エピローグ Ⅰ
―――――――暗い。
―――――――冷たい。
―――――――苦しい。
ソレは、真っ暗闇の中をただ漂っていた。
ここには何もない。
いや、何もないという認識そのものすら、ここには必要ない。
何もないことが当たり前の場所。物質も、光も、暖かさも、何も不要。
ここは、終わりを迎えた者たちが揺蕩う場所であるのだから。
ソレもまた、終わりを迎えたが故にここに在るだけだ。変化はない。希望はない。ただあるがままに広がる真っ暗やな闇の中を、永劫にわたって存在し続けることが、ソレに与えられた在り様に他ならなかった。
ただ、何故だろう。
ソレ自身は、己が何であるか、何故ここにたどり着いたのか、何もかもを思い出せなかったけれど。
とても、とても大切な何かを忘れてしまったことだけは、覚えていた。
『――――――――ああ、やっぱり、君はまだここにいたんだね』
そんな、暗闇だけの場所に、“声”が響いたことに、ソレは心底驚いた。
黒の世界に、一筋の光が差し込んだのを、ソレは確かに認識した。同時に、聞こえてきたその声に、ソレは何故か懐かしい様な、酷く聞き覚えがあるような感覚を覚えた。
『――――――――生と死の狭間。肉体という縛りがない僕だからこそたどり着けた。でも、それを抜きにしても、やっぱり、君の魂は特別だ。本来なら、一瞬の時間も与えられず消え去ることが当たり前だというのに。それでも君の魂は、未だこの世に在り続けているんだから』
赤褐色の光が、ソレを包む。
『おかしいとは、思っていたんだ。僕という存在と交信した人間が、自我を保っていられるはずはない。反転した僕の魂は、あまりに高次過ぎて生命には耐えきれない。けど君は、自我を保ち、あまつさえ僕と契約すらして見せた。普通なら、いや、人間族の魂であれば、僕を受け入れた瞬間に、押しつぶされてしまう』
ソレは、声が何を語っているのか、理解できない。
けれど、声から感じるものは、暖かな何か。
『けど君は、押しつぶされるどころか、僕という全存在をその魂でもって受け止め、受け入れてみせた。こんなこと、普通ならありえない。けれど、実際に起きたことを認識するのであれば、即ちそれは――――君という存在の魂が、精霊である僕を、丸ごと受け入れることが出来るだけの膨大な器を持っていたことに他ならない』
だから、と声は続けた。
『君は未だここに在り続けられる。その特異にして巨大な器をたる魂を持つ君は、こうして僕と触れあうことが出来ている。意志も、記憶も、人格も、それらすべてを失って。ちっぽけな魂だけの存在となり果ててなお、君は確かに一個の存在としてここに在る―――――――だから、僕は君に手を伸ばすことが出来た』
赤褐色の光が、ソレを抱擁するように、暖かく、眩く、包み込んでいく。
『あの少年が命をかけて刃を振るった。全身全霊を以って、我が器を打ち砕いてくれた。だからこそ、僕は本来使うはずだった力を、器の滅却の為に用いるはずだった力を――――君から受け取った想いを、君に返還することが出来る』
―――――――想い?
ソレは、ふと気まぐれに『 』を出した。
いや、それ自体に『 』を出す機能はない。ただ、以前にそうしていたように、『 』を出そうと思っただけだ。
『あはは、君は本当に特別だ。肉体が無くとも、思念でもって対話するなんて。それは本来、僕ら精霊だけが持つ特性のはずなんだけれどね』
声は、快活に笑った。
『まあいいや。とにかく、僕は君に、君から受け取ったモノを返すことが出来るんだ。そうすれば君は、還ることが出来る。あの場所へ。君にとってかけがえのない、大切な人が待つ場所へ』
大切な、人………それは、なに?
分からない。思い出せない。考えることすら出来なかった。
でも――――――きっとソレに然るべき体があったのなら、頷きという形で反応を示したに違いない。
『………そうか。なら、君をもとあるべき場所へ導こう。死者の蘇生は、例え僕たち精霊であっても出来やしない。それは我らが偉大なる王であっても同じことだろう。でも、君が消滅した場所は、僕の器が造り出した歪な地だったからね。おまけに、『霊穴』の真上と来た。蘇生は出来ずとも、君という存在を、その魂を軸として復元することは可能だろう』
――――――もとあるべき、場所?
『そう、こんな暗くて冷たい場所じゃない。暖かく、誰もが幸福を享受することを許された世界だ。君はそこへ還る。だけど――――――ひとつだけ、僕でも出来ないことがある。それは、以前の君へと完全復元させること、だ。肉体を、君という人格を、ある程度は回帰させることは可能だろう。けど、新しく構築された君という個人は、以前の君とは別人となる』
どこか寂しげに、声が言った。
『――――以前の君が抱いていた、ある人物への想い。それだけは、いかなる手段を以ってしても、復元することは不可能だ。何故ならそれは、君が贄として僕に捧げたモノ。僕はそれを了承し、力と変えてしまったから。だから、それだけは、君の中から消え去っているだろう。そして、記憶とは連結し、結びついている物。想いを失くすということ、それはつまり、その人に関する記憶の全てが、無となることを意味する』
ごめん、と声は謝った。
『君の魂は転生する。ある少年に関する記憶、それらすべてを持たない君へ。彼と出会うことがなかった、もう一つの可能性となって、世に降り立つ。もしあちらの世界で彼と出会っても、君は何も感じることはない。見ず知らずの赤の他人なのだから、何の感慨も抱かないだろう』
でも、それでもね。
声は、明るく言い放った。
『僕は君に、生きていてほしい。未だ世界を知らぬ少女よ。君はまだまだ幼く、世界の美しさを見ていない。どれだけの幸福と眩しさで、世界が満たされているのか、それを、君には知って欲しいんだ』
きっと彼も、そう言うだろうから。
そんな台詞と共に赤褐色の光が、ソレへ―――――空色の光球へと注がれていく。
周囲を照らしていた光は、余すことなく、全て。
『――――幼き人の子。偉大なる器持つ子よ。僕は君を祝福する。我が精霊力の全てを使って、君の肉体と魂を再構築しよう』
燦々と降り注ぐ、光の奔流、その中で。
赤褐色の色を纏う少年の姿が、見えたような気がした。
彼は眩い笑顔で、ソレへ――――かつて、『シルフィー』と呼称されていた魂へと、呼びかける。
『――――さあ、行きなさい』
〈君の瞳は前を向き 眩い光を仰ぎ見て〉
〈Eget ante oculos candida lux oculis tuis〉
――――――――光が、見えた。
何かを見るなんて機能は無かったはずなのに、確かな視界がそこにはあった。
〈その鼓動は高まり まだ至らぬ未来へ想いを馳せ〉
〈Quodsi tamen ad animum inopinato pulsu futurum oriri〉
――――――――ドクン、と。
暖かく、そして力強い振動が、響き渡った。
〈その腕は希望を掴み その両足は大地を踏み 世界の果てへと歩みゆく〉
〈Quod promittitis expediti pedes ejus, ad intelligendum quousque ad finem mundi spes yuku deambulatio gradientis in terra〉
それは、旋律。
真っ暗な闇を吹き払うように、赤褐色の光が無数の形を描きだす。
それは文字のようで文字に非ず。言語に似て、非なるもの。
少なくとも、この場の誰も理解の及ばぬ、力そのもの。
それが響き渡るたび、冷え切っていたものが戻る様に、失われていたモノが回帰していくように。
無数の光が寄り集まり、空色に輝くソレに力を与えていく。
形を持たなかった、不確かで不安定だったものが、確かな実体を伴って、その場に現れる。
―――――――――――あ。
気がつけば。
少女は確かにそこに在った。
誰にも否定できやしない。かつてそうであったように、当たり前のように、少女の命はそこにある。
空色の少女の瞳に、赤褐色の少年がうつしだされた。
