5
彼女は白いローブはそのままに、ツカツカと前に出ると、金髪の女性を見下ろした。
「何をしているって、そもそもアナタこそ誰――――って、もしかしてシア?」
碧眼が見開かれ、白ローブの少女を見つめる。
「驚いた。こんなところで会うとは思わなかったわ。天輪の鐘を鳴らしたのが貴女でないことは飛散した精霊力で分かってはいたけど、アナタ、こんなところで何をしているの?」
「こっちの質問が先です。そっちこそ何をしているのです。私以上にここに居てはいけない位置にいる貴女が。それも、城下街の喫茶店に」
「ふぅん?貴女、このお店が知る人ぞ知る名店だって知って来ているわけじゃないのね」
組んだ両手を顎先に当てた女性は薄く頬笑み、呟いた。
「知るわけがないでしょう。私は貴女と違って、食道楽というわけではありません」
「ま、そうよねえ。貴女がそんな娯楽に手を伸ばすだなんて、これっぽっちも思っていないわよ」
「―――私の話しはこの際どうでも良いことです。問いますが、貴女はこの喫茶店に来ることを、以前から画策していたというわけですか」
平坦な声音に金髪の女性はおお怖いとばかりに肩をすくめる。
「画策とは酷い言い様ね、楽しみにしていたと言って頂戴。美食の道を進む私にとっては、奇想天外な創作料理というのは心惹かれるモノなのよ。というより、まさか貴女に見つかるだなんて考えてもいなかったわ」
失敗ね、と目を閉じた女性は、ぱちりと片目だけを持ち上げる。
「それじゃあ次はこちらの番。貴女こそ、ここに何の用だったのかしら。まさか私と同じ理由なわけもなし。貴女の方こそ、私以上にこんな場所に来る動機がないでしょうに。いくら貴女の“放浪癖”が昔からの悪癖だといっても、ね」
「―――――それは」
その言葉に、今まであった少女の勢いが目に見えて削がれたのが分かった。
唇を閉じて、僅かに下を向いた彼女の姿は、まるでその理由を必死に探し、もしくは考えている様子を思わせる。
(――――どうして、躊躇うんだ)
少し離れた場所からこの状況を見守っていたアッシュは、黙り込んだ少女の姿に眉をひそめた。
確かに、多くの人がいるこの場所で言わないのは分かる。しかし、どうも彼女の様子はこの場で云々というよりも、この女性にアッシュの事を伝えることそれ自体を避けようとしているように見える。
金髪の女性と知りあいであるのなら、また内々で話し合うと伝えればいいのに。
そして、黙り込んだままの少女に、金髪の女性は心底驚いたとばかりに目を見開く。何かを言おうとしたのか口を開きかけるが、結局は何も言うことなく、薄らと唇の端を持ちあげただけだった。
「―――――そう。まあ、良いわ」
即座に会話を断ち切った女性は脇に立つシルフィーに視線を移した。
「貴女のお店の料理、とても美味しかったわ。大満足よ。また機会があれば来させてもらうわね」
「は、はい………こ、光栄です」
普段は勝気なシルフィーも、この女性が只者では無いと見抜いているのだろう。
周りに立つ人も、何やら金髪の女性に視線を向けては何やら言葉を交わしている。驚くべきは、それが城下街の人間では無く、貴族と思しき者ばかりだということ。
耳をすませてみると、『やはり』だとか『間違いない』、『何故あの御方がこのような所に』という台詞が騒めきに混じって聞こえてくる。
「店長にもよろしく伝えて頂戴ね。この界隈でジルヴェリアの華とも称される女性を見られないのは、残念だけれど」
「す、すいません。店長は普段から、営業中は人前に姿を見せないので………」
「いいえ。別に強制するつもりも、謝罪させるつもりもないから。ただ、ここの料理の美味しさに感謝を伝えたいだけだもの。ごめんなさいね」
朗らかに笑う女性に対して、心底恐縮そうにしているシルフィーはとても見物―――もとい、珍しい姿だった。
何事かを話し合う二人の姿。しかし、アッシュにはそれを呑気に眺めていられるだけの余裕はなかった。
(…………何だろう、この感覚)
この場にいる誰のものなのかは分からないが、小さな、本当に小さな視線のような物を感じ取っていたからだ。
