ~」

 感心度はマックスの手前に達していた。

「感心するのはまだ早い。微生物は浮気を見破る手段としても使えるぞ」

 私は教えることが愉快になっていた。

「う・わ・き? うわきって、あの浮気か?」

「そう、他に何がある? えッ? 隠れてやってんじゃないだろうな?」

 笑みを浮かべ、あえて好奇な目を作ってみた。

「やってない。こっちがやりたくても、この頭なら女性は寄ってこない。へッ。白状させるな」

 頭に右手を乗せて、目には微笑を浮かべて返してきた。

「はっはっはっ。いいかァ、人間の皮膚には、乳酸菌や大腸菌、ブドウ球菌の仲間など、多くの微生物が棲みついている。これをどの程度、共有し合っているかを調べれば、当人たちが浮気相手なのかどうかを知ることができるってわけさ」

 マジックの種明かしをした気分だった。

「探偵所に調査依頼をしなくてもいいわけだな」

「そう。たとえば、背中、手、まぶた、わきの下、へそなどを綿棒でこすり、付着した微生物を調べてみると、個人や体の部位によって少しずつ違った特徴が見られたんだ」

「部位による違い?」

「微生物の組み合わせの特徴が最も似かよっているのは足、まぶたや背中だった。同棲中にある男女を約86%の確率で見破ったぞ」

 私は勝ち誇ったような声音で言った。

「ほ~ほ~ほ~ほ~ほ~。足、まぶた、背中を四六時中、くっつけ合っているんだ」

 感心度はマックスに達したかな?

「かもな。これでもまだ話は終わらない」

 私は満面の笑みを浮かべて言った。杉本の七変化(しちへんげ)する表情を見るのが楽しくなっていた。

「えッ? まだ、いるのか虫?」

 杉本は目を見開いていた。

 私の話しにすっかり魅了されているようだ。

「他にもまだ役に立つ虫はいるぞ。それも人間にとってだ。これがピカチュー、いやピカイチだ」

 含みを持たせて─どうだ、もっと知りたいだろ─言った。

「貢献度100%?」

「それ以上とも言える」

「その虫の名前は?」

「気色悪いと忌み嫌われるウジ虫だよ」

 私はわざと顔をしかめて答えた。

「えッ? 動物の腐った肉に湧いてくるあの虫か」

 杉本は眼ン球がこぼれ落ちそうなくらい目を見開いていた。

「そう」

「聞いただけでも身の毛がよだつ」

 わざと体を震わせた。

「でも、聞きなよ。将来、お世話になるかもしれんし。日本にはウジ虫治療法マゴットセラピーに必要なウジ虫を生産している会社もあるんだ」

「ウジ虫治療法? ウジ虫の生産? 何じゃそれ?」

 まったく解からんという顔をしていた。

「早い話がウジ虫に壊死(えし)した組織を食べさせるんだ」

「壊死した組織?と言えば、腐った組織ってことだよな?」

「そう。分かりやすいのは糖尿病がきっかけで足の裏や指の組織が壊死(糖尿病性足潰瘍)する患者さんがいる。この治療法がないときは患部を切断していた」

「何とも痛ましい」

 切断の現場を想像したのか顔を少し歪めた。

「治療に使うのは、ヒロズキンバエの幼虫だ。患部のまわりを囲い、幼虫を入れて蓋をする。グルメ育ちの幼虫は壊死した肉をムシャムシャと喰って育つ。虫が大きくなったら新しい幼虫と交換する。これを繰り返すと壊死部分のみがなくなり、患部を切断しなくてもいいってわけさ」私の口調は実になめらかだった。

「そんなことができるのかァ? 『驚き桃の木山椒の木』」杉本は確実に驚いていた。

「『山椒は小粒でもぴりりと辛い』。この治療法は、すでに30カ国以上で行なわれている」

「ところで、どうやってそのウジ虫を生産するの? エサは? 腐ったブタ肉か」

 やや焦り気味の質問が飛んできた。

「そう矢継ぎ早に攻めてくるな。エサはだな、色々と試した結果、全脂粉乳・小麦の胚芽・酵母粉末・寒天と水の混合物だな」

「なるほどォ。(いま)流行(はやり)のベジタリアン風のメニューだな」

「そう。もちろん無菌だぞ。この治療法は今に始まったことではない」

「と言うと?」

「数千年前にオーストラリアの先住民であるアボリジニ族や中米の古代マヤ族などが利用していたとも言われている」

「そんな大昔から、あったのかァ。これも『驚き桃の木……』」

「現代だと、1928年にボルチモアの難治性再発性骨髄炎で苦しむ小児患者に施された治療が最初と言われている。アメリカでは、2004年に医療用マゴットの生産と販売が許可された」

