広がる世界 Ⅲ
アッシュたちがたどり着いたのは、学舎の一角に建つ簡素な家屋だった。
煉瓦造りで頑丈そうだが、所々に蜘蛛の巣が張り、雑草が生えている辺り、丁寧に掃除をされているとは言い難いものがあった。
その入り口には朽ちかけた木の板で『止まり木』と、雑な文字で書かれた看板がぶら下がっていた。
「………ここが?」
「うん、そうだよ。私一押しの『寮』、名前は『止まり木』」
「………あの、ヴィクトリア。人の言う言葉に文句をつけることはしないんだけど、ここ、本当に大丈夫なのかな」
「勿論、私が自身を以ってお勧めできるわ。ここの『寮長』は、凄く良い人だから、安心して生活できると思う」
にっこりと微笑んだ彼女を、ジト目で見つめてから家屋へと視線を移した。
建物自体はそう古そうではないものの、掃除がされていないのは非常に気になる。
三年もの間、飲食店で寝泊まりし、毎朝の日課が店内と外観の清掃だったアッシュからすれば、この見た目は何とも言えないものがあった。
こんな場所をアリアーデが見たら、どんな反応をするか…………。
ヴィクトリアはそんなアッシュの内心など露知らず、木製のドアをノックした。
「ルーさ~ん、いらっしゃいますか~?ヴィクトリアで~す」
何度かノックを繰り返したヴィクトリアは、何の反応も帰ってこないことに首を傾げる。
「あれ、居ないのかな。そんなことはないはずなんだけど………」
「約束でもしてたの?」
何せ医務所で暫く休んでから来たのだ。偶々ここの『寮長』とやらがいないのも、無理はない、そう考えての台詞だったのだが。
「まさか、約束なんてしなくても、あの人はいるはずだもの。何せあの人、ここ数か月の間はずっと引きこもりっぱなしのはずだし。彼が日の光の下を自分から歩こうと考えるわけないし」
「――――――――」
それ、本当に大丈夫なんだろうか。
何やら不安が押し寄せてきたアッシュを前に、扉がゆっくりと開くのが見えた。
「あ、ルーさん」
ヴィクトリアの前に現れたのは、ボサボサの髪を生やした一人の青年だった。
その身に纏っているのが制服ということは、この人も生徒なんだろうか。
それにしても、随分と老け顔をした人だと思った。髪の毛も銀じみた白色だ。シルヴィアのような純白というよりは、白髪に近い。この若さで全部白髪だなんて、ありえるんだろうか。
おまけに、目は半分眠たそうに閉じられ、表情らしい表情がない。まさしく寝起きですと言わんばかり。
制服もよく視るとヨレヨレだった。
「…………あれぇ、ヴィクトリアじゃないかぁ………なにしてるわけぇ、こんなところでぇ」
喋り方まで眠たそうな人だった。
「相変わらずですね、ルーさん。お元気そうで何よりです」
(これって元気なのか)
アッシュの突っ込みはもちろん口にはしなかった。
「おかげさまでねぇ……ウチにちょっかいを出してた連中は全員、君たちが追い払ってくれたからねぇ……助かってるよぉ」
「あはは、謙遜ですね、ルーさんが本気になったら、一瞬で追い払えたでしょ?」
「えぇ~?嫌だよぉ、面倒くさいよぉ、そんなことはぁ~。僕は静かに眠りたいだけなんだからさぁ」
ポリポリと頭をかいた青年は、眠そうな視線をアッシュへと移した。
「それでぇ、この子は誰ぇ?僕に何か要なのかなぁ?」
「あ、彼はアッシュ君って言って、今日入学してきた子なんです」
ヴィクトリアの紹介に頭を下げたアッシュ。
「は、初めまして」
「初めましてぇ。ふ~ん、入学かぁ。こんな時期に入学だなんてぇ……珍しいねぇ」
じーっと半眼でアッシュを見つめる青年は、扉を前回まで押し開けた。
「まぁ、良いやぁ……とりあえず中に入りなよぉ、話しは中で聞いてあげるからさぁ」
「はい、ありがとうございます。お邪魔しま~す」
颯爽と入っていったヴィクトリアに続いて室内に入ったアッシュは、目を見開いた。
室内は、完璧なまでに清掃されていた。
木製の床は反射して顔が映るほどに磨き上げられ、机や壁も同じように手入れがされているのが見て分かった。
外見とのギャップに、アッシュはパチクリと瞬きを繰り返した。
「驚いたでしょ」
「………う、うん」
「言ったでしょ。安心して良いって。ここ、見た目はアレだけど、住み心地は凄く良いんだから。知る人ぞ知るって場所ね」
