26
アッシュの前に立っていたのは、その身に纏う光と同色の髪と瞳を持った、少年だった。
どこは皮肉気な笑みを浮かべる少年の顔には、何故だろう、不思議な見覚えがあるような気がした。
『―――――多少特殊な力を持った人間、そう捉えていたんだけど、とんでもない。誤解だったよ。アレだけの戦闘力。何より、人間族でありながら、精霊力もなしに大地を砕くだけの膂力……君のソレは、獣人族の王族個体にも匹敵するだろう』
少年の瞳が鋭い光を帯びた。
『でもまあ、その力はもう使わないほうが良い。君の力が如何なるものかは分からないけれど、君の肉体はそれに耐えうるものではないから。その力が例えどれだけ強大だとしても、お勧めはしない』
少年は小さくそういうと、片手を地に伏すアッシュへと向けた。
『とりあえず、君の体に残った呪いの残滓は消しておこうか』
そう少年が呟いた直後、赤褐色の光の粒子が、突風の如き勢いを伴って吹き抜けた。
アッシュの体の至るところに未だ漂っていた霧の様な黒い力が、赤褐色の光に押し負けたように吹き散らされて虚空へと消えていった。
全身の倦怠感が、ほんの僅かだが軽減されたことにアッシュは目を見開く。
「これ、は…………」
『気にしなくていい。ほんの御礼さ。僕が本来すべきだったことを、君がそのほとんどを成し遂げてくれたことに対する、ね』
「君が、するべきだったこと………だって?」
『うん、でも―――――その説明はまたいつか、だね。少なくとも、今は無理だ』
少年の顔から、笑みが消えた。
その赤褐色の瞳が向けられた先は、粉塵漂う遥か眼下の大地。
『―――――やれやれ、我が器ながらしぶといね』
少年が唇の端を持ちあげた瞬間―――――咆哮が轟いた。
粉塵や砂埃の全てを吹き散らす程の衝撃と共に、巨大な何かがせりあがってくるのを感じた。
肌を突き刺すようなこの威圧感には、覚えがある。忘れようがない。それは、今の今まで相対していた存在のものと、全く同じ物だったから。
「ま、さ―――――か」
アッシュは頬を伝う冷や汗を拭うこともできなかった。
ただ、黒々とした巨体が凄まじい勢いで下から這いあがってきたのを、茫然と見つめることしか。
二人の少年を睥睨するように聳え立ったモノは紛れもなく、つい先ほどアッシュは切り伏せたはずの、黒の巨人そのものだった。
「なん、で。どう、して」
『ん、まあ……そうだよね。そう簡単に、倒れるわけはないか。たった一撃を食らった程度で倒れられるのなら、僕は“災厄”だなんて言われないしねぇ』
呆れたように言う少年の言葉を、アッシュが聞き取ることはなかった。
あれだけの力を、全力で解き放ったにも関わらず、いまだ立ち上がったこの怪物が、本当にどうしようもない絶望の権化なのだと、打ちひしがれていたからだ。
勿論、巨人は無傷ではない。どころか、普通の生き物であればまず生きてはいられないであろう程の傷を負っている。
右肩から腹部にかけてはしる巨大な亀裂。体の半分近くを巨大な力で無理やり断ち切られたような痛々しい傷は、間違いなくアッシュがつけたもの。黒の巨剣から放たれた斬撃が刻んだものだろう。おまけに、おとされた片腕はなく、隻腕だ。
間違いなく、致命傷のはず。たとえそれが、人ならざる怪物であったとしても。
(―――――駄目、だったのか。あれだけの力を以ってしても、こいつを倒すことは)
いや………違う。
倒せていなかったというだけだ。傷は、つけられた。少なくとも、巨人はこうして立ち上がるまでに時間を要した。であれば、あの斬撃は、あの黒い力は巨人にダメージを与えられているということに他ならない。
(――――――だったら)
アッシュは四肢に力を込めて立ち上がろうと―――――。
『――――――その必要はないよ。君はもう、立たなくていい』
止めたのは、間隣に立つ少年だった。
『君の体はもう、満足に戦闘なんて行える状態じゃない。なにより、これ以上あの力を使うことはお勧めしない。ほかでもない、君自身のことを考えれば、ね』
「………君は、どうしてそこまで僕のことを――――――」