この場の全員を漠然と捉えているようで、けれど反対に明確な誰か一人だけを注視して視ているかのような。
矛盾するその感覚は、アッシュを以ってしても始めて感じる類のものだった。
ただひとつ、明らかに分かるのは。
(何か、嫌な感じがする)
頭の後ろを、ピリピリとした何かが伝う。
最初に感じたのは、ほんの少し前。金髪の女性とシルヴィアが話し始めた頃から。
騒めく店内に混じる違和感のような何か。意識を少しでも逸らしてしまえば、溶けて消えていってしまいそうなほど。
けれど、白一色の布に一滴の黒い塗料を落としたようなもの。
これは――――悪意、害意、もしくはそれに類する、何かだ。
城下街で暮らし始めてからは一度も感じることのなかった、明確に人を害しようという気配。
3年前までは日常的に感じていたからこそ気づくことが出来たものだった。
「――――だから。そう、だからこそ、そんな素敵なお店に害を成そうとする輩は、見逃すわけにはいかないわねぇ」
女性はゆっくりと立ち上がり、ぐるりと周囲に立ち尽くしている人垣を見渡す。
「出てきなさいな。コソコソと隠れていても、私には届かないわよ」
彼女の碧眼がある一点を見つめた。
その視線の先にいた全ての人が道を開けるように引いていく。
大勢の人が退いた先。そこに居たのは至って普通の格好をした一人の青年だった。特徴のないといえば失礼だろうか。けれど、集団の中においてはその他大勢に埋もれてしまうであろう、どこに出もいるような普通の青年はしかし、何やら小さく呟いていた。
「―――――あの人だ、あの人さえ、あの人を…………」
静寂の中だからこそ聞こえるほどの、僅かな声。けれど、その声は常人が出すものとは決定的に違っていた。暗く、深く、絡みついてくるような、そんなドロドロとした何かに染まっていた。
アッシュの背筋に、悪寒がはしった。
「シルフィー!」
咄嗟に飛び出し、突然の状況に着いてこれていない彼女を背後に庇う。
「あ、アッシュ……?」
見知ったはずの少年が発した別人のような鋭い声と素早い行動に目を白黒させたシルフィーの方を見るだけの余裕はない。
青年がこちらに向かって、いや、正確には金髪の女性目がけて走り出した。
別に走る速度が速いわけではない。特別な走り方をしているわけでもない。だが、その青年に言いようのない不吉さを覚えずにはいられなかった。
そして、アッシュのその不吉さは、明確な形を伴って現れた。
走る青年が懐から取り出したのは、短い刃を持つ短剣のようなものだった。鈍い輝きを放つソレに、店内が騒然となるが、金髪の美女はただ静かな眼差しでそれを見つめているだけで―――。
「うあぁぁあぁああっ!!」
矯正をあげてその短剣を突きだした青年の腕を、女性があっさりと掴みとった。
ふわりと軽やかな足捌きで短剣の延長線上から抜け出した女性はそのまま腕を掴み、捻りあげた。
「こんな玩具で、一体何をしようと」
「はな、せ……離せえっ!」
「………!」
青年の持つ短剣が、翠色の輝きを帯びた。
金髪の女性が瞠目している中、光り輝く短剣の周囲で、透明な何かが渦を巻いた。
人の視界には映らない。けれど、目には見えなくとも、荒々しく、それでいて巨大な何かがこの場に現れようとしているかのようだった。
「これは、まさか――――」
近くに立っていたシルヴィアが、驚きの声を上げると同時。
「――――――凍てつけ」
金髪の女性が放った、凄まじいまでに感情という感情が排されたような低い声が翠色の輝きを塗りつぶした。
比喩では無い。
文字通り、そして女性の言葉通り、翠色を帯びた短剣は、より眩く、より強烈に蒼く輝く光によって上書きされるように埋め尽くされ、気づけば、蒼氷によって閉じ込められていた。
今の季節は冬ではないのに、突如として現れた氷の塊に周囲が騒然となる。
金髪の女性を中心に冷気が渦を巻き、時間が経過しようと消えることなく漂っている。
「な、なに……あれ」
アッシュの背後にいるシルフィーがその光景に息を呑む。
無理もない。あんなもの、この城下街で見ることなど滅多にないだろう。
「貴方、これをどこで手に入れたのかしら」
「――――ぎ、うあっ!」
