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7

最初に感じたのは、頬を撫でる冷たい感触。体の中の熱を攫っていくようなうすら寒い風に、シルフィーは閉じていた瞼をゆっくりと持ちあげた。

「うっ――――――」

次に感じたのは、全身から伝わってくる鈍い痛み。

………痛い、体全体が、鈍く痛む。

僅かに開いた瞼の先に広がる視界は、酷くぐらついていた。

ぐるりぐるりと回る視界。不安定な世界をよく見ようと、何度か瞬きを繰り返す。

暫くそうしていると、不安定な視界が徐々に正常なものへと戻ってくる。

―――――灰色の世界。

彼女の視界に飛び込んできたのは、四方を薄汚れた建物に囲まれた、大きな広場のような場所だった。建造物自体は民家だと分かるのだが、煤汚れや埃で覆われているところを見ると、もう何年も使用されていないようだった。

吹き抜ける風が地面の埃を舞い上げるのを暫し呆然と見つめ、ぽつりと呟いた。

「…………ここ、どこ。私、どうして、こんなところに――――」

一体何がどうなっているのだろう。どうして、こんなところに。

「―――――?」

金属音。

じゃらりという音と共に、自身の縛られた腕・・・・・に繋がれているが不快な雑音を響かせた。

「これ、なに――――――」

両腕を動かそうとするたびにガチャンガチャンという硬質な音だけが木霊する。

彼女の両腕は、頭上で鎖に繋がれていた。

恐る恐る視線を持ち上げる。

両手首につけられている鉄の円環。手首につけるアクセサリーにしてはあまりにも趣味が悪いそれから伸びる黒い鎖は、シルフィーが背を預けている民家の壁に打ち付けられている杭に向かっている。杭は根元まで壁に食い込んでいて、力を込めて両腕を動かしてもビクともしない。

そこまで理解が及んでやっと、シルフィーの心の隅に恐怖と不安が湧きあがった。

理解不能。何故このようなことになっているのか全く身に覚えがない――――いや。

「待って……私、何か忘れて―――――」

そして彼女は思い出した。

脳裏に浮かび上がったことに、目を見開く。

痙攣するように震える全身。喉元から込み上げてくる吐き気に思わずえずく。

目尻の端に、涙が浮かぶ。

(そう、だ――――――私………)

冬ではないというのに止まらない震えに必死に抗いながら、シルフィーは思い出す。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


―――――シルフィーは頼まれた買い出しの材料を揃えるために、城下街を散策していた。

人混みの中で目的のものを探すことに、思いのほか苦労させられた。

アリアーデの希望する材料の悉くが、簡単には手に入らない、比較的珍しい部類に入るものばかりだったからだ。

前もってアリアーデから貰っていたメモに書かれている材料の半分程度をやっとの思いで買いそろえた頃、シルフィーは道脇の長椅子に腰を降ろしてひと息ついた。

「―――――ふぅ」

人混みから抜け出したことで疲れが出たのか、シルフィーはため息をこぼした。

やっと折り返し地点。あと半分も残ってる………。

隣に乱雑におかれている材料の数々。真っ赤な色をした実から、毒々しい紫色をした茸のようなものまで、未曾有さに集められている珍品を眺める。

こんなものを売っているお店を探すだけでも一苦労だというのに、あの店長は……。

最初は気を使ってくれたのかと思ったのだが……とんでもない思い違いだったらしい。

体よく言い含められて働かされているだけのようにしか思えなかった。

「はぁ………」

背もたれに背中を預け、全身から力を抜いた。

頭上をゆっくりと流れる白い雲をぼーっと眺める。

何も考えずひたすらに雲を眺めていると、ふとシルフィーのあることが過った。

「………あの時のアッシュ、何だか不思議な感じだったなぁ」

繰り返されるあたりまえの日常。少しつまらなくも平和な日々。そんな何の変哲もない彼女の生活の一コマの中に突如として紛れ込んだ非日常。

何ら前触れもなく起きた事件。シルフィーにもはっきりと視えた、何か刃物のようなものを持って押しかけてきた青年。それをあっさりと撃退した金髪の女の人。

目まぐるしく変化する状況はどれをとってもシルフィーにとっては衝撃的だったが、その中で特に今でもはっきりと脳裏に浮かび上がるのは、見知った少年の背中だった。

(―――――あの時の背中、何だか、凄く大きく見えた)

