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そして、僕らは大人の世界に足を踏み入れる年頃になっていた。
僕は長年嵌っていたそのプログラミングの能力を買われ、こんなスラムとは段違いで人も治安も素晴らしい、ギュエン爺さんの故郷でもある隣国のG連邦共和国の大企業から社員にならないかと誘いを受けていた。ギュエン爺さんは僕が彼と同じ世界にのめり込み、成長した事に関しては誰よりも喜んでくれていた。
しかし、その内定の話に関しては表情を曇らした。というのも政治家に裏金を使ったロビー活動を行って自社に有利になるように働きかけているという黒い噂がある企業だったし、なによりもその企業が世界有数の軍事兵器を生産しているのが表情を曇らした理由だった。
僕としては、給料は破格だしどんな企業であろうと高給であればその分この孤児院に支援をしてあげられると思い、悪くはない話だと思ってはいた。しかし、まだ学生でどうせならギュエン爺さんが喜ぶような所に勤められればとも思い、その話は保留となったのだった。
サユリの方はというと順調に医学部に合格し奨学金の給付を得ながら医者への道を歩んでいた。「あんたももっと勉強頑張って私みたいに奨学金をもらえばいいのに。ギュエン爺さんの負担も考えな」 サユリはそう苦言を呈した。
「今は好きにさせてもらう分、高給取りになって後でしっかり恩返しするからいいんだよ俺は!」 僕はそう言って誤魔化す事にした。
僕は徐々にプログラミングの世界で頭角を現し世界的なコンテストにおいて何度か賞を勝ち取った。このプログラミングの世界の素晴らしい点はインターネットを使用する事で世界大会だろうと簡単に現地に行かずとも参加でき、且つ簡単に世界中から注目を受けることができるという点だった。 僕はコンテストで優勝する事でこれまでにないほどの称賛を得ることができた。それは学校という小さなコミュニティーとは比較にならなかった。学校外、施設外から、ネットを通じてまたは直接、称賛の声を受ける事が出来た。
だからこそ称賛を得るためだけに興味のない分野の勉強も頑張ってきた僕であったが、もはやその必要性はなくなっていた。それと共にサユリとの成績の差は開いていったのだった。大学に入ってからも関心の持てない講義に精を出す理由を僕は見つける事ができなかった。ここでは大学を出たとしても必ずしも就職先が保障されているわけではない。しかし、いくらスラムとはいえコンピューターやインターネットに対する需要は高まっていた。また、物価の安さから先進国である隣国を含め多くの外国のIT企業の下請け会社が軒を連ねていた。だからこそこの国では僕の持つスキルは大変役に立つのだった。「自分はプログラミングという武器がある」という自信がなおの事、大学における勉学から足を遠のかせたのかもしれない。
「いい、アラン、お金をたくさん稼いで孤児院に寄付するのもいいけど私たちはギュエンおじいちゃんを見習ってこの街に貢献するよう働くの。それが何よりのギュエンおじいちゃんへの恩返しになるんだからね!」
「わかってるよ」
しつこく説教じみた事を言うサユリに僕は彼女の顔も見ずに吐き捨てるように返事をした。
僕らはこの街では数少ないケーキ屋にギュエン爺さんの誕生日ケーキを買いに出かけていた。
街は相変わらずの汚さだ。いまや孤児院と学校を往復するだけの生活を送っている自分にとって移動時のこの瞬間が何よりも嫌いだった。かつての生活を思い出すからかもしれない。普段綺麗に掃除の行き届いた孤児院の生活に慣れてしまったからかもしれない。インターネットでここよりもいい生活があることを十分すぎるほど知ってしまったからなのかもしれない。何とか人一人通れる狭く薄暗い建物と建物の隙間にふと目をやると若者が自らの腕に注射を刺して、うつろな表情で快楽に浸っていいた。遠くの方では「泥棒!」という怒鳴り声と共に誰かが騒がしくそこら中に散らばっているゴミを舞い上げながら走っていた。昔となんら変わりはないひどい街だ。ギュエン爺さんはよく言っていた。
「私はただやるべきことをやっているだけだ。何も偉い事はしていない。昔の人々が我々にしてくださった恩を、彼らを見習い次の世代へ同じように分けているだけなんだよ。だからこそ私に恩返しをする必要はない。ただ、お前もその助けを必要としている誰かに手を差し伸べるようにするんだよ」と。
ギュエン爺さんがこの街のために働く人間になって欲しいと願っているのは彼の普段の行動、態度からも明らかだった。ただ単に孤児院を運営して子供の世話をしているだけではない。薬を買う金もなく病にひれ伏せてばかりの人々のために無料の診療所を開き、働きたくとも働く先のない人々のためにこの地域の政治家や時には海外の投資家に会いに行き、働き先を確保し、無料の就職相談所をこの街でいくつも作った。しかし果たしてここはそこまでするほどの価値があるのか僕には疑問だった。もちろん僕自身彼に感謝はしている。しかし、焼け石に水という言葉がある通り、物事には何事にも限度がある。いくらギュエン爺さんが頑張ろうと無理なものは無理だ。変わらない奴は変わらない。クズはクズなのだ。なんでそんな奴らの事まで面倒をみる必要があるのだろうか?
