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頬を撫でる微風。どこまでも澄み渡る青々とした蒼空の中を、白い雲がゆっくりと流れていく。

白く舗装された広々とした通りを歩きながら、アッシュは周囲へと視線を移した。

道路のわきに広がる、緑の芝生が生える憩いの広場には、沢山の人たちが、己のパートナーや家族と寛ぎ、言葉を交わしていた。

シートを敷いてその上にお弁当を広げては朗らかに笑いあう彼らの周りを、声をあげながら駆け回る子供たちの姿があり、広場の隅に居を構える屋台の主たちは、そんな子供達に手招きをして、飴らしきものを渡していく。

そんな景色を眺めながら、アッシュは心地良い風を体全体に受けながら、歩いていく。

「すっかり外はお祭り気分……店長の言ってた通りだ。普段はここまで広場に人が出てくることなんてないんだけど、やっぱり精霊祭っていうのは凄いや」

にぎやかな雰囲気に充てられてか、思わず笑みが浮かぶ。

精霊祭は確かに、精霊の恵みに感謝をささげるものだが、その精霊と大して関りを持たない城下街の民たちにとっては、実際に富や平穏な生活を齎してくれる存在と言えば、この国の王族等の政を司る同じ人間だ。勿論、信心深い人や精霊に深く関わっている人は別かもしれないが、大多数の人からすれば、家族や友人と賑やかに過ごせる休日やお祭り程度の認識だろう。

だが、そういったことを抜きにしても、今日という日を皆が笑顔で過ごせるのなら、この精霊祭はきっと、すべての人たちにとって非常に価値のある行事なのだろうとアッシュは感じた。

(これが精霊祭、か。初めて・・・見るけど、これだけの人たちが楽しみにしているものだったなんて、知らなかったな)

思わず苦笑し、アッシュは視線を頭上に広がる青空へと移した。

…………あれから、もう3年か。

アッシュ・ランスヴェール。

かつて、そう呼ばれた少年はもうこの世にいない。

九大貴族ランスヴェール家の精霊使いになるべく、訓練と教育を施された少年。ただ精霊と契約するためだけに生き続けた、出来損ないの人形のような存在だった。

外界との接触が完全に断たれた貴族の屋敷という名の牢獄で、同じことを繰り返しながら過ごした日々。

朝起きてから夜寝るまで、ひたすらに修練に励んだ。食事や睡眠など、ただの作業。修練に費やす時間を作るための土台でしかなかった。

そして、運命の日。

あの日、あの場所で、契約神殿と称した場所で。一人の少年の運命は変わった。

ランスヴェール家が代々祭ってきた精霊と契約を交わすはずだった少年の前に現れたのは、精霊とは思えない、ナニか。すべてを漆黒に染め上げた、悪魔せいれいだった。

(あの時を最後に、僕の記憶は途切れている)

契約の議の後、自分自身がどうなったのか、まったく覚えがい。気づけばアッシュは、カプリコルの前で倒れていた。衣服ということすら烏滸がましい、ボロボロの布きれだけを身にまとって、意識を失った状態で倒れていたのだそうだ。

というのも、そのことすらアッシュは覚えていなかった。全ては、店長アリアーデから聞いたこと。彼女の言葉を聞いて初めて、アッシュは事態を把握することが出来た。

どうして、覚えていないのか、まったく分からない。

だが。

(あの時、僕は最後にアイシアを庇った)

狂気の笑い声をあげていた父を一瞬で殺して見せたあの黒い光。いくらアッシュが鍛え上げられた人間だったとしても、そんなものは関係ない。到底人間一人の肉体で受け止めきれるような、そんな生易しいものではなかった。

まるで殺意と悪意が形を伴って迫ってくるようなあの感覚は、数年たった今でもはっきりと思い出すことができるほどに、脳裏に色濃く刻まれている。

「………っ」

ぞわりと背筋を這いあがってきた怖気に、アッシュは思わず立ち止まった。

周囲は精霊祭という目出度い行事で盛り上がっている。朗らかな空気に満ちているというのに、自分の周りだけなにか壁のようなもので区切られているような。別の世界にひとりで立っているような、そんな感覚に襲われる。

(……あの時僕は、あの黒い光に背を向けて、そのあと――――――)

