エピローグ Ⅱ
少女は目を覚ました。
心地よい眠気に半分覆われた意識を、差し込む陽光が目覚めへと誘う。
薄着でいたのが悪かったのか、ふとした拍子に感じた悪寒にぶるりと肩が震えた。
「………あれ、わたし」
未だ呆けた眼で周囲を見渡す。
簡素な机と椅子が設けられた店内をひとしきり眺めてから、窓辺に立つアリアーデに気がついた。
「………店長」
「目が醒めたのね、シルフィー。貴女にしては珍しく、長時間寝落ちしていたわね」
窓辺に背を預け、差し込む陽光を眺めながらカップを傾ける彼女に、シルフィーは視線を落とす。
乱雑に重ねられた大皿やコップ達を、暫し眺める。
「…………そっか、私、寝ちゃったんだ」
「ええ、もうぐっすり。ま、アレだけ飲めば、朝まで眠ってしまうのも無理ないわね」
苦笑と共にテーブルの上を一瞥したアリアーデは、ひとつの皿とコップへ視線を向けた。
シルフィーもまた、テーブルの上に散乱する諸々の中の、その一点だけを、見つめた。
それは、昨日の夜にある少年が使っていた皿。
灰色の髪をした、不思議な少年。少なくとも、空色の少女にとっては、突然店内に入り込んできた第三者。
けれど、それを不快だと思うことは一度もなく。寧ろ、昨日の三人で飲み明かしたあの光景は、至極自然で、ありふれた、当然のものであったかのように思ってしまっている自分がいて。
「…………あの人は、どこにいったの?」
だから、あの灰色の少年の姿が店内のどこにもないことに、少女はふらりと立ち上がった。
静かに瞼を閉じるアリアーデは、寂しそうな眼差しで窓の向こうを見つめていた。
「―――――――あの子は、もう行ってしまったわ。私たちの手の届かない、ずっと向こうへ」
「………行った………どこへ」
シルフィーは心がざわつくのが分かった。
この気持ちは、一体何なのだろう。
昨日であったばかりの少年。最初は、不審者だと思って突き放した。だけど、次に彼と会った時、彼は公園の中央で一人泣いていた。
普通なら、誰もいない所で涙を流す人に近づくことなんてしない。
(………だけど私は、あの人の泣く姿を―――――見ていられなかった)
だから、声をかけた。かけて、しまった。
泣かないで。
悲しまないで。
涙を止めて。
お願い、お願いだから。
そんな衝動じみた感情が、シルフィーというひとりの少女の体を突き動かしていた。
「どこへいったのかは、分からないわ。あの子、何も言わずに行っちゃったもの」
「――――――――――っ」
気がつけば、涙がこぼれていた事に、シルフィーが大きく目を見開いた。
止まらない。次から次へと目尻から零れ落ちる透明な雫で、視界が揺らぐ。
なんだろう、これは。どうして私は泣いているんだろう。
「――――――――あれ、私………どうして、泣いて」
分からない。どうして涙が出るのか。
分からない、どうして。
「どうして私―――――――こんなにも悲しいの…………?」
くしゃりと顔を歪めた少女を、緋色の女性はそっと抱きしめた。
「――――――凄いのね、貴女とあの子を結ぶものは。頭の中からすべてが消え去って、何も残っていないはずなのに、それでも、あの子と貴女の間にある“何か”までは断ち切られることはない」
「――――――店、長………私、わから、ない。なんで、こんな―――――涙が止まらない……」
「良いのよ。思いっきり泣きなさい。その涙は、紛れもなく貴女のものなんだから」
「でも、理由が………よく、分からない」
「理由なんて良いの。それは、かつての貴女の涙。今も貴女の心の中にいて、でも、決して交わることのない、もうひとりの貴女自身が抱いた悲しみ」
シルフィーを抱き締めるアリアーデの腕の力が強まる。
「―――――――でも、理由の分からない悲しみが。もし、貴女の心を縛るのなら」
「………店、長?」
「ねえシルフィー、貴女がその悲しみを忘却したいと願うのなら―――――」
抱擁が解かれ、アリアーデがシルフィーの眼をそっと覗きこんだ。
「―――――貴女が心から望むのなら、私は貴女のその悲しみを、奪い去ることだってできる」
彼女の緋色の瞳が、淡い光を帯びた。
風がないにも関わらず、ふわりとなびく緋色の髪と、同色の緋色の瞳。それらが陽光とは異なる、明らかに摩訶不思議な輝きを帯びて。
漂い始める異質なソレを、しかしシルフィーは気づくことなく。
「―――――――ううん、良いの」
彼女が提示した、理解の出来ない提案らしき何かを、首を振って否定した。
「―――――――確かに、私……凄く苦しい。こんなの、ずっと続くなんて、耐えられない」
「なら」
「でも……ね。それでも私、忘れたくないって。この悲しみだけは、消したくない……そう思うの」
この、心を苛む理解の出来ない深い悲しみを、少女は抱き続けることを選んだ。
理由なんて、分からない。でも、この悲しみを忘れちゃいけない。
それだけは、はっきりと思い浮かべ、考えことが出来たから。
「――――――――そう」
ふわりと、アリアーデは優しい笑みでうなずいた。
瞳に浮かぶ淡い光が、あっさりと消え去り、彼女はもう一度シルフィーを抱きしめた。
「貴女らしい返事ね。でも、そっちの方が、私も好みかな」
それから、大丈夫、という言葉がシルフィーの耳に飛び込んで来た。
「例え、離れ離れになったって。二度と会うことが出来なくても、それでも私たちは家族なんだから」
「…………うん」
シルフィーにとって、アリアーデの言葉の全てを理解することは出来ない。
だって、彼女が口にする言葉はどれも、あの少年を全く関係のない第三者として見るものではなかったのだから。寧ろ、言葉の端々に込められた感情はその逆であるように思えて。
そしてそれに、少女は頷いた。
理屈で、全てを分かろうとする必要なんてない。迷うことなんてない。何故なら、彼女の言葉のすべてが、こんなにも、心に沁み渉るものであるのだから。
だから。
「――――――――きっと」
少女は涙を拭い、微笑んで。
―――――――――きっとまた会えるよ。いつか、どこかで必ず。
心の奥底から溢れるように湧いたその感情を、想いを、口に出さないまま、胸の中で囁いた。
「―――――――――準備は良いかしら、アッシュ君」
声が、かけられた。
少年は前を見る。眩い光が満ちる場所へと繋がる扉。
扉の左側に立つ金色の女性は、快活な笑みを浮かべ、少年を見つめていた。
黒塗りの軍服を纏う女性、彼女の隣には白髪の少女の姿。翼を模した髪飾りを付けた少女もまた、真っ直ぐな眼をした少年のことを微笑ましげに眺めていて。
そんな二人の視線を一心に受けて、灰色の少年は臆することなく胸を張り、一歩、前へと踏み出した。
「―――――――――はい」
「じゃあ、行きましょう。貴方がこれから行くべき場所―――――聖隷学院へ」
二人の女性に続くように、アッシュは扉の向こうに広がる眩い世界へ、飛び出した。
――――――――第一章〈精霊祭編〉Fin
――――――――第二章〈商業都市編〉へ
第一章、完結です。
御付き合い頂いた方々、本当にありがとうございました。
まだまだ未熟な作品ですがどうか今後とも、よろしくお願いいたします。




