プロローグ Ⅲ
塔から出れば。
頭上から燦々と降り注ぐ眩い光に照らされた、広場があった。
暖かな日差しが皮膚を暖める心地よさに目を細めながら、アッシュは周囲をぐるりと見渡した。
足元には白塗りの煉瓦が所狭しと敷き詰められた、平らな大地。背後を振り返れば、遥かな空を見上げるほどに首を持ちあげなければ頂が見えない白い巨塔。まるで現実感のないその光景を、少女はさも当然の物であるかのように、大きく伸びをした。
「う~ん、暖かい。今日の気象設定は春ね」
と、よく意味の分からないことを言いながら、ヴィクトリアはアッシュへと視線を移した。
「さて、と」
両手を胸の前で合わせた彼女は視線を彷徨わせる。
「じゃあこれからどうしよっか。理事長からはこうしなさいって事は言われてないけど、『学科選定』も済んでないし、学科をひとつずつ紹介していった方が良い――――――」
ヴィクトリアの唇が、不自然な勢いで閉じられた。
顔つきが鋭いモノへと変わり、耳元へと手が伸びた。
「―――――伝令?これは……規定値以上の精霊力反応?こんなところで……?」
信じられないと呟いたヴィクトリアに、アッシュは眉を顰めた。
なんだろう、今までとは全然違う、焦ったような表情を浮かべた彼女の耳元に着けられた耳飾りが淡い光を放っていることに気づいた。
あれは、精霊器?
「―――――今一番近くにいるのは、私かぁ」
ぽつりと呻くように呟いたヴィクトリアは、アッシュに向かって両手を合わせ、謝罪した。
「ごめん、アッシュ君。案内は一端中断。悪いんだけど、ここにいて。仕事が終わったら、また戻ってくるから!」
「え、いや、あの――――――」
「ほんっとにごめんね!この埋め合わせはすぐにするから!」
言うなり、彼女は颯爽と走り出した。
あっというまに走り去っていくヴィクトリアの後ろ姿をアッシュは呆然と見送った。いや、見送ることしか出来なかった。それほどに、彼女の顔は危機迫ったモノで。
「…………僕も、行こうかな」
ここで彼女の言葉通りに待っているという選択肢ももちろんあった。
というより、その方が良いだろう。アッシュにはこの学院内に関する土地勘も、知識もない。
万が一迷ったりした日には目も当てられないことになるかもしれない。
「でも」
彼女を一人で行かせるのは、よくない気がする。
だから、彼女の後ろ姿を完全に見失わない内に追いかけることを決めた。
ヴィクトリアが走る速度はとんでもなく速かった。もし、アッシュがこの学院で精霊術を学んだ生徒であったなら、彼女の足元に淡い光が収束し、術式として編まれていた事が読み取れただろう。そして、その術式が言葉を介さず、『無詠唱』で実行されていたことも、見抜けていたに違いない。
今のアッシュには、それらを読み取ることは出来ない。
そんな観察眼も、知識もない。だが、両足に力を込め、疾風を巻き起こす勢いで駆け出したアッシュの速度は、ヴィクトリアのソレを、上回っていた。
――――――どこをどう走ったのかは、まるで分からなかった。
ただ、紫色の髪をなびかせて走る少女の後ろ姿だけを目印に、アッシュは凄まじい速さで彼女を追う。
途中、幾人かの生徒と思しき男女にも出会ったが、彼らは疾走するアッシュに驚愕したような顔つきをすると、誰もが道をあけていった。何に驚いていたのかはイマイチ分からなかったが、おかげでヴィクトリアを見失わなかったのは有り難かった。
疾走の果て、たどり着いたのは、大きな噴水が中央に設置された広場らしき場所。
光を受けて美しく輝く噴水を前に、その雰囲気を台無しにするような気配を滲ませた大柄な男子生徒と、小柄な女生徒。二人が向かい合っていた。
違うのは、少女は一人きりなのに対して、青年の方は背後に幾人かの生徒を控えさせていたということだろう。
そんな光景を建物の物陰から覗きこんだアッシュ。
「……なんだろ」
とりあえず状況観察に徹することを決め込んだアッシュは腰を降ろした。
「――――――何故、俺に従わない?俺の『団』に入るのが、そこまで嫌か?」
大柄な青年は気に食わないと言わんばかりに、低い声音で問いかけた。
「わ、私は………貴方のクランには入りません」
怯えたように震える少女は、涙を滲ませながらも言葉を放った。
「何故だ。俺のクランに加わることは、お前にとってもメリットが有るはずだが」
「私……どうしても、したいことがあるんです。貴方のクランに入ってしまったら、それが出来なくなってしまう………」
