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始めまして、翠坂 慎と申します。

前作からご存知の方は、お久しぶりでございます。

当作品は前作『黒き龍の精霊使い』のリメイク版にあたります。

リメイク版ではありますが前作を読まずとも、全く問題ございませんので、お楽しみください。

よろしくお願いします。

―――――あの日、僕の世界は変わった。

それが本来歩むべきはずの道だったのか。今となってはもう分からないし、分かろうとも思わない。だけど、苦しくも、それでも周囲の期待に応えようと、血の滲む努力を積み重ねていった果て。その場所へ至るための運命のレールは、きっと、あの時、あの場所で砕け散ってしまったのだろう。





「遂に、この時が来た」

―――――深い闇。如何なる光も届かない、寒く、冷たく、無機質な世界。

一寸先は黒一色に染め上げられた暗闇が支配する冷たい空間に、無数の火が灯った。均等に配置された松明はおぼろげに周囲の景色を闇夜から浮かび上がらせる。

無機質な石材で造られた一室。物音などほとんどしない静寂に満たされた空間に、松明に燃える紅蓮の炎の輝きによって二つの人影が映し出された。

ひとりは地面に膝を着いている小柄な少年。もうひとりは長身の男だった。

「立て」

朗々とした声がその場に響く。

男に名を呼ばれた少年は静かに立ち上がった。隙のない立ち姿。いかなる状況にもすぐさま反応し、対応できるよう、余分な力の一切が抜け落ちた少年の姿からは弛まぬ修練の証が感じられる。

その様を無感情のまま睥睨し、しかし一切の反応を示さない男はただ淡々と言葉を発した。

「これより〈精霊契約〉の理に従い、偉大なる精霊王の御名のもと、契約の儀を執り行う」

男が指示したのは、背後。

闇夜に囲まれた視界の中心。明かりというにはあまりにも頼りない炎が照らす先にあったのは、異物。

松明に照らされて尚、暗い・・。いや、正確には光を拒絶しているかのような、吸い込まれるような闇が凝縮されているような。そんな、言葉ではうまく表現できない物体がそこにはあった。

―――――黒の球体。

この広々とした一室の中央にある祭壇と思しき中心にあったのは、人が両手を広げても抱えきれないほどの大きさの、漆黒の巨大な球体だった。

「この祭壇は我らランスヴェール家が古来より保有する神殿。そして、お前が手にする力そのものだ」

しかし、少年は男の言葉に疑問を隠せないとばかりに首を傾げて問いかけた。

「……契約の儀式は通常、霊験あらたかな秘境や大自然の奥地などに赴いて行われるはず。それに、契約に必要な神殿は精霊使い達の力を借りて構築するものだと、僕は教わりました。しかしこの神殿は―――」

少年は訝しげに男の背後に広がる黒の祭壇を見つめた。淡い光に満たされた空間の中でも、いや、だからこそ分かる闇色の祭壇に、少年は悪寒を覚えた。目の前にあるコレは、精霊契約を行うべき神聖な場ではないような……そんな気さえする。いや、そもそも、この重苦しい空気が立ち込めるこの場所そのものが、既に人の入り込むべき場所ではない忌むべき領域のようにも思えた。

「余計な思考は不要だ。それともお前は、この儀式を否定すると?」

「い、いえ。そんなつもりは……」

「ならばお前は黙って私の言葉に従え。ジルヴェリア王国が誇る〈九大貴族〉がひとつ、ランスヴェール家。お前はその国を導く力を持った精霊使いとなり、我が一族に更なる繁栄と栄光を齎す者となる。そのために我らはお前をあの薄汚れた路地裏より拾い・・、教育を施してきたのだ」

男の瞳に宿る冷徹な光に少年は唇を噛みしめ、俯いた。

「失敗は許さん。お前ならば、分かるな――――アッシュ」

……分かっている。失敗ソレは、僕がこの世界から消えるということだ。

九大貴族。ジルヴェリア王国において国防を担う存在。強大な力を持つ精霊使いを輩出し続けてきた九つの血統。そこに名を連ねる一族のもとに生まれる人間は、個人差はあれど誰もが総じて精霊使いとして絶対なる才能を秘めるとされる。事実、歴代の九大貴族出身の者たちは誰もが歴史に名を残すような精霊使いとなっていることは、既に国内外でも有名だ。