目的地である、この街で最も古い年季の入った外装のケーキ屋に着くと何やら中で店主と誰かが口論しているようだった。
「いいか、こんな店、やろうと思えば簡単につぶす事が出来るんだからな!」
「それだけは勘弁してくださいよ!」
「だったらこちらの条件を最初から素直に受け入れるんだな!」
「だから、そこを何とかお願いしますよ!ここは曾祖父の代から代々ここで営んでるケーキ屋なんですよ。そう簡単に明け渡す事なんかできませんよ!行政命令だからって補助金もなしに『強制立ち退きしろ!』なんてあんまりですよ!」
「金は出せないと何度言ったら分かる?街の再開発の為だ。いいか、お前の我がままのせいで皆が困るんだからな!」男はそう怒鳴りつけドアを蹴り飛ばしながら店を出て行った。
その男の名前はアンドリュー・シーウェン。この街の開発事業の責任者を任されている役人だった。この地域の公共事業の決定権を握っているが故にその大型事業の発注を得ようと彼の周りには常に地元企業の職員が付いて回っていた。彼の役職の一般的な給料では買えない、ここではどうやって手に入れるのかも分からないほどこの街とは縁のない海外の高級な腕時計や海外の高級ブランドのスーツを身に着け、海外の高級車を乗り回していた。それと同時に裏で地元企業から賄賂をもらっているという噂が絶えない悪名高き男だった。
「みっともない所を見せてしまったね」
「みっともないなんて、そんな…」 サユリは気まずい雰囲気の中、黙り込むしかなかった。
「そんな事よりもケーキの注文かい?なんたって今日は我らがギュエン・ハノーアーの誕生日だからね!いつもはウチのツレが持って行ったが、遂に子供たちがケーキを買いに来るような年になったか!感慨深いね!」
店主の奥さん、リリカおばさんはケーキ屋だけでは収入の乏しい家計を助けるために長年孤児院でメイドとして働いていた。子供たちの誕生日にはここのケーキを買い、リリカおばさんが勤務してくる際にいつも持ってくるのが定番となっていた。ただ、今回は年長者を代表して僕とサユリがギュエン爺さんの誕生日ケーキを直接買いに来ることになったというわけだ。
「そんな事よりも大丈夫なんですか?このお店。なくなっちゃうんですか?」
「ああ、そうだね…このままだとそうなるかもしれねぇ…まったくお役人さんたちが決める事は勝手が過ぎる。この辺は道を大きくして尚且つ大きなビルを建てるんだとよ。ほかの店にも同じように話がきているようで、ウチと同じように断っていたそうだが、そういう店にはなぜか黒のスーツを着た大柄の男たちが来て店で散々トラブルを起こして帰っていくそうだ。この店にもこの前そいつらか知らんが、嫌がらせがきたよ。久々に大量にケーキの注文が来たと思ったら引き取りにくる直前でキャンセルだ。結局ほとんど捌ききれずに、廃棄で大損害だ。電話をかけ直しても繋がらない、やられたよ。あの役人はマフィアと繋がってるという噂もあるらしいし、あいつらの仕業に違えねえ。おかげでほとんどの店は震え上がって、条件を呑んだそうだよ。だがな、うちはそんな簡単にはこの店を手放す事なんて出来ないんだよ。ここは子供の頃からの思い出もある先祖たちの思いが詰まった大事な店なんだよ。せめて店を再建できるくらいの立ち退き料をもらえたらねぇ…でも正直言ってうまい方法も思いつかねえ、しょうがねえと覚悟を決めるしかないかもな!ハハハ!」
「そんな…」 ショックで言葉を失うサユリ。そして無理に笑い飛ばそうとするおじさんの声が虚しく店内に響き渡った。
「僕が何とかします!」
気が付けば僕はとっさに二人の会話に割り込んで、そう口走っていた。
「おっ、それはありがたいね、さすがギュエンさんとこの神童だけあるね!頼もしい!冗談でも嬉しいぜ、ありがとよ!」
そう語るおじさんの表情はどこか頼りなく今にも崩れそうな脆さを秘めているように見えた。
「冗談じゃないです。僕が何とかしますから待っててください!」
「おっおう…ありがとよ」
視線を一切外さずに強いまなざしでおじさんを見つめながらそう宣言する僕に対し彼はただ素直に感謝の言葉を返すしかなかった。
「どうにかするって、いったいどうするつもりなの?アラン」
「あいつの銀行口座の取引履歴に差出人不明の多額の送金がいくつもあったんだ。今度それを洗い出せばあいつの悪事を暴露できる」
帰りの道中、詰め寄るように聞くサユリに対し僕はぶっきらぼうにそう答えた。
「は?」
彼女が驚くのも無理はなかった。このことは誰にも話したことがなかったのだから。
