08
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高校入学二日目にして「学級委員長」という、個人的に大変不名誉な役職とあだ名を同時に手に入れてしまった彼女には、七條薫という往年の大女優顔負けの美しい名前があった。
七條家は大学で免疫学の教授をしている父、私立高校で国語教諭をしている母。そして二歳上の兄・侑と薫の四人家族である。
教職に就く両親は、自分たちの子どもにもその楽しさを知って欲しいと願い、二人が幼い頃から工夫を凝らして勉強を教えてくれた。それが功を奏し、侑と薫は勉強に慣れ親しんで成長していくこととなる。
器用な侑は勉強をするときは恐れるほどの集中力を発揮させ、遊ぶときは誰よりも全力で楽しんだ。彼の中には、物事を上手く分別するスイッチが存在しているのだ。成長すると同時に容姿にも気を使いだして、もとから端正だった顔は中学にもなると更に磨きがかかった。
勉強だけでなくスポーツも万能で、人と話すとジョークの一つや二つを軽々と言って相手を楽しませる。天真爛漫で太陽のように明るい侑の周りには、昔からたくさんの人がいた。
どこまでも完璧な彼。
さぞかし、その妹も――と思われそうだが、侑と薫は見事なまでに相反した兄妹だった。
薫は一つのことに没頭すると、それ以外のことには手が付けられなくなってしまうほどに不器用だったのである。彼女にとっての一番は勉強であり、遊びやお洒落は二の次であった。机に向かえば、向かった分だけ自分の知識は蓄えられていく。これ以上の快感はないと信じて止まなかった。
人と話すことが苦手で言葉数の少ない薫は、友達ができず学校でも孤立しがちだったし、周りからは「ガリ勉」と揶揄されることも多々あった。悔しい反面、事実だから仕方ないとも諦めていた。
小学生のころから学校に行くときは長い髪を三つ編みにし、大きな黒縁眼鏡を相棒にしてきた。しめ縄のような三つ編みは、勉強をするときに髪の毛が顔にかからないため、非常に優秀なヘアスタイルだと今でも思っている。
そうしてガリ勉の薫は勉強以外のものにめっぽう関心を示さないまま中学生となり、相変わらず勉強にばかり力を入れ込んで、服も母が買ってきてくれたものをなにも考えずに着用するという日々が続いていた。この頃には唯一の趣味と呼べるものに、手芸の存在があったのだが、それも勉強の息抜きとして嗜む程度にとどまっている。
これからも私は勉強ばかりして、高校、大学へと進学していくのだろう。もしかしたら、将来は研究者になるかもしれない。一生勉強をし続ける人生も、それはそれで素敵だろう。
――そう思い始めていた中学三年のゴールデンウィーク、転機が訪れる。
その日、薫は勉強の小休憩にココアを飲もうと自室から一階へと降りていった。両親は用事で既に家を出ており、リビングではソファの上で侑がだらしなく寝そべっていた。
「……どうした?」
薫の存在に気付いた佑は、体勢をそのままに聞いてくる。
「ココア飲もうと思って」
「俺にも作ってー」
「えー」
「いいじゃん。お願い」
「もう……」
口ではそう言いながらも、兄にお願いされてしまうと嫌な気がしないので不思議である。薫は慣れた手つきで二人分のココアを用意すると、侑のもとへゆっくりと持っていく。
「はい、お兄ちゃん」
「ありがと」
ようやく起き上がり、姿勢を正した侑の横に薫も腰掛けた。全てが正反対の兄妹だが、関係は非常に良好であり、なんなら侑は少々シスコン気味ですらある。
「お兄ちゃん、何してたの?」
「雑誌読んでた」
「ふぅん」
そういえば雑誌なんて一度も買ったことがないな、と呟いてココアを口にする。勉強で疲労が溜まっていた脳は、どうやら自分が思っていた以上に甘いものを欲していたようだ。
「薫も読む?」
すると、侑は脇に挟んでいた雑誌を差し出してきた。表紙を見ると、どうやらティーンの女の子向けファッション誌のようだ。