普段から見知った少年。もう家族の一員と言っても何ら差支えのない同い年の従業員なかま

穏やかで、どこか抜けたところのあるその少年がとったあの時の咄嗟の行動が、シルフィーの中では違和感という名のしこりとなって残り続けていた。

カプリコルで働く中で、あの少年の姿は見知っているはずだったのに、まるで別人のようだった。

(それに、何だか)

いきなり目の前に現れたあの少年は、シルフィーを守るように背後へと押しやった。

突然のことで目を白黒させたものの、彼の背中に庇われているのだと分かった時は、何故かは分からない、分からないが、酷く安心したのを覚えている。

彼の背中の後ろなら、きっともう大丈夫なのだと、無条件にそう思えて――――

「――――何考えてるの……私」

左右に頭を振る。

「……だいたいアッシュってば、あんなぼーっとして。情けないったら………」

そこまで呟いて、暫く沈黙。

「私……どうしてこんなことで悶々としてるのかしら」

別に、アッシュは何もしていないというのに。ただ一方的に不機嫌になっている自分が、馬鹿みたいに思えた。

そして、外を無言で眺め続けていた、心なしか元気がなかった少年の姿に。

「……もう、仕方ないわね」

シルフィーは立ち上がった。

「……あとで倍にして返してもらうんだから」

そう言った彼女の顔は、どこか吹っ切れたような、薄い笑みを湛えていた。

――――店長に頼まれた買い出しついでに、店内で呆けていたあの少年の分も何か買って帰ろう。そうすれば、きっと少しは元気を出すに違いない。

そう思えた瞬間に、心なしか足が軽くなったような、そんな気がした。

さっきよりも随分と軽い足取りでシルフィーが一歩を踏み出した刹那―――変に生ぬるい風のようなものが頬を撫でた。

自然に吹き抜ける微風とは違う。何か奇妙な感覚を抱かせるぬるりとした何かが、彼女の目の前を駆け抜けていった。


―――――――なに?


なんだろう。

ぶるりと、背筋が震えた。

別に、寒いわけじゃない。

決して今日の気温は低くない。寧ろ、暖かいといっても良い。寒さを感じるのような要素は、なに一つとしてない。

だから。

ゆっくりとシルフィーはその生暖かな何かが吹きつけてきた方向へと視線を移した。

―――――――裏路地。

丁度彼女が立つ横方向の先にあるのは、日の光が差し込まないことによって出来た暗い影で形どられた細い裏道への入り口があった。

(あれ………)

ぞわりと、悪寒がはしる。

左右を民家に囲まれたその入り口は、まるで深い闇が大きな口を開けてこちらを待ち構えているような、そんな奇妙な感覚をシルフィーに抱かせた。

(なんだろう……あそこ。いつも、あんなに暗かったっけ……?)

この通りは別に、初めて通る場所ではない。

普段からここはよく通る。精霊祭の為に屋台の種類や並びこそ変わってはいるものの、道自体は彼女のよく見知ったもののはず――――だった。

今見た裏路地の入り口は、暗闇に満ちていて、先を見通すことは出来ない。

よく知るはずのその場所は、何故か今日は全く知らない異国の地の様に、見え覚えのない異質なものに思えて仕方がなかった。

「…………」

彼女の爪先は、気づけばその裏道の方へと向いていた。

一歩、また一歩と、普段とは異なる異質なモノに引き寄せられるように、彼女の足は少しずつ、けれど確実にそこへと近づいていく。

………最初は気の所為だと思っていたけど。

あの裏路地へと一歩近づいていくたびに、奇妙な感覚が彼女の体を通り抜ける。

それに、間違いない。

あそこへ接近するにつれて、その感覚はより強く、色濃いものになっていく。

(――――私、この感じ……どこかで)

光に引き寄せられる虫のようにふらふらとした足取りで前に進む。

歩くたび、歩を進めるたびに、ハッキリとしていたはずの意識が、まるで微睡の中にいるような、そんな霧がかかった感覚によって埋め尽くされていく。

なんだろう。この感じ、覚えがある。間違いなく、気の所為などでは無い。

それも、本当にごく最近。それこそ、ついさっきと言い換えても良いかもしれない。

ぼやけた思考で、考える。

(―――――――そうだ。これは、あの時・・・と同じ感覚)

カプリコルに訪れた金髪の女性が突如として謎の氷を出現させたとき。

自然に水が凝固することで出来た氷ではない。何もない場所から滲み出るようにして現れたあの現象を見た時に感じたものだった。

(………それに)