青年が呻いた。
当然だ、彼の手は今も尚握られた短剣ごと分厚い氷の結晶の中に閉じ込められているのだから。
とんでもない激痛と冷気がその手を苛んでいるはず。
普通の人間なら、この状況に陥った時点で白状する。けれど、件の青年は顔を顰めたまま、何も言おうとはしない。
「――――殺すんだ、殺せば」
どこか虚ろな瞳でそう繰り返す青年の姿に、金髪の美女は目を細める。
「武器型の『精霊器』なんて、城下街で手に入れられるはずがないもの。そういう類は全部、軍が管理しているもの。なら貴方はどうやってこれを手に入れたのかしら。いえ、もうはっきりとこう聞きましょう―――――貴方、誰からこれを貰ったの?」
「貰った……?貰った……そう、そうだ。果たさないと、あの人から言われたことを、果たすんだ、そうすれば――――」
意味も脈絡もない言葉だけを垂れ流し続ける青年に、ため息をこぼす。
「――――駄目ね。マトモな状態じゃないわ」
トン、と。女性の手刀が青年の首を討つ。
至極あっさりと意識を失った青年を離し、氷に包まれた短剣に目を向けた。
「やっぱり、あの情報は本当だったというわけね」
目を閉じてそう呟いた女性はパチンと指を鳴らした。
ただ指を鳴らしただけに見えるその動作を見たアッシュは、唐突に店の入り口に一つの気配が現れたのを感じ取った。
「――――セバス、この青年を運んで頂戴。とりあえず、『精霊器』を回収するわ」
「―――――はい。仰せの通りに」
颯爽とこの場に入り込んできたのは、黒い執事服を着込んだ一人の男性。華奢な体つきをした男性はあっという間に店内の中央にたどり着くと、脱力した青年を軽々と抱え、金髪の女性に向かって一礼し、足早にこの店を去っていった。
そんな光景に呆気に取られている店内の人々に向けて、女性が言った。
「――――精霊祭をお楽しみの皆々様、お騒がせして申し訳ありません。不届き者は取り押さえましたわ、どうかこの後も、精霊祭をお楽しみください」
華麗に一礼してみせた女性に、店内が先ほどとは違う意味で沸き立った。
まるで見世物。
素晴らしいものを見たとばかりに拍手がそこかしこでなり響く。
所々で、素晴らしい、流石は、という言葉が聞こえてくるが、それらすべてを女性は無視して、アッシュの背後に立っていた少女―――シルフィーに向けて微笑んだ。
「貴女もごめんなさいね。折角の日にこんな目に合わせてしまって。これは、そうね、私が持ちこんでしまった様なもの。本当に、ごめんなさい」
「い、いいえ……私は、別に」
そう言って目の前に立つアッシュに視線を向けてきた。
そんな彼女を追うように、金髪の女性も視線をこちらへと向けてくる。
「貴方にも――――いえ、貴方だけは違うわね。とても見事だったわ。店内に入り込んだ悪意に即座に反応、大事な人を庇ってみせたんだもの。私とほとんど同じタイミングで気づいて、周囲に意識を配っていたのは見て取れた」
見られていた。
女性の放つ冷気は段々と薄まっているとはいえ、それでもまだ店内は冷えた空気に満ちている。なのに、アッシュの背中を冷や汗が伝う。
彼女は何か意味ありげな視線を横に立つシルヴィアへと向ける。
「―――――ふふ、面白いわね、アナタ」
その言葉は誰に対してのモノなのか、アッシュには読み取ることが出来なかった。
「さて。それじゃあ、この場は失礼させて頂こうかしら。これ以上長居すると、また余計な御客様を呼んでしまわないとも限らないし。貴女に話しておきたいこともある」
金髪の女性の言葉にシルヴィアは小さく頷いた。
「よし、じゃあ行きましょう。ああそれと、これ支払いね」
女性が親指で弾き飛ばした一枚の硬化が受け止めようと差し出したアッシュの手の平に落ちた。
天井の灯りを受けて鈍く輝く金色の硬化に、思わず目を見開く。
「お、黄金貨………」
とんでもない大金だということが分かり、すぐに女性に視線を向けるが、当の本人の姿は既に店の出口へと差し掛かっていた。
「それは謝礼よ。美味しい料理を御馳走になった、ね。あとはそうね、無駄に店内をざわつかせてしまったことへのせめてもの気持ちといったところかしら」