自慢気に語るヴィクトリアに、ルーは眠そうなまま手を二度叩いた。
「それはビビも喜ぶねぇ。清掃は彼女の役割だからぁ」
彼の傍らで光が瞬いた。
薄緑色に輝く光の粒子は宙で集まり、小さな人型へと変化した。
現れたのは、羽を生やした小人。薄らと光を纏った『彼女』の姿に、アッシュは目を見開いた。
「………精霊?」
「そうだよぉ。俗に言う妖精と呼ばれる類の精霊さぁ」
整った顔立ちの精霊は宙で優雅な一礼をすると、ルーの周りをぐるりと回った後、彼の肩に降り立った。
「契約精霊、ですか?」
「いやぁ、彼女は僕の精霊じゃあないよぉ。この家に住み着いている精霊でねぇ、特定の建物や屋敷を己の依代として固定化しているんだぁ。言うなれば、この建物と契約していると言うべきだねぇ」
ルーが指先で小人を撫でると、彼女はくすぐったそうに笑った。
「おかげで、掃除の類は全部彼女さぁ。ただ、見て分かったとは思うけどぉ、この子は外には出られないんだよねぇ。だから、外観だけはどうあっても清掃できないんだぁ」
そういうことだったのか。
成程、それなら室内だけが飛びぬけて綺麗なのも頷ける。
「でも、中のことに関しては全部この子がやってしまうからねぇ。清掃、料理、洗濯、何でもできる。だから僕のようなものぐさには凄くありがたいんだぁ」
「ルーさんをその“ものぐさ”にしている原因のひとつが、彼女でもありますけどね」
苦笑いを浮かべながらそう言ったヴィクトリアに、ルーは唇を尖らせた。
「良いじゃないかぁ、この寮の長は僕なんだよぉ?」
「にしたって、最近の引きこもりっぷりは目に余ります。ジーク委員長からも再三、出頭するように文が届いているはずでは?」
「文ぃ?届いていたかなぁ、そんなもの」
チラリと肩の小人をルーが見る。彼女も苦笑いを浮かべ、何度か頷いていた。
「う~ん、そっかぁ。全然気がつかなかったよぉ」
「やっぱり……アッシュ君の案内ついでに、ここへ来たのは正解でした。それを確認するというのも、今回の私の訪問理由のひとつですから。風紀委員の一人として、模範となるべき行動をお願いしますね、ルーさん」
え、風紀委員?
「ヴィクトリア、こちらの……えっと」
「ルーで良いよぉ。呼び名なんてぇ」
アッシュの視線に気づいたルーはひらひらと手を振った。
「あ、ルーさんは……風紀委員?」
「そうだよ。分からないでしょ、見た目からじゃ」
ため息をつく彼女に、ルーは何も気にしていないとばかりに目を閉じた。
「別にぃ、僕だって好きで風紀委員に入ったわけじゃないしねぇ。ジークがどうしてもって頼むから、入ったみたいなもんだしぃ」
あのジークって人が、どうしても入って欲しいって頼んだのか。
アッシュはまじまじと青年を見つめた。
この眠たそうにしている人には、彼に求められるだけの何かがあるということなのか。
「アッシュ君、こんななりだけど、ルーさんは実は凄い人なんだよ。何せ、兵科の『席―――』
「あぁ~、止めてほしいなぁ、ヴィクトリア。ソレに関しては僕、まだ正式に返答はしていないでしょ?」
相変わらず眠たそうな、けれど何故だか逆らい難い視線に、う、とヴィクトリアは言葉を詰まらせた。
「そ、それはそうですけど………でも、ジーク委員長は貴方に受けてほしいと、講師陣に掛け合ってまで動いたのに……」
「それは彼の都合だ。僕には僕なりの考えがあるからねぇ。とにかく、この話しは終わりにしよう」
ゆらりと室内の一角にある階段を指差したルーは、肩の小人に囁いた。
「ビビ、アッシュ君を案内してあげて。彼の部屋は205号室だからぁ」
頷いた彼女はふわりとルーの肩から浮かび上がると、素早い動きでアッシュの周りを一度回ってから、顔の前で停止した。
金の髪に翠の瞳を持つ妖精は何を語るでもなく静かにアッシュの瞳を見つめていた。
まるで、自分の奥底を覗きこまれているような感覚を覚える。
(………なんだろ、この眼……まるであの時の)
ふと思い浮かんだのは、医務所で出会ったヴィクトリアの契約精霊が向けてきた視線だった。
もっとも、あの黒猫の様な警戒心と猜疑心に満ちたものではなく、どちらかと言うと何かを見定めているような、そんな視線だ。
