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第八話



 午前六時。

 太陽の光が差し込まれ、今日も世界が花開く。穏やかな風が辺りを舞って、朝特有の涼しいにおいが運ばれていく。


 肌寒くない心地よさに触れて、卓也は秋土市の街中を走っていた。


 車の通る大通りは避け、穏やかな住宅街の景色を楽しみながら、止まるほど疲れてしまわないようにゆっくりと、息が乱れる程度には速く。

 運動として朝のランニングをすることが、数日前から卓也の日課となっている。

 自信をつけるための第一歩。かっこつけて同級生のみんなの注目を浴びたいでも何でもいい。『自分は自分』という考えを一旦は捨てる。誰かに認めてもらえたなら自己肯定感は少なからず上がる。


 試みるにあたって危険極まりないのが、途中で挫折してしまうことだ。挫折は本当にろくなことがない。成果は得られない。時間を無駄にする。自信をさらに無くす。


 故に、今回ばかりは挫折してやらない。


 高い運動神経や引き締まった身体を手に入れるために、前世でもそれなりに運動に取り組んだ。二日坊主を繰り返した教訓から、運動における目標を卓也はたてた。


(無理はしない。雨の日でも休まず、ほんの少しでいいから出かける。本当に少しずつ記録を伸ばす。とにかく無理をしないこと……!)


 身体のほてりは気にならず、その熱は足を動かすエネルギーになる。着ている体操服も汗が広がっているのに、逆に水を飲むような清々しさがある。

 最寄りのスーパーに言って返ってくるだけだ。ランニングはすぐに終盤にさしかかる。それでも、小学生の身体であれば、気持ちよい程度にきつかった。


 数分もすればゴールの我が家にたどり着く。

 顔を持ち上げて呼吸を整えれば、水色がかった空に一人佇む雲が見える。あの雲もまた、広大な世界の中でどこへ進もうか考えている気がした。


 やがて息が軽くなってきて、卓也は改めて岩倉家を見る。

 以前と変わったことが一つ。「どうでもいい」と思わなくなったせいで、この家に入るのにわずかな勇気が必要になった。


「ただいまかえりました」

「どうしたの? そんなにかしこまって。おかえりなさい」


 すでに台所にいた明日香が、くすりと顔をほころばせる。


 リビングに立ち上るのは焼き魚の香ばしい匂い。鼻にとどまらず身体の奥までやってくるものだから、卓也のお腹は食べ物欲しさに動きだした。

 明日香は昨日も一昨日も、ずっと前から早起きして支度をしてくれている。その一日一日の積み重ねがどれほどすごいことか。下がりそうになる目をちゃんと合わせて、卓也はこくりと頷いた。

 テーブルの上にはすでに食べ終えた食器が見える。小さな食べ残しすらなく、特に焼き魚があったであろう横長の皿には、きれいに整えられた骨があった。


「……お父さんはかえってきた?」

「ええ。ついさっきまで起きていたのだけど、もう寝ているわ。卓也も着替えてきたら?」


 家族を支えてきたのは当然、雄二もだ。


 前の仕事を続けられなくなって、辛く苦しい想いをたくさんしたはずだ。だけど、家族を守るためにできることを探し、現在は夜勤で働いている。子供に対する厳しさも、同じ目にあってほしくないことへの裏返しかもしれない。

 そんな雄二の懸命さを卓也は否定し、クズだのカスだのと侮辱した。良くない行為であったと反省している。


 言い訳はある。心が潰れているのに厳しくされた。まして卓也は立ち直りが遅い。雄二のことを今すぐ好きにはなれないし、子供に対する接し方についてとか言ってやりたいことは色々ある。でも、共感できないことと理解しないことは違うし、明日香や加依をこれ以上苦しめたくない気持ちもある。それに、家族のために身体をはっている雄二を尊敬していないというのは元より嘘だ。


 だから、もう一人の卓也や、加依、明日香に勇気づけられたあの日の夜、卓也は雄二に深く頭を下げた。一言では済まさず、彼なりの反省をしっかりと言葉にしたつもりだ。


(まぁ、それでも許してもらえなかったけど……。完全に関係が壊れてしまう前に、これからの行動で示していこう)