直後、鈍痛。

「痛っ……また、この痛みか」

思考を遮ったのは、額に感じる痛み。

鋭利な切っ先で刺されるかのような痛みだ。

だが、その痛みを感じるのは、何も今が初めてではない。

この痛みを感じるようになったのは、アッシュがアリアーデに拾われたころ…つまり3年前からのことだ。アッシュが記憶を遡ろうとする際にのみ発現する、謎の痛みであった。

街で一番と噂の医師にも見てもらったが、結局原因は不明。ただ、記憶を遡ろうとする際に起きることから、何か脳に関係のあることではないかと診断を受けたのだが。

(あの時は、なぜかシルフィーが医者に掴みかかっていたっけ……)

いったん目を閉じて、深く深呼吸をしたアッシュは、意識を過去から現在へと戻す。途端、徐々に消えていく痛みに、ほっと安堵。と、同時に疑問も覚える。

なぜ記憶を遡ろうとするときにだけ痛みが起きるのか。しかも、思い出すといっても、ランスヴェール家の屋敷で過ごしていた日々や他の記憶では起きず、あの契約の議の日のことだけ。

幼い少女を庇った、その直後に関することだけ、思い出すことを邪魔するように痛みが思考を遮ってしまう。

(あれから3年も経つのに、分からないことだらけだな、僕は)

自分のことなのに何もわからないこの現状を歯がゆいとは思う。

けれど。

(心のどこかで僕は、もういいと、思ってしまっている)

たとえかつての記憶それを思い出したとして、どうするというのか。

すでにこの身は貴族の位とは無縁のごくごく普通のものでしかない。今となっては、あの身を削るような修練も、精霊使いになるために頭へ叩き込んだ膨大な知識も、全ては役に立たない無用の長物だ。

むしろ、カプリコルで覚えた調理の技法のほうが、ずっと重宝している。

記憶だってそれは同じ。色あせた牢獄での日々よりも、今の、シルフィーやアリアーデとともに過ごす日常のほうが、とても色鮮やかで、輝いているのだから。

過去へ通じる扉は、徐々に諦めという名の風化に晒されつつある。

けれど、ただひとつだけ。心の奥底に残り続けているものもあった。

(アイシア……君は今、どこで何をしているんだろう)

今のアッシュの生活は、アリアーデに拾われたからこそ存在するもの。再び日の光を浴びて生活できるのは、彼女が倒れていたアッシュに手を差し伸べてくれたから。

(店長からその話しを聞いた時は、本当に驚いた)

だけどそれは、ランスヴェール家に拾われる切欠になった時と全く同じだったから。

(アイシア、君が見つけてくれなければ、今頃僕は………)

アッシュは、純粋な貴族ではなかった。ランスヴェール家の血を、継いでいない人間だ。

いや、それどころか。生まれも、両親も、家もわからない。全てが空白。そんな経歴しか持たない、ちっぽけな孤児。それが幼いころのアッシュだった。

そんな、汚泥にまみれた灰色の子供と、全てが黄金色に輝く世界で生きる幼い少女が、何の変哲もない裏路地で出会ったのは、本当に奇跡だったと、今だからこそ断言できる。

かつて、貴族の少女アイシアに手を差し伸べられて、命をつないだ。

いまは、アリアーデに手を差し伸べられて、この日々を生きている。

「………僕は、誰かに助けられてばかりだな」

思わず失笑する。

二度も誰かに助けられて、今をこうして生きている。

だから。

(僕を助けてくれた人たちに、恩返しがしたい)

かつて、己を救ってくれた家族アイシアを守りたい思った。だから、精霊と契約を交わし、ランスヴェール家の当主になることを決意した。

しかし、今はもうその願いは叶わない。守ると誓った妹も、もうどこに居るのかも分からない。

―――――だったら、せめて。

今の自分を救ってくれたアリアーデと、受け入れてくれたシルフィー、あの二人の為に生きよう。

(そう……三年前に決めたんだ)

拳を握りしめ、過去の決意を反芻するアッシュは目を細めた。

そう。だから、今の考えが、かつての家族アイシアの気持ちを踏みにじるものだったとしても、今を蔑ろにすることだけは、出来ない。

「――――――っと」

「――――――あら」

と、そんな風に考え事をしながら歩いていたせいだろうか。

前方から近づいてきた人の気配に気づき、咄嗟にそれを避けようと体を動かした―――が、間に合わず、肩同士がぶつかった。

(しまった―――気づくの遅かった)

ぶつかったと言っても、肩同士が接触した程度だ。だが、アッシュは自分の体がそれなり以上に鍛えられていることを知っている。城下街の住民とは、体の強度自体が違うのだ。アッシュ自身は大した衝撃ではなくとも、相手までがそうであるとは限らない。特に、女性であればなおさらだ。