少年は口を開いていない。だけど、聞こえる。
魂に直接呼びかけてくる。囁いてくる。
暖かく、優しく、心安らぐ旋律が。
〈さあ 幼く無垢な人の子よ〉
〈A puero usque ad populum venite et pueri innocents〉
―――――――それは、祝福そのもの。
精霊が人の子へ授ける、これ以上ない、言祝ぎに他ならなかった。
「―――――――あなた、は」
“声”を発することが、途方もなく久しぶりのことに思えた。
目の前の少年は何も言わず、ただその優しげな頬笑みを少女に向ける。
そして、締めくくりと言わんばかりに、こちらへと手を差し伸べてきた。
握手、とは違う。この差し出された手は、そう―――――まるで。
「―――――……………」
己という存在の全てを明け渡すような、そんな感覚を、少女は抱いた。
暫く、少年の手を眺めていた彼女はおずおずと、けれど確かに、差し出された手をとった。
少年は微笑んだまま、静かに口を開いた。
『―――――――――これで、全て終わったよ。あの少年と交わした約束も、果たすことが出来た』
ねえ、と少年は問いかける。
『君は、〈 〉という名前を、覚えてる?』
聞こえない。
「――――――…………?」
少年の言葉が理解できなかった少女は、僅かに首を傾げる。
意味が分からなかったのではない。
物理的に削り取られてしまったように、言語の一部が本当に耳に届かなかったのだ。
『―――――――そうか』
静かにそう言った少年の言葉には、如何なる感情も宿っていない。ただ事実だけを確認した、そんな風に思えた。
だけど、と少年は言葉をつづけた。
『………例え君の心に届かなくとも、響かずとも。想いは立ち消え、記憶すら残っていなかったとしても。君の中から消し去られ、失われた感情であったとしても』
少年は目を閉じる。
必死に刃を握りしめ、家族を守ると叫んで駆け抜けた少年と。
消失を恐れず、己の存在全てをかけて家族を救うと誓った少女。
そんな二人の姿を思い浮かべて――――――
『―――――――それでも僕は、確かに残るものが在ると信じるよ』
ゆっくりと、少年は顔を持ち上げ、ゆっくりと瞼を開く。
果てのない黒の空。虚無だけが満ちるその彼方から、一点の星が煌めくのを、確かに見た。
否、それは星に非ず。それは、確かな命を手に入れた少女を誘う、導そのもの。
最初は星と思われた光は、徐々にその大きさを増していく。ほんの小さな点に等しかった僅かな光は、人一人をすっぽりと包みこんで余りあるほどの、淡い光の柱となって少女を呑み込んだ。
「――――――――え――――――?」
ふわりと、浮遊。
少女の足が地を離れる。
少年の手を握りしめたまま、少女はゆっくりと、上へ上へと浮かび上がっていく。
「――――――――あの、これ、なにが―――――――」
『―――――――今の君には、あの戦いの記憶は残っていない。僕が誰であるかすら、今の君には分からない
当然の結果だ。少年はそう思った。
記憶とは、結び、繋がるモノ。
数多の記憶達を結ぶ重要な一欠片が消えたのなら、それに付随する記憶は須らく消えゆくのみ。
彼女から失われたものは、あの少年に関するものだけではない。故郷を襲った未曾有の危機のことも、覚えていない――――いや、正確には、最初からそのような記憶はなかったことに成ったのだ。
だから、彼女はどうしてここに居るのかすら、分かっていないだろう。
『つまり――――今から僕がすることは、きっと、君にとってただのお節介』
少年は差し出している方とは反対の手を己の胸に向かって――――突き刺した。
ずぶりと、少年の胸深く沈んでいく手を、少女は見開いたまん丸の目で見つめた。
「あ、貴方―――――何をして!?」
手が胸を突き破っているというのに、少年の顔には痛がる素振りもない。
静かな表情で、何かを探り当てるように少年は沈黙し、やがて。
ゆっくりと、その手を引き抜いた。
胸板を突き破るという埒外の行為を成したその手は、真っ赤な血に――――塗れてなどいなかった。
―――――――赤褐色の光の塊だけが、その手にはあった。
『―――――――これ、あげるよ』
少年はそっと、それを少女に向かって放り投げた。
咄嗟に受け取るまでもない。重力を感じさせない軌道で宙を舞った光は、吸い込まれるように少女の胸元へと向かい、沈みこむようにしてその体内へと消えていった。
「――――――――えっ」
少女が愕然となった時にはもう、少年の手は離されていた。
眼下から少女を見上げる少年の顔には、悪戯っぽい笑顔だけが浮かんでいた。
『―――――――上手く使ってあげてね。きっと、君を助けてくれるはずだから』
少年の目は、少女の手の甲に浮かび上がる、光の文様を確かに捉えた。
グン、と少女の体が一気に引っ張られるように上へと昇っていく。
あっという間に地上は遠くへ。少年がこちらに向けて手を振っている姿だけが、見えていて。
〈君の存在は高らかに 幸福な産声と共に世界へ還る〉
〈Et ranam coram te est orbis terrarum una cum beati voce clamoris〉
凄まじい勢いで浮上する最中、少女の背中をそっと押すように、そんな詠が脳裏を貫く。
『――――――――さあ、お行き。世界に祝福された愛し子よ』
光が、真っ白な光が少女の全身を包んでいく。
全身を焼き尽くすような、それでいて、労わり、癒しを与えるような。
筆舌に比し難い眩い光の奔流に、少女は呑み込まれた。
何故か、一筋の涙が目尻から零れ落ちたことに、不思議な思いを感じながら、少女――――シルフィーの意識は掻き消えた。
―――――――夢を見た。
暖かで、心地よくて。途方もない幸福感が全身を満たして居ることがはっきりと分かる。
淡い光たちが舞う黄金の野原。微風が吹き抜けるたびにサァ……と音を立てて靡く黄金色の絨毯。
とても現実とは思えない場所で、灰色の少年は立ち尽くしていた。
見渡す限りの幻想的な風景に、少年はしばらく周囲を見渡して。
「―――――――」
少年の立つ場所から少し離れた場所に立つ、白髪の少女を見た。
少女は背を向け、顔は見えない。黄金の野原と対を成すような純白の髪が、美しく波を打つ光景を無言で少年は見つめたまま。
「…………君は」
懐かしい。
何故だろう。そんなことを、思っていた。
少女の姿には見覚えはない。いや、正確には、どこかで見たことのある後ろ姿だった、と云うべきだろうか。
だけど、この言いようのない懐かしさは、そういうものとは違うと感じた。
見覚えがあるとか、そういうものとは決定的に違う。
これは、そう。
ずっと昔、記憶としては遡れないほど昔に、出会ったことがあるような。
(――――――――そうだ。僕は彼女と出会っている)
確信と共に、少年は目を見開く。
そう、そうだ。間違いない。あの少女を、僕は知っている。
出会ったことがある。途方もないほどの昔、今よりもずっと前―――――こことは違う、別の世界で。
この世界に、生まれる前に―――――――――………
「―――――――――――」
自身の中に生まれた突拍子もない出鱈目な思考を自覚して、少年は首を振った。
なんだ、今のは。僕はいま一体、何を考えていたんだろう。
もう一度、少女を見る。
ここから少し離れた場所に立っている少女が、酷く遠い。
どれだけ歩を進めても、絶対にたどり着けないような。そんな感覚を抱かせる。
黄金の野を踏みしめて前へ進もうとする少年の動きが、躊躇うように止まる。
歩むべきか、立ち止まるべきか。二律背反の感情が、鬩ぎ合うのが分かった。
――――――そもそも、僕はどうして、こんなことを考えているんだろう。
支離滅裂な思考に、眉を顰めたその時――――――。
とん、と。
白髪の少女の立つ場所へ。ここから前へと歩みを進めることへの躊躇いを振り払えと言わんばかりに、少年は背後から背中を押されてたたらを踏んだ。
思わず背後を振り返り―――――――空色の髪が靡いているのを、見た。
(――――――――――)