「ふん、お前のしたいこととは、母親の“形見”を見つけることか?やめておくんだな、アレはもうこの国にない。探しだすのは不可能だ」
少女は拳を握りしめ、震えた。
「そっ……それでも、私は諦めたくない――――っ」
「馬鹿が。無駄だと言っているのが分からないのか。あんなモノを探すより、俺に着いた方が為になるというのに」
ふと、少女は何かに気づいたように顔をあげた。ふるふると震えながら、彼女は一歩、また一歩を青年へと近づく。
「あんな、物………?それは、どういう………」
ほう、と青年は笑った。
「やっと気づいたか。ワザと口にしていたというのに、相変わらずお前は愚鈍な奴だ。そうだ、お前の母親の形見を売りはらったのは、俺だ」
「っ!?」
「母親の後を継ぐ。そんな下らない“夢”のために、お前はよりにもよって、この俺の誘いを断った。この、ブライのプライドを、踏みにじった」
青年は、赤茶色の髪を搔き上げ、不愉快そうに目を細めた。
「そっ……そんなっ!?そんなことのために、母様の簪を――――っ!?」
涙目で絶叫する少女に、青年は嗤った。
「ふん、これでもお前のことを俺なりに考えてやった結果だが。母親に執着するお前を、形見を消すことでその夢から解放してやろうと思っただけだ」
「――――――――かえ、して」
顔を伏せた少女の髪が、ざわりと不自然に持ちあがる。
ピリピリと皮膚を突き刺すような鋭い気配が、少女から発せられた。
対する青年はそれでも余裕の態度を崩さない。背後に控える数人が前に出ようと動きだしたが、それを片手で制した青年は、首を傾げた。
「正気か?お前が、この俺とやりあう?たかだか十年ほど前に新設された『経営学科』の、それも『席次』すら持たないお前が、学院を創設した偉大なる四人の英雄が遺した“四大”が一角、『精霊術科』の、『第十四席』たるこの俺に、刃向うと?」
「―――――――」
少女は何も言わず、ゆっくりと震える片手を掲げていく。
青年は唇の端を持ちあげた。
「忘れたか?『賢者の塔』があるこの『中央統合区』における、正当な理由のない精霊力の行使は厳罰ものだ。下手を打てば、退学となるぞ」
「――――――返してっ!!」
少女の全身に精霊力が帯びられたのが分かった瞬間、青年もまた大声で哄笑をあげた。
「精霊力を行使したな。ではこれより、規則を破り、力を発現した生徒を鎮圧する。よく見ておけ、お前たち」
正義には証拠が必要だからな。
最後にそう呟いて、青年もまたその身に精霊力を帯びはじめ―――――。
「――――――そこまで!!」
アッシュと同じように遠方からこの光景を眺めていたヴィクトリアが飛び出した。
凄まじい速さで男女二人の間に割り込んだ彼女は、叫んだ。
「双方、精霊力をおさめなさい!これよりこの場は、『風紀委員』が預かります!」
懐から何らかの徽章をとりだすと、胸元に叩きつけるように装着。
光を受けて輝く徽章が、その存在を主張した。
「『風紀委員』っ……!?」
「―――――――ふん」
愕然とした声を漏らす少女とは裏腹に、心底つまらなそうに息を吐く青年。
二人に対してヴィクトリアは静かに双方を睨み、いかなる挙動も見逃さないと鋭い眼差しを浮かべていた。
「経緯は見ていたわ。貴方たち、この『中央統合区』での精霊力の行使が如何なる結果を招くか、承知していないわけじゃないでしょう」
彼女の言葉に、まず反論したのは少女だった。
「で、でも――――あの人は私の大事なものをっ!!」
「だとしても。それによって規則を破るのは別のことよ。貴女が本当に大事な物を取り戻したいというのなら、ここは引きなさい」
「っ………」
「感情に、怒りに任せて力を振るうことは、最悪の選択肢。私の警告に従わないというのなら、力づくでも貴女を止めるわ」
ヴィクトリアの刃の如き言葉に、少女は呻き、がっくりと項垂れた。
膝から崩れ落ち、地べたに座り込んだ小柄な女生徒を見届けて、反対側に立っていた赤銅色の髪を持つ青年に視線を移した。
「貴方もよ、ブライ。力を止めなさい」
「興が削がれる、とはこのことだ。随分とつまらない結果にしてくれたな」
吐き捨てるように言った青年に、ヴィクトリアは目を細めた。
「つまらないのは貴方のほうでしょ。言葉で彼女を扇動して、怒りを煽って。わざと規則を破るように語りかけていたわね」
「何のことだ。俺はただ、この学院の規則を破った愚か者を、罰しようと思っただけだ」
「生徒を罰するのは貴方じゃない」