受け取って頂戴ね、そう言ってこの場を去っていた女性に唖然としてしまった。
この騒ぎの中心にいた金髪の女性が去っていたからだろうか。やがて落ち着きを取り戻した人々は各々の座席に戻り、先ほどのことについての談笑を始めた。
「―――――アッシュさん」
「………!」
ぽつりと、呼びかけられたアッシュは目の前に白ローブの少女が未だこの場に残っていることに気づいた。
「色々と、ご迷惑をおかけしました」
そう言って頭を下げた彼女に目を見開く。
どうして、そんなことを言うのだろうか。この人は、何も悪くないのに。
「私たちがこの店に集まってしまったことで、余計なモノまで引き寄せてしまったみたいですから」
たち、というのは、さっきの女性の事を含めていっているのだろうか。
「えっと、さっきの方はお知りあい、なんですか」
「――――知りあい、ええ、まあそんな様なものでしょう。同じ穴の狢、と言っても良いかもしれません」
「それって……つまり」
やっぱり、あの金髪の女性もまた、このシルヴィアと名乗った少女と同じ。
彼女は何も言わなかった。ただ困ったように、薄い苦笑を浮かべるだけ。
当然か。そんなこと、言えるわけがない。
これはきっと、この少女の精一杯の反応なんだろうと思う。
「………でも、あの、良かったんですか。少し前に言っていたことは―――」
「―――はい、もう大丈夫だと分かりましたから」
さっきの苦笑いでは無い。彼女自身の本当の笑みだと分かったのは、何故だろう。
「―――私が貴方に同行を申し出た本当の理由は、貴方自身の人柄や人格を探るためでしたから。危うい、もしくは不安定だと判断すれば、言葉通り、保護するつもりでしたが……どうやら貴方にはそのような対処は必要なさそうです」
アッシュと、そのわきに立つシルフィーを順番に見た彼女は、さっと体を翻す。
「――――今言った全てを除いたとしても。貴方と過ごしたこの僅かな時間、とても楽しい時間でしたよ」
こちらを見ることなくそう言った彼女は、静かにこの場を去っていった。
それを見送るアッシュは、ほっと安堵した。けれど、何故だろう。厄介なことがひとつ解消されたというのに。
(――――おかしいな。どうして僕は、少し寂しいと、思っているんだろう)
賑やかな人々が歩く大通りを、金髪の女性と白ローブの少女が並んで歩いていた。
精霊祭という目出度い日。誰もが浮かれ、ざわついている日に、しかし二人の間にそのような雰囲気は欠片もありはしなかった。
ただ静かに、シルヴィアが問いかける。
「――――それで、アレは一体何なんですか」
「何のことかしら」
「あの青年です。あれは武装形態の『精霊器』でしょう。人為的に精霊力を込められた武具。『精霊工学』によって生みだされた叡智の結晶。容易く人を傷つけうるもの。本来、城下街で手に入るようなものではありません。だというのに」
貴女はそれを、前もって分かっていたようでした。
そうシルヴィアが言うよりも早く、金髪の女性が口を開いた。
「あの場では言わなかっただけよ。シア、貴女本当に、私があのお店のスイーツだけを目当てに城下街に降りたと本当に思っていたわけ?」
先ほどまでカプリコルで浮かべていた笑みとは違う。冷徹、そんな言葉が似合う冷たいを笑みを浮かべた彼女に、シルヴィアは即座に。
「はい」
「………あら」
がっくりと、力が抜けるように肩を脱力させた女性は、ジト目でローブの少女を睨む。
「貴女ねぇ、折角こっちがこう差し迫った良い雰囲気を出してあげようとしていたっていうのに」
「私と貴女が何年の付きあいか、もう語るまでもないでしょう。貴女の性格など、当の昔に分かりきっていることです。それで、回りくどい会話はともかく、一体どういうことなのですか」
シルヴィアの直球ともいえる問いかけに、女性は暫し沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「―――――『黒の旅団』」
「―――――っ!」
女性が告げた単語に、シルヴィアは瞠目し、その場で立ち止まった。
愕然とした雰囲気で立ち尽くす少女に、女性は苦笑。
