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―――――一体、どうしてこんな事になっているのだろう。
アッシュは何度目かも知れないその疑問を、脳裏に思い浮かべた。
アリアーデの喫茶店を切り盛りする合間に休憩の時間をもらっただけ。ついでにシルフィーが欲しがっていた林檎飴を買って帰れば、あとはいつもの、けれど少し忙しい日常が待っているはずだった。
だというのに。
ちらりと、アッシュは隣を歩く白いフードを被った白髪の少女を一瞥した。
先ほど露わにした、この世のものとは思えない白髪と蒼玉の如き瞳は、今は白いローブ姿へと逆戻りしたことで隠されている。
しかし、あの特徴的な容姿を見た後となっては、例えローブで隠されていようとも脳裏にはっきりと彼女の姿が浮かんできて仕方がなかった。
「何かありましたか?」
ふと、アッシュが視線を向けていることに気づいたのだろう。ローブで隠れた顔の下半分だけではあるが、その顎先が此方へと向けられていた。
「い、いや……なんでもない、です」
「そうですか」
そう言うと、再び前を向いた彼女にほっとため息。
(つ、疲れる)
まだ歩き始めて少ししか時間が経過していないというのに、この心労は一体何なんだろう。
ただ歩いているだけだというのに、酷く気を使ってしまう。
体力には自信があるほうだと思っていたのだが、心理的な負担に対してまでは適応されないらしい。というより、一体どうすれば、精霊祭の最中にただの平民でしかないアッシュが、爵位を持つ貴族と二人並んで歩くなんてことになるというのか。
それに。
(……この人、本当にカプリコルまでついてくるつもりなのかな)
貴族を名乗るこの少女が何故アッシュと行動を共にする気になったのかは未だはっきりしない。
先ほど彼女が口にした台詞は非常に気になる所ではあったが、それを追求できるほど、今のアッシュは頭の中を整理しきれていなかった。
というより、この人をこのまま連れていっても大丈夫なのか。もしかしたら、貴族を相手に商売する気満々だった店長なら喜んだりするのかも。ふとそう思ってはみたものの、今はそういう問題ではないとその考えを放棄する。
とりあえず今は、“理由”を尋ねないことには何も始まらない。
「あの……」
カプリコルまで距離があるのが幸いだ。おかげで、あの二人に会わせるよりも前に、今の状況をできる限り整理できる。
「本当に、僕の所へ着いてくるつもりなんですか」
言葉づかいに気をつけながら、アッシュは再度の確認の意味を込めて、問いかけた。
相手は貴族。
この少女が言葉づかいを気にするような人物ではないのは、この短時間の会話である程度は分かっていたが、それでも万が一と言うこともある。
出来るだけ慎重に言葉を重ねよう。何せ、ランスヴェール家に居た頃は、戦闘技能ばかりで、他の“貴族らしい”教育はほとんど受けてこなかったといっても過言では無い。
どこからボロが出るか……いや、出るボロなんてそもそもないのか。
そう思いながら、アッシュは相手の言葉を待った。
少女はその言葉に暫し沈黙する。まるで言う言葉を選んでいるような雰囲気。
「私の気の所為であれば良いのですが、少し気になるものですから」
「気になるって言うのは……」
途端に胸がざわつく。
数刻前に少女から放たれた言葉の羅列は、鋭い杭の様にアッシュの思考を貫き、縫い止めている。
もはや目を逸らすという選択などありはしないと、いわんばかりに。
聞かなければならないと訴える自分がいる。しかし対照的に、聞きたくないと叫ぶ自分も確かにいた。
「先も言いましたが」
一拍おいて、更に言葉は続く。
「貴方から、精霊に似た奇妙な力を、一瞬ではありますが、確かに感じ取りました。それを、放置することは出来ません。まして、それが市井の住民であれば尚のことです」
