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File.21 ハイナー・ドーフライン

 八月十九日の朝、視力が回復せず、まだ思うように手足も動かせないクリスタが朝食を食べ終えた、正確には食べさせてもらい終えた頃に、アレニチェフが医務室を訪れた。


「体調はどうかね?」


「見ての通りです。前が見えないことと一人じゃ歩けないこと以外は問題ありません」


「元に戻るには時間がかかりそうか?」


「医師の話では体の痺れは数日で、目はかなり酷使しましたから最低で二週間はかかるだろう、とのことです」


 視神経は扱う情報量が段違いだ。そのためかかる負荷も尋常ではない。最後のスワンとの戦闘があと数分長引いていたら完全に失明していた可能性もあった。

だが、時間をかけて治るのだから文句は言えない。それが叶わない者は大勢いる。


「二週間か、ぎりぎり間に合うな」


「間に合う、とは?」


 気難しそうに低く呟いたアレニチェフへクリスタは聞き返した。彼は返答に悩んでいるのか、少し唸ってから話し始めた。


「休戦会談のことは既に聞いているな?」


「ええ、昨晩エドガーさんから」


 彼の口からそれを聞いた時は、想像よりも事が早く進みほっとしたし、任務が本当の終わりを迎えたと感じた。


「その休戦会談の前日に、最高議長がこの基地への訪問を希望なさっている。君を含め、パイロット達に礼を言いたい、と」


 そう、自分は最高議長の娘として戦いに臨まされていたのだ。


 忘れようとしていた事実を突き付けられ、僅かに動悸が早まる。

クリスタは、家族も友人もいる人間が互いに命を奪い合う戦いを、政治の道具としか思っていないあの男が大嫌いだ。そしてまた、こんなことで動揺してしまう自分も情けなくて嫌いだった。

つい、無意識のうちにアレニチェフに対して刺々しく返してしまう。


「何も言うことはありません。私には関係のないことです」


「君の気持ちも分かるが、ただのポーズだ。どうか我慢してくれ。くれぐれも軽率なことだけは……」


「皆さんに迷惑をかけるようなことはしません」


 エゴの尻拭いを周りにさせるようでは、あの男と同類になってしまう。クリスタはできるだけ毅然として答えた。

 アレニチェフは何か思い直したように微かに笑うと、ゆっくり立ち上がった。


「そうだな、年寄りの杞憂だった。気にしないでくれ。ただ、これだけは覚えておいて欲しい。短い期間だったが、私は君とともに戦えたことを誇りに思っている」


 至極ありふれた言葉であったが、とても嬉しかった。

 しかし、この喜びを伝えたいと思う気持ちよりも照れ臭さが勝ってしまい、口からは形式的な感謝が出てしまう。


「こちらこそ、大佐の下で戦えたことを嬉しく思っています」


「……それでは回復を祈っている」


 彼は几帳面に間隔の整った足音を響かせつつ去っていった。


 


 視力がある程度戻ってきてからクリスタはリハビリを開始した。元からそれなりには動かせていたので筋力が落ちていたり、関節が固まってしまっていたりということはなく、ひたすら細かな動作の反復を繰り返すというメニューだ。


 基地の狭い階段を何度も踏み外しそうになりながら昇り降りして、休憩がてらに、誰かが引っ張り出してきたジェンガを黙々と組み立て、崩していく。

 あくびが出るほど退屈な行為だが、クリスタはこれらのリハビリを凄まじい集中力で遂行し続けた。他のことを考える余地が無いくらいに。

 

 しかし、どんな心持ちだろうと時は機械的に前へと進み続ける。


 とうとう迎えてしまった九月五日の朝。


 六日前に医務室のベッドを卒業していたクリスタは鏡の前でジャケットのボタンを閉めた。礼装用の青い軍服ではなくODのパイロットジャケットだ。


 手足の麻痺は無くなり、視力も元に戻った。クレイバードの操縦も許可されている。

 この日もいつも通り朝食を食べた後、哨戒任務に出た。自然発生したパシフィックとの緩衝地帯に接近し過ぎないよう注意を払う。電波妨害は両戦力とも停止していたためレーダーが互いの機影を察知することもあったが、臨時の協定に則りアクションは起こさなかった。帰還し昼食を取るのもいつも通りだ。


 四年も続いた戦争に比べ、この平穏が訪れてからまだ一か月も経っていない。それに早速慣れ切ってしまったことを喜んでいいものか、クリスタは悩んでいた。


 しかし個人的にそれよりも重大な事態が目前に迫っているので、余計なことだ、と頭の隅に追いやる。

 気が付いた時には、開け放たれた航空機用のゲートを前に皆で並んでいた。

 アリオールよりも二回り大きい輸送用のクレイバードが、静かに降り立つ。最高議長を乗せているだけあって気味が悪いほどに丁寧な着地だ。パイロットの卓越した技術を窺わせる。

 乗降扉が外側に開いて短い階段になる。同時に護衛の兵士が数人降りてきた。

 クリスタらは、続いて軍服姿の将校が肩を張ってゆっくりと降りるのに敬礼で応え、そのままの姿勢でハイナー・ドーフライン最高議長を迎えた。


 ハイナーは四十九歳と国の指導者としては多少若い程度だ。しかし、鮮やかなブロンドやハリのある肌は、彼を非凡で活力に溢れた若者のように、また、知性と品格を備えたジェントルマンのようにも見せる。