「あれぇ、めずらしいなぁ……ビビがそこまで他人に“興味”を持つなんてぇ」
「ほんと……私やジーク委員長、サクヤ副委員長がここに来た時だって、ここまで観察することなんて無かったのに」
驚きを示す二人をよそに、暫しアッシュを見つめていた小人だったが、一度静かに目を閉じると、ふわりを身を翻して階段の方へと飛んでいった。
「さぁ、アッシュ君。部屋の場所はあの子が教えてくれるからさぁ」
「あ、はい……あの、何から何までありがとうございます」
「良いんだよぉ、そんなこと。さあ、行ってきなよぉ」
ルーに再度頭を下げ、アッシュはギシギシと軋む階段を駆け上がった。
見た目は古そうなのに、蜘蛛の巣ひとつなければ、埃っぽさやかび臭さも全くない。余程丁寧に手入れされているのが手に取るように分かった。
そして、光る小人が宙で佇んでいたのは、ある扉の前だった。
視ると、『205』と書かれた板がぶら下がっている。
「……ここ?」
『――――――――』
頷く小人がパチンと指を鳴らす。
宙に薄らと光が集い、真鍮色の鍵となってアッシュの前に落ちた。
「―――――っと」
掴んだ鍵を掲げ、それが正真正銘部屋を開けるための鍵であることを確認した。
よく見れば扉に鍵穴があるのは分かった。ここに差し込めということらしい。
鍵穴に鍵を差し込み、回す。簡単に開いた扉を押すと、簡素な一室が広がっていた。
最低限の家具と灯り、それに外の景色を眺めるには十分すぎる硝子窓。
そのすべてが埃ひとつない完璧な状態でそこにあった。
「………………」
アッシュは無言で部屋に入り、周囲を見渡した。
(…………なんでだろ)
言いようのない感覚が、アッシュの中を満たしていた。
理由は分からない。けれど、この部屋はどこか、懐かしい感じがする。
来たことはない。でも、無性に懐かしい気分になるのはきっと――――――。
(ああ、似てるんだ。カプリコルの、僕の部屋に)
かつて暮らしたあの場所の空気に、少し似ているような気がした。
「―――――どう、自分の部屋は」
声に振り返ると、壁にもたれているヴィクトリアの姿があった。
「………うん、良い部屋だね。気に入ったよ」
「そう。それなら私も嬉しいな」
うん………?
ヴィクトリアの言葉に若干の違和感を感じたアッシュが首を傾げる。
彼女は室内を馴れた様子で歩くと、突然部屋の中央でしゃがみ込んだ。そっと床を撫でたヴィクトリアは、僅かに目を細め、それから立ち上がった。
「………ほんと、ここは時間が止まっているみたい」
小さく、誰にも聞き取れない声で呟いた彼女は、にっこりとアッシュへ向けて微笑んだ。
「―――――さて、と。アッシュ君、今日一日ほんとうにお疲れさま。初日のオリエンテーションにしては、かなり刺激的だったけど、何とか乗り切れたね」
「なんとか、だけどね」
刺激的、と一言で表すにはあまりに騒動が起きすぎていたように思う。
「あとの流れはまた明日教えるから、とりあえず今日はこの寮に泊まってね。ご飯も出してくれるはずだし、そうよね、ビビ」
問いかけに頷いた小人は、部屋からすっと出ていってしまった。
「あの様子なら、すぐに晩御飯ができそうだね」
「――――――あの、さ」
「うん?」
小人を見送っていたヴィクトリアに、アッシュは大きく頭を下げた。
「え、え、なに?」
「………本当に、今日は助かったよ。ヴィクトリアが居なかったら」
「そ、そんなの!良いんだよアッシュ君!寧ろ、謝るのは私の方……!風紀委員の仕事に巻き込んじゃったし!」
お互いに頭を下げた二人は、しばらくそのまま沈黙して。
「――――――ふふ」
どちらともなく吹きだした笑いに、顔をあげた。
「あはは、何だかおかしいね、私たち」
「……うん、そうだね」
アッシュとヴィクトリアは示し合わせたように窓の方へと視線を移した。
窓から差し込む陽光が、鮮やかな黄昏色へと変わっていた。
誘われるように窓へと顔を近づけたアッシュは、遥か天上で光を放つ球体が、まるで本物の夕陽の如く変色しているのを見た。
「凄い……まるで本物だ」
「私も、最初にこの景色を見た時は、どっちが本当に太陽なのか、分からなくなっちゃったくらいだもの。地上と地下、そんな隔たりを忘れちゃうくらい、綺麗だもの」