アッシュ・ランスヴェール。それが、の僕の名。この身に背負った大きな、潰れてしまいそうな責任が、この名には込められている。

「そのために、私は孤児という泥沼よりお前を引き抜いた」

「………」

幼い頃の記憶は曖昧だ。自分がどのように暮らしてきたのか一切分からなかった。ただ、あの薄汚い裏路地から見上げた灰色の空だけは、今も鮮明に思い出せる。

本来であれば薄汚い路地裏で命の灯を消すはずだった少年はしかし、どのような運命の悪戯か、精霊使いの名門ランスヴェール家に拾われ、今こうしてここにいる。

全ては、ランスヴェール家に更なる繁栄を齎す“道具”として使われるため。精霊を宿す為に日々訓練し、体作りから戦闘技能に至るまで、様々な訓練を施された。

精霊と契約する時―――今日という日の為に。

「アッシュ」

「………はい」

そう。何としても成功させなくてはならない。そのためだけに、今まで少年は生かされてきたのだから。失敗など、許されるわけがない。

「ならば行け、貴様が契約するべき精霊のもとへ」

男は少年の為に道を開けると、有無を言わさぬ瞳で少年を睥睨した。

「………分かりました、父上」

少年は決意を秘めた言葉でそう告げると、一歩を踏み出した。

静かな歩みで中心へと歩いていく少年を男は見送り、冷徹な眼光が浮かぶ瞳を細め。

「さあアッシュ、契約せよ。我ら一族に与えられた偉大なる力、あの御方・・・・から齎された絶対的な黒き精霊と。そうすれば貴様は力を得る。この国の何者をも、そう、それこそ……あの忌々しいアヴァロン家の精霊使いすら凌駕する、絶対的な力をな」

唇の端が持ちあがり、空虚な笑みが男の顔に浮かぶ。

それはまるで、大切な何かが壊れてしまっているような、そんな不吉さを感じさせる哄笑だった。

そして、漆黒の祭壇の定められた場所、黒の球体の前に少年が立ったことに唇を歪めると、両手を広げた。

「全ての準備は整った。これより精霊契約の儀を執り行う」

男の背後から、漆黒のローブを着こんだ人間たちが姿を現す。まるで闇から浮かび上がるように現れた彼らは不気味そのもの。闇が人という形をとってそこにあるような感覚だった。

少年が見覚えのない謎の集団に疑問の声をあげる間はない。不気味なくらいに静寂を纏ったまま歩を進める彼らは神殿に立つ少年を中心に円を描くように移動し、それぞれが持つ漆黒の杖を掲げ、一斉に口を開いた。


〈――――世界を創りし偉大なる精霊王に願い奉る〉


朗々と響き渡るのは低く、重苦しさを孕んだ言葉の羅列。

祭壇全体に、透明に輝く淡い光が浮かび上がる。

闇に呑まれて見えない部分に描かれていた其れが明らかになっていく。余すことなく複雑に刻まれていた円陣。床に浮かび上がるその溝をなぞる様に光が満ち溢れ、幾何学模様を内包する円を描く。

赤、白、青、緑。色彩は変化を続けながら周囲の空間を満たし始める。

やがて七つの輝きが集い、虹色となった光が色鮮やかに祭壇内部を染め上げていく。

「精霊王との間に回路の接続を確認。“契約真言”による回路安定機構、正常に機能しています」

詠唱を続けていた黒い人型のひとりが長身の男に向かってそう告げた。

「そうか。ならばこのまま続けよ。精霊王の〈扉〉を開き、この神殿に〈精霊力〉を充満させるのだ」

男の言葉が響き渡ると、再び詠唱が始まる。

「………っ」

ズキリと、痛み。

目の前に広がる幻想的なその光景に、祭壇に立つ少年は何故か頭部に鈍い痛みが走るのを自覚した。

(なんだ………この、痛み)