シルフィーは他にもこの奇妙な感覚に心当たりがあった。

思い返してみれば、アッシュが戻ってきた時に連れていた真っ白なローブを被っていた女の子。

どうして分からなかったんだろう。

思えば彼女からも、同じような気配がしていた。

(あと、他にも……これと似た感覚を、感じたことがある。そう……今より、ずっと前に)

現在から過去へと意識を飛ばすように、更なる記憶を遡る。

そう、そうだ。この感覚を、初めて感じたのは……さっきの出来事じゃない。さっきよりもずっと前に、感じたことがある気がする。

(だけど、どこだっけ………)

思考はそこで止まる。

それ以上を思い出すことを、自分自身が拒んでいるかのように。

記憶を遡っている最中に、大きな壁に直面したような感覚があった。

まるで、そこから先へは進めないと言わんばかり。けれどそれでも、シルフィーはその先を思いだそうとして。

―――――ザザザ、と。思考にノイズが混じる。

「―――――痛っ………」

ズキっと、頭に鈍痛がはしり、シルフィーは顔を顰めてふらついた、その刹那。

描写された絵画を連続で見せつけられたように、脳裏をいくつかの“何か”が過ぎった。


――――――雨の中に立つ緋色の女性と、地面に倒れ伏す灰色の少年。


――――――女性はその少年に向かって手を伸ばす。無言で差し伸べられたその白くほっそりとした手に、少年はゆっくりと顔を上げて。


――――――真紅に輝く・・・・・少年の瞳が、その緋色の女性の真後ろ・・・に立つ“自分自身”へと向けられた。


――――――それに少女は――――シルフィーは――――――。


ガッと、足元の石ころか何かにぶつかって蹴躓いたのか、足がもつれた。

「あっ―――――」

反射的に手を前に突きだす。

すると、その手がにぶつかった。

「痛っ………って」

ジンジンと主張してくる手の痛みに、目を見開く。

気づけば、シルフィーは裏路地のど真ん中で立ち尽くしていた。

左右は灰色の壁によって囲まれ、頭上を見上げれば聳え立つ壁の果てから見える細い空がある。

閉塞感と、暗闇。その二つが満ちるその場所で、シルフィーは自分がいつの間にかここまで歩いてきたのだということに思い至った。

「一体、いつのまに、私……」

まるで、夢から醒めた直後のような。

記憶の一コマが丸ごと飛んでしまったような、奇妙な断絶の感覚にシルフィーは首を傾げることしか出来なかった。

「なんで、私、こんな奥まで来るつもりなんて、全然なかったのに―――――」


――――――いや………!