「こんなところで立ち話も何だし、歩きながら話しましょう」
「………そうですね」
黒の軍服をなびかせて歩く女性に追いついたシルヴィアは、小さな声で問いかけた。
「………本当のことなのですか、それは」
「本当も何も、嘘なんかでこんなこと言わないわよ。というより、嘘であればよかったと、何度思ったか分からないわ」
「では」
「ええ。精霊祭開催に合わせて、国内に『黒の旅団』が入り込んでいるらしいのよ。その情報を掴んだのと同じ頃から、城下街の彼方此方で、『精霊器』と思しき謎の武器を持った者たちの事件が頻発している。間違いなく彼らが関与していると見るべきね」
女性が言う言葉の数々に、シルヴィアの心に危機感が募る。
「では、先ほどの一件は」
「ええ。私が遭遇したのはさっきのが初めてだったけれど、もう騎士団の詰め所には20以上の『精霊器』が徴収されているとか」
そんな、まさか、ありえない。そんな意味のない感情だけが浮かんでくる。
「その情報、既に王室には―――――」
「届いているに決まっているじゃない」
「ですが、それでは何故私たちすべてに厳戒令が出ていないのですか。守護特務を担う精霊使いが何故動いていないのです」
意味が分からない。
若干の鋭さを含んだシルヴィアの姿に、女性はため息をこぼす。
「王室はその情報に信憑性を見出せなかったみたい。『精霊器』が何処からか流れたことによる暴動、そう認識しているようね。少なくとも、『黒の旅団』云々って言うのは、信じていないそうよ」
「まさか、一体王室は何を考えているのです」
「さあ。普段はこんなことないんだけど、何故か今回の件に関しては、王室が積極的に動こうとしないのよ。信憑性がないなんて、多分建前でしょうね。理由は一切分からないけれど」
王室が動こうとしない以上、私たちもまた動けないでしょう?
そんな諦観じみた言葉をつづける女性の傍らで、顔を伏せたシルヴィアは拳を握りしめる。
「……彼らは本気で、この現状を放置するつもりなのですか。他の貴族たちも、動く気がないと」
「ほとんどはね。今頃この情報を知っている多くの貴族は私兵で守りを固めて屋敷に引きこもっているんじゃないかしら」
「馬鹿げています、そんな利己的な思考など。守護者であることを止めた貴族など」
「王室に仕えている者たちの全てが、この国の民たちのことを考えているわけじゃないのは、貴女も分かっているでしょう」
鋭く目を細め、吐き捨てるように言った女性に、シルヴィアは沈黙。
「ただ、貴女の御父上には私の方から伝達済みよ。あの人なら、きっと素早く対処してくれるはずだもの。私の方でも、出来る限りの事はしてみるけれど……それでもきっと、城下街に出るであろう被害は、食い止めきれない」
「………貴女の力を以ってしても、難しいですか」
「難しいわね。何せ、敵はまだ明確に行動を起こしていない。王室からの命がなければ、私たちは国内で力を行使することが出来ない。独断で動けば、最悪、反逆の意ありと見なされる恐れもある。被害が出てからでしか対応が出来ないなんて下らない話しだとは思うけど、動けないのもまた事実。だからせめて」
こうして、城下街を見て回っていたんだけど。
言外にそう語った女性は、周囲を、賑やかな雰囲気に包まれた通りを見渡す。
「この光景が壊されるところなんて、見たくないのに……それでも行動を起こせないなんて。本当、貴女の言うとおり、国の守護者が聞いて呆れるわよ」
「…………なら、私が直接王室へと向かい、奏上します」
「やめときなさい、そんなことしても無駄よ。理由なんて、ないの。王命がなければ私たちは動けない。そして、今の王にその気はない。いくら貴女が―――九大貴族筆頭たるアヴァロン家の次期当主であろうとも、王の御心に届くことはないわ」
大人が子供を言い含めるように、諌めるように、優しい口調でそう言った女性は片手―――右手の甲をそっと撫でた。
彼女の右手には黒い革製の手袋がつけられている。
「―――せめて“契約紋”の封印さえ解除できれば、どうとでもなったのだけど。ほんっと、貴族っていうのは厄介な存在よね」