「ならば、お前たち『風紀委員』だとでも?」
それに対してそうだとも、違うとも、彼女は言わなかった。
「―――とにかく、この場は私は預かるわ。後の詳細は追って伝えます。『風紀委員』の本会議にかけて、この事例は精査の後に決を下します」
きっぱりと断言した彼女は青年から視線を切り、項垂れる少女の元へ膝を着くと、頭をそっと撫でた。
「ありがとう、力を引いてくれて。おかげで私たちは、貴女を捕縛するためではなく、助けるために動くことが出来る」
「――――――わ、私………」
顔を上げ、泣きそうに顔を歪ませた少女に、ヴィクトリアは優しく微笑んだ。
「良いのよ。貴女の気持ちは、正しいものだから」
「う――――――う、ぇ………」
静かに涙をこぼす少女を宥めるヴィクトリアの姿に、陰から見ていたアッシュは安堵の息を吐いた。
良かった。とりあえず、事態は解決したみたいだ。
「………でも」
気になるのは、もう一方の青年だった。
何せ、二人の少女の姿を見て、心底気に食わないとばかりに、肩を怒りで震わせていたのだから。
「―――――――馬鹿げている」
青年の低い声が、噴水の広場に木霊した。
「……下らない。本当に、下らない」
顔を伏せ、肩を震わせる青年に、背後に控えていた男子生徒たちが怯えたように顔を引きつらせる。
「―――――――お前、本当に何様のつもりだ。お前如きが、この俺に異見を申し立てたばかりか、下らない介入で俺の行動を邪魔しようというのか」
青年の怒りに満ち満ちた瞳が、紫色の少女に向けられる。
「ふざけるなよ、ヴィクトリア。第十四席次の俺に、お前如きが意見するなど。『精霊術科』『第十五席』ヴィクトリア、俺よりも『席次』が低い分際で。流石は―――――」
嘲りの色が、青年の瞳を彩った。
明確な侮辱の意を込めて、彼は言った。
「流石は“落ちおこぼれ”、言うことが違うな。そうだろう――――ヴィクトリア・モルドレッド。偉大なる血を継ぐひとりでありながら、精霊術の才覚が無い奴は、言葉だけは一流か」
アッシュは驚愕した。
モルドレッド。
彼は確かに、そう口にした。
ジルヴェリア王国においてその“名”を知らぬ者はいない。
当然だろう。何せその“名”は、この国では比類なき血の証。
数多の者はその名を聞いただけで跪く。頂点ともいえる、権威の象徴。
――――――――序列第八位モルドレッド家。
九大貴族として名を連ねる名家、その一角。
(彼女は、そのひとりなのか……!?)
一方で、青年の言葉を背で受け止めた彼女は、静かに立ち上がり、振り返った。
「―――――私のことは、どうだっていい。私自身のことは、私が一番よく分かっている。その事と、今回の一件、一体何の関係があるのかしら。ただ私への怒りでその事を言うのであれば止めておきなさい」
明らかに彼女自身を貶すものであったその言葉に対して、表情が揺らぐことはなかった。
本当に、青年の言葉はヴィクトリアに届いていない。耳には届いていても、それが彼女の心の内の根幹を揺らすには、全くもって足りていなかった。
――――――凄いな、彼女。
アッシュは素直に、そう思った。
だが。
「――――――!まずい……!」
思わずアッシュは立ち上がっていた。
青年から、怒涛の勢いで精霊力が溢れ出したからだ。
純粋な淡い光だった精霊力は、青年の内からあふれ出る怒りの感情に応えるように、紅蓮の輝きを帯びた。
色彩は赤、属性は炎。発せられる圧倒的な熱量が、熱風となって吹き付けてくる。
「―――――ヴィクトリア・モルドレッド。お前に、『決闘』を申し込む」
「………本気で言ってるの」
「ああ、本気も本気だ。今まで気に食わないことは何度かあったが、今回は特別だ。良い機会になった、おかげで、お前を完膚なきまでに叩き潰せる。お前の持つ『単位』、根こそぎ俺が奪い、退学にしてやろう」
嘲笑を滲ませた青年に、ヴィクトリアは僅かに目を閉じ、鋭い眼光を浮かべて睨み据えた。
「でも、場所を変えましょう。例え『決闘規則』に則るとはいえ、この場所は他を巻き込む」
他の巻き込まない場所へ。そう呟いて、ヴィクトリアが青年に背を向けた瞬間。
「―――――――それが、お前の弱点だな、ヴィクトリア!!」
紅蓮の炎が、青年を中心に渦を巻いた。
ヴィクトリアが目を見開いて振り返った時には遅い。
炎は瞬く間に青年の頭上で巨大な火球と化し、その指先、その意思ひとつで二人の少女目がけて放つことが出来るほどに完成されていた。