「っ………」

ピタリと、シルフィーは口を閉じて硬直した。

全身に、変な力が入る。

手足が、動かない。顔どころか、眼球すら、動かせない。

「………今の、悲鳴………よね?」

彼女の視線は遥か奥まで続く暗闇の一本道の先に向けられていた。

変に生ぬるい風が吹き抜けてくる先に、ごくりと唾を呑み込んだ。

冷や汗が、頬を伝う。

手足が、震える。

―――――逃げないと。

心の中にまず最初に浮かんできたのは、その言葉だった。

この奥で、何かが起きている。何かは分からない、けど、それはきっと平穏な日常を過ごしてきた自分では到底直視出来ない何かに違いない。

誰かを呼んで、悲鳴のことを知らせないと。

いや、それよりなにより。

今すぐこの場を離れるべきだ。

ここに居ては、いけない。自分は今、踏み込んではならない場所へと踏み込んでしまったのだと、シルフィーは直感的に思い知った。

震える体を必死に動かす。

全力で体を動かそうとしているのに、現実の体がとる行動は酷く遅い。そのことにやきもきしながらも、この場を去ろうと体の向きを変えようとして―――――。

ドシャリと。暗闇の奥から彼女の目の前に何かが吹き飛んできて転がった。

「――――――」

余りの恐怖に、悲鳴すら出なかった。

喉は引きつり、震えるばかり。とても役には立ちそうにない。

―――――それは、人だった。

ただし、まともな人では無い。

全身が、真っ赤に彩られた人だった。頭部から足先に至るまで、無数に刻まれている赤い裂傷。ドクドクと地面へと流れる血は、色鮮やかな鮮血色。

咽かえるような鉄のにおい。普段ならまず体感することのない、嗅覚という名の強烈な刺激に、シルフィーはその場に崩れ落ちた。

込み上げる吐き気に、口元を手で覆った。

「―――――げぅ、うあ――――」

痙攣する胃を抑えつけ、必死にシルフィーは吐き気に抗った。

ぐらりぐらりと揺らぐ視界の隅に、その人を捉える。

金髪の少女だった。肩まで伸びる眩い金色の髪に、大きな目元。城下街でも滅多に見ることができないほど整った容姿の少女は然し、生気を全く感じなかった。

愛くるしさを感じさせたであろうその大きな目は力なく開かれているだけ。瞳孔は光を映さず、ただただ真っ暗な闇だけがそこにはあった。

―――――なんなんだろう、コレは。

シルフィーは目尻からこぼれる涙と共に、そんなことを思った。

一体、何が起きているのか。理解不能。理解することを頭では無く、心が拒む。

目の前の現実を直視して、認識してしまえば、きっと自分の心はまともではいられなくなる。

本能的にそう感じたシルフィーはただただ震えるばかりだった。

「――――――なんだぁ?人払いの結界が張ってあったはずなんだがなぁ」

腹の底まで響くような声と共に暗闇の奥から現れたのは、同じ闇色を身に纏った巨大な体躯の男だった。

まるで、闇が人の形を伴って浮かび上がってきたかのよう。頭からすっぽりと、漆黒のローブを被っているということも理由の一つだろうが、何よりも、目の前の男が纏っている不気味な存在感のせいで、同じ人間だとは到底思えなかったというのが、一番の理由だった。

「――――って、なんだよ、ただの小娘じゃねえか」

黒ローブの男は呆然と座り込んでいるシルフィーを見下ろし、そう言った。

鼻を鳴らし、地面に転がる血まみれの少女の遺体を足先で蹴飛ばした。

「けっ、てっきり此奴の仲間かと思っていたんだがなぁ……あてが外れちまった」

ギロリと。ローブで顔は見えないというのに、大男の視線が此方を向いたことが分かった。

「で、てめえはどうやってこの場所にどうやって入り込んだ?人払いの結界を破って入ってきたわけじゃあなさそうだな。精霊使い……いや、違うなぁ。気配・・を感じねえ」

こちらを睥睨する大男にシルフィーは震えることしか出来なかった。

逃げなきゃ。今すぐに、全力でこの場から逃げ出さないと。

このままじゃ、きっと―――――。

心ではそう思っているのに、力なく座り込んだ両足はピクリとも動かなかった。

(どうして、どうして動かないの!)

動揺と混乱の視界の中で必死に体を動かそうともがいても、状況は何も変化しない。

自分の体が、まるで他人の物になってしまったようだった。

「ただの一般人か。参ったぜ、大将の言ってたことが本当になっちまった。やっぱ、余計な遊び心は起こすんじゃなかったなぁ……」

そう呟いた大男は、突然ピクリと顔を上げると、耳元付近に手を当てた。

「―――――お、大将。何だ、急に思念を寄越すなんざよぉ。何かあった――――あ?一部の貴族共が動いてる?九大貴族の………はっ、第三位様かよ!はははっ、おもしれえじぇねえか!分かった分かった、出会ったら殺しておくよ」

いきなり一人で話し、笑い、肩を上下させ始めた男を前に、彼女は息を呑んだ。

(なに――――――?)

ただそれは、目の前の人物の奇妙な行動に対するものではなかった。

(頭に、何か……声が)

