お願いすることはなにもなかった
※この最終話には暴力的な表現があります。苦手な方はご注意ください。
ガシャーン! という大きな音がして、私はハッと目を覚ました。
壁の時計を見ると、午前二時。
(また始まった……)
私は泣きたい気持ちでベッドから起き上がり、急いで部屋を出ると、階段を駆け下りていく。
その間にも、キンキンと喚く声が、階下から聞こえていた。
「嫌だあ、もうこんな生活は嫌だあ!」
「うるせえんだよ! 同じことばっか言いやがって! なんだこら、かかってこいよ!」
いつも家の一階は、どことなく生ごみの匂いがする。
父は毎日のように昼からお酒を飲み、母のことを殴っていた。
「もうやめて、お父さん! やめてってば!」
私は背後から、父の身体にとりすがる。
その身体は、痩せてごつごつして、決して大柄なわけではない。それでも信じられないほどの力で暴れるので、手が付けられなかった。
「なんだこら、美加代! 生意気なんだよ、誰のおかげでそこまで育ったと思ってやがる!」
「それ以上やったら、お母さん死んじゃうよ! お願い、やめて」
「おい、お前がしっかりしつけねえから、娘がこんなに生意気になるんだぞ!」
言って父は、うずくまっている母の背中をドスドス蹴った。
「痛いよう、死んじゃうよ」
「黙れ、このグズ! 俺の酒飲みやがって、責任取れ!」
「やめてってば……きゃあ!」
父に思い切り振り払われて、私は台所の床に尻もちをつく。
「この、クソガキが!」
言いながら父は、私の頭めがけてヤカンを投げつけた。
角が額に当たり、うっ、と私は頭を押さえる。
そうする間にも、父は母の髪をつかみ、ところかまわず蹴っていた。
私は痛みと悲しさで、涙でぼやけた目でその光景をぼんやり見る。
台所の壁にはあちこち穴が開き、母が味噌汁が入ったままの鍋を投げたことがあったせいで、壁がひどく汚れていた。
シンクには、洗っていない食器が山積みになっている。
「なによもう、殺せばいいじゃない! 外に女作ってんの、知ってるんだから!」
「なんだとお。だったらなんだって言うんだ、グズ!」
「痛い、痛い! 美加代、お母さん殺されちゃうよ! 警察に電話して!」
母が叫んだ、その瞬間。
「やめろよお!」
小さな影が、私と父の間に飛び込んできた。次いで、ドン! と鈍い音がする。
小学生の、弟の伸也だ。
「う……し、しん、や、お前……っ」
「伸也っ!」
私はバネ仕掛けの人形のように飛び起きて、父の身体に体当たりした伸也に駆け寄った。
その小さな手には、台所の包丁の柄が握られている。
刃の部分は、父の腹部に完全に埋没し、見えなかった。
「お母さんを、もう苛めるな!」
涙声で、伸也は叫ぶ。
私は膝がガクガクし、伸也、とバカみたいに名前を繰り返し呼ぶことしかできない。
「こ、この……っ、クソ、ガキ」
ボタボタッ、と大量の血が、父の腹から床に零れた。
「救急車ッ!」
悲鳴のような声をあげたのは、母だ。
「美加代、救急車だよ、早く!」
「う……うう、う……っ」
「お姉ちゃん。ぼく、やっちゃった」
シンクにたかったコバエが、ぶんぶんうるさい。耳の傍で一匹が、ブブッと大きな音をたてた。
ウィーン、と古い冷蔵庫が、うなるような音をさせている。
こちらをゆっくり向いた伸也の顔は、蝋のように真っ白だ。
父から流れる血が、私のほうへゆっくりと近づいてくる。
(どうしよう。どうしよう。どうしよう)
私は涙を流しながら、床にはいつくばって呻く父と、悲鳴を上げ続けている母。
そして途方に暮れたように突っ立っている弟を、ぼんやりと見つめていた。
♦♦♦
ハッ、と目が覚めた。
ひどい悪夢を見ていたようで、全身が汗に濡れている。
(──何時だろう。……っていうか、どこだろう)
見慣れない天井が目に入った。なんだかすごく、息が苦しい。
ベッドの横に誰かいる、と思ったが、身体が上手く動かなかった。
おそらくひとりは母親。もうひとり、別の誰かの声がする。
「折れた肋骨が、肺を傷つけています。このまま肺からの出血が止まらないようですと、うちでは手に負えないかもしれません」
「そ、それだと、どうすれば」
「設備のそろった大きな病院に、転院していただくことになります。覚悟はしておいてください」
「覚悟って、そんな。そこまでひどくはないんですよね?」
病院かもしれない、と私は思った。
空気が消毒薬と、なんともいえない甘たるい匂いがしたからだ。
なにか声を出そう、と思ったが、胸が痛くてできなかった。
動けず、声も出せないまま、私はいつしか眠りに落ちる。
次に目を開いたときは、ほんのわずかに首が動かせた。
右側の大きな窓の、カーテンの隙間から、月が見える。
「おか……さ……」
痛む胸で、ぜえぜえと荒い息をつきながら母を呼ぶ。が、なんの物音もしない。
深夜なのかもしれない、と私は思った。
時間どころか、このベッドに寝ていったい何日たったのか、私にはわからなかった。
(──そうだ。確か私は、自転車に乗ってた。坂の下は、右から左に車が通る道で……でも、なんの音もしなかったし、多分大丈夫だろうって、自転車を飛ばしてた)