暫し黄昏色の世界に見入っていた二人だったが、ヴィクトリアは窓から顔を遠ざけた。
「―――――ね、アッシュ君」
「ん?」
「ひとつ、聞きたいことがあるの」
「なに?」
黄昏色に照らされた彼女の顔は、本当に綺麗で―――――美しい。
紫の眼が外の光を受けて幻想的に輝くさまを眺めていたアッシュは、彼女のその問いかけを聞いた。
「―――――聖隷学院は、楽しかった?」
何故か、その問いはすっと心の奥底まで入り込んできた。
迷うことも、考えることもしなかった。
不思議だった。今日やってきたばかりだというのに。今までとは全く異なる生活の場所、普通なら容易く受け入れられるものではないはずなのに。
それでも、気がつけば。
「――――――うん、楽しかったよ」
「そっか」
眩しい笑顔を浮かべたヴィクトリア。
「じゃ、また明日ね~」
一言二言挨拶を交わした後、手を振りながら部屋を出ていった。
「…………」
沈黙が満ちた部屋の中で、アッシュは大きくため息を吐いた。
色んなことがあった。まだ初日だけとはいえ、ここまでで多くの人と、多くの物に出会った。
城下街で暮らしていた時には、想像もつかないことが、ここにはある。
あまりの情報の多さに、時折、足踏みしてしまうことも、これから何度もあるだろう。
(だけど)
今日一日過ごしてみて、自分の心は確かに、何か暖かなもので満たされていると実感できた。
黄昏色の夕陽に照らされる街並みを見つめながら、アッシュは微笑んだ。
シルフィー、店長。僕、頑張ってみせるよ。
「………よし、明日もって――――――ん?」
窓枠を撫でた指先が、僅かに引っ掛かった。
なんだろう。
窓枠の部分に、何か凹みがある。いや、これは、木の部分に何かが彫ってある?
「――――――オ………ク、タヴィア?」
――――――オクタヴィア・モードレッド。
深々と木に刻まれたその名前が不思議と、アッシュの脳裏を離れなかった。
紫色の長髪を生やした少女は、ゆっくりと、俯いたままで黄昏色の街を歩いていた。
先ほどまで、あの灰色の少年と一緒に居た時とは、あまりに雰囲気が違う。
紫水晶の如き美しい瞳に光はなく、虚ろだった。
地面に伸びる影が、頼りなさげに揺らめいていた。
それはまるで、今にも少女の存在全てが消え去ってしまいそうな、そんな儚さを感じさせた。
「…………参ったなぁ………まさか、あの部屋を引き当てるなんて」
小さく呟いたヴィクトリアは、足を止めて振り返った。
視線の先に在るのは、古びたそれ。パッと見ただけでは到底人が住んでいるとは思えないような、老朽化した建物。
『寮長』こそいるものの、あそこを『寮』として生活する生徒は、ほとんどいない。中に入る以前に、あの見た目の所為で近寄ろうとする生徒自体が少ないからだ。
そもそも『寮』とは、学院で生活する生徒たちの活動拠点。プライベートスペース。寝食をする場所であるが故に、その選定には皆、快適さを求める。
ほとんどの生徒は、もっと大きく、立派で、機能性に満ちた新築の『寮』を選ぶだろう。
勿論、敷居の高い『寮』に入寮しようと思えば、それなりの『単位』を保持していることが条件となるが、入学したばかりの生徒であっても、もっと良い『寮』を選ぶことは出来る。
ならばなぜ。
「………あはは、どうして私は、あの『寮』をアッシュ君に紹介したのかな」
笑う。けれどその笑いは、喜びという感情から出たものではなかった。
「………もっと別の『寮』なんて、いくらでもあったのに」
口にしてから、それはないと、首を振った。
理由なんて、本当は分かっているのだ。
彼から、感じ取ってしまったからだ。
ずっと昔に捨て去ったはずの“記憶”。思い出さないように、日常の忙しさの前に忘れ去ってしまえるように。力の限り押し込めて、もう思い出すまいと蓋すらしていたモノ。
たったひとりの人物に関するソレを。一人の少女が必死に隠し通してきたソレ。長い間思い返すことすら忘れていたものを、あの少年は、思い出させた。
「……………」
視線を上げ、黄昏色の光を見つめる。
嗚呼、こんなに綺麗な夕陽の時は、否が応でも思い出す。思い出してしまう。
「―――――――姉様」
静かに呟いた彼女の目尻から、一筋の涙が零れ落ちて、消えた。