大男が一人で話し始めたのと同じタイミングで、シルフィーの脳裏を、まるで人の声のようなものが響いてきたのだ。


『―――――い  しろ。ただで え、厄介  を起こし  ないだ う』


途切れ途切れのその音声は、彼女の耳ではなく、頭に直接話しかけられているようだった。

「分かってるって、俺だって仕事くらいは真面目にやってやるさ」

『だと良いのだ な。此方はこれ  霊脈レイラインに干渉 る。国内の 霊力の流れを す。お前も準備を   おくことだ』

気づけば、響く声は、最初ほど途切れ続きではなくなっていた。間違いなく、先ほどよりも明瞭に、はっきりと聞こえてくる。

まるで、自分自身がこの声を徐々に聞き取れるようになってきているようで、シルフィーは困惑した。

「了解した、大将。ところで、聞きたいんだけどよ」

『何だ』

「もし俺たちの行動が――――一般人に露見した場合は、どうしたらいいんだぁ?」

ビクリと、頭の中の声に耳をすませていたシルフィーの体が震えた。

『無論、目撃者は消せ。如何なる例外もない。余計な面倒事を背負うべきでは無いからな』

「そうかい。分かった」

唇の端がニヤリと持ちあがる。

『………聞いておくが、それはあくまで確認であって、事実ではあるまいな』

「当然だ。確認だよ、確認。聞いておきたかっただけだ」

『そうか。であればいい。お前はお前の成すべきことを成せ』

「了解」

大男は耳から手を離すと、こちらへと顔を向けた。

「悪いな、小娘」

大男は頭部のローブに手をかけると、持ちあげた。

ローブが後頭部へとめくれ、隠れていた大男の顔が僅かな陽光によって照らされる。

――――褐色の肌が特徴的な、禿頭の男だった。

頭部には黒い入れ墨で何か文様らしきものが描かれ、男の首はシルフィーよりも二回り以上は太く、盛り上がった筋肉によって覆われていた。

だが、それよりもシルフィーの目を引くのは、その男の目に宿る、暴虐的なまでの鋭い眼光だった。

男はニヤリと唇を持ち上げ。

「てめえは俺を見た。放っては置けねえ。大将の言う通り、てめえは殺しておく」

片手でローブを払う。

大きく靡いたローブの内側に見えたのは、鋼色の輝き。

シルフィーの等身大程の大きさの刃。鈍い輝きを放つ剣。

同じ刃物でも、アリアーデの台所で何度も見た包丁などとはわけが違う。正真正銘、人を切るための刃がそこにはあった。

それも、二本。同じ大きさの刃が二振り、備えられていた。

男はその内の一本を掴むと、ローブ内から引き抜く。たったそれだけだというのに、強い風が二人を中心に吹き荒れた。

「ひっ………」

次の瞬間には、頬に冷たい感触があった。

頬に触れているのは、刃。

冷たく、鋭い切っ先。この男がほんの少しでも力を籠めれば、この刃は己の体を引き裂くのだろう。

今も地面に倒れ伏す、血まみれの少女と同じ末路が待っていることは、嫌でも分かった。

「や、やめて……」

体に痙攣じみた震えが走る。

理屈を超えた恐怖が、年相応の精神力しか持たないシルフィーに襲い掛かる。

男はそんな恐怖に引きつった表情に、嗤った。

「良い表情だ」

すっと、剣を一閃。

あまりに鮮やかな動き。紙を切ったのではないかと思ってしまうほどの軽い動きだった。

――――――熱い感触。

「―――え」

斬られたことを、シルフィーは最初理解できなかった。

ただ、熱い感触だけが頬にあって。

不思議に思って手で触れて初めて、何かぬるりとしたもので濡れていることに気づき。

「あ………ああ」

真っ赤な地でまみれている、己の手のひらを見てやっと。

「い、いや――――――」

自分が斬られたのだと、実感した。

そして感じる、痛み。

頬を引き裂く激痛に、シルフィーの目尻から涙が伝う。

「はっ、やっぱり女ってのはこうじゃねえとなぁ……。さっきの奴は駄目だった。大した力も持たねえくせに、突っかかってきやがった。半端に力を感知できる程度の能力を持っていたせいで、呆気なく死んじまったが」

男は獰猛な笑みのまま、視線を明後日の方向へとむけた。

「どうせ邪魔してくるんなら、九大貴族の連中と剣を交えたかったんだが……まあ、良い」

剣が真上にゆっくりと振りあげられる。

陽光を反射して輝く剣先は、あたかも断頭台の刃のよう。

「悪いな、あばよ。恨むんなら、俺を怨みな」

振り下ろされる刃。

逃げなきゃ。このままじゃ、死ぬ。

分かっている。頭では、理解している。

このまま動かなければ、私はここで死ぬ。

どう考えても、今すぐに何とかしないと、死んでしまう。だというのに、全て分かりきっていることなのに。

(体が……………動かないっ)

ピクリとも、自分の体は動いてくれなかった。

これが、恐怖。これが、死。

今までの人生で一度も感じたことのない、濃密な恐怖の奔流に、シルフィーは己の両肩を力の限り抱き締めることしか出来なかった。

(―――――嫌)

死にたくない。

(―――――嫌だ)

こんなところで、終わりたくない。

(―――――絶対に、嫌!)