一人の少女が、立っていた。
空色の髪を生やし、快活な笑顔で嗤う少女―――――彼女を見た途端、心の中に何かが溢れだすのが分かった。
「――――――――ぁ、あぁ…………」
酷く熱い何かが、頬を伝っていく。
視界が、ぼやける。何か透明な物で、揺らぎ、歪んでいく。
どうして、一目見た時に分からなかったのか。
見間違えることも、忘却することもありえない。
―――――――知っているよ。忘れるもんか、僕が君を………忘れるはずがないだろう。
「―――――――シルフィー」
少年の小さなつぶやきに応えるように、少女は優しい笑みで頷いた。
そして、空色の彼女はそっと腕を持ち上げて、ある方向を指差した。
少女が示す先。それは、白髪の少女が立つ地点に他ならなかった。
「―――――――シルフィー………?」
見知った家族であるはずの少年に、何も声をかけてこない。いつもの親しげな挨拶も、小馬鹿にしたような呆れた一言も、ない。
少年が目指すべきは白髪の少女の元なのだと、そう言外に示すように、空色の少女は前を指差したまま。
―――――――行ってらっしゃい。
こうして言葉を交わすのは最後なのだと言うように、愛おしそうに。どこか寂しげな笑みを浮かべて。
少女は確かに、少年を送りだす言葉を口にした。
―――――――嗚呼。駄目だ、このまま何も言わなければ、きっと彼女とはもう二度と。
そんな、何の確証もない衝動じみた何かが、少年の心を突き動かし。
「――――――待って………待ってよ………シルフィー!!」
遥か彼方で立っている白髪の少女に背を向けて。
背後の空色の少女の元へと駆け出そうと手を伸ばす。
必死に彼女に向かって伸ばした手は、けれど、すぐ近くに立っているはずの少女には届くことなく、空を掴んで――――――――。
―――――――知らない天井を、見上げていた。
「―――――――――――あ…………れ」
瞬きを一度。
すっと、目尻から雫が零れ落ちたことに、アッシュは目を見開いた。
冷たいものが頬を伝って行く感覚が、あやふやで曖昧模糊としていた意識を現実へと引き戻していく。
「……………ここは」
小さく呟き、目だけを動かして辺りを見渡す。
赤茶色の絨毯。滑らかな光沢を帯びる家具が適度に設置された、一室だった。
反対側に目を向ければ、窓枠があり、そこから暖かな日差しと懐かしいにおいのする微風が舞い込んでくる。そこに置かれた植物が、陽光を受けて瑞々しく輝く様を眺めながら、アッシュは見覚えなんてないはずのこの部屋に、言いようのない郷愁の念を覚えた。
「――――――僕は、どうして……こんなところに―――――」
ふと、自分がベッドの上で寝ていることに気づいた。
暖かな太陽の香りのする布団は、いつまでも寝ていたくなるような心地よさがある。
いや、そもそも。どうして僕は、こんなところで寝て―――――――
凄惨な記憶が、脳裏を席巻した。
割れる大地、流れる血、遥か巨大に聳え立つ、漆黒の巨人の姿。
それらすべてを一斉に脳裏に思い浮かべた少年は、顔を一気に引きつらせる。
「―――――――っ!!」
飛び上がる勢いで布団を跳ね除け、上半身を起こしたアッシュは腹部全体に感じた鈍痛に顔を歪めた。
「痛ぅ―――――っ」
今更ながらに跳ね起きたことを後悔する余裕はない。
それどころではないと全身を苛む痛みを堪えながら、体を動かそうと体を捩る。
呑気に寝ている場合ではなかった。
「――――――くっ――――――」
自分の体が満足に動かせる状態にないことは、すぐに分かった。
だが、それでも動かずには、走りださずにはいられなかった。
自分自身が何に駆り立てられているのか、それすら理解しようとしないまま。焦りの表情を浮かべ、ベッドから飛び降りようとするアッシュの耳に、一定の感覚で扉をノックする音が飛び込んで来た。
「…………!」
「――――――アッシュさん、目が醒めたのですね」
木製の扉が、開く。
入ってきたのは、白髪の少女だった。
純白の長髪に蒼い瞳を持った彼女は目を覚ましたアッシュに安堵したように、穏やかな顔つきを浮かべていて。
――――――――先ほどの生々しい地獄絵図とは打って変わって。どこまでも広がる黄金の野原が、脳裏を過ぎった。
「―――――――っ」
目をきつく閉じ、頭を振って再び少女を見た時には、もう。その感覚は消えていた。
……………なんだ、今の。
刹那の間とは言え、脳裏に浮かんだ謎の風景にアッシュは眉を顰めた。
「どうかされましたか?」
浮かない顔をしているアッシュに気づいたのだろう。シルヴィアが首を傾げていた。
「…………いや」
真っ直ぐに心配そうな瞳を向けてくる彼女を何故か直視出来なくて、咄嗟に顔を逸らしてしまった。
が、その直後。
「―――――そっ……それよりも、王都は一体どうなって――――――!!」
アッシュはシルヴィアに向けて叫んでいた。
確かめなければいけないことがあった。自分の体の容態なんてどうだって良い。
何をおいても確認すべきこと。それは―――――あの戦いの顛末に他ならない。
―――――鮮明に、思い出せる。
いつ命を落としたっておかしくはなかった、漆黒の巨人との戦い。
そして。
『さようなら、いと懐かしき面影の持ち主よ。この悲劇を無事に乗り越えた君の目の前に広がる世界が、少しでも幸福なものでありますように』
赤褐色の少年の最後の言葉も、はっきりと脳裏に刻まれている。
確かめないと。自分が意識を失った後、一体どうなったのか。巨人は、王都は、何より――――――
「――――――そうですね。貴方には、全てを知る権利があるとは思います。ですが」
まずは、落ち着いてください。
静かな口調で言った彼女は、ベッドの横に椅子を置くと、優雅な仕草で腰かけた。
少女の姿に焦りや緊張は感じられない。
心臓は今も早鐘をうち、冷や汗すら流しているアッシュとは、正反対ともいえるほど。
「――――――落ち着けって……」
思わず反射的に応えたアッシュに、シルヴィアは真剣な眼差しをこちらに向けた。
「アッシュさん、落ち着いて聞いてください。貴方はもう、焦る必要などないのです」
「それは…………どういう」
「8日」
簡潔に、一つの単語を口にした。
意味が分からなかったアッシュは瞬きを繰り返す。
「――――――あの戦いから、経過した日数です。アッシュさん、貴方は意識を失って倒れてから今日で8日目。その間貴方は、ずっと眠り続けていたのですよ」
「――――――――」
絶句。
それ以外に、表現のしようがなかった。
「………そんな、こと。ありえ、ないよ―――――だって、僕はそんなに長く眠ってなんて」
「それほどに、貴方の体は疲弊していたということです。眠っている本人にはそう長く感じられずとも、実際にはそれほどの日数が経過しています」
だから、貴方が今無理をしてまで動く必要は、全くないのだと、少女は語った。
じわじわと、アッシュは今の状況を少しずつ理解し始めていた。
8日間……あの戦いから、それだけの日数が経っているというのか。
数字で表せば大した日数じゃない。しかし、アッシュにとってそれは最早、過去の出来事と言い換えても何ら不思議はないほどに、多くの時間が過ぎ去ってしまっていた。
「王都は現在、復興に全力を尽くしています。王都の外―――国土に点在する王都外貴族たちからの援助物資はもちろん、王室からも多くの精霊使いや騎士たちが出動し、破損した街並みや街路、大障壁の修復を行っています。幸いと言うべきか、城下街の家屋自体は、土系統の精霊術によって大方は修復されている頃でしょう」
シルヴィアの語る現在の話しは、まるで別の世界の話しでも聞いているようだった。
自分の記憶とのあまりの齟齬に、何を考えればいいのか、分からなくなりそうだ。
目を覚ます前までは、あの凄惨な戦いの場に身を置いていた。己の全霊をかけて刃を振るっていたというのに、気づかない内に眠っていて、ふと目を醒ませば、もうあの戦いの爪痕の修復に取り掛かっているなんて。
「………信じられない、というより、現実感が無いという顔ですね」
「…………はい」