『まあ、僕は託されたからねえ。君を、何としても生かして返すと』
うっすらと微笑んだ少年に首を傾げたアッシュの顔が、唐突に引きつった。
「な―――――――――」
絶句したアッシュの視線を追った先にあるのは、巨人。切り落とされた片腕はない。隻腕の状態となってなお、唯一残った片腕を高々と振り上げた姿だった。
明確な敵意と殺気。鎧のように濃密なソレをまとった巨人が、振り上げた巨腕を二人めがけて振り下ろし―――――
『――――――いやいや、僕に牙をむくかなぁ』
絶体絶命の場面であるにもかかわらず、呑気とすら思える口調でそう言った少年は指を鳴らした。
―――――――激突。
黒の拳がこちらに叩きつけられる直前。アッシュと少年を覆うようにして赤褐色の光が浮かび上がり、凄まじい勢いで迫った拳をあっさりと受け止めたのだ。
大地を砕く無双の拳。真正面から受ければ、如何なる防御も意味を成さないはずのその一撃を、赤褐色の光の壁はビクともせず、巨人の攻撃を止めていた。
この、少年がやったのか―――――?
アッシュが呆然と少年の後姿を見つめる。
『―――――全く、虫唾が走るくらいに、醜いな』
獰猛にも歯を見せて笑った少年が片手を振り上げ、虚空に向かって振りぬいた。
――――――衝撃。
同じ背丈の少年がやったとは思えない轟音が鳴り響き、巨人の体が冗談のように遥か後方へと吹き飛んだ。
禍々しい赤の瞳が真ん丸に見開かれたまま背後の岩山へと叩きつけられた巨人の姿を見届けてから、赤褐色の少年は頭を掻いた。
『曲がりなりにも僕の器であるのなら、感じ取ってほしかったな。それに、本来自我なんて持たないはずの器が、ここまでの憎悪や殺意を抱くとは。余程の恐怖を得たのだろうね?この少年が、そうも怖いかい、我が器よ』
チラリとこちらを、地に伏すアッシュを一瞥した赤褐色の少年は、吹き飛んだ巨人の方へと片手を向けた。
『―――――さあ、もう終わりにしよう。醜い我が半身、再びの、眠りの時だ』
少年の全身から、光る粒子が吹きあがった。
穏やかに、それでいて鮮烈に。
視る者全ての視界を奪うほどの煌めきが、巨人の元へと降り注いでいく。
冬に振る雪のように、激しくもがく黒の巨人の周囲へと降る光が、地面に触れた瞬間、弾けとんだ。
―――――赤褐色の光の円環。
巨人を中心にして、無数の文様や見たこともない文字が刻みこまれた光の輪が浮かび上がった。
『――――封印する。もう二度とこの様なことが、僕の器が世に現れることのないように。今の僕なら、力を取り戻したこの僕であれば、この世に開いた門を通じて、彼方側へと送り返すことが出来る』
パチンと指を鳴らした少年に応えるように、光の円環から無数の光が湧きあがった。それらの光は虚空である形状へと変化し、蛇の如く蠢いた。
――――――赤褐色の鎖。
無数に連なる鎖の形を描いた光が、幾重にも巨人の胴体へと巻き付き、拘束していく。
呻き声を上げ、体を捩る巨人だったが、鎖は揺らがない。問答無用とばかりに四肢や胴体を締め上げる。
『僕たちはこの世界に在ってはならない。それは『大始祖』と交わした契約に違反する。僕は、それを望まない。だから、呼び出されてしまった君には悪いけれど、眠ってもらう』
―――――――――Goooooaaaaaaaaaaa…………!!?
両手両足、更には胴体、頭部。
全身を余すことなく鎖でつながれた巨人の躰が、円環の中に引きずり込まれるように、ずるりと沈みこんだ。
赤褐色の光の円環がゆっくりと回転を始める。それに従って、巨人の躰も地面の中へと呑み込まれていく。
『――――かつての僕であったなら、君を封印するだけの力は取り戻せなかっただろう。だけど、あるひとりの娘の祈りと願いが僕に力を与えた』
呆然と目の前で起きつつある事態を眺めていたアッシュに視線を向けた少年は、すっと目を閉じた。
『――――――故に、この力は世界を仇名す精霊にのみ振るわれる。『大始祖』から授けられた秘蹟、精霊を罰する権能―――――『獣帯封印』をもってして、君を封印する』
――――――――Ooooooooaaaaaaaaaaaa………!!!!