心臓が、強く脈打った。
やはり、聞き間違いではなかった。
最初は本当に、この少女の言葉が理解できなかった。
自分の事では無く他人の話しを聞いているかのような感覚だった。
「城下街で暮らしてきた貴方からすれば、私の話しなど、突拍子もないことにしか思えないでしょう。信じろとは言いません。ましてや、今までそういったものと無縁の日々を送っていた城下街の方に、私の意思の全てが通じているとも思いません。しかし、そうだとしても、この場は共に行動させて頂きます」
しかし。
「……本当に―――――」
言ってから、その言葉が相手の認識を疑うもの、つまり貴族に対する反論だと分かってしまったが、ここを覆すわけにはいかなかった。
彼女の言葉が真実であるならば、この身は精霊と何らかの関係を持っているということになる。
まるで、今まで普通の人間だと思っていたにも関わらず、唐突に人間ではありませんと言われたような気分だった。
あり得るとすれば、あの日に相対した黒い精霊ということになるのか。
違うと断言こそしたいものの、三年前、あの日の記憶の一切が消失している所為で、それもできない。
何も分からない状態が今なのだ。
(だったら………)
もしかしたらこの少女の言葉から、今ではもう思い出すこともできない過去の記憶にまつわる何かを読み取れるかもしれない。
「―――――私は貴族であると同時に、精霊使いでもあります」
突然に、彼女はそう断言した。
この国で爵位を持つ“貴族”と呼ばれる存在には、大きく分けて2つの種類に分類される。
ひとつは、純粋に“人”として爵位を授かり、国政に携わる者。
もうひとつは、“精霊使い”として爵位を授かり、国防に携わる者。
どちらも国から爵位を授けられた者たちだが、精霊信仰が盛んな国において特に敬われるのは、どちらかといえば後者になる。
精霊使いとして爵位を得た貴族は、通常では考えられないほどの権力を得る。それこそ、同格の爵位を授かった貴族同士であっても、精霊使いとそうでない者とでは、大きな隔たりが生じるほどに。
そして、後者に該当する家は現在を以ってしてもそう多くない。ただ、そんな中で多くの才ある精霊使いたちを輩出し、絶大な貢献を果たし続けてきた九つの名家がある。
それこそが、九大貴族。
この国の頂点ともいえる、絶大なる権力者たち。
(……もしかして、この人―――――)
そこまで考えて、アッシュは首を振った。
まさか、ありえるはずもない。
今日偶々出会った少女が貴族と言うだけでも驚きなのに、まさかこの国の頂点に位置する九大貴族であるわけがない。
そんな出来過ぎた偶然、起こるわけもない。
「精霊使いの持つ五感は常人のものとは全くの別物。精霊に酷似した力の発露を、間違えるはずもありません。最も、その“証”を示すことの出来ない今の私に、それ以上の事は言えませんが」
証……?証ってまさか。
「い、いいえ……いいです。ありがとう、ございました」
精霊使いの証といえば、アッシュの知る限りひとつしかない。確かに、アレを行使することはこんな街中では不可能だろう。
下手をすれば、この辺り全てが壊滅しかねない。
というより、アッシュの記憶が正しければ、緊急時以外、国内における行使自体が禁止されていたはずだ。
――――――精霊召喚。
契約した精霊を呼び出す技法。
かつてのアッシュが終ぞたどり着けなかった、精霊使いの秘奥にして到達点。精霊使いを精霊使い足らしめるもの。
少女が言う証ともなれば、これ以上に相応しいものはない。
彼女も、それを行うことの出来るひとりなのか。
………気にならないのかと言われれば嘘になる。しかし、その感情を素直に認めていい立場に、今のアッシュは立っていない。