思わず額をそっと押さえる。

確かに今、額の辺りが痛みを発したような気がしたのだが、触っても何の異常もない。気の所為……だったのだろうか。

しかしそんなことなど露知らず、黙々と詠唱は続く。


〈――――七つの理司る王 世界を廻る力の意思へと繋がる扉よ 開け〉


〈――――幾星霜過ぎし刻針の此方より 原初の記憶逆巻く海の彼方へと駆けよ〉


〈――――転輪する運命の環より注がれる力を束ね 今 契約の証を我らが下へ〉


少年を中心に囲む黒い人型は片腕を光り輝く円陣の延長線上へと突き出した。

虹色の輝きは更に眩さを増していき、少年は思わず目元を腕で隠す。だが、そんなものは無意味とばかりに輝きは瞼を貫き網膜を焼く。まるで、光が物量を宿して押し寄せてきているかのよう。

「うっ―――――」

あまりの光量に少年が呻いた瞬間、今までとは打って変わって凄まじい程の怖気が明確な衝動となって背筋を駆け抜ける。

――――――ドクン。

振動……いや、鼓動?

腹の底まで響き渡るような、不気味な怪音。

人の不安という悪感情を掻きまわすようなその音に、少年はその源へと目を向けた。

黒の球体。少年が立つ目の前に安置されている謎の不気味な異物に、息を呑む。

「ま、さか――――コレが?」


〈――――されどその証は黒く濁り 真理への扉は開かれん〉


そして、変化は終局へと至る。

虹色の輝きが、禍々しい黒い光によって塗りつぶされ、溢れだした。

穢れた黒にくすんだ虹色の光はまるでそれ自体が意思を持っているかのよう。不気味に蠢き、触手の様に細い無数の線へと枝分かれした気味の悪い光の奔流が少年の頬を撫でる。

「ッ……」

あまりの不気味さに思わず後ろへ跳躍しようとした少年の脳裏に、先の男の言葉が浮かび上がった。

――――お前はランスヴェール家の………

その言葉が、少年をこの場に縛りつける。後退することを、許さない。


〈――――汝は理を否定し反逆する者にして 満ちて広がる混沌の守護者〉


〈――――開かれし扉より溢るる波濤 黒き力の申し子よ〉


黒く輝く円環から伸びる光は噴煙のようにゆらりと揺らめき、神殿の天井へと舞い上る。

やがてその黒の煙は虚空で真円を描くように螺旋し、球体へ注がれる。

――――――ドクン!!

脈動。禍々しい力を放った球体に、少年は驚愕に目を見開きながら今度こそ一歩後退した。

これは……今まで感じたことがない威圧感と悪寒、そして、途方もないほどに濃縮された悪意。

愛情というべきものはほとんど与えられず、ただ戦士と成る為だけの拷問にも等しい過酷な戦闘訓練を行ってきた。殺気や敵意など幼い頃に何度も経験した。その類の感覚にはそれなり以上の耐性があるはずだった。それでもなお、この球体から放たれるおぞましいほどの悪意は何だというのか。

人が人に向けるものとは根本的に違う。まるで、この世界という存在そのものに悪意を向けているような。矮小な一個の生命など最初から相手になどしていないような。

そんな途方もない黒い感情が、あの球体には宿っているように思えた。

これは、人が触れていい存在ではない。

「父上っ!」

思わず、少年は絶叫した。

これは、契約など行っていい存在ではない。

これは、この場で何としても対処せねばならない“敵”だ。

そう叫ぶ本能に従い、少年の体が前傾体勢へと変化した。

今の自分に何ができるかは分からない。精霊と契約していない今の己に、この禍々しい気配を放つ存在に対して有効打を与えられるとは到底思えない。

だが、コレを放置することだけは絶対に駄目だ。

そんな謎の衝動に突き動かされ、少年の瞳に鋭い眼光が浮かぶ。

残像すら刻むほどの鋭い踏み込みで一歩を踏み出した。

石の地面を踏み砕き、旋風を巻き起こす勢いで疾走。漆黒の煙を燻らせる球体に向けて、腕を振りかぶり、掌底をすさまじい速さで突きだした―――。

衝撃。黒く染め上げられた力の奔流が雷の如く迸り、少年の全身を打ち据えた。

雷で打たれる、などというのはこの場でありえるはずもない。無論、少年もそんな体験などない。天駆ける雷に打たれれば、人間など即死するからだ。だが、少年の身に降りかかった黒い力の波動はまさしく、本物の雷鳴の如し。大音量を轟かせながら、ちっぽけな少年の体を駆け巡った。それも、言葉では言い表せないほどの激痛を伴って。