「無理もありません。貴方が身を置いていた戦場は、それほどに過酷なものでした」
彼女はそこで一度言葉を切った。
まるで、少年にその言葉の意味の全てを理解させようと時間を与えたように思えた。
――――――嗚呼、と。
アッシュは数秒、十秒、二十秒、一分近くもの時間が過ぎ去って漸く。
(―――――――――戦いは、終わったんだ)
その簡潔な結論に、たどり着いた。
「――――――――そう、なんだ」
心臓の、狂おしいほどに早かった鼓動が、徐々に収まっていく。
全身を高速で流れていた血が、荒ぶっていた心が、平常を取り戻す。
少年が落ち着いていくのを見届けたシルヴィアは、何かを言いかけて、躊躇うように唇を引き締める。そんなことを何度か繰り返してから。
「…………アッシュさん。少し、外に出てみませんか」
「…………外に?」
「はい。ですが、無理な動きは禁物です。勿論、先ほどのような素早い動作は避けた方が良いでしょう。ゆっくりで構いません。外で、話しをしましょう」
外。
もし本当にこのベッドでずっと寝ていたというのなら、これから外に向かうのは実に8日ぶりということになる。
(………断る理由なんて、ない………けど)
8日ぶりの外出。自覚なんてこれっぽっちもないけれど、心惹かれないといえば嘘になる。
だけど。外に出るということは、見ないといけない。
あの戦いによって巻き起こった悲劇。その痕は、まだ王都に残されているはず。
アッシュが戦いの最中に見た、崩壊した城下街。今まで暮らしてきた生まれ故郷の、凄惨な成れの果て。
何より、瓦礫となって崩れ去っていた家の姿。心の支えを根こそぎ折り砕かれたような、あの衝撃。
最初に見た時は、戦いの為にと、その絶望を心の奥底に押しこんだ。
だけど、だけど僕は―――――――。
二度目のその光景に、耐えることが出来るだろうか。
そんな不安が、心の中に泉のように溢れだす。
(―――――でも。僕は見て、思い知らないといけない。僕が守れなかったもの……大切なものを)
そうだ。だって僕は、あの眩しい笑顔の少女を、取り戻すことが出来なかったのだから。
「…………はい、分かりました」
頷き、ベッドを降りようとするアッシュの中に至極当然な疑問が湧いて出た。
「………そういえば、ここはどこなんですか」
ああ、と少女の目が見開かれた。
「――――――言っていませんでしたね。ここは貴方の住んでいた城下街ではなく、貴族街です。一度貴方が訪れた、エリザベスの屋敷ですよ」
そこは、屋敷に備え付けられた巨大なテラス。白の石材を丁寧に刳り貫いて象られたであろう彫刻が施された見事な造りは、前方から見える広大な城下街の景色と相まって、普段であれば息を呑むほどに美しいものとして映っただろう。
そう、普段通りの、美しい姿を保持していれば、だ。
今二人の眼下に広がっているのは、無数の瓦礫に覆われた崩れかけの城下街だった。
8日間の間に、かなり復興が進んでいることは分かる。こうしている今も多くの人たちが健在を運び、崩れた家屋や散らばる塵の撤去作業に負われている。
こうして広い範囲を一望するからこそ、分かる。あの一件で刻まれてしまった、凄惨な爪痕が。
「―――――――ですが、これだけ多くの人たちが、救われたことも事実です」
アッシュの心の内を呼んだわけでもあるまいに、少女が合いの手でも入れるように、そう言った。
「―――――――アッシュさん、本当に、ありがとうございました」
九大貴族の一員であるはずの少女が、何の変哲もない一平民に向かって、深く深く頭を下げた。
「………えっと、あの」
「この王都を救ったのは、間違いなく、貴方です」
「いや………あの、困ります。僕は別に、そんなことを考えていたわけじゃ」
「いいえ。これは、九大貴族の一人としての言葉です。ですからどうか、受け取ってください―――――アッシュさん、この国を守ってくれて、本当にありがとうございました」
「…………」
真摯に頭を下げるシルヴィアに、アッシュは目を逸らし、頭を掻いた。
別に、王都の全てを守ろうだなんて思って戦ったわけじゃない。だから、こんな風に頭を下げられるような資格はないのである。
それに、アッシュがあの巨人を打倒できたのは、間違っても自分一人の力じゃない。
多くの人、多くの出来事が重なりあい、その結果としてたどり着いた結末に過ぎない。
(……そう、僕一人の力じゃない)
あの巨人を打倒せんと戦った全ての人たちの尽力があったればこそ、アッシュは今ここに立っている。
(むしろ、それだけの人たちの力添えがあっても尚、僕は―――――彼女を守ることが―――――)
城下街を見下ろしながら、目を伏せたアッシュに、シルヴィアは声をかけてきた。
「アッシュさん、本来はこれはエリザベスから告げられるべきことですが………何か、望みはありませんか?」
「………望み?」
「はい。今回の一件、王室をはじめ騎士団もまた、重く受け止めています。ソレに当たり、あの巨人を打倒した貴方の名を、馬鹿正直に矢面に出すことは出来ません。ですが、貴方が成したことは紛れもない偉業。そこで、エリザベスは貴方の望むことを可能な限り叶えることを約束しました」
勿論、と付け加えて。
「それで貴方がしたことへの全てを取り返せるとは思っていません。望む褒美であるのなら、九大貴族の力を使っても叶えることが出来るでしょう。もし望まれるのであれば、然るべき“地位”すら、手に入れることが―――――」
「ま、待ってください!」
アッシュは思わず止めにかかった。
なんだろう、このままこの少女に喋らせ続けたら、とんでもないことになる気がした。
褒美?然るべき地位?九大貴族としての権力を使う?
聞いただけで怖気が走る。いくら善良な人格でも、やっぱりこの少女は貴族なんだと、アッシュは今更ながらに思い知った。
「僕にそんな望みはないですよ………ただ僕は、僕の守りたいモノの為に戦っただけで―――――」
言葉が、詰まった。
そうだ。望みなんてない。僕に、そんな綺麗なモノは残ってない。
望みはない――――正確には、どんな地位の人間であろうと、叶えられないもの、と言い換えるべきだろう。
(―――――――もし、叶うのなら)
かつて当たり前にあった日常を、取り戻したい。
(けどそれは、決してかなわない、ありえない夢)
大切な家族との再びの日常。それはもう、何をしても手の届かない場所にある。例え全知全能の神様でも、かなえることは出来ないんだから。
アッシュの暗い表情に、シルヴィアは静かに口を閉じた。
「―――――――すいません」
再び、小さく頭を下げた。
だけどそれは、さっきのものとは意味が違う。
「……もっと私たちに力があれば、貴方が家族を失うことはありませんでした」
「――――っ……ち、違う!そんなことを言わせるつもりじゃ―――――――!」
叫びかけて、沈黙する。
失敗した。考えるべきじゃなかった。この少女の前で話すことじゃなかった。
誰も責められない、誰の責任でもない。だって力不足だったのは、誰でもない、自分自身だから。
「―――――――――あの」
だから、この空気は必要ないんだ。
「少しだけ、街を歩いても良いですか」
この場の空気を一新させる程度の気持ちで、そう口にした。
「―――――――――――それは」
シルヴィアの顔が、はっきりと目に見て分かるほど、曇ったことに驚いた。
おかしなことを、言ったつもりはない。街のことをよく見るのなら、実際に降りた方が良い。
何より、カプリコルがいまどうなっているのか気になるというのもある。アリアーデだってそうだ。彼女がそう簡単に如何こうなるとは正直な所思えないが、それでも無事を確かめたい気持ちはごまんとある。
「…………それは、やめておいた方が良いと思います」
「――――――――えっと、なんで……ですか?」
止められると思っていなかったからこその、驚き。
「それは―――――――――」
彼女は何かに逡巡するように眉を歪め、沈黙した。
………なんだろう。どうして彼女はここまで、僕が城下街に向かうことを恐れている?
