第32話 オリガ
夫のルークは陛下からも総団長のアスター卿からも頼られているせいか常に忙しそうにしている。それは誇らしい事なのだけれど、以前に比べて一緒にいる時間が減ってしまって寂しさと言いようのない不満を感じていた。
今年の夏も夏至祭の後に急遽決まったラヴィーネ遠征のおかげで1カ月間留守だった。あちらでは大きな問題が起きたみたいだったけど、それでも無事に乗り切って戻ってきてくれた。予定外の仕事だったけど、陛下からも労われ、その分秋まではゆっくりできそうだとルークは嬉しそうにしていた。だけど実際には何かしらの仕事があって、休みどころではないのが現状だった。
「5日後に休みをとるから一緒に出掛けよう」
季節が秋に移り変わる頃、帰宅したルークからそんな嬉しい提案があった。もちろん快諾し、次の日から私は喜んでその準備に勤しんだ。カミルも連れて3人で出かけるのは随分と久しぶりで、自然と準備にも力が入る。
「……ゴメン、仕事が入った。出かけられない」
待ちに待った当日、出かける直前に本宮から使いが来て、その手紙に目を通したルークはがっくりと肩を落とすと仕事に出かけてしまった。取り残された私はただ呆然としてそれを見送るしかなかった。
「あらぁ、元気が無いわねぇ」
その日の午後、ジーン卿が訪ねて来られた。悪阻も治まり、ニコル君も高等学院に入学したので、ロベリアへ帰る旨の挨拶をしに来て下さった。いつも通りにお茶を淹れてもてなしたつもりだったのだけれど、長い付き合いである彼女には気落ちしている事を隠し切れなかった。
結局、聞き上手なジーン卿に促されるまま、今朝あったことも含めて近頃胸の内にため込んでいた愚痴をすべて曝け出していた。
「だったら、家出してみない?」
私の愚痴を聞き終えたジーン卿はそんなとんでもない提案をしてきた。さすがに承諾は出来ない。カミルを残してはいけないし、私達だけで行けるところなどたかが知れている。ルークは単なるお出かけと気にも留めないだろうから、ジーン卿の言うところの家出にもならないかもしれない。
「少し慌てさせられればいいのよ」
ジーン卿はそう言ってミステルまで送るからロベリアに向かう船に同乗しないかと誘って下さった。確かにあちらならば彼にも私の本気度が伝わっていいかもしれない。そう思えてしまったのは、正常な判断が出来る状態ではなかったからかもしれない。
その場の勢いというのは恐ろしいもので、その後すぐに荷物をまとめて準備を進めた。サイラスもリタも何も反対しなかったし、更にはルークからその日は問題の対処の為に家に戻れないと連絡があったことがさらに勢いづかせ、翌日の昼頃にはカミルとレーナを伴って船に乗り込んでいた。
「はぁ……」
皇都を出立して3日。明日にはミステルに着くと言う頃になって私は家を出てきたことを早くも後悔していた。確かにあの時は落ち込んでいたし、気分転換が必要だった。それでもいくら休暇中だったとしても皇妃様やグレーテル様に挨拶もせずに皇都を離れるなんて失礼にも程がある。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ」
私の横で一緒に外の風に当たっていたジーン卿が笑っている。私が荷物をまとめている間に付き合いのある奥様方には知らせておいてくれていたらしく、港までマリーリア卿が代表して見送りに来てくれていた。
彼女は皇妃様から手紙を託ってきてくださっていて、それには心配せずにゆっくりしてきなさいと書かれていて、優しいお心遣いに涙が出そうだった。それでもこんな風に飛び出してきていい筈がない。なんだか胃が痛くなってきた。