「が、ぁあああぁあぁぁあっ!!」

身に纏う衣服が黒く焦げ、四肢のあちこちで出血しながら少年の体が空間の隅へと吹き飛ばされ、強烈な勢いで叩きつけられた。

ぐったりと地に伏せた少年はやがてゆっくりと拳を握り、がくがくと痙攣する体を無理やり抑え込みながら顔を持ち上げた。

その視線の先にあるのは一人の男。他でもない、少年の父親であった。彼は心底不思議そうな目で少年を見下ろしていた。

「アッシュ、何をしている。覚醒しきっていない不安定な力場を纏う精霊に触れようとするとは。今の精霊は無秩序に荒れ狂う力の鎧を纏っているも同じこと。その程度の事、幼い頃に叩きこんでやったはずであろう」

そんな台詞を平然と言い放った男に、アッシュは震える口で言葉を紡いだ。

「父、上……分から、ないのですか……?この、存在の……禍々しさが」

「何を言っている?禍々しさ?これほど強大な力を持った精霊を、どうして拒む必要がある」

男は両手を広げ恍惚とした表情で黒い球体を眺めていた。

その瞳に宿るのは狂気の光。

「嗚呼、素晴らしい。この力さえあれば、我らを否定した忌々しいあ奴にも……ラファエルの奴にも認めさせることが出来る。見返してやることが出来る……!」

哄笑を上げた男に応えるように、黒い球体が放つ力も益々巨大に、それでいて禍々しさを増していく。

「や、めて……ください、父上っ………父上ぇっ!」

少年の願いは儚く、黒い人型が紡いだ最後の一節ワンフレーズによって、掻き消された。


〈――――汝は楔を打ち破り 反逆の翼は翻る〉


暴風。黒き風が球体を中心に広がり、周囲に立っていた全てを一瞬で吹き飛ばした。

儀式の為に用意された円陣が切り刻まれて掻き消え、装飾品の類も全て無用だとばかりに吹き飛ばされていく。命の危機すら感じずにはいられないこの暴風の嵐の中でただひとり、長身の男だけは、少年の父親だけは暴風の中心にある黒い球体を見つめ、嗤った。

「素晴らしい。これだ、これが我らの求めた力だ!さあアッシュよ!時は来た!!」

男の大声に呼応するように、黒の球体に光の筋が幾重にも浮かび上がり、怪しい紫色の光を宿した。

やがてその光がある文様を描くように広がっていく。

少年はそれを翼のようだと感じた。まるで巨大な翼を持った鳥が己の体を覆い包むように翼を広げ丸まった姿であるかのような。そして目の前にある黒い球体はその逆。丸まっていた体を解き、その雄々しくも禍々しい翼を広げようとしているかのような、そんな姿で。

やがて刻は満たされる。

紫色の文様は翼となって浮かび上がり、黒の球体はゆっくりと、だが確実にその形を解く。

「―――――――!」

現れたのは、巨大な翼を持った怪物。御伽噺に登場するような悪魔に近しい姿をしたその存在に、アッシュは今までにないほどの驚愕を覚えた。

どうして、どうして父上は、ランスヴェール家は、こんなモノを神聖な精霊と思っていた?