巨大な火球が放つ熱気で、青年の周囲が陽炎のように揺らめく。
「この構築速度……貴方、術式を最初から編んで――――――」
「憤怒の王に願い奉る 炎よ 真円となりて 敵を打て――『火球』!」
青年が腕を振り下ろした刹那、荒れ狂う炎の牙が一直線に二人目がけて放たれた。
地面を焼き尽くしながら迫る炎に、すぐさまその場から跳躍して回避しようとしたが、怯えたように頭を抱え蹲ってしまった小柄な女生徒を見て、ヴィクトリアは舌打ち。
もし彼女一人であればどうとでもなった。回避することもできた。
だが――――――。
「逃げるわけないだろう、ヴィクトリア?お前の後ろで無様にも這いつくばっているのは、お前たち『風紀委員』が守るべき、庇護の対象だからな!」
叫んだ青年に、ヴィクトリアにできたことは最早、防御することだけだった。
視線を前へ戻せば、あと数秒でこちらへ接触するであろう程に接近した炎の塊に、歯を食いしばる。
いくらなんでも、これだけの時間で何かを成すのは不可能だ。全力で精霊力を固めて、あの炎の防衛に備えることしか。
「―――――――くっ」
小さく、己に言い聞かせるように呟いたヴィクトリアは、顔の前で両腕をかざした。
精霊力を両腕に集め、炎を相殺する。陽炎の如く立ち上る精霊力によって彼女の腕が光り輝く。
来るべきその衝撃に、覚悟を決めた彼女に、正確にはその脇に誰かが手を回したのが分かった。
「えっ………!?」
思わず振り返る。
灰色の髪の少年が、自身と、小柄な女生徒の二人を抱え込んでいるのが分かった。
一体いつの間に。というか、どうしてここに。そんな意味を込めて、彼女は叫んでいた。
「アッシュ君――――――!?」
「黙って、舌を噛む」
体格に大差がない。いくらうら若き少女とは言え、二人を抱えて飛ぶのは不可能――――。
ぐん、という凄まじい力が少年の腕に宿ったのが分かった。
「うそ、そんなこと―――――」
ヴィクトリアは呆然となった。
その平均的な体つきから、どのようにしてこれほどの力が生まれるのか。二人の少女の体が少年の左右の肩それぞれに載せられていた。
まるで荷物でも載せるように、担ぎ上げられ、その直後。
「逃げるよ」
呟いて、迫りくる火球を一瞥したアッシュは両足に力を込めてその場から跳躍。
炎が焼き尽くす予定であっただろうその場所から、あっさりと離脱した。
気がつけば、アッシュは飛び出していた。
物陰から出た直後に疾走。一瞬で最高速に至ったままで、少年は二人の少女目がけて駆ける。
足を動かすアッシュは、すぐに己の体の“異変”に気づいた。
――――――軽い。
体重が無くなってしまったかのようだった。羽のように、全身がとんでもなく軽く、僅かな誤差なく動く。
それに。
(――――――まだ、速くなれる……)
とっくに全力で走っているはずなのに、まだ先があると、全力を使いきれていないと、全身から伝わってくる。
この程度じゃない。こんなもの、まだまだ序の口。高速で移り変わっていく景色を見ながら、少年は更に体を前傾に倒し、両足から伝わる力を爪先へと収束、一気に解き放った。
更に、加速。
その速度は、炎を放った青年も、直撃に備えるヴィクトリアも、誰もがアッシュの存在に気づけないほど。
力が、湧く。その直感のままに、少年は二人の少女の元へとたどり着いた。
「アッシュ君!?」
振り返って驚愕する彼女を、あっさりと肩の上に抱え上げた。
「きゃっ――――――」
悲鳴らしきものをあげる彼女を無視し、二人を見事に肩に載せると迫りくる炎の塊を一瞥した。
一瞥できるだけの、余裕があった。
(………なんだろう。酷く、遅い)
高速で放たれたはずの炎の咢が、とても遅く感じるのだ。
アッシュは意識に余裕を持ったまま、その場から跳躍した。した後で、自分が二人の人間を抱えていることに、気づいた。
普通なら、二人分の体重を抱えたままで跳躍なんて出来るはずがないのに。
以前なら、ありえないと考えていただろうに。
無意識で、その程度ならば可能だと、思ってしまっていた。
そして、実際に。
二人分の重みを抱えてなお、少年の体は重力に抗い、虚空へと飛んでいた。
その背後を、灼熱の炎が通り過ぎるのを感じながら、アッシュは遥か前方へ着地した。
「――――――っと」
ふらりとふらついた体を両足を踏ん張ることで耐えたアッシュは息を吐いた。
「……良かった、間にあった――――――」
「良かったじゃないよ、アッシュ君!」
耳元でヴィクトリアが叫んだ。