少年の言葉を聞き、巨人の抵抗がより一層強烈なモノへと変化した。
『……やっぱり怖いかい。まあ、かつての僕が封印された際に使われたモノだ、本能として、その体に記憶されていてもおかしくはないけど』
苦笑した少年は、片手の甲を眼前に翳した。
『大丈夫。僕も共に、眠りについてあげるから。そうすれば、僕たちは再び一つに回帰し、もう魂と器が別たれるだなんて馬鹿げた事態は起きない。まずは、君の身に帯びるその忌々しい“式”を破壊する』
赤褐色の光に包まれる少年の手の甲に刻まれた何らかの文様が、より眩い閃光を放ち始める。
『輝け、輝け、我が精霊紋。その導を以って今ここに、彼方への扉を呼び招こう―――――――』
少年の甲から放たれる輝きが、太陽の光にも匹敵するほどの圧倒的な光量へと変貌し――――
―――――――――赤黒い触手が、赤褐色の少年の腹部を、貫いていた。
『――――――――――?』
手の甲を掲げようとしていた少年の動きが、止まる。
不思議そうに首を傾げ、己の胴体を見下ろし、瞠目。何事かを呟こうとするも、力を奪われたようにがくりと膝を着いた。
『―――――――――な、んだ。これは』
少年の険しい瞳が、己を貫いている光の触手の源へと向けられた。
禍々しい赤黒い輝きを帯びた触手の発信源は、今も光の円環に全身を呑まれつつある巨人。
だが、あの巨人が己の意思で放ったものでないことは、明確だった。
何故ならその光は巨人の腹部を真っ二つに引き裂いて、そこから溢れだすように現れていたのだから。
パックリと開いた腹部の亀裂から現れたその触手、その源にある亀裂を、少年は睨み付けた。
『―――――――――誰、だ』
小さく、背筋が凍るほどの憎悪を込めて放たれた言葉は、やがて叫びへと変わった。
『お前は、お前は誰だ………!僕の器を縛る術式の、奥にいるお前は――――!!!』
少年の怒号に、巨人の動きが完全に停止した。
今までもがいていたとは思えないほどの完全なる停止。ピクリとも動かない彫像と化した巨人、その腹部に顕れた亀裂が、内側から抉じ開けられるように広がっていく。
「―――――――なんだ、あれ」
アッシュは、亀裂の向こう側に広がる暗闇から、君の悪い気配を感じ取った。
巨人から感じていた威圧感とは違う。反転精霊たちから放たれていたモノとも、決定的に異なる。
反転精霊でも、ましてや精霊ですらない。この感じは、もっと何か別の、異質なモノだ。
腐臭にも似たにおいがアッシュの鼻をつく。
………なんだ、この嫌な感じは。
『―――――僕の器に、一体何を埋め込んだ!!!』
少年の全身が、怒涛の光を帯びる。
攻撃的な輝きを内包するそれは、間違いなく精霊力。だが、その力の何と莫大な量か。
怒りに呼応して溢れ出した圧倒的な精霊力が、少年から吹き荒れ、周囲の空間を震わせているのが分かる。
「なんて力………エリザベスさんと同等。いや――――――それ以上……!」
九大貴族の当主すら上回るほどの力、そのすべてが余すことなく巨人、正確にはそこに現れた亀裂に向かう。
何もかもを丸ごと吹き飛ばすような圧倒的な力の奔流―――――精霊力の全てが、亀裂から更に顕れた複数の赤黒い触手によって喰らい尽くされたように消滅した。
『――――――――』
少年が絶句。
「――――!駄目だ、避け―――――――」
アッシュがソレに一目で気づき、傍らの少年へ警告を発し終えるよりも早く、その触手は目にも留まらぬ速さで少年へと迫った。
『――――――――ッ!!!』
しかし、少年の反応は早かった。
アッシュが警告を発したのとほぼ同時ともいえる速度で精霊力を己の前方へ展開。
迫りくる触手全てを受け止めようと赤褐色の光の壁が無数に現れた。
複数枚顕れた光の壁だが、その一枚一枚に込められた力の総量は膨大。それこそ、上位の精霊術すら完封出来るほどの強度を持っているだろう。
