06
放課後、英二は教室で部活前の腹ごしらえとして購買で手に入れたサンドイッチと、美沙子が用意してくれた特大おにぎり二つを腹に入れた。柔道部の皆が自分に対し、大きな期待を抱いてくれていることは鈍い彼もさすがに分かっている。
日曜はしっかり趣味を楽しむ分、稽古はこれまで以上に真剣に取り組まなければならない。
気合いたっぷりで部室へ向かっていると、見覚えのある後ろ姿が目に入った。委員長だ。小さな身体で、手にはたくさんのノートを抱えている。英二は考えるよりも先に、小走りで彼女のもとへと向かっていた。
「委員長、手伝うよ」
「細見くん?」
おどおどと焦りを見せる委員長からひょいとノートを奪うと、肩を並べて歩き出す。
「職員室までだよな」
「うん。ありがとう」
適当に手を伸ばした結果、四分の三ほどの量を取ってしまった。これなら全部自分が持った方が良かったな、と後悔するがやはりお得意の「まあいいや」である。
「あ……えっと……細見くんっ……」
「なんだ?」
「お昼休みにもらったマカロン、すごく美味しかった……です。あっちも本当にありがとう」
「おお、そうか。それは良かった」
英二の笑顔を目にした委員長は、ようやくお礼が言えた、と呟き胸を撫で下ろした。安心したのか、彼女は少し饒舌に話し始める。
「本当に美味しくてびっくりしちゃった。特にバニラとココアが好きだったなぁ。あれって、どこのお店のマカロン? あれだけ買うとなると、すっごく高額だったんじゃないかなってひやひやしてて」
「気にしないでいいよ。あれは俺の母さんの手作りだから」
「お母さんが?」
「ああ。俺の母さん、元パティシエールで昔からストレスが溜まるとお菓子を作って発散させるんだ。今回は父さんと喧嘩したから、それがきっかけで」
今回は気まぐれで事の経緯を説明する。
「そうなの! すごい……良いなぁ、そんなお母さん」
「なかなか強烈だけどな」
確かに美味しいお菓子は作れるが、喜怒哀楽は激しすぎるし、あの容姿だって母親らしいとは言い難い。羨ましがられるほどの人ではないだろうと思ったが、委員長は頬を緩ませていたのでまぁ良しとする。
いつもは、教室の隅でどこか強ばった表情しか見せない彼女なので、「笑えるのか」と英二は何故だか安堵したのだ。
「わ、私もね、実はこの前マカロン作ってみたんだ。初挑戦だったんだけど……失敗しちゃって。細見くんのお母さんが作ったマカロンは見た目も味も、私が作ったものとは正反対で、あれほど月とスッポンって言葉が相応しいものはないなってくらい」
委員長は自分を貶すように笑う。
――しかし、
「ピエは?」
「……へ?」
驚いた声を上げ、委員長は足をぴたりと止めた。
「どうした、委員長。早く行かないと俺、部活ある」
「あ、ああ、ごめんね」
委員長は小走りで英二を追い、再び肩を並べる。
「で、失敗したんだろ? ピエはどうだった?」
ピエはマカロンを焼いたとき、生地の周りにできるはみ出した部分のことである。ピエはマカロンを語る上で欠かせない重要な部分であり、ロマンとも言えるのだ。
「えっと……出来なかった。それに膨らまなかったの」
「焼く前に生地の乾燥はちゃんとしたか?」
「待っても待って乾燥してくれなかった。結局五時間で痺れを切らして焼いたらクッキーみたいにかたいのができて」
その言葉を聞いて英二はうーん……と唸り、これまでに自分がマカロンを作ってきたときのことを思い返す。
「……多分だけど、マカロナージュに問題があったんじゃないかな。あれは控えめにしたほうがいいぞ。上から垂らしてみて、リボン状に落ちたときがベストだ」
「えっ」
マカロン生地を作る工程にある、メレンゲと粉類を混ぜ合わてすりつぶしていく作業のことをマカロナージュと言う。生地を絶妙な具合までマカロナージュすることが、美味しく綺麗なマカロンを作るうえでは非常に重要となってくるのだ。これがなかなか匙加減が難しく、英二も初めて一人でマカロンを作った時は、委員長と全く同じ失敗を経験した。
「地味に難しいよなぁ、マカロン。そこが良いんだけど」
うんうん、と頷く英二を委員長は驚いた表情で見上げる。
「……細見くん、詳しいんだね」
「自己紹介の時にも言ったけど、俺もお菓子作り好きだから」
「えっ」
再び委員長の足が止まった時、後ろから佐々木の声が飛んできた。
「お、七條に細見。ノート持ってきてくれたのか、ありがとう。俺も職員室行くからあとは持ってくよ」
二人は言われるがままにノートを渡すと、向かい合う形で廊下に取り残された。
英二は委員長の手提げ鞄に繋がれているストラップが気になり、そちらを凝視していたのだが、もちろんそのことを説明しない。委員長は見つめられていることに動揺して、眉をひそめる。
「細見くん……? えっと……今日は本当にいろいろありがとう」
無言に堪えられなくなった委員長がそう言うと、英二もはっとして時計を見る。
「気にするな。じゃあ俺は部活に行く。委員長、気を付けて帰れよ」
じゃあ、と手をあげると英二はまわれ右をする。
気を付けて帰れとは言ったものの、もしかして部活に入ってたりするのだろうか、と一瞬だけ気になった。また話す機会ができたら聞いてみよう。そして……あのストラップのことも。
後ろ姿を委員長に見つめられていることに気付かない英二は、今度こそ急いで部室へと向かうのだった。