一生懸命に記憶をたどると、ぶつかった直後のことを思い出した。
多分、車の脇腹に突っ込んだ私は、跳ね飛ばされたのだろう。しばらくアスファルトの道路に放り出されていて、とにかく胸が苦しかった。
(うつ伏せだから苦しいのかな。上を向いたら、すっきりするかも。それに、もし死ぬなら、せめて青空を見て死にたい。地面を見て死ぬのはイヤ)
なぜかそんなことを考えて、必死にあお向けになったけれど、それでも息は苦しいままだった。
次に気が付いたのは、病院の処置室で、そのとき着ていたお気に入りのTシャツを、ジョキジョキ切られてしまったのが悲しかった。
だが今は、それどころでないというのがわかるくらいには、意識がはっきりしている。
(何日経ったか、わからないけど。不思議と、お腹が空いてない)
おそらく、点滴のせいだろう、と私は腕につけられている、幾本ものチューブを見る。
トイレにも、行きたくなかった。そちらもやはり、チューブがつけられているようだ。
(私の身体、どうなっちゃったんだろう。どうなるんだろう。指は動く。顔にはなにか貼られてる。大きな傷ができていたらどうしよう。足はわからない。歩けなくなったらどうしよう)
もう一度、私は月の出ている夜空を見た。
そしてふと、その空の下で、楽しく過ごしているであろう人たちのこと考えた。
(いいなあ。どこを動かしても痛くないって。行きたい場所に、好きに歩いて行けるって)
こめかみに、つーっ、と涙がつたう。
けれど私のチューブに繋がれた腕は、それを拭うこともできない。
私は目を閉じて、はらはらと涙を流し続けていた。
♦♦♦
なんだかざわざわした音と気配で、私は目を覚ました。
「美加代、起きて! 逃げるよ!」
「んー……眠い」
「お姉ちゃん、早く! 火が来てる!」
えっ、と私はパッチリ目を開き、そして飛び起きた。
わあわあと、外から大勢の人の声が聞こえる。
目を向けた窓の外は、真っ赤だった。
「なにこれ! 火事?」
「お姉ちゃん、寝ぼけるなよ、空襲だよ!」
その言葉で、私は一瞬にして事態を悟る。
焼夷弾だ。
母が金切声で叫ぶ。
「もう消すのは無理だって、お隣が! 美加代、急いで頭巾を! 持っていけるもの、持ってくよ!」
奥から貴重品らしきものを抱えた父が、慌てて襖を開いて出てきた。
「庭の大八車に、いるもの載せろ! 美加代は着物! 母さんは毛布! 伸也は位牌!」
はいっ、と返事をして、私はあたふたしながら起き上がり、枕元の防空頭巾をかぶった。
(お母さんの着物! よそ行きだけでも!)
平たい引き出しを引っ張り、夢中で着物をとり出す。
そうこうしている間にも、辺りには黒い煤が舞い、焦げ臭くなっていた。
「もう間に合わない、行くぞ!」
「お父さん待って、お婆さんの形見を!」
四人で縁側から庭を通って外へ飛び出すと、近所のひとたちが一斉に、同じ方向へ走っていた。
周囲はまるで、夕焼けに照らされているように赤い。
ひゅー、ひゅー、と不気味な音と共に、バン! と家々の屋根に火の玉が落ちてくる。
「どっちに行けばいいの?」
「しっかり手を繋いで!」
「早く早く」
「阿佐ヶ谷のほうが暗い! あっちだ!」
(怖い、怖い、助けて、助けて)
パチパチ、めらめらと、私の育った町が燃えていく。
めきめきっ、と音がして、どこかの家の庭の木が、燃えながら倒れた。
人々はひたすら火を恐れ、暗い方へ暗い方へと駆けて行く。
どこだ、お母さん、どうして、熱い、大勢の人々の悲鳴に近い声が、熱風と混ざって渦を巻く。
私は走って走って、走って、走った。
いつの間にか、繋いでいたはずの弟の手が、離れてしまっている。
「とにかく、小学校に! こっちだ、こっち」
「ここまでは燃えない、大丈夫だ!」
「あっ、美加代ちゃん! 美加代ちゃんじゃないの!」
避難したのは、高円寺駅の近くの小学校だった。
隣のおばさんに声をかけられ、私は震える足で立ち止まり、差し出された手をとった。
「お、おばさん……」
「無事だったの! よかったねえ! お母さんたちは?」
「あの、えっと、私、夢中で走ってきて」
はあはあと、肩で息をしながら、私は周囲を見回した。
「……伸也!」
名前を呼んだが、弟の姿はない。
父もいない。母もいない。
「お母さん! お父さん!」
とてつもない恐怖がこみ上げてきて、私は隣人の手を離し、小学校の校庭を走り回った。
「お父さん! お母さん! 伸也! ……どこ? どこに行ったの?」
まだ燃え盛っている、生まれ育った家の方角の真っ赤な空を見つめながら、私はへなへなと座り込んだ。
火の中を逃げてきて熱かったはずなのに、全身が冷たい汗に濡れている。
(毛布も、着物も、みんな消えていく。お母さんが、燃えちゃう。お父さんが、燃えちゃう。伸也も、燃えちゃう)
「たす、けて……っ」
煤と煙の中、泣きながら叫んだつもりだったが、声はかすれてほとんど出ない。
激しい絶望感と喪失感に襲われ、くらっと眩暈がしたそのとき。
ドンドンドン!