今ここにいるのは、アッシュ・ランスヴェールではなく、カプリコルで働くただのアッシュでしかないのだから。
「無理やりのような形で同行させて頂いている貴方には、申し訳ないとは思います。しかし、この国の精霊使いの一人として、私たちに似た力を感じさせる方を、保護こそすれ、放置することは出来ないのです」
結論付けるようにそう言った少女に、アッシュはそっとため息をついた。
本当に、厄介なことになってしまった。
今の会話で分かった。
間違いなく、この少女はカプリコルまでついてくるつもりだろう。そして、それを阻むことは出来ない。考えを変えることも不可能だろう。
これからどうなるかは分からない上に、相手がどうしたいと思っているのかも皆目見当がつかない。ただひとつハッキリとしているのは、見つかってはならない人物に、アッシュは見つかってしまったのだ。
貴族であり、精霊使い。三年前アッシュが立っていた位置に、最も近いであろう人物に。
(結局……この人が言う、精霊に似た力とやらの事は分からないし、僕には全く身に覚えがない)
正直、今でもありえないと感じている。
かといって、彼女のことを疑うつもりもないし、嘘を言っているようにも思えなかった。
(……とにかく)
今はこの少女に従うしかないだろう。幸いと言うべきか、この少女はアッシュの意思を無視して何か行動を起こすような人物ではないようだ。いや、少し強引なところはあるのかもしれないが、それでもアッシュに対して配慮してくれている様子は度々あった。
アッシュの知る貴族とは、少し毛色が違う。少なくとも、狂気で満ち満ちていたあの父親とは、何もかもが違う。
善良な人格者と言うべきか。同じ貴族でも、人によって性格は全く違うようだった。
(……それにしても、あの二人にはなんて言ったらいいのか―――――)
この後に待ち受けているであろう試練を前にアッシュはため息をこぼした。
「―――――おやおや、彼氏さんがそんなため息を出してちゃあ、お相手が可哀想さね」
「え?」
顔を上げると、丁度通りがかった屋台の番をしていた老婆が、にこやかに微笑んで手招きをしていた。
声をかけられたのは自分らしい。しかし、お相手?
その言葉に唯一合致しそうな人物に、アッシュは視線を向けた。
白ローブを被った少女もまた驚きと困惑を感じているのか、私?とばかりに己の胸元へ指先を向けている。
「そうそう。アンタたちよ。こっちいらっしゃいな」
老婆に言われるがまま、二人は互いに視線を見合わせてから、やがてその言葉通りに歩を進めた。
その屋台に売られているのは、ガラス細工を中心にした雑貨店のようだった。
鳥の形をした硝子の置物や、遠い異国の物と思われるお守りまで。
共通点などは一切ないが、それでも不思議と惹きつけられる様々な雑貨や小物に満ちていた。
「どうさね、精霊祭の記念にひとつ」
両手を広げ、棚の一面に並ぶ様々な商品に、更々購入する気など無かったアッシュは、しかし突然目をパチクリとさせた。
「……綺麗」
ぽつりと、隣に立つ少女が呟いたからだ。
確かに、太陽の光を反射して輝く色とりどりの硝子細工の工芸品などは、美しく見える。
しかし。
(……貴族なら、もっと高価な宝石とか、見慣れてると思うんだけど)
少女の持つ肩書を知ってしまったアッシュからすれば、こんな硝子細工のものよりも、もっと相応しいであろう装飾品が沢山あるように思えて仕方なかった。
「ウチはね、旅商人の家系なんだ。昔から色んな国々を旅しては、その国の工芸品を買い取っては他国に持ち込んで売る。そういう生業を続けてきたもんさね。だから、きっと気に入る物が見つかるはずさ」
「………いえ、私は」
結構です、とでも言おうとしたのだろうか。
考えてみれば当然のことだ。宝石や貴金属ならばいざ知らず、確かに見栄えは悪くないが、材質や価値という意味で言えば、少女が欲しがるとは到底思えなかった。