キーン、と鼓膜の奥で甲高い音が木霊する。
思わず顔を顰めたアッシュに、彼女は捲し立てるように口を開いた。
「いきなり踏み込んでくるなんて!というより、どうしてここに!?あそこで待っていてって、言ったはずなのに!」
「え、え~っと……流石に、ひとりで行かせるのは、なんというか」
冷や汗を流し、目を逸らしながら言うアッシュに、ヴィクトリアはくわっと目を見開く。
「今日入学したばかりの人が何を言ってるの!それは私の台詞よ!貴方、あと少しで本当に取り返しのつかないことになっていたの!分かってる!?」
「う、うん。ごめん………」
「ごめんで済めば騎士はいらないって―――――――」
と、逸らしていた顔を戻したアッシュと、至近距離で彼の耳元で叫びを上げていたヴィクトリアの顔が、互いを向きあった。
宝石の如き紫の眼の美しさに、アッシュは呆然となった。
超至近距離。吐息が触れあうほど、唇が接触する寸前までお互いの顔が接近していた事に気づいた二人は、すさまじい勢いで一斉に顔を逸らした。
激しく赤面するヴィクトリアはアッシュに抱きかかえられたままでいることに気づくと、益々顔を紅潮させ、手足をばたつかせた。
「お、降ろして、アッシュ君……!さ、流石にこの格好は恥ずかしいというか、『風紀委員』として格好がつかないというか……っ!」
「ご、ごめん」
さっきから謝ってばかりいる気がする。そんなことを思いながらアッシュは二人の少女を降ろした。
「あれ……」
ヴィクトリアの反対側に抱えていた少女がぐったりしていることに気づいた。
見ると、ぐるぐると目を回している小柄な女生徒の顔があって。
「気絶しちゃったのね」
無理もないわ。ため息と共に呟くヴィクトリアは、ふと先ほどの事を思い出し、恥ずかしそうに頬をかいた。
「…………あの、アッシュ君」
「は、はい」
何故か緊張し、上ずった声を出したアッシュに、彼女は目を逸らしながら、小さく言った。
「………色々と、言ったけど。その……さっきは、ありがと。助かったわ」
「い、いえ。別に」
頬を染めながら、恥ずかしげに言う彼女に一瞬ドキリとしたアッシュは、同じように小さく呟く。
「――――――なんだ、それは」
低い青年の声に、二人は弾かれたように顔を向けた。
震える拳を握りしめ、青年はこちらを――――アッシュを睨み付けていた。
すぐに察したヴィクトリアがアッシュを庇うように前へと飛び出す。
「…………ブライ」
「…………あのタイミングで、俺の精霊術を躱すだと。直撃は避けられなかったはず。精霊力の行使も感じられなかった―――――お前、何だ」
険しい顔で呟く青年に、ヴィクトリアがここぞとばかりに叫んだ。
「貴方こそ、何のつもりよ!『決闘』は受けた。でも正式な仲介人がないままに精霊術を放つなんて!」
もしあのまま攻撃を受けていたら、どうなっていたか。
言外にその意味を含めた避難の眼差しを叩きつけるも、青年はどこ吹く風と言った様子で鼻を鳴らす。
「ふん、そんな型通りの理論が通じるのは、騎士道とやらを信奉するお堅い『騎士科』の連中くらいのものだ。それに、攻撃に対処できないのはお前が弱者だからだ。他の九大貴族の者たちであれば、例えあと数秒の時間しかなくとも、無傷であの場を回避していただろうな」
「それは――――――っ」
反論しようとするも、彼から視線を切ったのは自分。規則で守られていると、背中を向けたのは自身の甘さであったことも否めない。
そのことも理解しているヴィクトリアは、言い返すことなく口を噤んだ。
「……理解したか、ならばいい。己の力の無さを弁え、次からは行動することだ」
視線をヴィクトリアから切り、その背後のアッシュへと移す。
「………お前、見ない顔だな。どこの科の所属だ。いずれかの科で新しく『席次』入りを果たした生徒か」
「………いや、僕は――――――」
何かしらの否定をアッシュがするよりも早く、彼は更に口を開いた。
「……………名は」
「え」
鋭い口調の言葉に目を丸くしたアッシュは、瞬きを繰り返す。
「お前だ。お前の名を教えろ」
「………アッシュ」
「………聞かない名だが――――――お前の顔、確かに覚えたぞ。俺の邪魔をしたこと、決して忘れん。お前が席次持ちであるのなら、いずれ白黒つけてやる」
アッシュの顔を瞳に焼き付けるように、鋭い眼光をこちらへ向けた青年は、今度こそこの場から立ち去っていく。
そんな背中を二人で見届けて、漂ってきた焦げ臭い匂いにどちらともなく顔を顰め、見つめ合った。