これはどう見ても、精霊などではない。もっと黒く染め上げられた性質の悪い何かだ。

「おお、おお………これがそうか!我らに新たなる未来を齎す精霊か!」

だが、男はそう言うと黒い悪魔の姿をした存在の前へと歩み出て、歓喜した。

「さあ、大いなる力を持つ者よ!ランスヴェールを更なる繁栄へと導くしるべとなりたまえ!!」

そう叫んだ男に、黒い精霊は禍々しい力に染め上げられた真紅の瞳でソレを睥睨し。

『―――――――憎イ』

小さく、だが常軌を逸する悪意が込められた言葉を発した。

『―――――――人間、罪人。裏切ッタ、憎イ、憎イ、憎イ』

同じ言葉を繰り返す黒い精霊を、男は不思議そうに見上げ。

「何を、言って――――――」

『オオオオオオオオオオオオオオ!!!』

悪魔の咆哮が轟く。

黒い輝き。神殿内部に突如として瞬くのは黒々とした禍々しい光の奔流。凄まじい衝撃波と共に黒い閃光が空間を走り、男の胴を真上から貫いた。

血飛沫すら上がらない。対象を一度に消し飛ばす程の範囲と破壊力を秘めた黒い光の一撃が、男の胴を丸ごと刳り貫いたのだ。

「―――――――あ?」

血走った目を浮かべたまま、男の体はまるで人形の如く崩れ落ちる。

突如、振動と共に地面と天井、更にはそれらを支える柱に亀裂が走った。立つことすらままならないほどの振動が少年を襲う。

「う、あっ―――――!」

降り注ぐ粉塵と瓦礫に少年は呻き、頭を庇う。

パラパラと落下してくる粉塵や瓦礫に当たらないよう、隅へと移動しようと少年が手足に力を込めた瞬間、そんなことなど頭から吹き飛ぶほどの壮絶な殺気がその場に吹き荒れた。

体に刻まれた戦闘本能に従って反射的に視線を前へ。

黒い体躯と翼を生やす悪魔……“黒き精霊”の姿。おぞましい姿をした悪魔が憎悪と悪意をこれでもかというほど宿した紅い瞳でこちらを睨み付けていた。

『オオォオ………見……ツケタ。忌々……シキ――――人間』

「っ!!」

今まで感じたこともないほどに濃密な殺気。常人ならば感じただけで精神こころが壊れてしまってもおかしくないほどの感覚に、思わず少年の頬が引きつり、喉が痙攣のような震えをみせる。

幼い頃からの戦闘訓練や死闘が御飯事おままごとと感じるほどに凝縮された殺気に、少年の全身が金縛りにあった様に硬直した。

(う、ごけ……ない?どう、して……ここ、から……逃げない……と)

自分はこんなにも、脆い人間だったのか。少年の心に吹き荒れている感傷はそれに尽きた。

動け、動け……!

思いに反して体はピクリとも動かない。まるで体が自身のものではなくなってしまったかのようだった。

『許サヌ……許サヌ。我ラ、精霊ヲ……穢ス者』

気のせいだろうか。悪魔の言葉が、先ほどよりもはっきりと聞こえてくるような気がする。

途切れ途切れの単語の羅列のような言葉とは違う。気の所為でも耳がおかしくなったわけでもなく、明らかにこの悪魔自体が流暢な言葉を紡げるようになってきているのだ。

『我、ヲ、〈反転〉サセタ……人間……ヨ』

「反、転……?一体――――何の話しを」

『――――罪深キ者、消エヨ』

悪魔の頭上に黒い光が乱舞し、それが流星の如く一点に集う。巨大な光の束。先ほど少年の父親を射抜いたものと同じソレが、次はその切っ先を少年へと向けた。

黒い光の輝きが少年を照らし出す。まさしくそれは死の光。あらゆる生物を死滅させる必殺の一撃となるだろう。

呆然とすることしか、少年にはできなかった。つまりこの場に訪れるのは、先ほどの父と同じ死の運命―――――。

(どう、して。こんな―――――ことに)

これから、自分は一族を背負って立つと思っていた。それが辛く長い道のりになるだろうことは既に覚悟していた。少なくともこの世界における貴族として生きるのは、そういうことだから。

だが、そんなことは少年にとって苦になるかと言われれば、それは否であった。

それ以上に、辛い道のりを歩む以上に、強い思いがあった。

彼女・・を守るためには一族の長となる必要があった。だから少年は一族の次期当主の位を引き受けたのだ。地位や名声など、そんなものなどいらない。ただ、少年が生きてきた世界でたったひとり、優しく傍にいてくれた家族を守りたかった。

ランスヴェール家を導く当主の座に至り、己の家族をあらゆるものから守り抜く。それが、身寄りのない孤児という絶望しかなかった自身の運命を変えてくれたランスヴェール家の者たち……いや、への恩返しとなるはずだから。たとえそれが、真っ当な動機で無かったとしても。