「日本へ紹介されたのは、いつ?」

「俺が読んだ文献によると科学者の寺田寅彦が、1935年に『蛆虫(うじむし)の効用』というエッセイで、この治療法に言及していた」

「『天才は知らないことを教えてくれる』」

「んんッ? その飼育法についても海外で前年に公表されたことを記している」

「そんなに古くから飼育されていたのかァ」

 杉本はただ感嘆の声を発するのみ。

「うん。寺田寅彦は、人間や自然が作った汚いものを浄化する『市井(しせい)清潔係(せいけつがかり)』と呼んでウジ虫の功労を讃えている」

「へ~。立派な人間は凡人とは違って評価をする視点が違うんだな」

「だな」

「でもよう。よくウジ虫に注目したよな」

 どこか呆れたと言いたげだった。

「それは戦場での負傷兵士の傷口にウジ虫が湧いていたことに端を発するようだ」

「ふ~ん。戦場で」

「そう、戦場。アメリカでの南北戦争中の野戦病院でのことだ。生存率でみると、手厚い治療を受けた負傷患者よりもウジ虫に喰われた患者の方が高かったことに医者が気づいたんだ」

「なるほどォ。自然界の生き物に感謝だな」

「そうよ、自然界よ。でもな、よく考えてみると、ペニシリンは青カビから発見されたし、血を吸うヒルからは抗凝固薬のヒルジンが創られ、解熱鎮痛薬のアスピリンは柳の木の樹皮から抽出した成分から創られた。すべて起源は自然界にあったものだ」

 私はこんな知識を持っているか、という顔をして言った。

「自然界には新薬のお宝が眠っているわけだ」

 杉本は相槌を打ってきた。

「そう。つまり、自然界に目を向ければ教えられること、知識はたくさんあるってこと」

 私の言葉尻は弾んでいた。

「じゃあ、ウジ虫治療はいいことづくめだな。ウジ虫で儲けようと会社が設立されるのも納得できる」

「そう思うだろ。が、しか~し、『そうは問屋が卸さない』。幾つか問題も残っている」

 私は答えてみろという顔をして言った。

「問題がある?」

「ある。おおありだ。本来、単純な治療法なのに、他の血管外科や整形外科とタイアップしなければいけないこと。保険適用外の自由診療なので、患者さんは高額の自己負担を強いられること」

「それじゃ、ウジ虫の生産会社は採算が取れんだろ?」

 私はわざと数秒おいてから答えた。

「で、会社は考えた」

「何を?」

「ハエは、幼虫のときは肉を食べて育つんだが、成虫になると花の蜜を吸って生きるんだ」

 と思わせぶりな言い方をすると、杉本は「ほ~ほ~ほ~ほ~ほ~ほ~」と唇をコの字にして感心の声を連射した。

「その顔、その声からすると、解かった?」

 私は微笑を作り訊ねた。

「イエス! きっとミツバチのようにイチゴやメロンの授粉をさせるんだな」

「ピン、ポーン。成虫はハチのように刺すこともないから扱いやすい。がしかし、まだクリアーできない問題がある」

 どうだァ、最後のクエスチョンだ、よく考えて答えを出してみろ、という視線を投げた。

「ふ~ん? 何?」

 考えることを完璧に放棄した問い方だった。

 しょうがない、という思いで答えを教えた。

「ハエの寿命は短いし、腹が減ったときだけしか働かない。飼育小屋から外へ逃げると、ミツバチとは違って2度と戻ってこない」

「帰巣本能はなし。その上、気分屋を手なずけるのも大変ってことだな」

 杉本は自分なりに言葉を言い換えて返してきた。

「そう」私は一拍おいて、「逃げられたとしても、ウジウジ考えても仕方ないけどな」とシャレたつもりでシラッと言ってみた。

 それには気づかず、杉本は、「役に立つところだけを見てやればいいだろ」と、その声は自分に言い聞かせているかのようだった。

 私はそれをこの話題の終着点と受け取り、結論を口にした。

「と、いうようなことを小説仕立てで書くことを、俺は『教養小説』と呼びたいのさ」

 突然、話題が元に戻り、杉本は一瞬「えッ?」と固まってしまったが、「で、その真意は?」まるで悪事を吐け、と問い詰めるような顔をした。

「知識を広めるにしても、活字にするかぎりは、誰も書かないジャンルと文体で書こうと思ってさ。要するに自分が書かなければ、この世に存在しない物語を書きたいのさ」

私は─どうだァ、参ったか─得意げな顔をしていたかもしれない。

「やはり根は学者だな。常にオリジナリティにこだわっている」と杉本は微かに笑い、「でもな、お前の話しを聞いた、これは俺のあくまでも個人的な感想だけれども、知識を伝えたいってことだから……」と言い淀み、私の顔をしっかりと見て続けた。「たくさん知識を身に付けている人間を博識な人と呼び、それを自慢したいわけじゃないのだろうが、べらべらしゃべることを『うんちくを傾ける』と言うよな」