「………なに、この匂い」
「さ、さぁ………」
言い合いながらも、恐る恐る二人は背後を振り返った。
原因は分かっている。恐らく、という予想もついている。
さっきからパチパチと何かがはじけるような音も、予想の確信をより強める。それでも、振り返るのは、怖かった。
しかし、直視して認めなけれならない。何せ―――――――。
背後にあった青々と実る草木の茂みが、先ほどアッシュが避けた火球によって豪快に燃え盛り、黒々とした噴煙をあげているのだから。
「い、いやぁ―――――っ!?だ、ダメダメダメっ!」
顔を真っ青に染め上げたヴィクトリアが悲痛な悲鳴をあげた。
「こんな、こんなの絶対に不祥事!み、見つかったら私が干されちゃうよっ!?」
先ほどまでの勇ましさはどこへやら。あわあわと慌てて足踏みする彼女に、アッシュはため息。
九大貴族の一人。普通なら敬い、膝を着いて然るべしなのだけど。
この娘、なんか変わってる。
不思議と、威厳とか尊厳とか、そういったものは縁がないように感じた。
でもまあ、とりあえず。
「……えっと、この火をとりあえず消さないといけないよね」
「そ、そうなんだけど!無理なの!」
「なんで……?」
「だって私、水系統の精霊術に適正なんてないもの!むしろ相性が悪くて―――――――」
涙目で主張する彼女に、ああ、とアッシュは目を見開いた。
どうも、精霊術を使ってこの事態を対処するという意味に聞こえたらしい。
「いや、違うよ。僕はそんなものを使うつもりは――――――」
ない、そう言おうとした刹那。
「―――――そのまま放置していると、被害はもっと広がると思いますが」
静かな、感情を排したような冷たい響きを帯びた声だった。
二人の頭上を、先ほどの火球を凌駕するほどの巨大さで、水の塊が凄まじい速さで通過。
黒煙をあげていた炎の塊を丸ごと呑みこみ、一瞬の内に鎮火させた。
水と炎によって生まれた水蒸気が漂う中、アッシュは背後に立つ一人の少年を見た。
平均的とは言い難い、小柄な少年だ。身に纏っているのがヴィクトリアらと同じ黒の制服であるところを見ると、この学院の生徒なのだろう。
「…………なんだろ」
だが、そんなことよりも、アッシュには気になることがあった。
「あ、貴方…………」
驚きに目を見開いているヴィクトリアに、少年は一礼した。
「お久しぶりです。ヴィクトリア・モルドレッド様」
先ほどの青年とは違って、酷く礼儀正しいというか、型に沿った挨拶だった。
物腰も口調も丁寧。しかし、ただひとつ。少年の声と言葉には、感情という温かみが欠片ほども宿ってはいなかった。
その所為か、ヴィクトリアの顔は非常にやり辛いと言わんばかりに顰められていた。
「止めてほしいな、その呼び方。私、そういうのを周りに強要したことはないんだけど」
「ですが、貴女がモルドレッド家の一員であることは、既に言うまでもなく事実。ましてや、長女であったあの方が行方不明となっている今、次女である貴女こそが――――――」
「――――――それ以上は言わないで」
鋭い声が、少年の台詞を強引に断ち切った。
見れば、険しい表情で少年を睨むヴィクトリアの姿があって。
始めてみる険を帯びた彼女にアッシュが目を見開く。
口を閉じた少年は沈黙し、次いで頭を下げた。
「申し訳ありません。こちらの配慮不足でした。ご容赦を」
「…………良いの。でも、無関係の第三者の前でそのことは言わないで」
ちらりと、こちらを見た彼女に合わせるように、少年もまたこちらへと顔を向け、
「――――――――まさか。何故」
大きな驚きに満たされた一言を漏らした。
「何故貴方が、ここにいるのですか」
「えっと、何が………?」
二人の少年の言葉を聞いたヴィクトリアが、えっ、ときょろきょろと視線を向けた。
「まさか……二人とも知りあい?」
「いや。そんなはずは、ないと思うけど……」
少なくとも、アッシュは知らなかった。だけど、相手の少年はそうではないらしい。
食い入るようにこちらへと顔を向けている少年は、小さく。
「やはり……間違いない。この感覚、あの時の―――――――」
一歩、また一歩と。彼はアッシュへと近づいてきて、その閉じられた瞼を向けてきた。
囁くような声音で、一番近くにいるアッシュにしか聞こえない声量で、彼は確かに言った。
「何故、貴方が此処にいるのですか。貴方は城下街の民のはず」
「―――――っ!?」
驚愕と共に息を呑む。
どうして、僕のことを知っている?