「………それでは本当に私たちは、何も出来ないというのですか。ただ、この現状に足踏みしていることしか」
悔しそうに拳を強く握りしめ、滲むような声を漏らしたシルヴィア。そんな彼女を痛ましげに見つめる女性の前に、ひとりの男性が姿を見せた。黒の執事服を着込んだその人物は、つい先ほどカプリコルに唐突に現れた男性と同一人物だった。
まるで突然この場に現れたような登場の仕方だったが、金髪の女性に驚きは見られなかった。
「セバス、どうだった?」
「はい。確かにあの青年が持っていたのは、『精霊器』で間違いないようです。格としてかなり低位の物だったようですが、それでも一般区域に流れてよいものではありません」
「でしょうねえ。で、もうひとつの方は?」
そっちが本命とばかりに鋭い声音で問いかける女性に、執事服の男性は女性の真横に移動すると、耳元で呟いた。
「はい。今しがた、王城へとモルドレッド家、フローレンス家、アヴァロン家、計三名もの当主様方の直筆が成された合名書簡が届けられました。何らかの反応はあると思われます」
その言葉に、シルヴィアが大きく目を見開く。
今までの諦観はない。純粋な驚きに満ちた視線だった。
「そう。それは何より――――ん、何よシア、その視線は?」
「貴女は先ほど、何も出来ない……貴族も動く気がないと――――」
「ええ。言ったわよ。ほとんどの貴族はってね。流石の王室も、三名もの九大貴族の当主連名の書簡は無視できないでしょう」
パチリと片目を閉じた女性は薄く頬笑み。
「さて、王室からの返答なんて待っていられない。私たちは私たちに出来ることを、するとしましょう」
気合一心。
両頬を軽く叩いてみせた女性は今だ驚きの表情でこちらを見上げるシルヴィアを見つめる。
「さっき貴女が私の前で口を噤んだことは、全てが終わってからじっくりと聞かせてもらいましょう」
「――――――え」
カチンと硬直したシルヴィア。
彼女の言葉が何を指しているのかを理解しているからこその、硬直。
それに益々おかしいとばかりに女性は笑い、そして。
「随分と裏でコソコソと動き回っているみたいだけど、ここで打ち止めにするわ。我が家の総力を以って、ここで潰しておきましょう」
金髪を靡かせて、女性はそう言った。
雄々しくも美しい女性―――九大貴族序列第三位ヴェドヴィア家当主エリザベス・ロウ・ヴェドヴィアはいずれ来るであろう“悲劇”を回避するための一歩を踏み出した。
薄汚れた裏路地。
まともな精神の持ち主であれば近づこうとはしないであろう場所。
路地の隅には無数の塵や、灰色に汚れきった何かよく分からない物体が転がっている。
吹く風に煽られて転がることしかないはずのそれらが、突如として勢いよく吹き飛んだ。
有象無象とばかりにそれらを蹴り飛ばしたのは、堂々たる体躯が特徴的な大男だった。
その身に纏われているのは頭部までをすっぽりと覆う黒塗りのローブ。しかし、その男の全身はローブの上からでも筋肉質であるということがありありと読み取れる。だがそれ以上に、その身に纏う暴力的な気配の強大さこそが、大男の異質さを際立たせていた。
「けっ……精霊祭ねぇ。随分と平和ボケした国だなぁ、おい」
吐き捨てるように男は呟き、裏路地の遥か先に見える表通り。精霊祭開催の朗らかな活気に満ちた世界を睨み付けた。
「国家の守護者たる精霊使い共が、国の外周部にある城下街に降りるたぁ、どうぞ殺してくださいって言わんばかりじゃねえか。この国はあれか、馬鹿なのかねぇ」
「―――――あまり、この国をなめないことだ」
理解できないとばかりに広げられた両腕は丸太の如く太く、大樹のように頑強な筋肉で覆われている。
通常の鍛錬では決してありえないほどに鍛え上げられたその両腕を持った男は、突如として背後から響いてきた声に振り返った。
立っていたのは、細身の男性。
極太の肉体を持つ大男とはまさしく対極の身体を持つその男性もまた、黒いローブを身に纏っている。ただひとつ違うのは、細身の男性は頭部を晒しているということ。
しかし、頭部を晒してはいても、容貌を読み取ることは出来なかった。
仮面。目元を覆い隠すような鋼色の仮面が顔の上半分を包んでいたからだ。