あらゆる外的要因を遮断できると言っても過言ではないだろうそれを、触手は問答無用で貫通した。
破砕音が響き渡る中、驚愕の表情を浮かべた少年の体が真上へと跳ね上がった。
触手の悉くが少年の胴体を深々と貫通、そのままぐいぐいと持ちあげたのだ。
遥か宙へと持ちあげられた少年が、顔を歪め、己の腹部を貫く触手を掴みとり、引き抜こうと力を込める。
『――――――これは、僕の力を、吸い取っているのか』
赤黒い触手はグネグネと蠢き、少年の体を虚空へと縛りつけている。だが、それだけではない。気の所為で無ければ、少年の身に纏われていた精霊力の悉くが失われつつあった。
アレだけあった膨大な力の全てが、僅か数秒で見る影もない。いや、あの少年の言葉が正しければ、この触手が力を吸いとったということになるのか。
『―――――――く、そ』
みるみる全身の力を奪われたらしい少年の顔から、精彩さが消えていく。
(これを、切らないと………!)
このままではまずいと、アッシュが必死に体を動かし、傍らに転がっていた精霊剣の柄を掴みとった。
だが、その先にはもう刃など存在しない。当然だ。これに蓄えられていた精霊力は空。さっきだって、あの黒い力がその代わりとなってくれたからこそ刃と成せた。
体は限界。あの黒い力も、何故だろう、今はもう引き出せないことが何となく分かってしまった。
体の奥底から湧きあがってくる感覚が、微塵もない。
まるで、体の内に開きかけていた扉が、再び固く閉じられてしまった様な感覚。
(どう、すれば――――どうすれば、この状況を、変えられる………!?)
あの少年が味方だという確証はない。だけど、助けてくれたのは紛れもない事実だ。
何とかして、この少年の危機を救い、その上で自分自身が生き延びることが出来る道を模索する。
(けど、そんなことどうやっても――――――)
もしこの武器に、精霊力を注ぎ込むことが出来たなら、その刃でもってこの不気味な触手を切り裂いて少年を助けだすことが出来るのに。
(………いや、僕に精霊力なんて使えない)
精霊力を行使できるのは、精霊使いと一部の才ある者たちだけだ。
一体何度、己の無力さえ嘆けばいい。力があれば、乗り越えられた場面がどれだけあった。
歯を食いしばる。
この状況を変えられない己を、呪いそうになって―――――――
〈―――――――そんなことはない〉
その雄々しい声が、アッシュの意識を縫い止めた。
〈――――君は、強い。多くの苦難、多くの辛苦、それらすべてを、君は悉く打倒して来たじゃないか〉
この、声は。
間違いない。あの蒼の世界で聞いた声。
…………自分と同じ、声。
全く同じ姿形をした、あの少年の―――――――。
〈確かに君に、精霊を操る力はない。だけど、君はそんなものよりもずっと凄い力を持っている〉
アッシュは己が握る剣の柄に、そっと他の誰かの手が触れたことに気づいた。
視線を動かし、瞠目。
後方から伸ばされた、半透明の手。その手が、アッシュと、そこに握られた精霊剣の柄に触れていた。
〈――――――ありがとう。あの子を助けだしてくれたこと、本当に感謝しているよ。だから、もう立ち上がることさえ難しい君に、少しばかり手を貸そうと思う〉
精霊力が、渦を巻く。
周囲に漂っていた精霊力、それは、あの赤褐色の少年が放っていたものに他ならなかった。
アッシュは分からなかった。精霊使いでは無いアッシュには、それの意味が理解できなかった。
他者の精霊力を操るということの意味を、その異常性を、その埒外を、実感することさえなかった。
赤褐色の精霊力が導かれるようにアッシュの剣へと集まっていく。
青白い光でも、漆黒でもない。赤褐色の光を帯びた刃が、確かにそこには伸びていた。
『――――――――――ぁ』
たったひとり、その光景を遥か虚空から見下ろしていた少年が、掠れた声を出した。
『――――――僕の……精霊力を、収束して……従えた?』
揺らぐ瞳で、少年は眼下で立ち上がろうとしている少年を見る。