シルヴィアは顔を伏せて沈黙を保っていたが、ふぅと息を吐くと、失笑を浮かべながら呟いた。
「―――――いえ……違い、ますね」
「……?」
「これは、貴方自身が判断するべきこと。私が口を出すべきでは、ありませんね」
シルヴィアの蒼い瞳が、アッシュを射抜いた。
「アッシュさん、貴方が城下街に降りる条件として、私も同行させてくださいませんか」
「あ、えっと………別に大丈夫、ですけど」
「そうですか。なら、行きましょう」
そこからは手早く城下街に降りることが出来た。
屋敷の掃除をしていた黒執事―――確かセバスという名前の人だったと思う。彼城下街に降りたいという旨をシルヴィアが伝えた。
すると彼はしばらく無言で彼女を見つめた後、「承知いたしました」と薄い笑みを浮かべ、馬車を準備してくれた。
貴族街の中を颯爽と駆け抜け、大障壁までたどり着く。
流石にあの事件の後だからか、大勢の騎士たちが配置されているようだった。
これは、通り抜けるのに苦労しそうだ。そう思ったのは、アッシュだけだったようで、シルヴィアが一言二言騎士に声をかけただけで、彼らの姿はあっという間に消えていた。
凄まじい速さでの人払いに、アッシュの頬が引きつる。が、正直な所、貴族街で顔を露わにすることは避けたいことだったアッシュにとってはありがたいことでもあったわけなのだが。
「ここからは歩きましょう。城下街を馬車で駆け抜けては、変に目立ちますから」
妙に手慣れたシルヴィアに先導されて、アッシュは大障壁を、何事もなく越えた。
人々の喧騒が、耳に飛び込んで来たことに、アッシュは漸く、帰ってきたのだと実感できた。
無数の人たちが急ぎ足で行きかい、至るところで瓦礫を退ける音や金槌を打ち付けるような音が聞こえる。
崩れ去った家屋は数知れず、以前の光景とは比べること自体間違いだと言わんばかりに、無残な景色がそこかしこに溢れている。
だというのに、そこに生きる人たちの表情に、陰りなど欠片もなかった。
皆、真っ直ぐに前だけを見つめて、駆け抜けていく。立ち止まることも、振り返ることもせず。自分たちが成すべき、目指すべき場所は分かっているとばかりに、彼らは精力的に復興に力を入れていた。
以前と同じとまではいかずとも、人々の活気と喧騒に満ちた城下街の姿が確かにあった。
「……………」
それに、土砂や瓦礫の撤去作業を行う人たちに呼びこみを行う人の姿もあった。
偶然、破壊を免れた場所もあったのだろう。店の看板を高々と掲げ、声を張り上げていた。
「――――――凄いものだと思います。人の生きる力というのは」
ぽつりと呟いたシルヴィアに、アッシュも頷いた。
アレだけの破壊があったというのに、もう人は前を向いて進めるというのか。
(――――――ここに居るみんな、僕なんかよりも凄い人たちばっかりだ)
彼らはもう見せるべきものを見定めて、そこに向かって進んでいる。
だけど、僕はまだ―――――――――。
そんなことを考えて、ふと、ある女性の姿を一度も見ていないことに気づかされた。
「あの、そういえば……エリザベスさんはどこにいるんですか」
「彼女は王城です。此度の一件で、少々……いえ、かなりの無茶をやってしまったようで、そのあと始末に明け暮れていると思います。あと数日は、城から降りることは出来ないでしょう」
そんな他愛もない言葉を交わしているうちに、街並みがどこか見覚えのあるものに変わったことが分かった。
間違いない、ここは―――――――。
アッシュの足が、少しだけ早まった。
早歩きが疾走に変わるのも、そう遅い話しではなく、気がつけばシルヴィアを突き放し、アッシュはそこに立っていた。
―――――――カプリコル。
そう書かれた看板が建てかけられた、家屋がそこにはあった。
張りぼて、というにはあまりにもしっかりとした造り。以前のものとはかなり外観が異なるものの、とりあえずは店としての機能を十分に発揮できるだろうことが分かるほど、見事なまでに建て直されていた。
「―――――――――」
アッシュは呆然と、その場所を少し離れた場所から見つめていた。
何の言葉も出てこない。ほんの数日、見ていなかっただけなのに、こうも衝撃を覚えるのは、やはり少年にとってあの場所こそが帰るべき『家』なのだということの表れに他ならなかった。
どれだけの間立ち尽くしていたのか、数人の御客が談笑しながら店外へ出てきたことで意識が現実へと引き戻された。
「あ―――――――――」
一歩、また一歩と歩みを進めたアッシュの耳に、ある“声”が飛び込んで来た。
「―――――――ありがとうございましたー!」
――――――――思考が、停止した。
周囲の景色の全てが、視界から消えた。
アッシュの目に映るのは、その店の外観。ただそれだけ。それ以外の全ての情報が、不要だとばかりにシャットアウトされていた。
「――――――――――今の、声は」
体が、震える。
寒さではない。これは、そういったものとは全くの別物だ。
さっき聞こえた“声”には、聴き覚えがあった。いや、間違えるはずなど、ない。
今までに何度、その声を聞いたのか。先の戦いではどれほど、その声の持ち主を取り戻すと叫びをあげたのか。
「――――――う、そ…………だ」
ふらり、ふらりと。
光に吸い寄せられる蛾のように、アッシュはおぼつかない足取りで店へと向かう。
途中、急ぎ早で通り過ぎる人たちとぶつかりながらも、必死に必死に前へと進む。
周りのことなんて目に入らない。アッシュは今、意識の全てをあの入り口へと向けていた。
まさか、そんな、ありえない。そん感情ばかりがぐるぐると渦を巻く。
――――――――たどり着いた。
気がつけば、アッシュは扉の前に立っていた。
木製の扉、その取っ手を、ただ見つめる。
体が、動かない。全身の筋肉が、緊張でガチガチに硬直している。
「―――――――――――」
ごくりと、息を呑んだアッシュはその取っ手へと手を伸ばし―――――――
それよりも早く、内側から開け放たれたことによって空を切った。
ふわりと、懐かしい甘いにおいと共に、空色の髪が宙を舞った。
「あ―――――――――」
それは、一人の少女。空色の髪を後頭部で一括りにした、給仕服の少女に、アッシュはただ愕然と相手を見つめていた。
――――――――何を言えば、良かったのだろう。
何の言語も、感情も、浮かんでこない。
完全なる無感情と言うのは、こういうことを言うのだろうと、そんなくだらないことを考えて。
二人は、見つめ合った。
灰色の少年は無表情。如何なる感情も浮かばぬ顔をして、しかし、徐々に信じられないと目を見開く。
対する空色の少女はしばらく無言で少年の顔を見上げ―――――――。
「――――――――シ、ル………」
「――――――――いらっしゃいませ!御一人様ですか?」
にっこりと快活な笑顔で言い放たれたその台詞に、アッシュは今何を言おうとしていたのか、失念した。
アッシュの顔が、凍り付く。
頭が、現実を上手く認識できない。
一体、どうなっているのか。これは、なんだ。これは、現実なのか。
おかしい、ズレている。それも致命的なズレだ。在ってはならない齟齬だ。認めてはならない、矛盾だ。
立ち尽くす少年に、少女は不思議そうに首を傾げる。
「あのー……御客様?どうかなさいましたかー?」
少女が浮かべるこの笑みを、アッシュは知っていた。
にこやかな笑みに見えるコレは、彼女がよくお客相手に見せていた――――愛想笑い。
外部の人間にのみ向けられるもので、少なくとも、アッシュが今までこの笑みを向けられたことは、一度たりともありはしなかった。
だから。
「――――――――――何を、言ってるんだ……?」
静かな、低い声音でアッシュは呟いた。
「えっと………あの?」
少女は困惑するように眉を寄せる。
相手の反応が想定していたものとあまりに乖離している。そう言いたげな困惑顔だった。
「なんで………なんでそんな、そんな顔を――――――――」
ふらりと、アッシュは後方へとふらついた。
「あの、何のことですか……?」
心底分からないと、首をひねる少女の、“名”をアッシュは呼んだ。
「――――――――シルフィー」
「………っ?」
ピクリと、少女の肩が跳ねあがった。
笑みの浮かんでいた顔が引きつり、不審者を見るソレへと変わる。
温かみが消え、未だ一度も見たことがない様な、冷たい瞳が少年を捉えた。
「―――――――――私の名前を………どうして?」
少女が少年を警戒するように半歩後ろへ下がった。
アッシュは、心が冷え切っていくのが分かった。
「どうして………どうしてそんなことを、言うんだ……シルフィー?」
ありえないことが、目の前で起きている。だから、それを確かめようと体が動いたのは、ほぼ反射に近かった。
ゆらりと、少女に向かって片手が伸ばされる。
「―――――――嫌、近づかないでください」