けれど。
「そら、自由に見てみると良い。物との出会いは人との出会いと同じようなものだ。今のお嬢さんにピッタリのものが、必ずあるさね」
老婆の言葉に押されるように、少女は視線を彷徨わせていたが、ある一点で止まった。
「ほほう、それが良いのかい」
「あ、いえ……別にそういうわけでは――――」
「ははは、別に無理して隠す必要はないじゃないか。恥ずかしいことでもないんだし」
老婆と少女の視線の先にあったのは、透明な硝子と蒼色の硝子を組み合わせて作られた、翼の形をした髪飾りだった。
翼の先は蒼色。それよりも根元の部分は全て無色透明。シンプルながら、美しく洗練されたデザインと言うには十分な出来であった。
それに、気の所為だろうか。蒼色と透明な硝子の組み合わせが、この少女が持つ白髪蒼眼という色彩の配置と、とてもよく似通っているように思えた。
陽光を受けて輝く髪飾りに、少女の視線は右往左往しているようだった。それに、せわしなく手を動かしているところを見ると、やっぱり気になっているらしい。
「…………」
先ほどまでの様子とは全然違う。
今までは物静かで冷静な少女と言った雰囲気を纏っていたというのに、今はどこにでもいる年頃の少女にしか見えなかった。
そんな彼女の姿に、今の今まで心の中にわだかまっていた警戒心や余計な不安が薄まっていく。
毒気を抜かれた、というべきだろうか。
人間離れした美しさも相まって、人間味が感じられなかった少女。貴族という特権階級にある精霊使い。しかし、今の姿を見ているとそれが少しだけ間違っていることに気づいた。
(そっか………そうだよね。確かにこの人は貴族で、精霊使いで、敬うべき人なんだろうけど)
偽りとはいえ、かつては貴族の位にあったアッシュが、今ではアリアーデやシルフィーと共に生活しているように。
いくら貴族でも、精霊使いでも、僕たちと同じ、人間なんだ。
「………それ、一つください」
だから、こう言ってしまったのは正直言って、ほとんど無意識に近かった。
老婆はにっこりと微笑み。
「毎度あり」
手早い動きで髪飾りを袋に包み、アッシュに手渡した。
「ああ、そうそう。その髪飾りはね、お守りでもあるんだよ。贈った相手の不幸を吹き飛ばし、幸運を授けると伝わるお守りなんだそうだ」
そう言う老婆に見送られ、アッシュと、今の今まで呆然と立ち尽くしていた少女は歩きだした。
「あの……」
そして、おずおずと言葉を発した少女の目線は、アッシュが手に持つ袋へと向けられていた。
「どうして、それを」
「……なんででしょう。気づいたら、買ってました」
あはは、と苦笑をこぼしたアッシュは少女へとその袋を差し出した。
「あげます。僕が持ってても、使いませんし」
「………!ですが」
「良いんですよ。それに……きっと似合うと思います」
アッシュのその言葉に、少女はおずおずと差し出された袋を受け取った。
まるで貴重な物に触るかのように、傷などつけないように。そっと、大切そうにその袋を受け取った。
「………ありがとう、ございます」
少女はそう言うと、その袋を両手で握りしめると胸元へと押し付けた。
ただの硝子細工の髪飾りにしては過剰ともいえる反応。ましてや、貴族が身に着けるものにしてはあまりにも不相応なもの。しかし、少女は本当に大切そうにそれを握りしめている。
妙な気恥ずかしさを感じたアッシュは視線を明後日の方角へ逸らした。
「………人から本当の贈り物を頂いたのは、初めてです」
「え……?」
少女の小さなつぶやきを聞き損ねたアッシュは首を傾げるが、しかし少女は首を振った。
「いえ……大切にします」
「こちらこそ、何だかすいません。貴族の方に、硝子細工の髪飾りなんて」
「そんなことは、ありません。物の価値は、金銭ではありませんから」
貴族の言葉にしては酷く変わったことを聞いたような気がして、瞬きを数度繰り返してしまった。
その後も、カプリコルに向かう途中の道すがら、二人は何故か次々と屋台や出店の店主に声をかけられた。
串焼きを御馳走になったり、旅芸人の手品を目の前で披露されたり。
普段ではあり得ないような頻度で、次々に声がかけられる。
アッシュは困惑しつつ、しかしそれらを黙って受け入れていた。
普段であれば何か変だと勘繰っただろう。しかし、アッシュの横に立つ少女の口元が、楽しそうに微笑んでいるのが見えたから、しばらくは何も考えずに黙っていようと思ったのだ。
そして、カプリコルまであと僅かというところで、再び声がかけられたその時、アッシュは尋ねることにした。
どうして、声をかけてくれるのかと。
対して、その屋台の店主はさも当然のように答えた。
「何故って、そりゃあ、そちらのお人は御貴族様でございましょう」
ズバリ、見抜かれているようだった。
「何と言うか……お姿までは察せませんが、こう、体から滲み出る雰囲気と言うんですかねぇ。昔、拝見させていただいたことのあるご貴族様にそっくりでいらっしゃいまして、はい」
と、店主の言葉はさらに続く。
「それに、貴方様も同じなのでしょう?そちらの御方と並んで歩かれるお姿が、あまりにもお似合いであったもので。こう、堂に入っているような感じでしょうか。ああ、もしかして傍付の護衛様であらせられるのでしょうか」
アッシュは絶句した。
何故そう見えたのかは分からない。しかし、その店主には白いローブを被った少女が令嬢。アッシュはその傍付か何かに見えているらしい。
予想だにしていなかった理由が判明したところで、その屋台を離れ、アッシュと少女は近くの長椅子に腰を下ろした。
やっと訪れた休息に、ふとため息をつく。
(――――――ふぅ)
やっと訪れた休息に、体から余分な力みが抜けていく。
凝っていた体をほぐすように、軽く肩を回してみた。
パキポキと関節が鳴る感覚をどこか心地よく感じながら、アッシュは目を閉じた。
(―――――そういえば)
緊張が程よく抜けたからだろうか。
よくよく今までの事を振り返ってみれば、この貴族の少女を相手に馴れ馴れしい態度をとってしまっていたことに思い至った。
会った当初に比べれば大分対応が軟化してしまったとはいえ、それでも相手は精霊使いであり、貴族。この世界で敬われる、雲上人には違いない。
とりあえず、今までの事を全て謝っておかないといけないかな。
しかし、そう思ったアッシュよりも早く、当の少女本人が先に口を開いた。
「―――――先ほどは、ありがとうございました」
「え、あ。いえ………」
その言葉を最後に、沈黙が二人を包み込んだ。
さわさわと吹き抜ける風に煽られて揺れる木々の葉の騒めき。
穏やかな空気が流れる最中、小さく聞こえてきたのは小さな笑い声のようなもの。
その声の持ち主が、隣の少女であったということに気づくまで、時間はそうかからなかった。
思わず隣へと視線を向けたアッシュに気づいたのだろう。
「――――すいません。少し、可笑しかったものですから」
薄く微笑んだままの唇を隠そうとはしない。
「まさか私が、一人の生娘の様に精霊祭を廻ることになろうとは、考えてもいませんでした」
いや、それは僕も同じ……そう言いかけて、アッシュは終ぞそれを口にすることはなかった。
薄く、ほんの僅かではあるが、この少女がこぼしている微笑みが、とても美しいものに思えたから。
「……本当に、ありがとうございます。久しぶりに、自由な時間というものを過ごしました。こういうのを、羽を伸ばした、というのでしょうね」
「自由な時間、ですか」
「はい。堅苦しい規則やしがらみを気にする必要のない時間は、私にとってはとても貴重な物ですから」
ぽつりと呟かれた言葉に、アッシュは思わず目を丸くした。