『………契約者でもなしに、そんなことが、できるわけ―――――君は、一体』
〈その身に帯びた“業”は僕が持って往くよ。そして―――――――〉
半透明の手が、そっとこちらへと近づき――――アッシュの額に触れた、そう感じた刹那、今の今まで全身を縛りつけるようにわだかまっていた疲労感や倦怠感、痛みといった負の要素が、取り除かれていくのが分かった。
いや、それだけじゃない。
寧ろこれは――――――。
〈―――――アッシュ、お願いだ。アレを、この世に誕生させてはならない。アレは生きとし生ける全ての生命と世界に災いを成す〉
戸惑いを覚えながら立ち上がったアッシュは、ゆっくりと、その声の聞こえた方向へと視線を向けた。
〈―――――だからアッシュ。君なんだ。君こそ、この絶望的な状況を打破できる、唯一の可能性。この世界を廻る運命の外側に立つ君だけが、この戦いを終わらせられる〉
鏡映しの如く。
消えゆく中で微笑む、己と全く同じ顔をした灰色の少年の姿が、そこにはあった。
〈アッシュ、今の僕が君にしてあげられることはもうない。あとの全ては、君次第だ〉
半透明で、不安定に揺らめく少年の体がゆっくりと、しかし確実に、大気へと溶けていくように薄くなっていくのがハッキリと分かった。
〈君の意思が、君の力が、かつての僕が成し得なかったことを、たどり着けなかった結末へたどり着けるものだと、信じているよ〉
ふっと、最後に笑った少年の姿が、一際淡い光を放った。直後、風に吹き散らされるように霧散した。
真冬に降る粉雪の如く舞い散っていく光の雨の中で、アッシュは剣を強く握りしめた。
「――――――――」
自分と全く同じ容姿を持ったあの少年の言葉の全てを、理解したわけじゃない。
だけど。
これだけは疑いようがなかった。
(僕は、彼に救われた)
思い返せば、誰かに助けられたのは何も今だけじゃない。
エリザベスとシルヴィア。あの二人だってそうだ。
九大貴族であるはずの精霊使い。本来の立場からすれば、アッシュを拘束することが当然なのに、それでも彼女たちは手を差し伸べてくれた。
何より、シルフィー。
「………みんなが助けてくれなかったら、今の僕はここにいない」
常に誰かの助けがあって、今の自分はここに立っている。
だから今度は、自分が誰かを助ける番。
―――――敵を倒す。
それが、今回起きた全ての悲劇を終わらせる唯一の手段。この王都を襲った未曾有の危機を終息させることが出来る、解決策。
そして、家族の命を守る、たったひとつの方法だったのに。
「――――――――」
救うべきだった大切な命を、僕は守ることが出来なかった。
手を必死に伸ばしても、届かせることが出来なかった。
その手に握った精霊剣を、一閃。
頭上で少年を貫いている触手を、一瞬の間に断ち切った。
腹部を抑えながら着地した赤褐色の少年が、未だ顔を歪めたまま、灰色の少年の背中を見上げた。
『―――――君、は』
「さっきは、ありがとう。僕を、助けてくれて」
そう言葉を駆ける最中も、視線は決して逸らさない。
アッシュの意識は遥か前方で倒れる巨人と、そこから溢れる無数の蠢く触手に向けられていた。
光る精霊剣を握りしめ、アッシュは一歩踏み出した。
『待つんだ……。アレは、ひとりの人間族がどうにかできるものじゃない。アレは僕の精霊力を根こそぎ持っていった。上位の精霊たる、僕の力をだ。君は、ここから逃げるんだ……アレと向かい合えば、君は絶対に――――』
「………それは、出来ないよ」
『―――――――……』
何故、少年がそう言うよりも、アッシュの返答が早かった。
「君があの巨人とどんな関係なのかは、分からない。けどもうこの戦いは、君のものでも、僕だけのものでもない。ここにいる僕は、もう僕だけのものじゃないんだ。沢山の人たちに助けられて、今の僕はここに立っている」
だから。