 私服に着替え、明日香に甘えて体操服は洗濯機に入れさせてもらう。リビングに戻ると明日香はテーブルの上の食器をかたそうとしていた。

 少しイタズラ心もまじっていたかもしれない。彼女の視線を避けるように、流し台の隣まで移動して、食器洗い機の中にある皿を片付ける。断りを入れずに始めてしまえば、明日香も遠慮しないですむだろう。


 次いで、朝食に使っただろう器具を代わりに入れる。

 蛇口から落ちる水が、使われた食器を軽くたたいた。そのまま食洗器に放りこめば、皿と皿が触れ合って騒ぐ。何度が繰り返して、後は電子音を鳴らすだけだ。

 ただ、朝食が終わっていない状態でそれは早かった。ボタンを押す前に手を止めた時、指摘しようとしてくれた明日香と目が合って、お互いに笑った。


「元気になったね。……ごめんね。何もしてあげられなかったね」


 明日香のつぶやきは、漂っていた朗らかな雰囲気とは共存できなかったようだ。

 味噌汁を温める火や、半熟になりつつある目玉焼きの音が、遠慮して小さくなった気がした。表に押し上げられた卓也は、空気を落ち込ませないように声を出す。


「あのね……母さん」


 普通なら『何もしてなくなんかない』『助けてもらっている』と答えればいい。具体例をだせば説得力も増す。


 だが、所詮は子供の言うことだ。卓也が大丈夫だと言っても、親である明日香が愚直に信じ込む気がしない。

 もちろん、単純な受け答えでもまったく問題はないかもしれないし、あれこれ理屈をつけて答えを出そうとしている時点で、無邪気な想いはもう出せない。


 それでも、卓也はこれから先のために、言葉を探す。

 時計の針が聞こえだすほどには間が空いたが、控えている料理の音もいつまでも待ってはいられないだろう。

 話した言葉というのは時間がたてば消えてしまう、雪のようなものだと思う。

 それでも、懸命に生きてきた卓也が吐き出せるものが確かにある。


 できる限り子供っぽく、にっこりと笑った。


「いつもありがとう。いままでもほんとうにありがとう。俺はね、母さんのこと、かんしゃしているんだよ」


 成長したら言いにくい言葉だ。恥ずかしさに覆い隠されるし、お世辞や飾ったものだと思われかねない。だからこそ今は本心を。明日香へのありがとうは絶対に嘘じゃない。だって加依と迎えに来てくれたあの日、卓也は本当に救われたのだから。

 本心は相手の悲しみをひっくり返すような特効薬ではない。でも、この瞬間だけの言葉が、明日香に少しでも伝わると信じたい。


 だんだんと、冷蔵庫の駆動音が耳に入るようになる。


「本当に、元気になったね。いったい何があったの?」

「たいせつな人にいろいろおしえてもらったのと、あと、加依と母さんがきてくれた」

「そうなんだ……。ありがとう。お母さんも卓也のこと大好きだよ」

「うん」


 卓也と明日香に血のつながりはない。前夫の子供ということで、思うところもあったはずなのだ。

 直前と逆になってしまうが、鵜呑みにするのは素直すぎるし、うぬぼれてはいけないとも卓也は思う。明日香の卓也への好意は『大好き』ではないだろう。後から言わせてしまった感もある。

 だけど、こうして少しでも距離が近くなったのは、間違いなく前進のはずだ。

 食器棚にある箸をとるために後ろへと振り返った。三人分の箸を両手でもって、テーブルへ向かう。


「明日は日曜日だね。加依とどこかへおでかけしようか。行きたいところはある?」


 再び明日香の方を見てうなずく。努力することに時間を使おうと思っていたが、一緒に過ごせるならこれ以上のことはない。

 いっそ努力と交流の両方を深めようと考えれば、行きたい場所がかなりしぼられる。


 行きたい場所を、素直に告げてみた。



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