と、頭の中で、板のようなものが激しく叩かれる音がした。
♦♦♦
「お姉ちゃん、いつまで寝てんの」
カチャ、とドアが開いて、伸也が部屋に入って来た。
薄目を開けた私は、ガバッと起き上がる。
「伸也! よかった!」
咄嗟に抱き締めると、きもっ、と言って伸也は腕の中から逃げ出した。
「おえっ、おかしいんじゃないの。朝ごはん、できたって」
「えっ……」
バタバタと階段を駆け下りていく足音を聞きながら、私はぼんやりと周囲を見回した。
「あれ? えっ、私、寝ぼけてた?」
ベッドには昨日、なにを着ていくか考えながら引っ張り出したニットとコートが、放り出されている。
「やばい。昨日、顔洗わないで寝ちゃったかも」
まだぼんやりしながら、私は階段を下りて行った。
「美加代、今日はダイエットなんて言わないで、朝ごはん食べてってよ。ちゃんと作ったんだから」
「あ……うん。パートのない日だっけ」
シンクに立っている母の背中に言いながら、私はダイニングテーブルで先に食事を始めている伸也の隣、父親の正面の、いつもの場所に座る。
「食ってみろ美加代。フレンチトーストだってさ。お母さんの手作り」
「わりと美味いよ」
「なによ、わりと、って」
「売ってるのより美味い、ほかほかしてる」
「そりゃあ作り立てだもん。初めて作ったの、食べてみてよ。美加代も甘いの嫌いじゃないでしょ?」
「う、うん。いただきます」
目の前の白い皿に、焦げ目のついた黄色いパン。グラスに入った、冷えた牛乳。
窓から朝の光が差し込む台所には、ふわりと玉子とバターの、甘い匂いが漂っている。
「なくなっちゃった、一個くれ」
「一個くれじゃないだろ。一切れください、お願いします、お父様だろ」
「きもっ!」
「伸也、あんたその、きもって言うのやめなさいね」
家族の他愛もない雑談。笑い声。清潔な食卓。
できたてのほかほかとした、温かい朝ごはん。
疼くように私の胸の中に、込み上げてくる思いがある。
──……幸せだ。私は、こんなにも幸せだったんだ。
その事実に気が付いて、私はようやく長い眠りから、眼が覚めたように感じていた。
「お姉ちゃん? なに泣いてんの?」
「美加代? あんた、どしたの」
「会社でなんかあったのか。言ってみろ、お父さんに」
意識しないまま、頬に流れていたらしき涙を、手の甲で慌てて拭う。
「な、なんでもない。あくびしただけ」
私は誤魔化すように、四つに切られたフレンチトーストの一片を、急いで口に入れる。
ぷるりふわりとした食感。ほのかに甘くて優しい味。
どう? と得意げに私をのぞきこむ、母の笑顔。
それらはなぜか、さらに私をせつない気持ちにさせた。
♦♦♦
部屋に戻り、急いで出社の支度をしていると、机の上の鏡が目に入る。
その表面には、乾いた薄紫色の染みがあった。
近くには、おまじないの方法が書かれた黄ばんだ紙がある。
そっとその紙を手にした途端。
紙は急激に劣化したように、ぽろぽろと指の間から、崩れて床に落ちていってしまった。
──なんだったんだろう。このおまじないは。昨夜のことは。
うたた寝をした結果、夢を見た。それだけのことなのかもしれない。
啓介さんの姿をしていた相手は神様ではなく、悪魔にからかわれたようにも思えた。
どちらなのかはわからない。けれどひとつだけ、はっきりしていることがある。
私は確信し、顔を上げた。
それはそのおまじないが本当に、私を幸せにした、ということだった。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました!