表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Reunion Chronicle ~リユニオン・クロニクル~  作者: 翠坂慎
商業都市(アウルム)・前編
37/40

広がる世界 Ⅰ

――――――夢を見た。



灰色の曇天の下で、少年は立ち尽くしていた。

吹き抜ける生ぬるい風が灰色の髪を大きく撫でる。

足元に広がるのは赤茶色の地面。草一本生えていない、枯れた大地。

日の光は差し込まず、天を覆い尽くす分厚い漆黒の雲によって頭上の全てが覆われていた。

暗く、重く、冷たい。

そんな世界に、気づけば少年は立っていた。

――――――――これは、どこだろう。

視線を持ち上げ、遥かな前方を見る。しかし、先には何もない。延々と続くむき出しの大地と灰色の天上が向かい合うようにどこまでも広がるばかりだ。

ここは、一体。いや、そもそもどうして僕は、こんなところで立ち尽くして――――――。

「―――――――え?」


まずひとつめ。

ズドンと、全身に重く響く衝撃があった。

次にふたつめ。

唐突な激痛が、少年の全身を焼いた。


己の胸元を、灼熱の痛みが刺し貫いたことに、少年は目を見開き、ソレを見た。

突き立った刃。冷たい鋼の輝きを帯びた刃が、己の胸板を容赦なく刺し貫いているのが分かった。

「――――――――ぁ、が」

背後から貫かれ、刃が貫通していることを理解した少年はゆっくりと背後を振り返って。

仮面の男が、立っていた。黒いローブをその身に纏う男の手には一本の剣。

鈍色の仮面の隙間から見える冷たく、鋭い眼光に、全身が震えるのが分かった。

「―――――――誰、だ」

「――――――――――」

彼は何も言わず、その冷たい眼差しで少年を睨み、剣を引き抜いた。

真っ赤な鮮血。暖かな生命の源が、ド派手な音をたてて地面に撒き散らされた。

「あ」

全身から力が抜け、地面へと倒れ伏す。

そこで、不可思議な光景を見た。

仮面の男のその向こうで、見覚えのある少女が蹲っていた。

紫色の髪。紫水晶アメジストを彷彿とさせる長髪を生やした少女が、何事かを叫んでいるのが分かった。

彼女の顔には快活な笑顔はなく、無残にも切り裂かれた頬から滲んだ血と、目尻から流れ落ちる悲痛な涙だけがあった。

紫色の少女は泣き叫ぶ。必死に、己の負傷など顧みず。ただ蹲って、地面に向かって絶叫する。

そんな、地に崩れ堕ちている彼女の前に、二人。少年を刺し貫いた仮面の男と同じ、漆黒のローブを身に纏った二人の女性が立っていることに気づいた。

ひとりは燃えるような真っ赤な髪を生やした女性。

もうひとりは―――――――地面に蹲る少女と同じ、紫色の髪を持った女性だった。

短髪ではあるが、それでも、その髪が宿す高貴な色はまさしく、少女の物と瓜二つで。

「――――――――」

短い紫の髪を生やす女性は、その手に何かを握りしめていて。

―――――――アレは、なんだ。

少年の目は、禍々しい黒い光を帯びる巨大なを確かに捉えた。

黒い杭の表面は何か形容しがたい怖気を覚える刻印が施され、その杭自体が周囲の光を丸ごと吸い取っているかのように、悍ましいほどの闇に覆われていた。

少年は、その杭を見て本能的に悟った。

アレは、駄目だ。

「――――――――」

紫の女性は杭を振り上げ、今も尚地面で蹲って泣き叫ぶ少女に狙いを定め、勢いよく振り下ろした。

「――――――や」

激痛で動かない全身を必死で震わせ、少年は―――――アッシュは叫んだ。

「――――――やめろおぉぉおおおぉっ!」

禍々しい杭の切っ先が、呆然と顔を上げた少女の、その美しい顔面に突き刺さって。


「―――――――ぁああああああっ!!!」


絶叫と共に飛び起きた。

全身で嫌な汗が流れ落ちる感覚。激しく乱れたその呼吸のままに、呆然と目を見開く。

真っ白な壁が、目の前にあった。

「―――――――」

肩を上下させながら、呆然自失のままに硬直した。

十秒、二十秒、三十秒が経過して漸く。

アッシュは一度瞬きをしたのち、周囲をゆっくりと見渡した。

見慣れない一室。白を基調に清潔感のある部屋だった。そのベッドの上で、自分は寝ていたらしい。

らしい、というのは、その実感が全く湧かなかったからに他ならない。

「――――――――今のは、夢?」