「すいません。考え事をしながら歩いていたから………」

相手の顔を見るよりも早く、アッシュは頭を下げて謝罪した。

今回は完全にこちらに比がある。なにせ、前方不注意になるほど思考にのめり込んでいたのだ。

普段であれば決して仕出かさないような事故に、アッシュは顔が熱くなるのを感じた。

(何をやってるんだ僕は……)

我ながら間抜けだと思いながら頭を下げていたアッシュに、しかしぶつかったと思われる相手から返ってきたのは、笑い声だった。

「――――ふふ。大丈夫よ」

「――――え」

驚きに目を見開いたアッシュは恐る恐る顔を上げた。

まさか、笑い声が返ってくるなど、予想だにもしていなかったからだ。

視線をあげたアッシュの視界に映ったのは、一人の女性の姿だった。

艶のない黒地に赤い装飾が所々施された衣服。上半身から下半身まで繋がっているかのような、見慣れない作り。何より、胸元に刻まれている複雑な徽章。このあたり……いや、そもそも城下街では見ることなど滅多にない。

これは―――――軍服だ。

(この、人は)

そんな軍服らしきものを着込んでいるのは、アッシュよりも一回り背の高い女性。城下街の住民ではあまり見られない金色の髪。微風に揺れる金の髪の間から垣間見える碧眼。そして何より、恐ろしいまでに完成された美貌。

身近な場所にアリアーデが居るからこそ、この程度の驚きで済んでいるが、もしそうでなかったら、アッシュはきっとこの人物に見惚れ、思考すらできず唖然と立ち尽くすことしか出来なかっただろう。

今まで出会った女性の中では二人目の、他人の意識を揺らがせるほどに整った美貌の持ち主だった。

「あ、す、すいません。本当に、大丈夫でしたか……?」

何とか言葉をひねりだしたアッシュに、美女はにっこりと微笑んだ。

「ええ。それよりも、貴方こそ大丈夫?そこそこの勢いでぶつかってしまったものだから。怪我とか、体を打ったところとかはない?」

「大丈夫…ですけど」

「そう。それなら良かった。私も、少し考え事をしながら歩いていたものだから。普段なら、絶対にしないんだけどね。本当に、ごめんなさい」

物憂げにため息を吐いた美女に、アッシュ首を横に振った。

「いえ、こちらこそ……」

「じゃあ、怪我もないようだし、お互い様ということで。失礼させてもらうわね」

最後に薄く頬笑み、脇を通り過ぎる女性をチラリと一瞥した。

―――――違和感。

アッシュが刹那感じ取ったのは、女性が身に纏う異質な気配だった。

黒塗りの軍服を堂々と羽織っているのに、何故か周囲の人間から注目されていない。あれだけ周りから浮いた服装をしているというのに。

普通なら、周囲の視線を否が応でも集めてしまうだろうに、この女性は注目されるどころか、誰からも視線を向けられていない。

そもそも、今の出来事を振り返ってみれば、あの女性の気配に気づい時も妙だった。

まるで、いきなりあの女性が前方に現れたかのようだった。

あまりに不自然。

まるで彼女という存在を、他の誰も認識できていないような、そんな違和感。その他大勢の人たちの住む世界から、一歩ズレた場所に立っているかのような、歪な気配。

普通の人間には認識できないのに、それを認識できる者には、はっきりと感じ取れる。

(―――あの存在感を、僕は知っている)

かつて、嫌という程感じたもの。見間違うはずもない。そして、その存在感は、より大きなを持つ者ほど、絶大だった。

今すれ違った女性が纏っていたソレは、アッシュが今までに感じた覚えがないほど、強大。

一度そのことを認識してしまえば、あとはもう気配を探るまでもない。

アッシュの目には、はっきりと視える。

女性の体全体を覆い隠す程に立ち昇る、無色透明な陽炎のように揺らめく何か。

間違いない。あの人は―――――精霊使い・・・・だ。

(でも、どうして精霊使いが、こんなところに。まだ、貴族街と城下街を隔てる壁は開放されてないのに)

ジルヴェリア王国の中心たる王都は円型に捉えることが出来、更に、大きく三つの区画によって分けられていた。

まずは王都の外側、つまりは外周部に当たる、城下街。アッシュたちが暮らしているのもこの区域であり、この国における特定の地位や爵位を持たない住民たちが住まう場所。

次に、城下街よりも更に内側に広がる、貴族街。ここは、王室より爵位や貴族位を授けられた精霊使いたちが居を構えることを許された場所。

最後に、この国の頂点にして始まりたる王族が住まう、王域。

これら三つの区域は、普段であれば決して無断で通り抜けることは出来ない。

『大障壁』。

三つを区切るように存在するそれが、大地をわけ隔てるように存在しているからだ。

大障壁と呼ばれる“壁”は見上げるほどの高さを誇る、鋼鉄の壁だ。如何なる方法を用いても破壊することのできないその壁は、建国以来一度も壊されたことがない。ありとあらゆる物理的な干渉、そのすべてをはじき返すとまで言われている。

ただひとつ、一か所にのみ設けられている『小門』と呼ばれる場所の利用を正式に申請し、王室よりそれを認められた者だけが、異なる区域を越えることが出来るのだ。

唯一の例外として、精霊祭の正式開催後の一定時間の間のみ、それらの壁の一部が解放されることになるのだが。

(いくら貴族街に住む精霊使いでも、理由なくして壁は越えられないはずだけど)

眉を顰め、女性の後ろ姿を暫く見つめていたが、彼女の姿はあっさりと人込みの中に呑まれて消えた。

「………何にせよ、今の僕が関わっても、良いことはないよね」

あの女性が精霊使いということは、間違いなく、何らかの爵位や地位を授かっている貴族のはず。

ましてやあの服装から考えるに、軍属の精霊使いだろう。どう考えても、関わり合いになって何事もなく済むはずがない。

「………シルフィーに頼まれた林檎飴でも買って、帰ろうかな」

ついでに、アリアーデの分も含めて買っていこうと決めたアッシュは目的の品を売っている屋台を探して歩き出す。

歩き始めてしばらく経った頃、前方に広がる通りの脇に建ち並ぶ無数の屋台が見えてきた。

大声を張り上げる男性や、御淑やかな笑みを浮かべる女性まで、性別年齢問わず、様々な商売人たちが己の商品を売りさばいている場所の一角。多くの人がそれらを物色している中で、赤い色が特徴的なアッシュの目的の品を販売している屋台を見つけることに成功した。

「あ、あったあった」

こじんまりとした屋台の台の上。木の板に突き刺さるようにして売られている赤いもの。太陽の光を受けて滑らかな輝きを放つそれに、アッシュは薄く微笑んだ。

「あの勝気なシルフィーも、こういうものに目がないんだな」

どれだけ気が強くても、子供っぽい一面もあるんだな…と、もし本人に知られてしまったら無事では済まないであろう感想を抱いたアッシュは、屋台の店主に声をかけようと口を開く。

『―――――林檎飴ください』

全くの同時。

アッシュが声を出した瞬間、すぐ隣りに立っていた少女・・も同じタイミングで声をかけたようだ。

「あ、すいません。お先にどうぞ」

「いいえ。私こそ、周りをよく見てから言うべきでした。どうぞ、貴方こそ、お先に」

隣に立っていたのは、白いローブを着込んだ人物だった。頭から足元までを覆い隠すような純白のローブに身を包んだこの人を少女だと判別したのは、彼女が発した鈴の音のような可憐な声のためだ。

まるで、讃美歌を詠う歌姫のよう。いや、勿論アッシュは讃美歌など聞いたこともなかったが、そう表現したくなる程に澄んだ声だった。

「いえ、大丈夫ですよ。別に急いでいるわけでもありませんし。それに……」

苦笑いへと浮かべる。

「レディーファーストということで」

こんな恥ずかしい上に臭い台詞など、アッシュの好むものでは無かったが、こう言えば目の前の彼女は何となく受け入れてくれるような気がしての発言だった。

事実、アッシュが苦笑を浮かべたうえでの発言の意味を理解してくれたのか、ローブから見える顔の下半分……唇の端が薄く吊り上がった。

「……ふふ、お上手ですね。では、紳士な殿方の言葉に甘えるとしましょう」

対抗するように、若干の凝った言葉で返答とした彼女は林檎飴を二つ握りしめるとアッシュの方へと向き直る。深くかぶったローブの所為で、口元より上は見えないが、それでも笑みを浮かべていることぐらいは分かった。

彼女はアッシュに向かって軽く頭を下げる。

「ありがとうございました。これで、友人にも顔向けができそうです」

「いえ。全然大丈夫ですよ」

そう言ってから、アッシュも店主から二つの林檎飴を受け取った。すると、ローブの少女がこちらをじっと見つめているのに気づいた。正確には手に持っている二つの林檎飴をというべきだろうか。

アッシュの方が長身の為、ローブの少女は自然と此方を見上げるような格好になる。

目元の辺りは今も隠されて見えないが、それでもアッシュは彼女の視線をハッキリと感じ取った。

「……何か?」

「いえ、その2つの林檎飴。ご自分で召し上がるのですか?」

ローブの少女は何となく問いかけたのだろう。それこそ、世間話と同じ程度に違いない。

別に隠すことでもない。アッシュは苦笑を浮かべ、首を振った。

「これは、家族の分なんですよ。お使いというか……買って来いって頼まれちゃって」

「成程、ご家族の。いえ、年頃の男性の方が林檎飴を複数個買っていくことが、少し珍しく思えたものですから」

そう言って、微笑んだ彼女に、アッシュもまた相手の手に握られている2つの林檎飴に視線を移した。

「貴女も、ご家族の分を?」

「いえ、これは友人の分、でしょうか。別に頼まれたわけではないのですが、その友人には、今回の祭りに関しての仕事といいますか、面倒ごとを押し付けてしまったものですから。せめてその代わりにお土産を買っていこうと思いまして」

精霊祭の仕事……この子も僕と同じで、何か出し物でもしているのかな。

もしかすると、なにかしらの屋台かレストランでも経営しているのかも。友人に何らかの仕事を任せて、代わりに彼女は外を散策しに来た、といったところだろうか。

奇しくもこちらと全く同じ状況にあると思われる少女に、アッシュは妙な近親感を覚えた。

「――――それにしても、良いものですね。人々が活気にあふれている様は」

ふと、周囲を歩く人たちの顔を見て、ローブの少女は何気なく呟いた。

「活気、ですか……?」

「はい。人々の顔が明るいということは、それだけ国が豊かであるということの証。ましてや、精霊祭にそれが直接現れるともなれば、全ての人が満たされている証明に他なりませんから」

―――――違和感。

口元に薄い笑みを浮かべて呟く彼女の姿に、アッシュは小さな棘のような違和感を感じた。

彼女の言った台詞自体も奇妙なものではあったが、それよりも、その言葉を口にした彼女自身に対して異質さやズレが全くない。まるで、先ほどのような言葉を言い馴れているような、酷く堂に入っているような、そんな感覚をアッシュは抱いた。

少なくともアッシュが今まで知りあってきた人たちとは違う。物事を上から俯瞰しているかのような物言いだった。

「随分、変わったことを言われるんですね」

苦笑しながらのアッシュの言葉に、ローブの少女は僅かに顎先をあげ、驚いたようにこちらを見上げる。

あたかも自分自身の言い放った台詞に今気づいたかのような、そんな様子だ。

「―――――すいません。妙なことを言いました。忘れてください」

人の純粋な笑顔というものを、久しぶりに見たからかもしれません。

私としたことが、とそう呟いた彼女に、アッシュは頬をかく。

「……もしかして、精霊祭を見るのは初めてなんですか?」

この国で生活している以上、そんなことはないとは思うが、なにせアッシュがその例外だ。

今まで表の世界に出ることが出来る立場になかったアッシュにとっては、今回の精霊祭が初めてとなる。それに、斯く言うアッシュとて、城下街の全ての人たちが朗らかに祭りを楽しんでいるのを見て笑顔が浮かんだのは事実だ。

もっとも、それはアッシュの特異ともいえる出自故であって、まさかこの少女にそんなことが適応されるはずもない。

アッシュとしては深い意味など込めていない何気ない質問であったわけなのだが。

「―――――初めて……ええ、そう言われると、あながち間違いではないのかもしれませんね」

「え?」

だから、まさかそんな返答が彼女から返ってくるなど、予想だにもしていなかった。

瞬きを繰り返し、予想外ともいえる相手の言葉の意味をアッシュが吟味しようとした、その時だった。


――――――済んだ音色。


大気全てを震わせて、全世界を吹き抜ける微風のように涼やかな音色が響き渡った。

人の奏でる音楽とは一線を画すほどに美しい音色。聞く者の心を盛りあげるわけでも、涙をこぼさせるわけでもない。大気の中に響き渡っては溶けて消える、儚く透明な音の旋律。

だというのに、一度聞けば永遠に心に残り続けてしまいそうな程に美しいこの音色は。

「――――天輪の鐘」

ぽつりと、ローブの少女が呟いた。

天輪の鐘。三年に一度の精霊祭、その正式な開催を国内に住まう全ての人々に告げる鐘。

ジルヴェリア王国の中心たる王城の頂にある塔に備え付けられたもの。元々はこの国が建てられた際に造られという国宝だ。

造られてから既にどれだけの時が経過しているのか分からないが、遥か昔から在り続けるものだというのに、今も尚これだけの音色を響かせているのは、言い様のない感慨を覚えた。