その言葉は。
今までアッシュが聞いてきた罵詈雑言の、どの言葉よりも容赦なく少年の心を突き刺し、穿った。
「…………あの、冷やかしなら帰ってくださいませんか」
軽蔑するような眼差しでこちらを一瞥した少女は「これ以上店の前にいるなら、騎士様に連絡する」と言い放つ。
それは、彼女が身の危険を感じたということであり、アッシュを危険人物と見做す言葉に他ならなかった。
それだけの言葉を投げかけられても、何の反応も返さない少年を今度こそおかしいと思ったのだろう。素早い動きで容赦なく、扉が締め切られた。
――――――――もう、これ以上立ってはいられなかった。
膝から地面に崩れ落ちたアッシュは、呆然と地面だけを見つめていた。
一体なにがどうなっているのか、意味が分からなかった。目の前が、暗くなっていくようだった。
「―――――――アッシュさん」
後方からの声は、先ほどまで一緒に居た、シルヴィアのもの。けれど、背後を振り返る気力すら、アッシュには残されていなかった。
しかし。
「―――――――やはり、こうなりましたか」
その言葉に、アッシュは恐る恐る背後を振り向いていた。
白髪蒼眼の彼女は、何かを知っている。そう確信させるに足る、能面の如き表情を浮かべていた。
一体どうなっているのか、そう問いかけようとして、声を出すことさえできない自分がいるのに気づく。
余程酷い顔をしていたのだろう。シルヴィアは悲しそうに目を伏せた
「―――――――全て、お話します」
シルヴィアに手を引かれて連れてこられたのは、どこにでもあるような、裏路地だった。
未だ小さな瓦礫が散乱する場所で、ここなら良いでしょう、と彼女は言った。
「アッシュさん、私が貴方を引き留めようとしたのは、今のことが原因なのです」
「―――――――――どういう、ことですか」
「―――――彼女は、巨人が消えた場所に倒れていたのです」
シルヴィアは自身が見た物の全てを、アッシュに語った。
時は8日程遡る。
エリザベスとシルヴィアは、巨人の消滅した場所へ赴いた。
それは、アッシュを助けだすためであり、同時に、今回の事件の引き金となった『黒の旅団』に繋がる証拠を求めてのことだった。
アッシュを救出するために入った大森林。見渡す限り、咽かえるような色濃い緑が全てを支配する天然の大森林の中で二人が見つけたのは、むき出しの大地に倒れ伏す灰色の少年――――だけではなかった。
彼のすぐ真横に倒れる少女の姿がそこにはあった。
何の衣服も纏わない、生まれたままの姿で森に倒れている空色の髪の少女の姿に二人は心底驚いたのだという。
「エリザベスは彼女が誰なのかすぐに気づいたようでした。身元が明らかになったことで、私たちは彼女をいったん保護し、意識が戻るのを待ちました」
少女が意識を取り戻したのは、その日の夜のこと。
「彼女は私たちの問いに、全て応えてくれました」
己の名前、出身地区、生年月日、家族構成にいたるまで、全てを。
カプリコルと言う店で、アリアーデと言う女性と二人で店を切り盛りしている。そのはずなのに、気がつけば、あの森で倒れていた。
黒い巨人のことを聞いても、何のことか分からない。身に覚えがない。
ただひたすらにそう繰り返す少女は、不安そうに周囲を見渡して、『家に返して』、と繰り返した。
言葉による会話だけでなく、偽ることの出来ない心の内面を見通す為に、セバスの精霊術すら使い、感情の機微を辿って導きだされた答えは一つ。
「それは、彼女がウソをついていないということでした。そして―――――」
エリザベスは険しい眼差しで一つの問いを投げかけた。
「―――――アッシュ、そういう名前の少年を知っているか、エリザベスが問いかけたのは、それだけでした」
「――――――――っ」
結論は、ほとんど分かりきっていた。
先ほどの対応から考えれば、もう迷うこともない。
事実は明確にして単純だ。
「―――――――知らない。彼女が言ったのは、それだけでした」
質問の答えを知ったエリザベスは目を閉じ、しばらく沈黙してから、セバスに彼女を解放するよう告げたという。
そして、エリザベスはこう結論付けた。
彼女の中から、今回の一件に関する記憶の全てが失われていること。
同時に―――――ある一人の少年に関する記憶だけも、きれいさっぱり消滅していること。
だから、エリザベスはシルヴィアに言ったのだ。
『彼女とアッシュ君を絶対に合わせてはダメよ』
その後は、少女を城下街に還した。
店の瓦礫を片づけていたアリアーデという女性に事情を説明する際は、城下街の裏路地で倒れていたという偽りをでっちあげて。
アッシュが目を覚ましたのは空色の少女がエリザベスの屋敷を去って数日が経った後のこと。
「―――――彼女は巨人に取り込まれていた。エリザベスが見ていた以上、それは間違いのない事実です。だから私たちは、どうして彼女が生きているのか、全く分かりませんでした。ですが、彼女は至って健康体。何の異常も変哲もない、普通の少女に他なりませんでした」
「―――――――――」
アッシュは、ただその言葉を受け入れることしか、出来なかった。
「本当なら、貴方を彼女と会わせないというのがエリザベスの考えでした。ですが私は、城下街へと降りました。今の彼女と出会い、言葉を交わし、そして貴方が何を思い、何を選択するのか。それは、貴方自身が決めるべきことだと、私は思いましたから」
言葉の中に事実だけを語ったという残酷さと、選択の自由という名の優しさを込めて、少女は言った。
「――――――アッシュさん、貴方は彼女を守るために戦いました。家族を想う貴方の気持ちは、例え記憶の有無が存在しようと、それによって変質するものではないと私は思っています。ですから――――――」
「―――――――ひとりに、してください」
アッシュが口に出来たのは、そんな言葉だけだった。
捉え方によっては相手を突き放す以外のなにものでもない、言葉という名のその刃を、少年は少女に突きつけてしまった。
「あ―――――――――」
少女は何事かを言おうとし、閉口した。
暫く立ち尽くし、少年を静かに見下ろしていた少女は「失礼します」と丁寧に一礼し、背を向けた。
「…………私は、アッシュさんを信じています」
最後に、そんな言葉を少年に投げかけて、少女はその場から立ち去った。
――――――――また、独りだ。
最初にアッシュが思ったのは、それだけだった。
心にあるのは空虚な無だけ。如何なる感情も、この褪めきった心には生まれない。
凍てつき、色褪せ、崩れゆく。
身体ではなく、心が。
「―――――――――」
ずるずると背中を壁に投げ出し、座り込む。
薄汚れた地面だけを見つめながら、一体自分は何をしているのかと自問自答した。
だけど、答えなんてありはしなかった。
「…………僕は、一体何を、したかったんだろ」
彼女が、シルフィーが生きていた。
何よりも嬉しいことのはずだ。
言祝ぐべきだ。
なのに、どうして、どうしてだ。ただ、記憶を喪失しているということだけ。たったそれだけだ。
元気にあの娘は生きている。今日という日を精一杯、笑顔を浮かべて、息をして、あの店にいるんだ。
これほどの“奇跡”はないだろう。
これだけ、これだけの納得するべき理由を並び立てているのに、何も、感じない。
心にわだかまる虚無を消し去ることは、出来ない。
「――――――――僕、は」
静かに、瞼を落とす。
速やかに訪れる闇に、心と体の全てを委ねる。
今は、この闇だけを見つめていたかった。
だから、全てを―――――意識すら、闇に手放した。
―――――――――気がつけば。
降りしきる雨の中に、少年は在った。
しとしとと降り続ける天の雫は、手加減容赦なく、地上にあるもの全てを冷たく塗りつぶす。
遥かな高みから叩きつけられる水滴は、派手な音を響かせて波紋を揺らす。
そんな中、少年はうつ伏せで倒れていた。
薄汚れた灰色の髪は、滝の如く降る雨によって濡れ、身に纏われている襤褸切れのような布は肌に張り付き、本来の役目である衣服としての体を成していなかった。
―――――――これは、夢だ。
アッシュは、そう思った。
現実では、決してありえないこと。如何なる幻覚でも、起きるはずのないことだ。
だってこれは。
(――――――――僕が、拾われた日………三年前の、夢だ)
そう。何故ならこれは、既に在った事象。遥か過去に過ぎ去った、終わった物語。
だから、これは夢だ。現実に在るはずのない、あるいは、少年の未練が見せる幻想。
丁度良いかもしれない。アッシュはそう思った。
この冷たさと孤独は、今のアッシュにしてみれば嫌なものではなかった。
たとえ夢だとしても、この肌を突き刺すような冷たい雨と、薄暗い曇天に包まれたここは、心地よい。
(―――――――心を凍てつかせれば、もう、何も思わずに済む)