冷や汗が、頬を伝った。

部屋の温度は低くないのに、全身の熱という熱が全て奪われているような寒さを感じる。

ぶるりと全身を震わせたアッシュは、ふらりと上半身を投げだした。

ぽすりと、柔らかな布団が体を受け止めるのを感じながら、目元を手で覆った。

「―――――――なんて、夢だ」

呟いた直後、ガチャリと扉が開く音。

「―――――――アッシュ君?」

「!?」

聞こえた声に、びくりと全身が震えた。

脳裏を、つい先ほど垣間見た悪夢がぎる。

反射的に上半身を起こしたアッシュは、同じように顔を近づけようとしていたのだろう、美しい少女の顔がすぐ傍にあることに気づいた。

紫色の髪と、同色の瞳。美しい宝石の如き美貌に、瞠目。

唇同士が触れあう寸前という状況に、相手もまたすぐさま反応することが出来なかったのか、完全に硬直していて。

「――――――――き」

「き?」

少女の口元が勢いよく引き攣った。

「きゃああああああっ!」

「がっ」

真っ赤に顔面を染め上げた少女の凄まじい腕力によって、少年の上半身は再びベッドへと叩き付けられた。

しかしながら、日頃から手入れされているのか、大きな衝撃に負けることなく少年の体を柔らかく受け止めれくれたベッドのおかげで事なきを得た。

「な、ななななな―――――っ」

「あ、えっと………」

ベッドから、こちらを警戒の眼差しで見つめてくる少女に、アッシュは頬をかいた。

「ご、ごめんなさい………?」

「――――――っ!」

小さな少年の言葉に大きく息を吸った彼女は、目尻を吊り上げて、大声で怒鳴った。

「ごめんじゃないよっ!アッシュ君ってば、いきなり倒れちゃうし、何か魘されていたし、どうなるかと思ったんだよっ!」

先ほどの警戒心は何処へやら。一転して険しい口調で強め寄ってきた少女に、アッシュは目をパチクリと瞬かせた。

「ご、ごめんなさい……」

「ごめんで済めば騎士はいらないって何度言えば!」

………あれ、ほんの少し前にもこんなやり取りがあったような気がするんだけど。

「何か言った!?」

何にも口にしてないのに、なんで分かるのさ。

心でも読めるんだろうか。

「いや、なんでもないです」

反論するなんて勇気はアッシュにはなかった。

「――――――――――はぁ」

がっくりと、肩を脱力させたヴィクトリアは、ベッドの脇にあった丸椅子に腰を降ろした。

「………何だか私、疲れちゃったかも」

「えっと、それって僕の所為かな」

「………それ以外、理由があるのぉ?」

恨めしそうな眼差しに、頬を引きつらせた。

「そ、そんなこと言われても」

「だってアッシュ君ってば、当日、一日目だよ、まだ日を跨いでないんだよ?学院に来たばかりの新入生が、どうすればこんな短時間で騒動に巻き込まれるって言うのかな」

うん、確かにそれは否定しない。

でも、それは別に学院に来る前からそうだったし、別に今始まったことでもないな、と冷静に分析するアッシュだった。

「………それで、本当にもう体は何ともないの?」

「え、ああ。うん、何ともない……けど。ここは―――――」

見覚えのない部屋の事を指して言ったアッシュに、見ての通り、と壁際の棚を指差した。

天井に届きそうな程の大きな棚の中に規則正しく並べられている硝子瓶には、白い札で何か知らの名前が記されていた。

他にも、包帯から杖に至るまで、様々な物品が所狭しと並んでいた。

「ここは医務室よ。倒れたアッシュ君を見るにはここが良いって、運びこんでくれたの」

「運んだって……一体誰が――――――」


「勿論。私以外に誰がいる、少年」


唐突に聞こえた第三者の声、しかしどこか聞き覚えがあった声に、少年は肩を震わせた。

見れば、壁に持たれているのは黒コートを身に纏った濡羽色の髪の女性だった。

全身黒ずくめといっても過言ではない女性にアッシュは確かな見覚えがあった。

「………貴女は、あの時の」

ニヤリと唇を持ちあげた女性に、ヴィクトリアは首を傾げた。

「アッシュ君、ハクア講師を知ってるの?」

「あ、うん。まあ、少しだけだけど」

正直、知りあいと呼べるほどのものじゃない。

それどころか、出会いがしら早々襲い掛かられたなんて、彼女には言えなかった。

流石にこの状況でいきなり飛びかかってくることはないだろうし、今は安心、だよね?

「安心しろ、少年」

アッシュの顔色から判断したのか、彼女は壁から離れ、口に咥えていた煙草を握り潰した。

「あの時の行動は命令あってこそ。何もない状況で顔も知らん第三者に拳を振るうほど、私は危ない女ではないぞ」

「は、はぁ………」

「それよりも、だ。少年、お前はここに運ばれる前の事を、『壁』に触れた時のことを覚えているか?」

「壁って………」

あの蒼い巨壁に触れた時のことか。

「………思い出せます、けど」

「なら、その時に何かあったか?」

「―――――――――――」

アッシュの脳裏に思い浮かんだのは、真っ白な髪を生やした真白き女性の姿に他ならなかった。

しかし何故か、それを口に出すことは憚られた。

理由は分からない。だけど、不用意に口にして良い事柄ではないような、そんな気がした。

「――――――ふむ」

沈黙した少年に目を伏せた女性は、次いでヴィクトリアへと視線を移した。

「ヴィクトリア、悪いが飲み物を持って来てくれないか」

「飲み物、ですか?」

「ああ、喉が渇いてな。なに、珈琲でも紅茶でも構わんさ。適当に持ってきてほしい」

「分かりました……じゃあ、何か適当に」

「ああ。他科の生徒のお前には申し訳ないが」

「大丈夫ですよ、そんなの」

苦笑いを浮かべたヴィクトリアは立ち上がり、アッシュへと心配そうな一瞥を向けると退出していった。

「ふふ、思われているな、少年」

「………茶化さないでくださいよ」

「人の好意には鈍いのか。前情報として聞いた通りで面白いな」

さらっと気になることを言ったような気もするが、今は。

「―――――――――」

女性の軽口を、まともに切り返している場合じゃない。

アッシュの視線は今しがたヴィクトリアが退出していった扉を見つめていた。

「………人払い、ですか」

「察しは良いな」

先ほどまでヴィクトリアが座っていた椅子に、ドカリと腰を降ろした女性は、懐から次なる煙草を取り出すと唇の端に咥えた。

直後、唐突に煙草の先端で火花が散った。

ボッ!という音と共に煙草から白い煙が舞い上がる。

さらっと炎の精霊力を行使した女性は、さて、と煙草を咥えたまま口を開いた。

「あの時は名前を明かす暇もなかったからな。私は、聖隷学院『兵科』所属の第三級講師、ハクアだ」

第三級講師?

言葉の意味が分からずアッシュは首を捻った。

「それにしても。エリザベス理事から話しは聞いていたとはいえ、こうも早く再会することになるとは思っても見なかったぞ、少年」

「それは……すいません。何か、凄く迷惑をかけたみたいで」

「ん?部屋まで運んだという話しか?構わん、そんなもの、準備ストレッチにもならん程度の運動量だ。偶々あそこに居合わせた、ただそれだけの話しだからな。むしろ―――――」

ハクアは黒い瞳を細め、アッシュを見た。

「予想以上に面白い逸材だと確信できた分、私の方が得をした」

「………それは、どういう意味ですか」

「あの時、何を見た」

「――――――!」

何を、見た。そう、言ったよね、この人。

この人が言っているのは、壁の中に見えた白髪の女性のことか。

「………あの人、一体何なんですか」

「あの人、か」

唇を歪ませたハクアは、失笑を浮かべた。

その顔は、少年の発言を歓迎しているとも、拒絶しているともいえない、形容しがたいものだった。

「容姿まではっきり捉えるとは。『波長』の合う人間でも、声をおぼろげに聞き取るか、体の輪郭を“影”として認識するのが精々だというのに。さて、一体お前は何者なのか」

ほんの僅かな刹那、鋭い眼光を浮かべた彼女だったが、瞬き一回分の時が過ぎた時には既に、薄い笑みを張りつけた顔へと戻っていた。

「まあ、良い。いずれはそれも分かることだろう。少年、わざわざ彼女をこの場から排してまで、私からお前に言いたかったことは一つだけだ」

雅な仕草で足を組んだハクアはそれを口にした。

「―――――――忘れろ」

「…………はい?」

「あの壁で見たもの、感じたもの、そのすべてを忘れろと言った。アレについて知るには、お前はまだ早すぎる・・・・。不用意に情報を与えて、アレに呑まれては元も子もない」