アッシュもまた周囲の人々と同じように頭上の青空を見上げ、先ほどから断続的に響き渡ってくる鐘の音色に耳をすませた。

「―――――どうやら、確りと役割を果たしてくれたようですね」

「………?」

響く音色に混じって、隣の彼女が何事かを呟いた気がしたが、響く音色に上塗りされて、アッシュには聞き取ることが出来なかった。

その時、周囲にいた何人かの人たちが突然その場で両手を組み、目を閉じると頭を下げた。

まるで祈りを捧げているかのような、そんな光景にアッシュは目を見開く。

「これは……」

「ああ、直に始まりますね」

「始まる……?」

「ええ。“祝福儀礼”ですよ」

彼女がそう言った直後のことだった。響き渡る音色に合わせて、頭上から赤く輝く光の粒子の様なものがゆっくりと降り注いできた。

まるで冬に振る雪のようなそれらは、ゆらりゆらりと揺らめきながらも確実に地を目指して降り注ぎ、その場で両手を組んでいる一人一人の肩や頭に触れては砕け散って消えていく。

「天輪の鐘は、それを鳴らした者が注ぎ込んだ『精霊力』を、国土全域に拡散させる機能を持っていますから」

少女が差し出した掌の上にも、赤く光る粒子がひとつ、舞い降りては消えた。

「赤い精霊力……火の象徴。実にあの子らしい」

そう言う少女を眺めるアッシュの前にも、ひらりと赤い粒子が舞い降り、彼女を習うようにそれを咄嗟に受け止めようとその手を差し出し―――――

「……っ!?」

それは、ありえない“痛み”だった。

赤い粒子が体に触れた直後、額に感じるのは重く鈍い痛みの連鎖。

手にしていた林檎飴が地面に落ち、無数の赤い破片となって砕けちった。

(なん、でっ……これは、あの痛み!?)

いや、今までアッシュが体感してきた痛みとは、違う。今まで感じたことのある痛みよりも、もっと強い。

余りの痛みに、思わずふらりと揺らめいたアッシュにローブの少女は驚く。

咄嗟に少年の体を支えようと伸ばされたその手を押しとどめ、首を横に振って大丈夫と伝える。

「しかし……貴方のその様子。明らかにただ事では――――」

「大、丈夫。これは……昔から、だから」

思わず私語で喋ってしまっていることに気づいたが、今はそれを撤回するだけの余裕などなかった。

あたかも、鳴り響く鐘の音に呼応するように沸き起こる痛みに、アッシュは顔を顰める。

(どうし、て。僕は、何も思い返したりなんて、していないのに……っ)

アッシュの推測では、過去を振り返った時だけ痛みが起きるものだとばかり思っていた。実際に、今まではそうであったというのに、今回感じているこれは。

記憶を振り返ろうとすることだけが、この突き刺すような痛みの原因では、ない?

いやそもそも、この痛みは今までものと同じ物なのか?

寄せては返す波の様に、繰り返し訴えてくる痛みに悶えているアッシュを困惑しながら見つめていた少女は、しかし何かに気づいたかのようにピクリと肩を動かした。

「―――――貴方、この気配は………」

「な、にが……?」

「気づいていないのですか?いえ、それよりも―――――」

彼女がそう呟いた時、鐘の音が、止まった。

祝福儀礼が、終わったのだろう。

空から降り注いでいた赤い光の粒子は消え、その場で立ち止まっていた人々は徐々に伏せていた顔を上げ、歓声を上げた。大人から子供まで、老若男女を問わず、この場にいるすべての人が喜びの声を全身で表現している。

天輪の鐘の音が止んだということは、精霊祭が正式に始まったことを意味する。

「――――あれ」

同時に、額に感じていた痛みがあっさりと消失。それこそ何の未練もないとばかり、異常も後遺症も何も残さず、最初からそんな痛みなど存在していなかったかのように消えていった。

確かめるように頭を強く振って、もう痛みが完全に消えていることを再認識すると、今更とも言うべきだが、隣に立っているローブの少女のことを思い出す。

いくら痛みに気をとられていたとはいえ、今日初めて会ったばかりの初対面の相手に対して相応しくない接し方をしてしまったのは間違いない。

「あ、あの―――――」

咄嗟にそのことを謝罪する意味で頭を下げようとしたアッシュだったが、それを引き留めたのは、意外にもその相手本人だった。

アッシュの動作を押しとどめるように手を差し出した彼女はしばらくじっとこちらの方を観察するように眺めてから。

「――――貴方のお名前を聞かせてくださいませんか」

唐突な、意図の全く読めない少女のその言葉にアッシュはぱちくりと瞬きを繰り返す。

「えっと………」

「名前です」

有無を言わさないような勢いで再度そう問いかけてきた彼女に、アッシュは押し負けた。

「ア、アッシュです」

「そうですか。ではアッシュさん、幾つかお聞きしたいことがあるのですが―――ここは相応しくないですね。場所を移しましょう」

ガシっとアッシュの手を握りしめた。

初対面の相手にいきなり手を握られた少年が驚きの声を上げるよりも早く、少女は精霊祭の開催を喜ぶ住民たちの間をするりするりと掻い潜り、足早にこの場を離れようと歩を進めていく。