この、降り注ぐ雨に身を委ねれば、脳裏には何も浮かんでこない。楽しい思い出も、哀しい事実も。
何も思うことがないのなら、苦しみを味わうこともないんだから。
こうして地に這いつくばったまま、全てを忘れ去ってしまえば、それはとても――――――楽なんだ。
永遠に、ずっと。こうして夢の中に居たっていい。そんなことを考えた少年に。
「―――――――何を、しているの?」
声が、頭上から降ってきた。
冷たい雨とは全く違う。暖かな、人の声。
聞き覚えのある、少女の声。
遥かな天広がる雲と相反するような、青空を写しこんだような、空色の髪持つ少女。
…………シルフィー。
声は、出なかった。ただ、視界が、揺らぐ。
雨では無い。涙で、だ。
嗚呼、あんまりだ。夢でさえ、悲しみはつのるばかり。
「―――――こんなところで寝てたら、お兄ちゃん、風邪ひいちゃうよ?」
無邪気な、純粋な疑問だけを込めて、少女は問いかける。
「―――――店長だって言ってたもん。人は冷たくなることに慣れ過ぎちゃうと、死んじゃうんだって。体だけじゃなくて、心も」
そう、か。
こんな苦しみが永遠に続くというなら、それも悪くないのかもしれない。
このまま、この夢の中で、ひとつの終わりを迎えるというのなら、それならそれで――――――。
「―――――でも、駄目だよ、お兄ちゃん。こんな冷たい場所で、ずっと居ちゃ駄目。お兄ちゃんにだってきっと、帰る場所があるんでしょ?」
帰る場所。
ああ、あった。確かにあったよ。こんな僕にだって、帰るべき場所はあった、あったんだ。
だけどその居場所は、もう無くなってしまったんだ。
僕にはもう、どこにも行くあてなんてない。
「―――――もしかしてお兄ちゃん、帰るところないの?だから、こんなところで寝ているの?」
うん、もうないんだ。僕が帰るべき場所は、この世界のどこにだって、ありはしないんだ。
だから。ここで良い。懐かしい、遥かな未来の、帰るべき場所だったここでなら。
「―――――だったら!ウチにおいでよ、お兄ちゃん!店長がね、今あったかいスープを作ってくれてるんだよ!ほっぺたが落ちちゃうくらい、美味しいの!」
目の前に、光が差し込む。
薄暗い世界を照らし、塗り替える、暖かく、懐かしい光が。
「だから、ね!お兄ちゃん、こんなところで寝てないで――――――ほら、私の手を掴んで!」
空色の少女の手が、少年に差し伸べられて。
「―――――――――――」
ピクリと、指先が動く。
泥水にまみれた手を、ゆっくりと持ちあげる。
暖かな光を背にして立つ、眩い笑顔を浮かべた少女のその手へ。
あと少しで、その手が触れる――――――――――――暗転。
「――――――――………夢、だよね」
薄らと瞼を開いたアッシュは、失笑を浮かべた。
一体どれだけの時間を眠っていたのか。
ゆらりと顔を上げると、もう空は夕暮れ時だった。橙色の空と、夜色の空が入り混じる刻。
どうやら、ほとんと半日、この場所で寝ていたらしい。
「――――――――バカみたいだ」
ふらりと、立ち上がった。
薄暗い裏路地には誰もない。先ほど見た夢の光景なんて、ありはしない。
おぼつかない足取りで、裏路地を出た。
無数の人々が歩く中を、空ろな眼差しで進み続ける。
何処を目指しているのか、何がしたいのか。それらすべてを欠いたまま、アッシュは歩く。
そして、その果てで。
ふと顔を上げてみると、人の気配のないその場所で、アッシュはひとり佇んでいた。
比較的、被害の少ない場所だったのだろう。瓦礫は散乱しておらず、緑の芝生が生えるその場所には、小さな長椅子が設置されていた。
昼間であれば、多くの人たちが訪れるであろう、自然公園。
しかし、夜の闇が支配しつつある今は、虫たちの鳴き声だけが木霊する、静寂の庭園と化していた。
「――――――――ここって」
アッシュはこの自然公園が見覚えのある場所だと気づいた。
間違いない。ここ二は一度、来たことがある。
「確か………シルフィーと店長の三人で、ピクニックに来たことがある………」
そうだ。何年か前に、この場所で敷物を敷いて、店長の手作り弁当を食べたっけ。
そんなことをなんとなく考えて。
「あ―――――――ぁあああぁぁぁああっ…………」
少年は呻くように声をあげ、涙をこぼした。
痛い、痛いよ。
一体どうして、ここまで悲しみを溢れさせる?
理由は分かっている。自分はきっと、あの少女の記憶が消えてしまったことを悲しんでいるだろう。だけど、記憶を失った、たったそれだけのことじゃないか。
なのにどうしてこの心は、こんなにも痛い?どうして子の涙は、止まってくれない?
薄暗い世界の中で、アッシュは咽び泣いた。
他人には見せられない、弱い姿。
だけど、唯一救いなのは、ここは人っ子一人いない孤独の世界であるということ。
おかげで、この涙は誰にも見られることはない。
だってこれは、誰にも見せたくないモノ。見せるべきではないモノだ。
だから。
「――――――――貴方は……」
そんな声が聞こえてきたことに、アッシュは目を見開いた。
だけど、ただの他人の声であれば、一度謝ったこの場を去れば済む話し。
それをせず思わず硬直してしまったのはきっと、その声が、ついさっきも聞いた、懐かしい少女のものであったからなのだろう。
「――――――――君、は」
空色の少女が、立っていた。
買い物かごを腕に下げて、彼女は目を丸くして公園の中心で涙をこぼす少年を見つめていた。
「――――――――」
アッシュは何かを言おうとして、何も口に出来なかった。
ただ、ゆらりと立ち上がる。
考えての行動ではない。ほとんど無意識での、動きだった。
そして、この涙を誰にも見せまいというように、彼女に背を向ける。まるで、少女から逃げ出すように少年は一歩を踏み出し。
「――――――あの」
「…………」
「…………貴女、昼間の人、ですよね」
嗚呼と、また心が痛んだ。
もしかしたら、なんて、そんなくだらない幻想が、心を過ぎる。
だけど、ソレはありえない。彼女には記憶が無い、さっきシルヴィアから聞いたばかりじゃないか。
分かっている。理解している。だというのにこの足は、何かを待ちわびるように、止まってしまう。
「――――――――貴方も、大事な人を失くしたんですか?」
アッシュは、沈黙した。
その言葉には、あまりにも多くの意味が込められているような気がしたから。
「………この王都、今こんな滅茶苦茶なことになっているのって、とんでもない怪物に襲われたからみたいですね」
知っている。だってそれは、少年が身を思って対峙したものだったから。
「私のところも、お店だったり、色んなものが壊れてて。周りのご近所さんにも、大切な友人や家族を失った人がいるって、みんな泣いてました」
そうだろう。あれだけのことがあったんだ。逃げ遅れた住人だって、いるはずだ。
「―――――――でも私、実はその時の記憶が無くって、全然覚えてないんですよね」
少女の言葉に、少年は思わず振り返っていた。
どうして、少女が唐突にそんな話を聞かせてくるのか、考えることすらない。
ただ、続きが聞きたくて仕方がなかった。
「でも、覚えてない私と違って、周りにはそういう悲しい人たちが本当に沢山いて――――昼間は、酷い事を言っちゃったけど、貴方にも、大事な人がいたんじゃないですか?」
先ほどの泣いている姿を完全に見られていた。それを理解しても尚、アッシュの中に羞恥心は生まれなかった。
ただ。
「―――――………も、ということは………君も、大事な人を失くしたのかな」
心の底から、その問いを投げたいと、そう思っていた。
少女は目を伏せ、両肩を僅かに下げた。
「………分からない………」
うわ言の様なその一言に、アッシュは目を見開いた。
その答えは、問いに対する完全な否定では、なかった。
記憶を失くしているのなら、いないというはず。だけど、彼女は違う返答を返した。
「私には、記憶がない。王都を襲った怪物なんて、全く身に覚えがない」
だけど。
「記憶にはないのに……何でかは分からないんですけど………私、時々、変な夢を見るんです」
数日前から、毎日のように。
少女は夢を見ると語った。
それは、少女にとっては不思議な体験。一度も言ったことがない場所の風景や、一度も話したことのない人たちとの会話が、夢に度々登場するのだという。
「………それに、今朝………また、夢を見て………でも、その夢が、一番よく分からなくて」
それは、どこかで聞いた絵本だったのかもしれないと、少女は苦笑を浮かべた。
「………私、真っ暗な闇の中にいたんです。何もかもが嫌になるほど怖くて、でもそこに、ひとりの男の子が現れて……顔も、髪型も覚えていない。ぼんやりと陽炎みたいなその人は、私に手を差し伸べてきてくれて。その人の手をとると、――――その人は、凄く優しく、笑ってくれたんです。私、その人の笑い方がどうしても凄く懐かしくて―――――ああ、そうだ、あの人の髪………灰色の―――――――あれ」
