とある女の追憶・浅
―――魔界戦争、後期。
空は血の色に染まり、大地は死臭に満ちる。聞こえる啜り泣きや断末魔すら日常となったその小さな村、十二年後にはもはや忘れ去られている前線近くの景色を、その少女はぼんやりと眺めていた。
『このままだと魔界に攻められて終わりだ。だが安心しろ、英雄である俺が助けてやるからな』
ウィアムやカルタの勇者一行が快進撃を挙げている噂は聞いていた。昨日まで明日を語っていた友達が爛れた血肉となっている、笑顔で少女を庇った大人達が獰猛な顎に下半身を食い潰されて、逃げ去る少女に助けを求める。そんな、生まれながらにして魔物という悪夢を眺め続け慣れてしまった彼女でさえ、やっとか、と息を零すくらいには期待を寄せていた噂だった。
勇者ウィアムと肩を並べ、魔界の四天王の一人を討ったと自称する《英雄》が村に訪れるようになったのはそれ以来だったか。
『ありがとうございます、ありがとうございます。命の恩人です』
『何もない村ではありますが、何卒これからも御力添えを―――』
現れた英雄達の活躍により少女が魔物を恐れることは無くなった。いや、比較的、恐れなくなった。少女に関心の無い両親も、少なくなった友人達も、村中の皆が、長い冬がようやく終わったと確信していた。
『何故ですか。……どうして、妻を見殺しにしたのですか』
『悪いな、俺達は英雄とは言え人間、動ける範囲に限りもあれば無尽蔵に体力がある訳でもない』
『なら、少しでも多くの人間を助けられるよう優先順位を付けるのは当然だろう?』
どうしてだろう。ここには英雄がいるというのに、どうして満たされないのだろう。どうして安心できないのだろう。もう震えて眠る必要は無いというのに。もう、涙を堪える必要は無いというのに。
『俺達も暇じゃない中お前達を守ってやっているんだ。嫌なら良いぜ、好きにすればいいさ』
『英雄達を引き留めろ! 村中の財をかき集めろ、さもないとおしまいだッ!』
『お前の所まだ隠し持っていたよなぁ? 出せ、早く寄越せ!』
ある者は鉄を渡した。ある者は形見を渡した。ある者は他者の財を売った。ある者は娘を売った。非力な村人達は英雄達に縋りつく以外に手段が無かった。
『もう何もありません。こんな辺境の村にはもう何も無いのです』
『一週間分の食糧もありません。このままでは共倒れです、どうか、どうかお慈悲を』
『そうかよ。なら煩い口は減らさないとな』
悪夢は終わっていなかった。
英雄に殺されるか、魔物に殺されるか。村人達がそのことに何の違いも無いことに気付いたのは全てが手遅れになった後だった。
『俺達だけが残れば一ヶ月は食えるだろうよ? ……なぁお前、そうだよな? 今まで生き永らえたツケだと思えば安すぎるくらいだよな? 喜んで死んでくれよ』
『善良で無知な村ってのは騙されやすくて助かったよなぁ。勇者の名前を出せばすぐに信じてくれるしな』
『おいおい、まるで俺達が盗賊みたいに言うのは止せ。俺達は確かに四天王アスピディスケを倒した英雄なんだぞ? 事実はしっかり誇っていこう』
笑い声と共に、殺戮は開始された。僅かな村人達は蜘蛛の子を散らすように逃げた。逃げ遅れた者は首を刎ねられた。刃向かった者は頭を割られた。本物であれ偽者であれ些細な差、誰一人とて英雄には勝てず、民家に、畑に、塀に死に晒していった。
―――その惨劇を、かの少女は何をするでもなく、ただ傍観し続けた。最初から悪夢に生きて達観を終えた少女は、他人事のように運命を静かに受け入れようとした。
『……何、見張りが殺されただと?』
『……鎧姿の男……いや、魔族だ! クソ、ついてねぇ!』
『チッ……引き上げ……いや、返り討て! 四天王を倒した俺達に敗走は無い!』
ふと、英雄達が焦り出した。最後の一人となった少女を見捨てて、一人が駆け出し、他が反対方向に駆け出した。四人の英雄が、黒き鎧の存在と対峙していた。
『炎よ、我等にチカ……ダメだ、間に合―――』
『鎧……まさかコイツ、四天の―――』
喚き声が上がる。鎧の魔族の隼よりも早く静かな手刀に誰一人として応戦できず、赤くてうねった肉を撒き散して死んでいく。村人達が彼らに殺された時よりも呆気なく千切られて、後には血溜まりだけが残った。
『…………あ』
少女は初めて声を上げた。鎧の奥の目が合った、気がした。籠手から血がだらりと落ちて、少女の服を濡らす。少女は恐怖を覚えた。惨たらしく死ぬことではない、この英雄達の血で自分が汚されることに、酷く忌避感を抱いた。
『―――借りを返しに来た、人間』
『…………え』
顔を上げた。その声は、何週間も前に聞いた声だった。血に塗れた籠手は、低く響く音を立てると独りでに開き、人間と遜色ない素手が少女の手を握った。
『我が名はカノプス・アガスティア。我が義に従い、貴台を生き永らえさせることを約束しよう』
魔族の手首に見えた、少し赤黒く染まった水玉模様の布。それは奇しくも、かつて少女が助けた男を連想させるものだった。