これは、脅し……いや、もうこれは逆らうという選択肢は端から存在しない、強制だ。

「………僕は、そんなにマズイものを見てしまったんですか」

どうしてこの人が此処まで言うのかは分からないが、別にそれはどうだっていい。

あの女性が何者だったのか、そんなことは知りたいとも思わない。

またもや奇妙なことに巻き込まれてしまった。ただその事実に対してため息が出てしまっただけだ。

「――――――この学院の歴史は古い。どれだけ長くこの学院で過ごした者でも、この地に眠る全てを知り尽くしたと言える奴はいない。故に、ここには誰も知らない多くの『神秘』が眠るのさ」

ゾクリと、アッシュの背筋に悪寒がはしる。

知ってはならない、ハッキリとそう感じた。

「本来であれば今日来たばかりの生徒が遭遇するような事象ではないのだがな。やはり、少年のに関係があると見るべきか―――――」

そのあと、何かをぶつぶつと呟いていたハクアを訝しげに見つめるアッシュだったが、ふと我に返った彼女の問いに、更に首を傾げることになった。

「少年、ひとつ聞くが、お前の持つアレ・・は生まれ持った先天的な物か?」

「――――――力?」

「ああ。少年の力だ。私の拳を受けた時、威力を相殺するためにお前が成したことだろう?」

首を傾げた彼女に対して鏡の中の虚像の如く、全く同じ首を傾げる動作を返したアッシュ。

二人はしばらく硬直した。

「―――――いや、待て。まさか少年、お前は……自分自身が持つ力に気がついていないのか?」

「………力って、あの、何の話ですか」

眉を顰めたアッシュに、ハクアの黒瞳が見開かれた。その後、小さな舌打ちが彼女の口から洩れた。

「―――――早まったな。まさか、自分の持つ力に気づいてさえいなかったとは。これは、余計な口出しをしたか」

「えっと…………」

「ふむ。面倒な話しになってきたな」

ため息をこぼす彼女に全くついていけないアッシュはただ困惑するしかなかった。

「………一から十まで説明するのが筋なのだろうが、時間切れだ。とにかく、今までの話しは全て忘れろ。特に、お前が見たモノに関してはな」

そう早口に捲し立てるなり立ち上がったハクアは、身を翻した。

「ハクア講師、紅茶の葉は今切らしてるみたいで、珈琲しかなかった――――――って」

直後、扉が開く。戻ってきたヴィクトリアは、御盆を両手で抱えたまま、立ち止まった。

この部屋に漂う微妙な空気を読み取ったのか、彼女は首を傾げた。

「ハクア講師、あの、なにかあったんですか……?」

「いや、なに。少年の顔色も良いようだし、そろそろ職務に戻ろうと思ってな」

ヴィクトリアの持ってきたカップを掴みとり、一息で飲み乾した彼女は、未だベッドの上で呆けるアッシュを一瞥した。

「―――――ではな少年、また会おう。次は、『兵科』の生徒と講師、学院であるべき関係としてな」

颯爽と歩き去っていった彼女の後ろ姿を暫く呆然と見つめていた。

「………アッシュ君、何かあったの?私がいない間に」

「………えと、いや。何でもないと、思うんだけど………?」

「どうして疑問形?」

先ほどまでハクアの座っていた椅子に腰を降ろしたヴィクトリアを見て、アッシュは頬をかいた。

結局、さっきの話しは何だったんだろうか。

イマイチ要領を得ない話しばかり。理解したとは言い難いけれど。

(………あの人が忘れろって言うんだし)

ここには途方もない技術が眠っているということは流石に分かった。

あの時に見た『女性』が何であれ、今この場で考えこむことに、意味はないだろう。

「まぁ良いけど。はい、アッシュ君」

「あ、ありがと」

湯気の立ち上るカップを傾けながら、頷いた。

(――――兎に角、忘れよう。初日で躓いたら、この先、身がもたなさそうだし)