最後の最後。その刹那に感じるのは、生物として本能的に感じる、生きたいという欲求だけだった。

私はまだ、死にたくない!!

「――――た、す」

小さく、口が動いた。

「――――たすけ、て………店長」

絞りだすような、小さな声。

けれど、その声に応える者はいない。

「――――助けて……助けてよ」

ゆっくりと、頭上を見上げると、そこには刻一刻と迫りくる、鋼の刃。

人の皮膚など紙屑のように引き裂く一閃。彼女にとっての終着点おわり

誰もこの場には現れてはくれない。当然だ、こんな人目につかない場所に、都合よく誰かが来てくれるだなんて、そんなことがありえないなんてことは、自分が一番よく分かっていた。

けれど。

「助けて……助けて……!」

「誰も来ねえよ、諦めな」

男の言葉はまるで、最後の宣告の様に聞こえて――――。

シルフィーの全身から、力が抜けた。

………嗚呼、駄目なんだ。

もう何をしても、この人は止められない。

ここであの刃は振り下ろされて、私はここで―――死ぬんだ。

じわりと、その事実が心に実感となって沁みわたっていく。

もう何も思い浮かばない。人は死ぬ前に走馬灯を見るというけれど、それすらなかった。

目の前が真っ暗になって……その瞬間。

どうしてだろう。

ふと、彼女の脳裏に浮かび上がった最期の光景は、灰色の少年の背中。

あの時、カプリコルに現れた青年から庇ってくれた時に見た、ひとりの少年の後ろ姿だった。

(――――――アッシュ)

少年の名前を呼ぶ。

アッシュ、アッシュ。

その名前を一度呼ぶたびに、彼女の体に、ほんの僅かな力が戻るような気がした。

助けて、助けて、あの時みたいに、私を。

「―――――助けてよ、アッシュ!!!」

今までにないほどの大声を叫び、彼女は強く目を閉じた。そして、来るべきその瞬間を今か今かと待ち構えて――――静寂がその場を満たした。

震える瞼の裏に映る暗闇の中で、シルフィーは体のどこにも異常がないことに気づく。

ゆっくりと、上手く動かない瞼を必死に持ち上げて、彼女は前を見た。

「え………?」

鋼の刃は、すぐ目の前で止まっていた。

薄皮一枚というべきか。あと少しでも動けば、彼女の顔を引き裂くような紙一重の場所で、刃は確かに停止していた。

その視線が刃からそれを握る男の元へと移る。

「―――――その名」

ぽつりと、男が呟く。

「―――――聞き覚えがあるな」

「え………」

男が、剣を引いた。

なんで、どうして。

シルフィーの心の中を疑問の嵐が吹き荒れるが、それよりも。

(私、助かったの――――?)