「陛下もアスター卿もルークに頼りすぎるのよ。ルークはルークで生真面目だから部下に頼り切りにしようとしないし……。それに今回はミムラス家が余計な事をしたから全部悪い方に行ってしまった感じね」
「ミムラス家……レオナルト卿の事ですか?」
「そうね。跡継ぎに不適格と判断したのに、ルークが面倒見てから竜騎士の腕も上達して評判も上がってきている。逆に後継者候補になった3人の評判はあまり良くないから、完全に逆恨みよね。ああいった人種は何を考えるか分からないから、貴女達は皇都から離れて正解だったかもね」
その辺りの事はルークやサイラスからも聞いていたから最近は外出も最低限に控えていた。あの日の外出のお誘いは本当に久しぶりで嬉しかった。それなのに……。
「そんな風に悪い方へ考えるのは心が疲れ切っている証拠よ。だから、アジュガでゆっくり休んでいればいいのよ。ルークも自分が悪いのが分かっているはずだから、慌てて謝りに飛んでくるはずよ。その時に寂しかった事をちゃんと伝えて、たくさん話をして許してあげるの。すぐに帰る必要はないはずだから、一緒にのんびりすればいいわ」
「そうでしょうか……」
ジーン卿には何か根拠があるご様子だったけれど、楽観的に考えることが出来なくて、その後も1人胃痛を抱えてふさぎ込んでいた。
船は何事もなくミステル近郊の港に到着した。ジーン卿に背中を押されて下船すると、彼女の手配でミステルからアヒムさんとシュテファン卿が迎えに来てくれていた。更には皇都にいたはずのドミニク卿の姿もあって驚いた。確かに彼等なら半日もあればこちらまで来ることが出来るのだから当然なのだが、そこまで考えが及んでいなかった。どんな風に話を聞いているのか分からないので、彼等と顔を合わせるのも気恥ずかしい。
「隊長が心配しておられました」
「……」
どう答えていいか分からずに私は俯いた。
「大急ぎで仕事を終わらせたら来るので待っていて……だそうです」
そう言ってドミニク卿はルークかららしい手紙を差し出した。私は無言で受け取り、無邪気に愛想を振りまいているカミルとお守りをしてくれているレーナを連れて馬車に乗り込んだ。
どう気持ちの整理を付けていいのかまだ分かっていなくて、ドミニク卿に対してもものすごく失礼な対応になってしまった。反省はするのだけど、だけどまだ心が納得できなくてルークからの手紙も読む気にはなれなかった。
その日はミステルに1泊し、翌日シュテファン卿と教育部隊の2人が私達をアジュガへ連れて行ってくれた。その中にドミニク卿の姿が無かったので少しだけホッとした。私が聞いたわけではなかったけれど、シュテファン卿が昨日のうちに皇都へ戻ったのだと教えてくれた。いつになく丁寧な対応に、もしかしたら勝手な事をして彼等の手を煩わせたことに何か思う事があるのかもしれないと思えて仕方が無かった。
勝手に飛び出してきて失礼な態度を取っているのだから当然で、アジュガでも歓迎されないかもしれない。自分は一体何をやっているのだろう。そうは思うのだけど、思考は卑屈になっていく一方だった。
「じぃ! ばぁ!」
アジュガに到着すると、いつもと変わらない様子でビレア家の方々が出迎えて下さった。一番喜んだのはカミルで、飛竜から降ろしてもらうと真っ先にお父さんとお母さんの元へ駆けて行った。
「よく来てくれましたねぇ、カミルちゃん」
お母さんは嬉しそうにカミルを抱き上げ、お父さんは相貌を崩してうなずいている。いつもの光景なのだけど、今の私にはなんだか見ているのも辛い。出迎えて下さったビレア家の方々にお礼を言って、カミルを連れてそのまま領主館の部屋に引き下がろうと思った。
「カミルは預かりますよ」
リーナお義姉さんがそう言ってカミルと共にザシャ君とフリッツ君を伴って階下へ連れて行く。久しぶりに大好きなお兄ちゃん達に会えてカミルは随分と嬉しそう。そしてその手伝いをすると言ってレーナもその後に付いていった。