 太過ぎず細過ぎない筋肉質の体を、旧イタリア時代から続くブランドのオーダースーツで包み、気取らない優雅さでクリスタ達の前に歩いてきた。

 ハイナーが微笑をたたえアレニチェフへ目配せをすると、彼の合図でパイロット達は腕を下げ、休めの姿勢を取る。


 ここで美麗で勇ましい演説などをしないのが、彼と旧世紀以前の指導者達を分け隔てる最大の特徴だ。

 ハイナーは自らアレニチェフへ歩み寄り右手を差し出す。


「お会いできるのを心待ちにしておりました。アレニチェフ大佐」


「こちらこそ、このような機会を頂き誠に光栄です」


 アレニチェフはハイナーの手を固く握った。彼はハイナー流をよく理解している。

 ハイナーは時代が求める指導者そのものであった。分かりやすく勇ましい言葉で大衆を熱狂させ背中を押すのではなく、優しく手を取りエスコートするのだ。


 人柄や頭脳が彼と似通った政治家は過去にも存在していただろう。しかし、求められた時に生まれたのは彼一人だ。


 そしてハイナーの立身出世は常にユーラシアとともにあった。


 元から同盟関係にあった諸外国を力でまとめ上げたパシフィックと異なり、複雑な利害関係の絡み合うユーラシアを一つの勢力圏にするのは不可能にも等しいと思われた。

 ハイナーはそれを成し遂げ、ベルリン条約機構を発足させた。

ただひたすら理性的に最適解を選び続けることで。

 

 アレニチェフとの会話を終えたハイナーが、クリスタの前に立った。


「クリスタ、今回の戦争が終結を迎えたのは君の活躍があってこそだ。とても誇りに思うよ」


 クリスタは引きつった笑みを浮かべて恭しく答える。


「お父様のご期待に沿えたことを嬉しく思います」


 わざわざ父親らしい口調で語りかけてきたのも、それがクリスタの神経を逆撫ですることであるのも、全て思惑通りなのだろう。クリスタが自らの周囲への影響を考えて表立った反抗ができないことを知っている。それを分からせるためにハイナーはこうやっているのだ。

 ハイナーを認知している人間であれば、深読みし過ぎだと笑うことはない。彼を甘く見た者達は手痛いしっぺ返しを食らって目を覚ますか、場合によっては永遠の眠りについているのだから。


「任務において君の大切な仲間が命を落としたとも聞いている。辛かっただろう」


 クリスタはハイナーの声をただの音の羅列として処理し、機械的に用意した返答を発音しようと努める。


「私が折れてしまっては、彼らに申し訳が立ちませんから」


「そうか、強いなクリスタは」


 誰のせいで始まった戦争だ。


 誰が考えた任務だ。


 腸が煮えくり返るような怒りを抱えながら、目の前に立つ男の殺害方法を思案する。

 拳銃はもちろんロッカーに預けているが不意をつけば首を絞めて殺せるのではないか、一瞬そう考えた。しかしハイナーがシステマだかジュード―だかの経験者だという話を思い出し却下。

 次の案を考え始めた時、体の横に添えた右手の甲に小さな感触があった。カミラが微かに触れてきたのだ。

 クリスタは冷静さを取り戻し、ハイナーとの戯言を何事もなく終えた。


 それからのことはあまり覚えていない。


 ハイナーはパイロット全員と短く言葉を交わした後、元の輸送機に乗ってどこかに飛び立ったのだとは思うが、何だかぼんやりしている。

 クリスタは精神が擦り切れそうな感覚に疲れ果て、格納庫の隅で膝を抱えてうなだれていた。

 そこにカミラがやって来て、遠慮なく隣に腰を下ろす。


「あんた頑張ったじゃないか、よくやったと思うよ」


 カミラの手がそっと肩にかけられた。


「私のこと、変だと思いましたか? あんなに最高議長のことを目の敵にして……。私だってあの人が悪人ではないと知ってるんです。でも」


 ハイナーは指導者として完璧に見える。大勢の人間を導くために一部の人間を犠牲にする覚悟を備えているし、それでいて一人の死を悲しむ情愛も忘れていない。しかし、それら全ては理性的に塗り重ねた産物だ、クリスタにはそうとしか思えない。

 カミラはいつもと違って慎重に言葉を選び、答えを捻り出していた。


「いや、分かるよ。たしかに最高議長は悪いやつじゃない。けど、昔テレビで見たのとは印象がまるで違った。何というかさ、深淵を覗くってこんな感覚なのかなって思ったよ」


 彼女の口から妙に知性的なセリフが飛び出たのが、少し可笑しくってクリスタは息を漏らすように笑ってしまった。


「ちょっと、何で笑うのさ?」


「いえ……何でもないです」


 理由を喋ったらさすがに失礼だろう。そう思うと余計に笑いが止められなくなる。カミラは首を傾げ、肩をすくめた。


「ま、元気が出たならいいさ」


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