今、物凄い台詞を聞いたような気がするが、きっと気にしないほうが良いに違いない。
「ああ、それとこれを」
そう言った少女が差し出したのは、真っ赤な色の林檎飴。それも二つ。
「これって………」
「差し上げます。これは謝罪と、そして御礼です。受け取ってください」
「けど、それじゃあ」
「私にはまだ、沢山ありますから」
苦笑し、彼女が示したのは足元に置かれているバスケット。何処かの出店で貰ったような気がするそれには、複数の包みが入っていた。
それらは全て、二人がやや強引に押し付けられた、もとい善意で頂くことになったお土産の数々だ。
「受け取ってください」
結局、アッシュは言葉に甘えることにした。
断っても断りきれない雰囲気に加えて、どの道、シルフィー用にと買っていた飴は既にない。くれるというのだから、貰っておいても大丈夫だろう。
赤く光る林檎飴をしばらく見つめてから、アッシュは思い出した。
「………あの、僕の店に行くっていうのは、結局……」
「――――ああ。そういえば、そうでしたね」
忘れていました。そう呟いた少女は苦笑を浮かべると、立ち上がった。
「……もう、その必要性はないかもしれませんが」
「………??」
「案内してくださいませんか、アッシュさん」
初めて出会った時とは全く違う。薄らと笑みを浮かべたままで、少女はそう言った。
見慣れた店内には、多くの人の姿があった。
アッシュが厨房を出た時は未だ開店前であったため、経営する側の三人以外姿がなかったが、精霊祭が正式に開催された今は違う。
派手さはないが、見るからに上質な衣服を身に纏った紳士淑女等々、普段であれば城下街で見ることなど決して敵わない地位や役職にある者たちの姿をそこかしこで見ることが出来た。
中には城下街の住民と思しき姿もあるが、店内の隅の机に座っている。中央付近に陣取っているのは全員何らかの階級にある者か、貴族がほとんどのようだった。
けれど、この街の住人は臆しているような感じはしないし、逆に貴族と思われる者たちにも、威張っているような感じはしない。
これが自然だとばかりに、彼らは自然な表情で談笑をつづけている。
地位や身分は関係ないとばかりに、今日という目出度い日を楽しもうという活気に満ちていた。
そんな人の騒めきや笑い声が満ちる店内で、忙しそうに駆け回っているのは空色の髪を靡かせた少女、シルフィーだった。
と、彼女の身知った少年が店内に入ってきたことに気づいたのか、大きく目を見開き、近くのテーブルに料理の乗った大皿を置くと、ずんずんとこちらへと近づいてきて。
「――――お・そ・いっ!!!」
店内に響き渡らない程度、しかしはっきりと激情がこもっていることが分かる勢いで、彼女は叫んだ。
「一体今までどこで油を売っていたの!おかげでこっちはてんてこ舞いなのよ!次から次へと人は来るし、ううん、それは良いとしても、明らかに料理じゃなくて店長目当てと思しき男の人たちが集団で来たり―――ほんっとに、大変だったんだからぁ!」
その凄まじい勢いに圧倒されたアッシュは思わず仰け反りながら両手をかざす。
「ご、ごめん…!謝ってすむことじゃないって言うのは分かるんだけど、こっちにも事情が……」
「事情?事情って何よ!こっちの苦労も知らないで!」
腰に手を当ててビシッとこちらを指差したシルフィーに、アッシュは何も言えなくなった。
(というより、なんて言えば良いのか。説明のしようがない……)
まさか、貴族と出会って二人で精霊祭廻りしてましたなんて、言えるわけがない。
どうすればシルフィーを諌める説明ができるだろうかと頭を悩ませるアッシュを見かねたのか、背後から白いローブ姿のシルヴィアが前に出た。
「そこまでにしてあげてくださいませんか」
「――――アッシュ、この人、誰」