少なくともこちらは会ったことはない。それは間違いない。少年の顔にも、全く見覚えが無いのだから。
(――――――それに)
アッシュはこの少年を始めて見た時から気になっていることを口にした。
「………どうして僕のことを知っているのか、分からないけど。君は、どうして目を閉じたままで、僕のことを判別できるんだ」
少年の質問に対する答ではない。質問に質問に返しただけ。
当たり前だ。この少年がどこでアッシュの事を知ったにせよ、ヴィクトリアがいるこの状況で、何か言われては厄介だ。
(僕のことをどこまで知っているかは知らないけど)
適当に話しをはぐらかすことがこの場での最適解。
それに、先ほど言ったことが気になっているのも事実だった。
何故なら、少年は両目とも瞼を閉じていたのだ。
昼間だというのに。いや、そもそも普通にこの場に居て会話しているというのに、その両目は露わになることはなく、瞼という一枚の帳の内側に隠されたままだった。
「…………………なるほど、明るみにされたくないということですか」
「……………」
無言で立ち尽くすアッシュに、少年は息を吐いた。
「ここで言葉を交わすだけでは意味がありません。詳しい事情はエリザベス理事長に直接問い合わせた方がよさそうです」
「………エリザベスさんと、知りあいなのか」
少年の気配が鋭く変化したことを、アッシュはすぐさま気づいた。いや、気づかされた。
それだけ、彼の放つ気配は尋常ではないほど研ぎ澄まされていた。抜き身の刃でも突きつけられているかのような気配。
「―――――エリザベス様をそのような呼び名で」
咎めるような声音で呟いた少年は腰を低く下げ、腰元に手を伸ばすよう動作をし、空を切った。
何かを掴むように伸ばされた手は虚空を鷲掴み、空振りするという何の意味もない動きだったが、アッシュにはそれが如何なるものなのかがすぐに分かった。
(今の、剣かなにかを抜き放つ動きだった)
警戒心を僅かに引き上げたアッシュが一歩後退したのを見た少年は、体勢を戻した。
「まあ、良いでしょう。今の私は学院の一生徒。本来の役職に就いているわけではありません。今の戯言は聞き逃すとしましょう」
本来の役職………?
その言葉の意味をアッシュが吟味するよりも早く、少年は足を踏み出し、アッシュの真横を横切って。
「―――――命拾いしましたね。もし私が“鎧”を纏っていたのなら、今ここで貴方を斬っていました」
「…………!」
言葉の端々に織り交ぜられた“殺気”にアッシュが目を見開く。
「それでは、失礼いたします。ヴィクトリア様」
最後にヴィクトリアへ一礼した少年はこちらへ一瞥もくれることなく、立ち去った。
「………あの、アッシュ君、彼と知りあいなの?」
「………ううん、知らないと思うけど……相手はそうじゃないみたいだ」
「そっか。彼と言葉を交わすなんて、もしかしてアッシュ君はこの学院に来る前は貴族街にでも勤めてた?」
「どうして、そんなことを………?」
「う~ん、まあ、隠すようなことでもないけど」
ほんの僅かな間だけ逡巡するような仕草を見せた彼女だったが、おずおずと口を開いた。
「彼はシユン。聖隷学院『騎士科』所属の生徒よ。入学してすぐに『第六席』を授かった子でね。そのうえ、学院に身を置く学徒の身でありながら、現精霊騎士団で副隊長補佐っていう凄い位を襲名した神童よ」
シユン。精霊騎士団。副隊長補佐?