「あ、あの――――」

少女とは思えないほどの力で勢いよくアッシュの手を引く相手に声をかけるが、彼女はこちらを一顧だにしなかった。

どれだけ歩くのか。まるで彼女に導かれるようにやがてアッシュがたどり着いたのは、緑の広場。

豊かな緑がありのままの姿で残された自然公園。先ほどの通りよりは幾分か人の数が少ない場所だった。

その広場の更に隅までやってきた二人は、立ち止まった。

無言でこちらの手を引いていた少女は振り返り、頭を下げた。

「申し訳ありません。いきなりの無礼、お許しください」

「い、いや……良いんですけど」

きちんと理由は説明してもらえるのか。そう視線で問いかけたアッシュに、彼女は頷く。

そして、何を思ったのか。彼女はそのまま己が深くかぶっている白いローブに手をかけた。

その行動が一体何を意味しているのか。アッシュがそれを考えるよりも早く、少女は白いローブを手で払い、隠されていた素顔を日の下に晒した。

「―――――――君は」

その素顔を見たアッシュは、何故彼女がローブで己自身を隠さなければならなかったのかを理解した。

成程。確かにこれは、ローブを被らなければ落ち着いて歩くことすら難しいだろう。

―――――白髪蒼眼。

木々の間から差し込む木漏れ日を受けて眩く輝く純白の髪。

天に広がる蒼空をそのまま写しこんだような蒼色の瞳。

およそ常人には持ちうることの敵わない、幻想的なまでの美がそこにあった。

しかも、それだけではない。

今までかぶっていたローブにどの様な仕掛けが施されていたのかは分からない。だが、彼女がローブをとり払った瞬間、湧きあがるようにその華奢な体を覆ったのは、数刻前にアッシュが一度感じたモノ。軍服の女性が身に纏っていたそれと同等の、異質な気配だった。

風を受けて靡く純白の長髪が、まるでそれ自体が至高の衣であるかのように、さらりと広がる。

「――――改めて、謝罪を」

浅く頭を下げた彼女に、アッシュはもう立ち尽くすことしか出来なかった。

鐘が鳴ったということは、カプリコルに戻らなければいけない。だが、この時ばかりは、そのことに意識を割く余裕など生まれなかった。

アッシュの予想が正しければ、この少女は。

まさか、同じ日に二人も出会うことになるなんて。

「――――私は、シルヴィア。恐れ多くも、王室より爵位を授かった一人です」

貴族。

彼女が言い放った言葉の意味に、アッシュの心臓が大きく脈打った。

どうして精霊祭の開催よりも前に城下街にいたのか。そんな質問は浮かんでこない。今考えるべきはただひとつ。

何故、その貴族がひとりの、それも平民の少年を相手に地位を明かしたのか、その一点のみだ。

(最悪―――――まくしかない)

少女の雰囲気に押されて、己の名前を明かしてしまったことを悔やむ。

もしこの少女がこの広場までアッシュを連れてきた理由が、自分の名前の意味を理解しての行動だとすれば、本当に厄介なことになる。

(それにしては、僕が名前を名乗るよりも早くに、変な態度をとっていたように思うけど……)

本当に最悪の場合に備えて、アッシュは両足に力を込める。

相手から見られても分からぬよう、決して力まず、自然体のまま。その気になれば初速から最高速度で動きだせるよう、久しく使って・・・いなかった四肢に感覚を広げ。

「――――アッシュさん、貴方は最近、精霊を見たことはありますか」

少女シルヴィアから放たれた奇想天外な質問に、込めた力は霧散した。

精霊……?