少年の背後から現れた、白いフードの怪しげな人物に、シルフィーが訝しげに目を細める。
「……そうですね。彼が遅れる原因を作った張本人、と言えばいいでしょうか」
その言葉でキリリと眉を吊り上げたシルフィーに、慌てたのはアッシュだった。
まずい、非常に拙い。シルフィーはこの少女の正体を知らない。
気の強い性格そのままに、シルフィーが彼女に罵声や暴言を投げかければ、その瞬間に厄介なことになるのは目に見えている。
いくらこの少女が善良な人格者だとしても、礼を失して良い存在というわけではない。
「ま、待ってよシルフィー……!これには本当に深いわけがあって――――」
ざわりと、アッシュの言葉を遮るようなどよめきが、店内に沸き起こった。
店内のあらゆる人が、貴賤問わず、身分問わず、正しくこの場にいるすべての人の意識がある一点に引き寄せられているようだった。
そしてそれは入り口付近で言い争っていた三人も例外では無い。
「――――嘘、あの人、まさかアレを食べきったの……?」
三人の中で特に大きく表情を変えたのは、何やらこの騒めきの事情を知っているらしいシルフィーだった。
「店長だって、アレは食べきれないって豪語してたくらいなのに、信じられないわ」
普段あまり見ないような、心の底から驚きの表情をする彼女に、アッシュは首を傾げた。
「あの人………?」
今までの怒り全てを忘れるほどの驚きに包まれているシルフィーや、店内の、ましてや貴族と思しき客たちまでもが視線を向ける先に、アッシュは益々疑問符を浮かべた。
「一体、何が」
「――――――この気配。まさか」
しかし、店内で起きている騒ぎの方へ誰よりも早く行動を起こしたのは、アッシュの横に立っていた少女だった。
人込みの間をすり抜けるような見事な足運び。
カプリコルの店内は決して狭いというわけではないが、それでもこれだけの人数が収容されていれば、それでも多少は狭いと言わざるを得ない。しかし、アッシュの手を引いた時のように、人には一斉触れることなく、それどころか真横を通り過ぎたと気づかせることすらなく、少女は人込みの中心へと歩を進めていく。
(………なんだ?)
少女の行動に違和感を感じたアッシュも、後を追うように前へ。
この店内で起きている騒ぎの中心へと歩を進めた。
座っていた椅子から立ち上がり、言葉を交わし合う人々の間を通り抜けたどり着いたのは、混雑した店内であるにも関わらず、何故かぽっかりと人が存在しない、開けた空間だった。
誰もが見な一歩距離を置いた場所で、その場所を丸く取り囲みながら、その中心にある一つのテーブルを見つめていた。
「あ――――――」
思わず、声が漏れた。
この場にいる全員が見つめているテーブルに座っていたのは、たった一人。
黒塗りの軍服。腰の辺りまで伸びる黄金の髪。澄み渡る海を思わせる碧眼。大よそ、万人が美しいと感じざるを得ない容姿をした一人の美女が、テーブルに向かって黙々と手を動かしていた。
(この人って、確か………)
脳裏に蘇る、ほんの数刻前のこと。
精霊祭の最中、アッシュがすれ違った…正確にはぶつかってしまった軍服の女性。そして、濃密な存在感を身に纏っていた謎の人物だった。
くらりと、アッシュは眩暈を覚えた。
こんな事がありえるのだろうか。
貴族の少女と精霊祭を廻ってきたというだけでも驚きなのに、いざ彼女と共にカプリコルにやってきてみれば、偶々出会った謎の女性までもが来店している。
何より、アッシュの予想通りなら、今この場には二人もの――――。
もしそうだとしたら、偶然にしては出来過ぎだ。
(――――というか、この人が食べているのって)
件の女性が黙々と手を動かして口に運んでいるのは、純白がまぶしい粉末状の、氷だった。
止まることなど知らないとばかりに手を休めることなく次から次へと氷を口元へ運んでいく女性の姿は、まさしく圧巻だった。