彼女の口から出た様々な言葉を頭に思い浮かべても、やはり身に覚えのあるものは一つとしてなかった。
間違いなく、顔見知りではないはず。なら一体どこで彼は、アッシュの事を知ったのか。
「――――――やっぱり、分からない。僕は彼のことを知らないよ」
「………そう。なら、彼が間違えたのかしら。あの生真面目な子に限って、そんなことはないと思うんだけど」
イマイチ得心がいかなさそうな顔をしたヴィクトリアだったが、一転して、最初に会った時と同じ眩しい笑顔を浮かべた。
「まあいいわ。思わぬ騒ぎがあったけど、これでアッシュ君の学院案内を再開――――なぁんて、出来るわけないよね」
あっという間に苦笑いへ変わる彼女。
「え―――――――」
「だって、これだけの騒ぎに遭遇するなんて、普通はありえないことだし。というかアッシュ君、まだこの学院にやってきて数時間でしょ?何か疫病神にでも憑りつかれてるんじゃ?」
「いや、僕に言われても………」
というか、よくよく振り返ってみれば、周囲でとんでもないことが起きるのは別に今に限った話でもない。
「兎に角。こんな惨事の当事者になってしまったアッシュ君には、私と一緒に出頭してもらわないとね」
「しゅ、出頭……?」
物騒な台詞に、頬が引きつる。
ヴィクトリアは笑顔のまま、己の胸の部分を親指で示した。
彼女の制服の胸元には、光を受けて輝く徽章。
金色を背景に巨大な天秤が描かれたソレに、アッシュは瞬きを繰り返す。
「勿論、私たち風紀委員の本部に、だよ」
「やはり、視えませんでしたね」
シユンは立ち止まり、己の目元に手を当てた。
その両目の瞼は降りたまま。内側に在るはずの眼はその機能を全うしていなかった。
普通は瞼を閉じたままで真っ直ぐに歩くことは不可能。それは愚か、周囲を行きかう生徒たちとぶつかりあうのは必定。しかし、彼はアッシュたちと別れてからここに至るまで、周囲の誰とも接触することなく、真っ直ぐに、正しい歩法で離れた場所までやってきた。
瞼は開いていないのに、まるで見えているかのように、彼は迷いなく歩みを進めてきた。
だが、それも当然。彼にとって瞼が降りているのはごく自然なこと。何故なら彼は、目を開ける必要が無いから、閉じているだけなのだから。
まして、前が見えず誰かとぶつかるなんて無様な真似は、決して起こりえるはずはない。
精霊騎士団第三部隊副隊長補佐シユン。
副隊長である『雷鳴姫』ザザ・ノースランドを補佐する地位に在る己が、そんな馬鹿げた真似を仕出かすことはそもそも考える必要すら皆無。
それに。
彼には瞼を閉じていようが、目の前に広がる世界の全てが視えているのだから。
「…………精霊祭で出会った時、彼は氷漬けでしたが」
そう、あの少年とは一度出会っていた。
精霊祭事変。今ではそう名付けされた災厄の日。突如として王都に現れた巨大な黒の巨人が撒き散らした、未曾有の天変地異と称してもおかしくないほどの、前代未聞の大災厄。
王都の街並み、その三分の一を破壊した忌むべき事象。そこに、一介の騎士として馳せ参じていたシユンは、彼と出会った。九大貴族ヴェドヴィア家当主たるエリザベスによって氷に閉じ込められていた彼を、シユンは確かに見た。
けれどそれは、こちら側からの話し。
間違いなく、あの少年自身はシユンの事を知る由もないだろう。こちらが一方的に、問答無用とばかりに剣を抜き放ち、それをあのアヴァロン家の御息女に咎められた。ただそれだけなのだから。
あの少年にとって、先ほどの邂逅が初対面となったのは間違いない。
それは考えるまでもない、当然の道理。
ならば。
何故、そこまで分かっていながらあの様な態度で接したのか。
そもそも。
初めて出会ったあの時。氷の中に閉じ込められていた彼に、何故剣を問答無用で振りぬいたか。
国を守るという使命を帯びる自身が、一般市民に他ならなかった彼を切り捨てようと思ったのか。
その答えは、既にシユンの中にある。
「………直接彼を見れば、何か視え方が変わるかとも考えましたが、やはりというべきか、結果は同じ」
今も閉じられた瞼が、ほんの僅かだけ持ちあがる。
頭上から降り注ぐ眩い光とは異なる、異質な光が瞼の隙間を彩った。
淡い翡翠色の光が、瞼の間からぼんやりと漏れだす。
「あの時と同じ。やはり彼は、私の『眼』には映らない。私の『精霊眼』で視えないということは、彼は―――――――」
何かを言いかけて、口を閉ざした。
「………まあ、良いでしょう。彼が何であれ、この国の害悪となるようであれば排除するのみです」
彼はそれだけ言うと、何処かへ向けて歩き去った。




