File.10 測りがたい距離感
遠慮というものを知らない日差しの下、潮風に煽られながら辿り着いた整備プラントは、静まり返っており無人のようだった。
てっきりブレントはこちらにいると思っていたアレンは髪を掻きむしりながら引き返そうと振り返る。その時、聞き慣れた声が少し離れた格納庫の中から聞こえてきた。
機体搬入用のゲートは閉まっているが、通常の出入り口がわずかに開いている。
何となく気配を消し、格納庫の扉へ忍び寄った。そのままゆっくりと中を覗き込む。
衝撃的な言葉が聞こえた。
「この戦いが終わったら、私と結婚してください」
声の主はアキだった。整備のために停めてあった自身の機体の翼に座っている。
全く予想していなかったわけではないが、発言の中身も含め小さくない衝撃を受けたアレンは、さらに目を見張る。
会話の相手はマイクだ。クレイバードには触れず、アキを見上げる形で床に立っている。
この距離では話の内容を完全には聞き取れない。アレンは息を殺して、聴覚に神経を集中させた。
「……私のこと、嫌いなんですか?」
彼女のプロポーズは断られたようだ。アレンはヘクターの話を思い出し、複雑な感情が沸き上がってきた。
「そういうわけではありませんよ。ただ、私はあなたを不幸にしかねない」
「構いません! いつ死ぬか分からない今こそ不幸そのものでしょ!」
アキは身を乗り出し声を荒げる。相対するマイクの表情は窺えないが、平常通り抑揚なく応えた。
「死よりも残酷なことなどいくらでもあります。私がこの先歩むのはそういう道です」
マイクはそう語ったが、事務方である彼の発言としては引っかかるものがある。
さらに盗み聞きを続けようとアレンが体勢を低く変えた時、腰に何かが触れた。
音を立てないようにしながらも勢いよく振り返ると、ブレントがアレン同様、扉の隙間に耳を向けて盗み聞きに励んでいる。
思わず口を開きかけたアレンを、ブレントは人差し指を立てて制した。とりあえずは聞くことに集中しろ、とのことらしい。
つまらないことで数秒分聞き逃してしまった。ブレントのことを睨みつけながらアレンも耳を澄まし直す。
「今の私にはやるべきことがあるのでアキさんの話を承諾することはできませんが、それ終わった時にまだ思いが変わっていなければ……。隣は空けておきますから。まあ、意図的に空けておく必要もありませんが」
やるべきこと。その言葉がアレンの頭に強く残る。
「分かりました」
マイクのちょっとした冗談には反応せず、アキは小さく頷いた。
「ではみなさんのいるプラントへ向かいますか。記録官とパイロットが個人的な接触をするというのは、心証が良くないですから」
「すぐに行きますから、先に行っててください」
「……そうですか」
話を終えたマイクが扉に向かって歩き始めた。
「やべっ!」
盗み聞きがバレたところで何か罰せられるわけでもないが、単純に今後の距離感に困る。アレンとブレントは近くにあった整備用車両の影に飛び込んだ。
幸いマイクはアレン達に気付くことなく過ぎ去っていった。
十分離れたことを確認したブレントがほっと胸を撫で下ろす。
「いやーやばいの聞いちゃったな」
「そんなことより、お前はなんでこのタイミングで来たんだよ」
ブレントのことは探していたが、よりにもよってこんな時に現れるとは。
「アレンとヘクターさんが整備プラントに歩いて行ったのが見えたからさ。今はメカニックが全員向こうに行っちゃってるし、俺が要るだろうと思って」
「あー、それは……ありがとな」
至極真っ当な回答にアレンは己の邪推を恥じた。今度はブレントの方が聞き返す。
「で、お前はここに何の用なんだ?」
「それは――」
これまでの経緯を説明しようとアレンが切り出した、その時、背後でこつんと小さな足音。
「二人共、盗み聞きとは感心しないわね」