「私達はお茶でもしようかねぇ」
お父さんやクルトお兄さんを仕事をするように言って追い払うと、お母さんはのんびりとした口調で私をお茶に誘った。そんな気分ではなかったけれど、お母さんの誘いを断る勇気は無かった。そして一緒に個人的なお客をもてなす応接間へ向かった。
いつもなら自分でお茶を淹れるのだけれど、今日はお母さんが淹れて下さった。「はいどうぞ」と目の前に湯気の立つ茶器を置いてくれた。私はそれをぼんやりと眺めていた。
「オリガさん」
不意に私の隣に腰掛けて来たお母さんが私の手を取った。
「ルークが約束を破ったのだから、オリガさんは怒って良いんだよ」
「お母さん……」
「こんなにかわいい奥さんを悲しませるなんてルークは悪い子だよ。仕事を終わらせたらこっちに来るみたいだけど、ちゃんと謝らなかったら締め出してやってもいいからね」
きっと私が悪く言われるものだと思っていたのに、思ってもみなかった労りの言葉をかけてもらい、私はこらえきれなくなって涙を流していた。
「辛かったねぇ。良いんだよ。みんなオリガの味方だからね」
お母さんはそう言って私をそっと抱きしめてくれた。そして私が落ち着くまで子供をあやす様に、背中を優しくさすって下さっていた。
『オリガ、出かける約束を守れなくてゴメン。大急ぎで仕事をしているから、終わったらすぐにそっちへ行くから、ちゃんと謝らせて。もし、許してもらえるなら、お出かけのやり直しをしよう。だから、待ってて ルーク』
お母さんに慰められて少し落ち着いた私はその日の夜になってようやくルークの手紙を開いた。余程慌てて書いたのか、まるで走り書きの様だ。それでも愚直なまでに謝りたいと言う気持ちは伝わって来る。
「ルーク……会いたい」
私は何度もその手紙を読み返し、胸に抱いてまた涙を流し、そのまま眠ってしまっていた。
疲れがたまっていたのは確かだったようで、その翌日から2日程私は起きることが出来ずに寝て過ごした。カミルの事が心配で無理やり体を起こそうとするのだけれど、お母さんにやんわりと止められる。
「カミルの事は心配いらないから、ゆっくりお休み」
カミルはこちらの生活の方があっているらしく、リーナお義姉さんやガブリエラに世話をしてもらって元気に過ごしているらしい。やはりザシャ君やフリッツ君と一緒に居るのが良いのかもしれない。
やがて体調が良くなり、起きられるようになっても、私は気力が持てずにただぼんやりと過ごす日を送っていた。お母さんはただ疲れているだけだからゆっくりすればいいと言ってくれる。申し訳ない気持ちとは裏腹に本当に何もする気になれないでいた。
そんな日々を更に数日送ったその日の明け方、ルークに頭を優しくなでられる夢を見ていた。共寝をして迎えた朝、いつも彼がしてくれた優しい感触だった。
「ん……ルーク……」
「オリガ……」
低い、優しい声で名前を呼ばれる。自然と彼に体をすり寄せると、しっかりと抱きしめられる。いつまでも浸っていたい幸せな夢だった。
「オリガ……」
まだ夢の中でいたいのに、また名前を呼ばれて目が覚めてしまう。恐る恐る目を開けてみると、目の前にルークの顔があった。
「ルーク……」
思わず彼に抱きついていた。家を出た直後はアレコレ言いたいことがあった。頭が冷めてとんでもない事をしたと自覚した後はどう謝ろうか考えていた。でも、いざ本人を目の間にすると、そんな事は全て吹き飛んでいた。
「寂しい思いをさせて、ゴメンね」
「ううん、私が……」
その後は言葉にならなかった。彼の腕の中でただ涙を流す。彼はそんな私に何度も何度も「ゴメンね」と謝ってくれた。
夫婦喧嘩は犬も食わない