「……」
どうしてそんなものを、と言いそうになったが人気者の侑である。きっとクラスメイトの女の子にでももらったのだろう。手を差し出さず無言を貫いていると、痺れを切らしたように溜息を吐かれてしまった。
「ちょっと待って」
そう言って侑は徐にページを捲ると「ほら」と言って誌面を指差した。視線をうつすと、そこにはモデルの女の子がふわふわのミニワンピースを着てポーズをとっていた。
茶色い髪の毛は触りたくなってしまうほど緩やかに波打っていて、化粧をしていることも相まってかその表情はまるで恋をしているかのように甘かった。なんて幸せそうな表情をしているのだろう。まるでお人形さんのようだ、と薫は一瞬にして心を奪われてしまった。
「可愛くない?」
「可愛い……」
「薫もさ、こういう服着てみなよ」
「えっ」
想定外の言葉に、間抜けた声が出る。
「何言ってるの。こんな格好したらお父さんとお母さんに怒られちゃう」
「これくらいのお洒落を咎めるような親じゃないってのは薫が一番知ってるだろ。俺なんかこの間、父さんに『服買いに行くから着いてきてくれ』って頼まれて一緒に出掛けたぞ?」
「……」
最近、父がお洒落になったのはそういうことだったのか。
「……似合わないよ。私、このモデルさんみたいに可愛くないもん」
「なに言ってんだよ。モデルだって着飾ってるから可愛いんだ。すっぴんなんかそこらへんの子と大差ないよ。なんなら薫の方が整ってるくらいある。お前はすっげー可愛いんだよ」
いくらなんでも適当に言いすぎでは、と呆れる薫をよそに侑は饒舌に続けた。
「兄バカじゃないぞ。ちゃんと客観的に見て、俺はそう言ってるんだ。なのに、その三つ編みと眼鏡で良さを見事に全て打ち消しているのが現状だ。もっと肩の力抜いて、楽しく生きた方が良いに決まってる。まずはその眼鏡をコンタクトに変えて化粧をしよう。髪もせっかく長くて綺麗なんだから三つ編みをほどいてゆるく巻け!」
突然のお達しに、薫は口をあんぐりと開ける。
「で、出来ないよ……そんなの……」
そりゃあ、眼鏡と三つ編みを外して可愛い服を着るくらいなら自分にだってできる。しかし眼鏡を外すとなにも見えなくなってしまうし、生まれてこのかた化粧品には触れたことすらない。髪の毛を巻くカールアイロンに至ってはどんな形状をしているのかすら知らなかった。
「じゃあ俺が手伝ってやるよ。いまから全部買いに行こう」
「はっ?」
「ほら、さっさと出かける用意してこい」
「え、でもお勉強が……」
「たまには休まないと、秀才を通り越して馬鹿になるぞ」
「えええっ……」
そこからの薫は、侑にされるがままだった。
まずは眼科へ行き、コンタクトを作ることとなった。幼い頃から眼鏡一筋だった薫からしてみれば、コンタクトはただでさえ未知の領域だったのに、侑が「今、度入りのカラコンとかもありますよね」と医師に提案までしだしたのだから。
「お兄ちゃん、カラーコンタクトなんかしたらもっと目が悪くなりそうじゃん」
小声で訴えるものの、兄はどこ吹く風である。
「眼科で出してもらうんだから目にあんまり負担かからないの用意してくれるだろう。それでも、まあ確かに少し心配だからワンデーのやつにしようか」
「……」
そうして人生初のコンタクト装着に挑んだ。眼鏡がないのに鮮明に見える世界に感動しながら鏡を見てみると、驚いた。黒目が少し大きくなっただけで、心なしか顔の雰囲気も少し変わったような気がする。
「なんか……すごいね」
「だろ? ここからどんどん可愛くなっていくぞ。次は服と化粧品を買いに行こう」
「いや、わたしそんなお金持ってないし」
「金ならあるから大丈夫だよ。いつかこういう時が来るだろうって、父さんと母さんから預かってたんだ」
その言葉に目を剝く。
まさか、家族達はずっとこの時がくるのを待っていたというのだろうか。……私が勉強以外のものと向き合う日を。