何故、どうして。

意味のない単語ばかりが脳裏に浮かんでは消えていく。

彼女の質問の意味が、全く分からない。それは、その質問は、今この場で問いかけるべきものなのか。

先ほどまでの行動と、この質問に関する関連性がアッシュには理解できなかった。

(落ち着け……質問の意図はどうあれ、今は素直に答えた方が安全だ)

軽く深呼吸をして気分を落ち着かせたアッシュは相手に向き直る。

「……いえ。精霊を見たことはありません」

嘘は言っていない。

今までに一度も見たことがないかとは聞かれていない。相手が聞いてきているのはあくまで、最近精霊を見たかという内容だ。

アッシュはここ数年、一度も精霊には関与していない。

城下街に住んでいる限りありえない上に、そもそもかつてのことを振り返ってもアッシュはほとんどランスヴェール家の屋敷に篭りきっていたのだ。精霊と接したと言えるのは、あの日の精霊契約の儀の時だけだ。

(あの黒い悪魔が、精霊かどうかは疑わしいけど)

蒼の瞳が心の奥の底まで見透かすようにじっとこちらを見つめてくる。

じわりと、冷や汗がこめかみの部分を伝っていく。

無言の時間は実際には数秒程度だというのに、それよりも遥かに長くアッシュには感じた。

「………本当のことのようですね」

ふっと視線から力を抜いたシルヴィアに、アッシュもまた肩の力を抜いた。

「………あの、どうして僕にそんなことを」

質問するのが少し怖かったが、アッシュの畏れていることが理由でこの少女が身分を明かしたのではないと既に分かった。

もしアッシュの名前だけで真実へとたどり着いていたのなら、過去のことを訪ねてくるはず。

しかしこのシルヴィアと名乗った少女が訪ねてきたのは、アッシュの過去ではなく、精霊を見たことがあるかという、理由が一切分からない質問だけ。

であれば、理由を尋ねるのが最も適切な対処法だ。

「―――――ありえないとは思いました。“純血”ならばまだしも、まさか城下街で暮らす人間から、『精霊力』を感じるなんて」

対する彼女から返ってきたのは、誰に向けての言葉でもない。まるで自分自身に問いかける独白だった。

「―――――――」

――――空白。

その言葉に、アッシュは硬直した。脳裏が真っ白に埋め尽くされる。

この少女は一体何を言っているというのか。

まるで理解の出来ない異国の言葉でも聞かされているかのよう。頭が、耳から聞こえてきた言葉そのものを理解することを拒んでいるかのようにさえ感じる。

完全に機能を停止してしまった頭を必死に動かして、状況を整理しようとするが、この状況においてはその暇さえ与えられることはなかった。

「――――しかし、妙ですね」

「――――っ!?」

すっと、アッシュの放心した一瞬の隙を突き、少女の顔が一気に近づいてきたからだ。

吐息がかかるような距離。美しい顔立ちが間近にある。蒼色の瞳に吸い込まれそうだ。

先ほどまでの張りつめたものとは全く違う、別の意味での緊張に、アッシュは顔が熱くなるのを感じた。

だが、そんな少年の内心など関係ないとばかりに、彼女はアッシュに近づいたまま、その手で額にそっと触れてきた。

白い指先がアッシュの額に触れる。

思わずピクリと震えてしまったのは仕方がないだろう。

「………感じない」

「な、何が」

「………先ほど感じたあの感覚が、全くない」

再度確認するように呟いた少女に、アッシュは目を見開き、すぐさま距離をとった。

「い、一体何を」

「――――――」

アッシュが取り乱している間も、白髪の少女は何か考えこむように顎先を触り、じっとこちらへと視線を向けてくる。

「………アッシュさん、でしたね」

「そ、そうだけど、今度は一体何をするつもりで――――」

「貴方はこれから、どうするつもりだったのですか?」

「どうするって、そんなの店に戻らないと――――」

はっと、口を噤んだ。

しまった―――これは、言うべきでは無かった。そう思ったのは、目の前の少女の瞳が見開かれたからだった。

「店?成程、貴方は精霊祭に合わせて屋台か飲食店を経営しているのですね」

「いや、その」

嫌な予感がする。

別に嘘や変わったことなどは言っていない。だが、この少女を相手に漏らしてはいけないことを言ってしまった。そんな後悔めいた何かを、アッシュは抱いた。

「図々しいようですが、貴方のお店にお邪魔させていただいても構わないでしょうか」

「――――――はい?」

一体何がどうなってそんな言葉が飛び出してくることになったのか。

アッシュには理解することが出来なかった。

ただ、硬直したアッシュは、心の奥底でこう思った。

(………店長、シルフィー、ごめん)

もしかしたら、自分は、取り返しのつかない厄介ごとを、招いてしまったらしい。

そして、そんな厄介ごとの巻き沿いを受けるであろう二人に、アッシュは表には出さず謝罪した。

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