言葉が、止まった。
つっと、少女の頬から涙が伝う。
「――――――――あれ、おかしいな、えっと、私、どうして………?」
哀しくないのに、頬を伝う涙に、少女は狼狽した。
「ちょっと、私、やだ………人前で」
というか、どうして私は、貴方にこんなこと―――――――慌ててそんなことを呟く少女に。
「―――――――――そっか」
顔を拭う少女の姿。それにアッシュは立ち尽くしていたが、やがて、目を閉じた。
少女と同じように、少年の頬にも大粒の涙がひとつ流れ――――そして、止まった。
「ねえ――――見ず知らずの僕に、言いたくなければ言わなくてもいいんだけど」
少年は薄らと頬笑み、問いかけた、。
「君は今―――――幸せ?」
その問いに、少女は涙をごしごしと拭き、キョトンとした顔を浮かべ――――――沈黙。
微風が二人の間を駆け抜ける。
少女はこちらを不思議そうに見つめてから、さも当然であるかのように、眩しい笑顔を浮かべた。
「―――――――――勿論。だって私は、今もここにいるんだから。今までそうだったみたいに、これからもあのお店でずっとやっていくの――――三人で。店長と、それから―――――――あれ………それからって………三人なんて、何言ってるんだろわたし?」
首を捻った少女の姿に、少年は一度、頷いた。
「――――――――そっか―――――――……よかった」
最後は、誰にも聞こえないほど、小さな声で。
少年は身を翻し。
「――――――――ありがとう、シルフィー」
同じように、自分にだけ聞こえる声で、口にした。
そして、彼女に背を向け、歩きだした。
「あ、ちょっと――――――待って」
「……………?」
振り返ったアッシュに、何故か困ったような顔をする少女。
「――――――えっと。あれ、私なんで呼び止めたんだろ……あ~、うん、なんていうか」
少女もまた、自分でもよく分からない感情に翻弄されるように。
「―――――――――貴方も、幸せ?」
先ほどのアッシュの言葉をそっくりそのまま返すような質問を、投げかけてきた。
「―――――――――勿論さ」
だから、少年もまた、今の心の中にある感情を、何ら偽ることなく、少女に伝えた。
「僕も。君と同じで、幸せだよ」
いや、けど、正確には違うというべきだろう。
だってさっきまでは虚無に包まれていたこの心は。
他の誰でもない、この少女によって。
「………僕は救われたんだ」
そう、囁いて。
「―――――――――そうだ。君のお店」
「え……?」
「君の店は、今もやっているのかな」
「え……うん、これから夜の営業の準備に取り掛かるから。私は買い出しに行かされただけだし」
「なら、僕を君のお店に連れていってほしいな」
今度は、怪しいことはしないからさ。
少年は笑った。
対する少女は呻き声をあげ、後退した。
「……昼間のことは。その、ごめんなさい。不審者だと思ったから」
「あはは、酷いなぁ、それ」
「あ、謝ったじゃないですか!意地の悪い人ですね!」
そして、アッシュは昼間には立ち入ることの出来なかったその場所へ。
扉をくぐる時。ほんの僅かな間だけ、少しばかりの緊張を携えて。
暖かな光が満る、部屋の模様は変われど、それでも決して変わることのない空気が漂う、その店内へ、足を踏み入れた。
「ただいま」と、小さな呟きをもらして。
それからは、少年の中で最も幸福と言っても良い時間の始まりだった。
店内に入るなり、緋色の女性にまずは頬をぶたれた。
初対面の客を打つ店長を背後に少女―――――シルフィーはあわあわと絶句し、その直後、少年を思い切り抱きしめた店長に、またもや驚愕してしまった。
こちらが潰れるほどに強く抱擁する女性を、アッシュもまたそっと抱きしめた。
「――――――――ただいま。ごめんなさい」
そんな短くも、それでも、万感の思いを伝えるには十分すぎるその言葉で。
どうしていいか分からず、立ち尽くすシルフィーを尻目に、女性は叫んだ。
「店じまいよ!!!」
彼女はシルフィーとアッシュを店内へと押し込むと、三人分の席を用意した。
あっというまに準備が進むそれに、シルフィーは何が何やらわからず、おどおどするばかり。
そして、少女にとっては見ず知らずの赤の他人を交えた、唐突な宴が始まった。
次から次へと出てくる料理の数々。
普段なら絶対にありえない豪勢な料理たちに、二人の少年少女は息を呑む。
「――――――さあ、食べましょう」
テーブルいっぱいに並ぶ料理を、僅かな時間で作りあげてみせた女性は、笑顔で言った。
―――――――笑い、食べて、飲み明かす。
それは、どこの家でも見ることができるであろう、小さな小さな、当たり前の営み、灯。
少女にとっては理解の出来ないそれはしかし、第三者を交えているとは思えないほど、自然なものとして映っていた。
今まで二人でやってきたはずの場所に唐突に紛れ込んできた灰色の少年を、ちらちらとチラ見しながら、少女は焼きたての林檎パイをほおばった。
―――――――不思議だと、少女は思った。
料理を振る舞う緋色の女性。
それを苦笑しながら眺める灰色の少年。
そして、そんな二人を尻目に料理を口にする自分。
初めての光景であるはずなのに。今の三人でいる時間が、さも当たり前であるかのように、思えてならなかった。
――――――――それは、まるで夢のような一時。
――――――――気がつけば、全てが終わった夜だった。
時間は瞬く間に過ぎ去って。二度と戻ることのない夜が、今、終わりを告げた。
「――――――――――」
少年はただ一人、店の前に立っていた。
お手洗いに出ると、何気ない口調で呟いて店内から出たアッシュは、静かに背後に立つカプリコルの灯りを見上げた。
吹き抜ける夜風が、髪を揺らす。
今、あの少女は店内で転寝をしている頃だろう。最初の内は美味の極まった料理たちに下鼓を打っていた彼女も、お酒が入ったところで酔いが回り、机に突っ伏してしまったからだ。
彼女が今宵、目を覚ますことはもうない。そして、彼女が次に目を覚ました時、その時僕は―――――。
「――――――――ありがとう、二人とも」
静かに呟いて、身を翻す。
何も言わず、何も悟らせず。その場から立ち去ろうとした少年に。
「――――――――行くのね」
確かな、少年を呼び止める声があった。
「…………店長」
店の壁にもたれかかるようにして腕を組んだ女性――――アリアーデがこちらを見つめていた。
「―――――まったく、家族に一言も云わずに出ていくなんて」
呆れたように言うアリアーデに、アッシュは目を伏せる。
「………ごめん」
「はぁ…………私、貴方をそんな不義理に育てた覚えはないわよ?」
仕方ないわね、そう言いたげに笑む彼女に、アッシュは目を見開き―――――くしゃりと顔を歪めた。
心の壁で感情をせき止めるのも、とっくに限界だった。
「――――――っ……ごめん、ごめん、店長……!僕は、守れなかった!」
この人には、何も事情を説明していない。
だけど、何も聞いては来なかった。なにも、怪しんだりはしなかった。
ただ、一人の少年を、暖かく迎え入れたのだ。三年前の時と、同じように。
「シルフィーに記憶が無いのは、僕の所為なんだ――――っ」
悲鳴にも似た声で叫ぶアッシュを、アリアーデは優しく目を細めた。
「………馬鹿ね、貴方の所為なんかじゃないのよ。それに、そこは胸を張るところよ」
彼女は明後日の方角を見つめ、私だってすべてを知っているわけじゃないけど、と呟いて。
「それでも、あのエリザベスって人から少しは聞いたわ。あなた、あの子を助けてくれたんでしょ?」
「―――――それは」
違う。そう、本当は言いたかった。
「だったら、それを誇りなさい。貴方は凄いことをした。あの子が今生きているのは、貴方が全力で足掻いた結果なんだから」
「――――でも、それでも僕は―――――日常を、守れなかっ――――――」
その先の言葉は、彼女の抱擁によって掻き消された。
そっと。
アリアーデは少年を抱き締める。
「―――――――――何度も言わせないの。本当に馬鹿ね――――私の息子は」
涙が、溢れる。
もう、この人には何も隠さなくていい。心の中の自分が、そう言った気がした。
だから。
「―――――――――ご、めん――――なさい。ほんとうに、ごめん――――――さようなら、母さん…………!」
何度も言葉に詰まりながらも、少年はそれでも言い放った。
今まで共に暮らした、大事な家族のひとりに向かって。
―――――――それは、ひとつの物語の終わり。
―――――――それは、ひとつの家族の終わり。
少年は自らの意思で、その居場所から飛び立つことを選ぶ。
そうすることこそが、他でもない、あの空色の少女の為になるのだと。
そう信じたから。