自分の中でそう決めたアッシュは、先ほどの話しの全てを頭の隅に放り投げることにした。

「あ」

だからだろうか。

さっきまで口に含んでも味が分からなかった珈琲が、舌の上の味覚を刺激するのが分かった。

「………美味しい」

「ほんと?」

パッと嬉しそうに顔を明るく変えたヴィクトリアが胸を張った。

「ふふ、自慢じゃないけど、これでも私、淹れるのが上手いんだよ。家族からも、好評なんだから」

………九大貴族の娘が果たしてそんな給仕紛いのことをするとは思えないわけなんだけど、触れない方が良さそうだ。

「そうなんだ。うん、でもほんとに美味しい。こんなに美味しいのは久しぶりに飲んだかも」

「そ、そこまで言っちゃう?えへへ、照れるなぁ」


『当然じゃな、ヴィクトリアの才は正しく天賦の才。貴様如きどこぞの馬の骨が容易く飲めるようなものではないと心得よ』


ニコニコと笑いながら頭を掻くヴィクトリアを微笑ましそうに眺めていたアッシュは、突如として聞こえてきた低い声に、硬直した。

「――――――――はい?」


『一度で分からんとは、物わかりの悪いやつよ。貴様の、今も阿保面で飲んでおるそれは、選ばれた者だけが飲める至高の一杯じゃということを忘れるなと言うておる』


気の所為じゃ、ない?

恐る恐る、アッシュは声の聞こえた方へ視線を向けた。

「――――――――猫?」

見開かれた瞳が見つめる先は、苦笑を浮かべるヴィクトリア、その肩の上。

華奢な肩の上で四本で立つ小柄な動物が、いつの間にか現れていた。

艶のある黒い毛を生やしたソレは、城下街においては特に珍しくもない生き物。

ただ違うところがあるとすれば、そのの瞳が左右で色彩が違うこと。左目は赤、右目は黄色。世にも珍しいオッドアイ。

――――――――というか。

(いやいや!?)

今、聞こえた声の方を、アッシュが見ている。その先には、一匹の猫。

「――――――つまり、今の声は」

『然り。我である。何かおかしなことがあったか、小僧』

さも当然だとばかりに目を閉じた猫は、器用にも口元の端を吊り上げてみせた。

「―――――――――――ね、猫が、喋った………?」

唖然となったアッシュは、くっ…と呻いた。

今まで遭遇した学院の不思議の数々。もう馴れたと思っていた。耐性が多少なりともついたと。

なんという、思い上がりだったのか。

(まさかこの場所では、猫が喋るものだったとは、流石に考えもつかなかった)

「―――――あ~、あのねアッシュ君、変な勘違いしないように言っておくけど、猫は普通喋らないからね」

「――――――。そうだよね、うん、分かってた……分かってたよ」

うん、冷静に考えるまでもなく、ないよね。猫が喋るなんて。

つまり。

「その猫―――――――もしかして」

「うん。アッシュ君の予想している通りかな。この子は私の精霊だよ」

指先で猫の頤を撫でるヴィクトリアに、やっぱり、とアッシュは目を細めた。

『ふん、我をそのあたりの獣畜生と同じに思わんことだ。我はヴィクトリアの契約精霊。如何なる外敵をも退ける守護者である』

……外敵って。

『言うまでもない、小僧、貴様の様な小生意気な男のことよ』

黒猫はゆっくりと前足を折った。

その様はまるで、獲物に今こそ飛びかからんとする直前のようで。

『――――では早速、その冴えない顔ごと此処から去れ、小僧――――――――ニャッ!?』

いざ!!と宙へ躍り出ようとした黒猫の首根っこをヴィクトリアが鷲掴んだ。

「こら、駄目でしょ『マルコ』。アッシュくんは別に敵でも何でもないんだから」

『し、しかしヴィクトリアよ!この小僧の目を見よ、この何か良くないことを考えているに違いない目を!今にもこの男、襲い掛かってくるやも知れんぞ!』

首を掴まれたままじたばたと宙で暴れる黒猫を、アッシュはしげしげと眺めた。

………精霊、か。

精霊の形は本当に様々だ。本で見て、姿形が個体ごとに千差万別なのは知識だけで知っていた。

でもまさか、猫の姿の精霊がいるとは。

「………」


―――――――漆黒の翼をもった悪魔。


なにぶん、始めて見た精霊がアレだっただけに、どうにも偏見を持ってしまった感は否めなかった。

というより、普通の姿の精霊を見るのは―――――。

(あれ、マトモな精霊を生で見るのは、これが初めてなんじゃないか、僕……)

もう関係のない話しとは言え、かつて精霊使いを目指していた身でありながら、これだけ近くで精霊を見たのは初めてだなんて。

「ヴィクトリア……その、猫は、君の契約している精霊なんだよね」

「うん、そうだよ。名前はマルコっていうの」

可愛いでしょ?