貴族の高貴な血は流れていないけれど、それでも、この薄汚れた手で誰かを守れるのなら、この命など惜しくはない。そう思っていた。思っていたのに―――――。

「―――――ごめん」

その謝罪は誰に向けたものでもなかった。ただ謝りたかった。己の運命を変えてくれた者たちに報いるために歩んでいこうと思っていた。しかし結局それは叶わない。何も成すことが出来ないままここで朽ち果てるのだと、そう思えば、兎に角謝りたくなった。

そして――――――

「お兄……ちゃん?」

崩れかけた空間。大音量で響き渡る破壊の音の中に混じった、微かに響く小さな声。

弱々しくも美しいその声を、少年が聞き逃すことなど、ありえなかった。だから、少年は目を見開いた。

ゆっくりと、今までピクリともしなかった体を錆び付いた機械の如くぎこちない動作で動かす。

必死に動かした視線の先はこの空間への唯一の入り口。本来ならば精霊契約の儀を執り行う者だけが通るはずの場所、そこに、本来ここに居るべきではない子供、幼い少女の姿があった。

青空をそのまま写しこんだような美しい長髪を生やした幼げな少女に、少年は驚愕に目を見開き、絶叫した。

「―――――どうして。どうしてここへ来た、アイシア!!!!」

その怒号にビクッと肩を震わせた少女は涙で潤んだ眼でおずおずと呟く。

「だ、だって………凄く、嫌な感じが、したから……」

半泣きになりながら言葉を紡いだ少女は地面に倒れ伏す少年から視線をソレへと移し、突如、瞳を虚ろにしたかと思えば膝をガクガクと震わせて崩れ落ちた。

「あ――――――ぁぁあ……」

その視線の先には黒翼を広げて浮遊する悪魔の姿。

無理もない。ただの常人が耐えられる許容を遥かに超えた殺気を放つ存在を前にして、見た通りの年齢でしか無い少女では、その存在を認識しただけで人間として壊れてもおかしくなかった。今無事なのは、精霊使いとして最高峰の才を宿す九大貴族の血のおかげか。

……いずれにせよ、この状況は非常に拙い。

『オオオオオオオオオオ!!』

黒い光の嵐が、圧倒的な暴虐の輝きがその場を吹き荒れる。

「アイシア、逃げろ!!!」

少年の叫びは暴風によって掻き消され、届かない。ドレス姿の少女は未だ、地面に崩れ落ちたまま呆然と黒い悪魔を見上げていた。

その瞳にあるのは、恐怖。純粋な恐怖に支配され、少女はただ涙を流すことしか出来ていなかった。

「く――――――そぉ」

少年は四肢に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。

歯を食いしばり、少年は少女の方へと駆ける。

このままでは二人とも死んでしまう。それを回避するためには、誰かが犠牲となるしかない。この絶望的な状況を乗り越えるには、もうそれしか残っていない。

(守ってみせる………たったひとりの、大切な妹の命くらい、僕にだって守れるはずだ!!)

精霊使いとしてはもう駄目かもしれない。だが、か弱い少女を守るぐらい、やってみせる!

具体的な策なんてないまま、少年は少女のもとへと駆けつけるとその細い体を抱きしめた。

全く同じタイミングで、漆黒の輝きが悪魔から放たれたことを少年の鋭敏な気配察知能力が感じ取った。

「――――――ッ!!」

この場を逃げる余裕すらない。ここで出来る精いっぱいは最早、力を込めれば砕け散ってしまう割れ物のような体を抱きしめたまま、悪魔を背にして蹲ることくらいだった。

自分一人の肉体など、あっさりと貫いてくるだろう威力の一撃を前に、こんなことは意味がないかもしれない。

だが、それでもこうする以外に方法などなかった。

「お、お兄ちゃ――――――」

虚ろな瞳のまま呆然と囁いてくる少女を抱きしめたまま、少年は瞳を閉じ―――――。


〈――――――たかが精霊如きに、我が化身・・の命はやらぬ〉


何処からか、低く、それでいて荘厳な気配を宿した声が響いてきたと思った刹那、少年の視界が真紅の輝きに埋め尽くされ―――――呆気なく、ぷつりと意識は途切れて消えた。

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