しかし、常軌を逸した、それこそ普通であれば口内が凍傷になってしまうような勢いで食べ続ける女性を以ってしても、目の前のソレは未だ凄まじい存在感を放って鎮座していた。
人の胴体にも匹敵するほどの深さを誇るグラス。そこにこれでもかとクリームや氷、フルーツが詰め込まれている。正真正銘、異常ともいえる量のパフェがそこにはあった。
人が食べられる量を遥かに超えた物量を持つパフェに、しかしアッシュは理解した。
(これかぁ、店長が僕たちに造らせていたモノは………)
完成品を見てしまった今となっては、自分があんなモノの片棒を担いでいたなんて、知りたくもなかった。
(それにしても………)
女性の食べる速度がどんどん早くなっているような気がするのは見間違いだろうか。
いや、見間違いでも、気の所為でもない。女性の手の動きが、さっきよりも確実に速くなっている。
その証拠に、グラスに盛られたパフェの中身が、既に半分近くまで減ってきている。
人間なのか。
思わずそう思ってしまうほどの食事ぶり。周囲の客も全員が呆気に取られてそれを眺めている。
「当然だよね、あんな食べっぷりを魅せられちゃぁ」
というか、視ているだけでこっちが胸やけしそうだ。
「―――う、やっぱりあの人、食べ終わってしまいそうじゃない………ありえないわ」
と、アッシュの隣に立っていたシルフィーが若干顔を青ざめさせて呟いた。
「凄いね、あの人。あの巨大パフェをこんなに早く。店長の試作品をこうもあっさりと平らげようとする人は始めてみたよ」
「――――――一杯目じゃ、ないのよ」
「え――――?」
「あのパフェ、もう五杯目なのよ」
驚天動地。
シルフィーの言葉を理解するまでには多くの時間が必要だった。
「いや、いやいやいや。シルフィー、そんな冗談は誰にも信じてもらえないよ」
引き攣った笑みを浮かべたアッシュに、しかしシルフィーは顔を青ざめさせたまま、首を振る。
「嘘なら、良かったんだけど……本当のことよ」
ほら、とカウンター付近の食器下げ口を視線で示した。
「……うそ」
そこには確かに、空になった四杯もの同じサイズのグラスが並んでいた。
他者が食べたものでは無い。というか、真っ当な感性を持った人間であれば、食べるどころか注文すらしないだろう。そんなものが四つも並んでいるということは、本当にこの女性が食べたということの証明に他ならなかった。
そして。
「―――――御馳走様」
カタン、と。女性がスプーンを置いた音が響き渡り、店内が静寂に包まれた。
誰もが声を出さず、女性が成し遂げた偉業を前に立ち尽くすことしか出来なかった。
「う~ん、美味しかったわあ。もう少しおかわりしたいところだけれど、腹八分目で止めておかないと、健康に悪いわよね」
うんうんと腕を組んで一人でにうなずく女性にシルフィーの顔が益々引きつったものとなった。
「ふぅ、さて。店員さ~ん、会計をお願いしたいのだけれど」
「は、はい!!」
びくっと、女性に視線を向けられたシルフィーは体を震わせ、慌ただしい様子でお盆を片手に女性のテーブルへと向かった。
「―――――あら?」
女性の碧眼が、シルフィーの真横に立っていたアッシュへと向けられた。
僅かに見開かれた瞳に、驚きの光が宿っている。
「貴方、確かさっき――――」
アッシュと同じで、道端ですれ違った時のことを思い出しているのだろう。
しかし、見つかってしまった以上はこのまま黙っていることは出来ない。
適当にやり過ごしてしまった方が良いだろう。アッシュの考えが正しければ、この人もまたシルヴィアと同じ。
「――――――何をしているのですか、貴女は」
金髪の女性にそう言い放ったのは、アッシュから少し離れた場所に立っていた、白ローブの少女。
アッシュと共にこの店にやってきた、シルヴィアだった。