 私は─何を言いたいのだ、と腕を組み─コクンと首を下げた。

「だから、俺には教養じゃなく知識でもなく『うんちくを傾ける小説』と呼ぶのが解かりやすい。どうだ」

 図星だろ、文句があれば言ってみろ、という目をしてニコッと笑った。

 一理ありかなと私が答えに窮していると、「知識を書いて広める小説があってもいいとは思うが、理屈っぽくならないよう、かつ小説の真髄である面白い物語性を構想するのは結構大変かもな?」と我が事のように深刻な顔をして付け加えた。

 即答できず、目を泳がせると、杉本はこの気まずい間を埋めようと「久しぶりに文学談義をした。学生時代のゼミ以来だな。面白かった~」と相好をくずした。

 私は脳ミソの大半を使い答えを探しつつも─『うんちくを傾ける小説』『物語性』への反撃ではなく─これ幸いと真剣な声で促した。

「だろ~。だからな、お前もできることから始めろよ。書いてみろよ」

「できること? 書くって?」

「川柳、俳句や短歌が手っ取り早いぞ」

 私は最後の「ぞ」に力を込め、思いっきり笑顔を作った。

「……」

 答えはなかった。

「文章を作るって、けっこう楽しいぞ。異次元の世界に浸っている自分にふと気づくと、ニヤツいていることもある。やってみろよ。下手でもいいんだから」

 私は心中を吐露するよう明るく、かつ強くそう誘ってみた。

「……」

 また、答えはなかった。

「歳を重ね、大病を患ったりすると、自分自身の生体エネルギーのようなものが減っていく。だから楽しく生きていくには代わりに若い頃には要らなかった一手間の工夫が必要なのさ」

 私は余計なことを聞かせたかもしれない、と内心、悔いる思いがした。

が、杉本は押し付けられるのが嫌なのであろう、顔を右に左に振ってから、話を戻した。

「で、虫についての教養小説を書くとして、そのタイトルは?」

クイズ番組の司会者が正しい答えを聞きたいというあの期待に溢れた目をしていた。

少し間をとり─答えを持っているわけではなかったので─「『虫の貢献』かな?」と取り繕うように答えると、彼は一拍おいて「いや、それなら『一寸の虫にも五分の貢献』にしておけ」と破顔一笑で提案してきた。

 ポカンとした顔を返すと、さらに注文が飛んできた。

「書くに当たって、一言だけ言わせてくれ」

「何?」

「俺みたいに知識を持たない、教養も乏しい素人でも読めるよう気をつかって書いてくれよ」

「ふうん。どうして?」と反発するでもなく、素直に受け入れるでもなく、でもちょっと心に引っかかってしまったという声を洩らした。

 すると、杉本は「異常な論文じゃあ、読めそうにないから」と、意味と意図を込めてニコニコと頬を緩めた。

 それに連動して、私の視線の先にある燻製卵がピカリと光った。(了)



参考文献。

岡田匡(2013)『糖尿病とウジ虫治療 マゴットセラピーとは何か』岩波科学ライブラリー。

寺田寅彦「蛆虫の効用」青空文庫より。

(株)日経ナショナルジオグラフィック(2024)『ナショナルジオグラフィック 日本版』、2月 

 号、p.75参照。

樋口恭介編(2021)『異常論文』ハヤカワ文庫。

『朝日新聞』(2020)「命を救うウジ虫 上・中・下」10月2日・3日・6日。

『朝日新聞』(2019)「「嫌われ虫に」意外な役割」1月31日。

『朝日新聞』(2018)「A・AB型 おなか注意」6月28日。

『朝日新聞』(2017)「妖精はゴキブリ頼り?」8月24日。

『朝日新聞』(2017)「カップルの皮膚は…」8月10日。


付記。小説がフィクションを書くものであれば、この作品は事実(『異常論文』、昆虫、微生物、ウジ虫に関わる知識)を書いているにすぎない。が、事実を使って物語(=フィクション)を作っているということでは小説になっているのかもしれない。読み手にとって、小説の面白さは想像をさせてくれることにある。「うんちくを傾ける」小説を書くのであれば、理屈っぽくなっては面白味に欠ける。いかに想像させるか、これで頭を悩ませることもまた楽しい。


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