ぶら~んと黒猫を揺らしたヴィクトリアに、アッシュは顔を引きつらせた。

『よ、止すのじゃヴィクトリア!というより、この小僧に我の名を簡単に教えるなど!』

「え~、良いじゃない別に。『真名』でもなし、ただの愛称ミドルネームでしょ?」

『駄目じゃ、この小僧はなんというか、信用ならん!大体、我は男が嫌いじゃっ!言葉を交わすこと自体、毛が逆立って仕方ないわ!』

随分はっきりものごとを言う精霊だった。

まるで、人のよう―――――――あれ。

(………確か、言葉による意思疎通が出来る精霊って、高位の個体だけって書いてあったような)

少女の指先で揺れる黒猫の姿に、そんな“らしさ”は微塵も見られないけど。

しげしげと眺めているのに気づいたのか、目尻を吊り上げた猫がこっちを向いた。

『小僧、何を見ておるのじゃ!』

「え、いや……」

『ふん、我が毛並みのあまりの美しさに目が行くのは仕方がないこと。しかし、お主は駄目じゃ。我の躰を見るに能わず!』

フシャー、と威嚇する様は本当に猫みたいだった。

しかも、全く怖くない。

「何よマルコ。貴方がそこまで敵愾心を示すなんて珍しいわね。アッシュ君の何が気にいらないって言うの?」

見るに見かねたのか、不思議そうに首を捻ったヴィクトリアに、黒猫はその色彩の異なる双眸でこちらを睥睨した。

(なんだろう)

こちらを向く人ならざる眼差しに、明確な感情が宿っているのが分かった。

敵愾心……いや、少し違う。これはそう。言うなれば、警戒心?

『―――――ヴィクトリアよ、我はお主の交友関係をとやかく言うつもりは毛頭ない。しかし、この小僧は止めておけ』

「なんで?」

『………我の口からは言えん。我がそれ・・を口にすることで、主であるヴィクトリアにどんな厄介ごとがやってくるか分からぬからな』

ゆっくりと目を閉じた黒猫は、到底猫とは思えない仕草で嘆息をこぼすと、再びその双眸でアッシュを睨み付けた。

『小僧、お主が如何なる『業』を背負ってその力・・・を得たかは知らぬ。だが、ソレを容易には振りかざさないことだ』

有無を言わさぬ鋭い眼差しに、アッシュは意味の分からない中であっても閉口することしか出来なかった。

その力・・・はかつて、厄災となって世に現れた』

猫に表情なんてものはないはずなのに、その顔は深い悲しみに覆われているように見えた。

『………もし、お主が同じ道を歩んでしまったとするならば、その時は覚悟せよ』


――――――この世の全ての精霊が、お主の敵となるであろう。


『せいぜい、気をつけよ』

全く意味の分からないことを言い放つと、黒猫は赤い燐光に包まれ、少女の肩から消えてしまった。

「……一体、なんなんだろ」

「さ、さあ。私もあんな様子のマルコは始めて見たけど………」

アッシュと同じく、ヴィクトリアも困惑顔だった。

「安心して、今の態度のことは後で私がしっかりとマルコに言い聞かせておくから!」

それ、きっと逆効果にしかならないんじゃないかなぁ。

さっきの黒猫からの嫌われっぷりを見る限り、きっと間違いないと思うんだ。

「………ところで、僕はあれから、ここに運び込まれたんだよね」

確か、医務室とか言っていた。

「あ、そっか。アッシュ君ってば意識なかったみたいだから、あの壁を越えたところを見てないんだ」

「壁を越えたって……もしかしてここは」

ヴィクトリアは窓辺に近づくと、白のレースカーテンを左右に勢いよく開け放った。

遮られていた陽光が、室内を明るく照らしだす。

「ここはもう、『兵科』の学舎よ」


窓の外には、一つの街が広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