「……逃げることも、退くことも、僕にはできない。何より、僕の家族を奪った相手を、許すわけにはいかない」
そこまで言ってから、血が滲むほどに拳を握りしめた。
いや、本当は分かっている。本当に許せないのは、本当に心の底から許せないのは、家族を守り切れなかった自分自身だ。
「………だからせめて、お前だけは、絶対に………!」
僕が倒す。
それが、何も成し遂げられなかった自分ができる、せめてもの清算であると思うから。
『……………そうか』
その少年の言葉に、しかしもう後ろを振り返ることは、言葉を投げかけることはない。アッシュの意識は前だけを捉えていた。
あの巨人までの距離はかなりある。そもそも、この石柱から飛び降りたところで、この高さでは無事に着地することすら危うい。だけど、それでも、もう立ち止まることは、出来なかった。
あの人外じみた力は、きっともう使えないだろう。だとしても―――――――。
『―――――――大地の息吹よ』
突如、前方に無数の石柱が林立した。
大地を引き裂いて顕れたその石柱群は、一直線に巨人とこの場所を繋ぐように均等の間隔を保った状態で聳え立つ。
それは間違いなく、巨人へと続く足場に他ならなかった。
無論、こんな真似はアッシュにはできない。
「…………力を、貸してくれるんだね」
『………人間に助けられたままなんて、僕の沽券に関わることだからね。それに、意気揚々と嘯いておきながら、今じゃもう立ち上がることも出来ない僕の尻拭いをしてくれるんだ。力を貸したって、別におかしなところはないだろう』
「…………ありがとう」
『礼を言われることじゃない。僕はそんな立場にはないし、それに………生者の祈りに応えるのは、精霊として、当然のことさ』
精霊。
少年は自分のことをそう言った。
あの膨大な精霊力に、様々な奇跡の数々。人の身に余ると思える力は確かに、精霊と言われれば納得できる。
ただ、人と同じ姿をした精霊がいるなんて、聞いたことがない。偽りという可能性だってある。
「………そっか、君は、精霊なんだね」
『………疑わないのかい。人型をした精霊は、基本的に“王”に近い高位のモノに限られる。僕のような位の精霊は、滅多なことじゃ君たち人間族の前に現れないと思うけれど。見慣れない存在であるはずの僕を、どうして君は無条件で信じることが出来るんだい?』
「………理由、か。僕にもよく分からないけど」
こうして傍に顕れた見たこともない少年。状況から鑑みれば、警戒して当然の存在。しかし、アッシュはこの少年が敵だとは到底思えなかった。
自分に害を与える存在などとは、到底思えなかった。それどころか、考えもつかなかった。
「………君からは、何だか懐かしい感じがするんだ」
傍にいることが、当たり前であるかのような。
今まで共に在った隣人であるかのような。
長い時を過ごしてきた、家族であるかのような。
『………そうか。なら、もう僕から言うことは何もない。行くと良い。人でありながら、人を逸脱した力を宿す者よ。君の歩みに、精霊王の―――――いや、我が契約者の想いの加護があらんことを』
最後の言葉は小さくてよく聞き取れなかった。だけどそれでも、アッシュは少年の言葉と気持ちを、確かに受け取った。だからもう、振り返る必要なんてない。
一歩、また一歩と。
加速度的に歩みはその速度を増していき、今まで足場になってくれていた石柱から、その前方に佇立する次なる石柱に向けて跳躍した。
虚空に身を躍らせ、次なる石柱へと見事な着地を決めたアッシュに、赤黒い触手が無数に襲い掛かった。
頭上、左右、後方。あらゆる方向から迫る無数の脅威を、赤褐色の剣閃が切り裂いた。
縁を描くように周囲の全方位の触手を切り捨てたアッシュは、輝く剣を頭上に掲げ、目を見開いた。
その瞳は。
薄らと、だが確実に、真紅の光を帯びていた。
「―――――もう、僕は負けない。負けられない。だから、ここで倒れろ、怪物!!」