仮面舞踏会の際につけられる物に似ているようだが、違う。
その男性が身に着けている仮面は、もっと重く、鈍く、無骨さだけが滲んでいた。
「よぉ、漸くお出ましかい、大将」
大男は仮面の男に向かって笑いかけた。
「準備に手間取った。お前こそ、己が成すべきことは成せたのか」
「おうさ。じゃなかったら、ここにはいねえよ。この国の街の彼方此方に、『精霊器』をばら撒いておいてやったぜ。これで、計画を始められるんだろ?」
「ああ。問題なくな」
「なら良いんだがよぉ……にしても、ここは空気が悪いなぁ。もっとマシな集合場所はなかったのかよ」
ぐるりと首を回した大男は周囲を見渡してはそう呟いた。
「馬鹿を言うな。人目のある場所では注目の的になるばかりか、厄介ごとを巻き起こすだけの要素にしか成り得まい」
「ははっ。流石は大将、俺のことをよく知ってる」
大男は笑う。
「確かに、あんな平和ボケした連中のど真ん中に放り出されたら、軽い気持ちで数十人くらい殺っちまいそうだ。それどころか、この辺り一帯にいる奴ら、全員血祭りにしちまうかもなぁ」
ローブから垣間見える口元が、獰猛な笑みを描く。
鋭い犬歯が鈍い輝きを放った。
「つーかよぉ、そもそもこんな国で実験が出来んのか」
「どういう意味だ」
「見ろよ大将、あいつらの顔を。どいつもこいつも平和に慣れきって、だらしなく緩んだ顔をしてやがる。まるで自分たちの命や生活が脅かされることはないって、確信しきってる顔じゃねえか。国自体が平和ボケしてる証拠だぜ。こんな国で実験なんて、行う意味があんのかってことさ」
にこやかに微笑いあう家族連れや恋人たちをそう断じた大男に、しかし仮面の男性は鼻を鳴らした。
「分かっていないのはお前の方だ。豊かさとは、国の強さを示す尺度のひとつ。豊かさを得るには力が必要だ。強大な力なくして、平和は実現できない。この国は豊かで、平和に満ちている。だが、それは同時に平和を実現し続けるだけの力が備わっていることを意味する。それに―――――」
仮面の男性は視線をある方角へと向ける。
視線の先にあるのは薄汚れた灰色の壁だけ。しかし、それら障害物を排した果てにあるものはこの国の中枢たる王城。
数多の衛兵と騎士団、圧倒的な力を秘める数多の精霊使い達によって守護されているという聖域。
仮面の男性が視線を向けていたのは確かにその場所なのだと、大男には手に取るように理解できていた。
「如何にお前でも、この国の魑魅魍魎―――九大貴族の血筋を相手にして、遊ぶだけの余裕は持てないだろう」
「へっ……そりゃあ良い。戦いを楽しめるってんなら、俺は何でも構わねえ、ここへ来た甲斐もあるってもんだ。そんじゃあ、始めるとするかい、大将。我らが教主様の命を果たす為に」
「ああ。定刻に至るまでに指定の場所に着いておけ」
「はいよ~っと」
軽く手を振って気軽な様子で立ち去ろうとした大男を、仮面の男が呼び止める。
「―――――ただ……あまり派手なことはするな。お前の遊び心、ここでは表に出さないでおけ。あらゆる不確定要素は排しておくべきだ。現に三年前はそれで失敗している」
思い出したかのように言い放たれた仮面の男の言葉に、大男は嗤った。
「そうさせてもらうぜ。心配すんなよ」
そう言って、大男は身を翻した。
大きく靡いた黒いローブの隙間から、鈍い輝きが垣間見えた。
鋼色の輝きを放つ二振りの剣。
精霊祭の明るい雰囲気に満ちた今日という日には決して似合わぬそれを腰部分に備え付けた大男は更なる裏路地の奥へと消えていく。
圧倒的な気配を纏った大男が消えたことで、再びの静寂がその場を満たす。
仮面の男性はしばしその沈黙に身を委ねると、片手を頭上…空へと伸ばす。まるで青空全てを掴みとるように五本の指を広げ、そして握り潰した。
「我らの祝福を以ってして、仮初の平穏を打ち破る。数多の死と“悲劇”を撒き散らす。ジルヴェリアの民よ、抗って見せろ。これは、我ら『黒の旅団』よりの試練である」
刹那、砂塵を巻きあげながら突風がその場を駆け抜けた。
そして、世界を駆ける風の中に解けていったかのように、仮面の男性の姿は忽然と消えていた。