僕はプログラミングを学ぶうちに自身の腕試しを兼ねてハッキングの世界に足を踏み入れていた。きっかけはほんの些細な事だった。セキュリティプログラムを自身で作った際に実際に使われているセキュリティソフトの性能が知りたくなり、政府のサイトにハッキングをしたのが、きっかけだった。結果は思いもしないほど、拍子抜けするもので、簡単にアクセスする事が出来てしまった。その時は何の悪意もなかったため、すぐにセキュリティの脆弱性を政府に知らせようと考えたものの、その際不可解な決算報告書を見つけた。 それはとある海外の会社への投資だった。それも馬鹿にならないほど高額なものだった。それが一件だけだったら大して気にはならなかっただろう。しかし、同じようなものが何件も見つかり、その会社はあらゆる部署からの投資を得ており、何かしらの取引を行っていた。そのどれもが莫大だった。それにも拘わらずその会社の実態はまったくといっていいほどわからなかった。その会社が何をしているのか、従業員はどれほどなのかそれすらわからないのだ。
やがてそのような実態不明の会社との取引がいくつもあることが分かった。それらに共通する事は多額の取引額とどんな会社なのか分からない海外の会社だという事だ。それからだった、アンドリュー・シーウェンといった役人たちの黒い噂を嗅ぎ付けるようになったのは。そしてそのような実態の知れない、何の業務も行っていない海外の会社を通して不当に手にした裏金をあたかも正当な方法で手にした金と偽る、「資金洗浄」という行為がある事を知った。しかし、実際の裏金の証拠となるものを洗い出すのは政府のサイトに忍び込むことよりも困難で危険を伴った。まず何よりもその海外の会社のサーバーにアクセスする方法が有力だったが、セキュリティーは恐ろしく厳重で簡単には侵入できず、ばれずにデータを盗める自信もその覚悟もやる理由も自分にはなかった。
だが、隣人に災難が降りかかった今は違った。こんな理不尽な事をするようなクズは僕が叩きのめしてやる。それこそ僕なりのこの街への貢献の仕方だ。そうだろう?
その日のギュエン爺さんの誕生日会はいつも通りに行われた。子供たちの手作りの装飾で飾られたこの孤児院で一番大きなリビング。孤児院で世話になっている子供たちとそこで働くメイドさんたちに囲まれて誕生日ケーキの上のろうそくを消すギュエン爺さん。そこにギュエン爺さんの建てた診療所や就職相談所で働く医師や看護師や職員、ギュエン爺さんのおかげで仕事先を手にした人が数名加わった、いつも通りの光景だ。
本当はもっと多くの人々がギュエン爺さんの世話になっているはずだった。彼が建てた無料の診療所でどれだけの命が助かったか。彼がこの街に事業を呼び込むことでどれだけの人に仕事を与えてきたのか。彼に感謝すべき人はこんなもので済む数ではなかった。仮に感謝はしていても街の人々の感謝の程度はこの程度のものなのだと毎回身に染みて感じるのだった。それでもギュエン爺さんは祝ってくれる皆にその一年で一番の笑顔で感謝の言葉を述べるのだった。僕はその光景を十分目に焼き付けた後、誰よりも早く自室に戻り、アンドリュー・シーウェンの裏金の存在の証拠を手に入れるべくハッキングを試みた。
ハッキング先は何度も彼の関わった事業に名前の挙がる例の実態のない海外の会社のサーバーが最も有力だった。まずはどうやって侵入すべきかセキュリティーの脆弱な場所がないか洗い出す作業を行った。これには何日にも渡って時間を費やした。少しでも相手のセキュリティに気が付かれてしまっては元も子もないからだ。そして、調べれば調べるほど高度なセキュリティに守られている事がわかった。それから数週間が経ったある日安全に侵入出来るであろうルートを見つけた。その際の喜びはひとしおだった。今まで獲得したどの賞よりも勝っていた。その分いざ侵入した際の手の震えは今までに経験したことがないほど尋常ではなかった。危うく何度も隣のキーを間違えてタイピングしてしまうほどだった。いつ侵入がばれてもおかしくなかった。気が付かれても足跡が残らないようにすぐに逃げる通路は確保してはいたものの、何十日も掛けて見つけた侵入ルートだ。ここでばれてはもう二度とその入り口は使えない。そして何よりもそこにあるデータの容量の多さは尋常ではなかった。これらのデータを全て一度に解析しながら彼に関するデータだけを抜き出す事も、一度に全て抜き出して分析する事も出来そうになかった。それではすぐにばれてしまう。だからこそ僕は慎重に慎重を重ねて、何日にもかけてデータを解析しながら彼に関するデータを探した。裏金がいくつもの銀行口座を渡って最終的に彼の口座に振り込まれている事が明確に記された、その確かな証拠を手にしたのは結局のところそれからさらに一ヵ月が経っての事だった。しかしその手にした貴重なデータをどこかに持ち込むことも誰かに見せる事も結局なかった。その翌日、僕の長年使い続けたパソコンは、念のために取って部屋に隠しておいたバックアップデータと長年暮らした孤児院と共に、そして皆が慕うギュエン爺さんと共に跡形もなく炎に包まれて消えてしまった。