誰が後ろにいるか、予想が絶対に当たっている自信がある。
アレンと向かい合っているブレントは苦笑いしながら数歩後ずさり、
「あはは……さーて、クレーンの点検に行かないと」
引きつった顔のまま一気に走り出した。残されたアレンは観念して声の方を向く。
両手を腰に当て、むすっとした顔でアキが立っていた。
「アキ姉さん、いつから気付いてた?」
「最初からよ」
アキは平然と、むしろいつもより語気を強めて言い切る。しかし、その瞳には涙を溜めているように見えた。
ヘクターの話が前提にあるアレンにとっては、何だか、とても意外な光景で戸惑う。だが、それの意味することは瞬く間に理解できた。
アキはアレンの視線に気付き、はっとして顔を背ける。
「アキ姉さんはあいつのことが好きなの?」
ひどく幼稚な訊き方しかできない自分にうんざりする。が、適切なセリフや他の語彙は習っていない。
「分からない。ただ、あの人とたくさん話したいと思った」
寂しげで味気ない答えだった。
「そういえば、いつもあいつと何を話してたんだ?」
マイクが来てからというもの、アキは暇さえあればマイクを捕まえて何やら話し込んでいた。和やかに談笑している時もあれば、いつになく真剣な顔で重苦しく言葉を交わしている時もあったように思う。
「アレンは、この欧州戦線がいつ始まったのか知ってる?」
アキが突然話題を切り替えたことに首を傾げながらも、正直かつ素直に返す。
「いや……考えたこともない」
アレンがここに来る前から始まっていたのは確実だが、具体的にいつのことなのかは教わっていない。
「正解は約四年前。私もつい最近まで知らなかった」
自分が軍に入ったぐらいか、などとアレンが考えている間もアキは喋り続ける。
「今までも気になったことはあった。でも、誰も教えてくれないし、ここじゃ調べる手段もない」
当たり前のことながら、一般の兵士がインターネットなど使わせてもらえることはなく、外部との接触する機会は、二週間に一度、司令部の管理下で家族と電話する時だけだ。施設出身のアレンやアキなどは親族がおらず、そういう機会は皆無。
しかし今の話とマイクがどうつながると言うのか。
「その機密情報をあいつが教えてくれたのか?」
「機密でも何でもないわ、本国なら五秒で手に入る情報だって。まあ誰も気にしないのはここと一緒らしいけどね。問題なのは、みんなそれを疑問に思わないってことよ」
「いまいち俺にはピンと来ないな」
アレンがそう呟くと、アキは悲痛の表情を浮かべる。彼女の孤独、そしてその原因をアレンは感じ取った。
「彼が知りたいことを教えてくれた……それだけで、今までの息苦しさが楽になった気がする」
マイクの意図も、アキの苦しみもアレンの理解が及ばないものだ。それでも、
「俺は――」
「何も言わないで!」
言葉を遮られたアレンは内心、安堵していた。とりあえず言い繕ってみようとしたが、何を言えばいいか考えていなかったし、考えたところで正解など頭の中に持ち合わせていないだろうからだ。
束の間の静寂の後、不意にアキはアレンの目を真っ直ぐ見つめてきた。先ほどまで堪えていた涙が一筋の跡を作り零れている。
その目から真意を窺おうとしたアレンに、アキは唐突に抱き着く。
「アキ姉さん……」
反射的に離れようと足を動かしたが、アキの腕はアレンの背中に回り、強く抱き締めてきた。
「ごめん……ちょっとだけ、このままでいさせて」
彼女の嗚咽混じりの囁きに、アレンは身を任せる。
自分のものか判別できない心臓の鼓動だけが時を刻み、ゆっくりと流れていくようだった。
一時間にも感じる一分が過ぎ、アキは力を緩め、するりと腕を離す。
「ありがとね……それにしても、あなた意外と可愛いところもあるのね、ちょっと意外」
「え?」
困惑するアレンを他所に、呆気に取られる間もなくアキは走り出していった。