この状況になに一つ理解は出来なかったが、今もまだ生きているという事実に、シルフィーの目から涙がこぼれた。

生の実感に、嗚咽が漏れる。

吃逆と共に肩を震わせながら、彼女は目を閉じた。

「――――おい、小娘」

「っ………」

びくっと体を震わせながら、恐る恐る男を見た。

男の顔に、笑顔はなかった。無表情のまま、こちらを見下ろしている。

何だろう。さっきと、男の雰囲気が変わった。

狂気と享楽に彩られた表情ではなく、静かに状況を俯瞰するような、そんな冷たい瞳だった。

「さっきてめえが呟いた名前のやつは、知りあいか?」

「な、まえ……?」

「ああ。てめえが今言ったろ」

「アッシュの、こと………?」

思い当たる節をそのまま言葉に出すと、男はうなずく。

「てめえの言うそいつは、どんな容姿だ。言え」

男の言葉に、シルフィーは躊躇う。

当然だ。こんな危険な男に、もはや家族にも等しい少年のことを話すなんて、簡単に出来るわけがなかった。

剣が動き、再びその切っ先がシルフィーを方を向いた。

ひっと喉が引きつる。

「何度も言わせんなよ。悪いがな、俺は気が短い方でよぉ……同じことはあまり言いたくねえ。それに、俺は記憶を覗きこむなんて器用な術式は苦手なんだ」

だから、言え。

鋭い眼光と共に言い放たれた男の言葉は、理解することなど出来なかったシルフィーだが、終ぞその口から言葉が出ることはなかった。

沈黙だけが過ぎ、男はガシガシと頭を掻く。

「ったく、なんなんだてめえは。普通の餓鬼なら怖くて全部洗いざらい喋っちまうもんだろうが。頑なに口を閉じやがって――――あー、めんどくせえ」

ため息を吐いた男は細めた目でこちらを見下ろし、舌打ち。

「普段ならここで殺しちまうんだが、運が良いな、小娘」

突如、男が片目を自身の手の平で覆い隠した。

「本当はこっちの適正・・は大して高くねえから、あんま使いたくなかったんだがなぁ……覗かせてもうらうぜ、てめえの記憶」

すっと手の平が退けられたその片目は、銀色の光を宿していた。

ぞわりと、シルフィーの背筋に悪寒がはしる。すぐさま目を逸らそうとするが、男の手が彼女の頤を掴み、力づくで正面を向かせたことで失敗した。

至近距離で男の瞳を見つめる。

銀色の粒子が、男の瞳孔の中をぐるぐると円環を描くように廻っている。

不可思議な光を宿すその瞳に、吸い込まれるように視線が固定化され――――。

刹那、シルフィーの眼を痛烈な光が貫いた。

ズキリと頭に痛みが走り、次々と記憶・・が浮かび上がった。

まさしく、走馬灯。

先ほどまで視ることすらなかったそれを、シルフィーは今になって、経験することとなった。

精霊祭で忙しく働く自分自身の姿から始まり、日常の何気ない生活まで。

彼女の目線で描きだされた世界が、次々に浮かび上がっては即座に消えていく。勿論、その中には緋色の女性や灰色の少年の姿もあって。

数々のその記憶は新しいものから古いものへ。昔のものへと移り変わっていき、やがて三年前まで遡った時点で完全に消えた。

より正確に言えば、灰色の少年と初めて出会った日に遡ろうかと言うところで、男の眼から銀色の光が弾けとんだからだ。

「がっ……!」

「きゃっ」

バチリという静電気じみた音と共に、シルフィーと男の体が、双方ともに仰け反った。

「……なんだ、今のは」

男が片目を押さえながら、呟く。

「てめえ……記憶の一部を封印されてんのか?それも、俺の精霊術を力づくで弾き返すたぁ、大層強力な封印じゃねえかよ」

ぽたりと、手で覆われた男の眼窩部分から、真っ赤な血が流れ落ちた。

「てめえ、ただの小娘じゃねえな。特別な力は感じねえが――――まあ良い。てめえの記憶の一部は見た。間違いねぇ……まさか、生きていたとはなぁ」

男は唇を歪め、そして。

「――――く、くく。ははははははは!!」

哄笑を響かせた。

「全く、前回の実験・・・・・から逃げ出したことは知っていたが、まさか、平民に堕ちて生き永らえていたとは思わなかったぜ……!」

男の心底愉快だとばかりの表情に、シルフィーは何が何だか理解できないまま、後ずさることしか出来なかった。

ギロリと、男の目が三度シルフィーを捉えた。

「おい、小娘。てめえがあの小僧・・・・の関係者と分かっちまった以上、この場から逃がすわけにはいかなくなった……いや、殺すわけにはって、言い換えるべきか?まあ兎に角、俺と一緒に来てもらうぜ、小娘」

シルフィーの顔に男の手の平が翳された――――そう認識した直後、ぐらりと視界が暗転。

彼女の意識はあっさりと闇へと堕ちて。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「私……あの男に、捕まったんだ」

ぽつりと、小さく呟いた。

体が、震える。今まで忘れていた恐怖がぶり返してくるようだった。

「嫌だ、こんな、こんなのって………ないよ」

シルフィーの声は風に流されて消える。

どうして、こんなことになったんだろう。

振り返れば、後悔しかなかった。あの時、裏路地に意識を向けなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。

意味がないと分かりつつも、シルフィーは後悔の堂々巡りを続けていた。

「―――――よう、目が覚めたみてえだな」

「っ!!」

その場に、聞き覚えのある男の声が響いた。

視ると、路地の影から、黒いローブを纏った禿頭の男の姿があった。

「何よりだ。てめえ、もう随分と長いこと眠っちまってたからなぁ。このまま起きなかったらどうしようかと思ったぜ」

「………私を、どうするつもりなの」

ガチャンと硬質な金属音を響かせる鎖を睨み付けてから、シルフィーは言い放った。

「なに、てめえには餌になってもらうってだけの話しだ」

「餌………?」

「ああ。あの小僧――――アッシュ・ランスヴェールをおびき寄せる、生餌としてな」

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