10
吹き荒れる風によって造られた半円状の壁に、雷の奔流が全てを喰らい尽くさんと押し寄せる。
目の前にあるのが半端な城壁など比べ物にならないほど遥かに頑丈な壁だと分かっていても、いつ食い破られるのかと考えてしまうほどに、その雷光は凄まじい勢いで叩きつけらていた。
大地は抉れ、廃墟群は軒並み倒壊。粉塵と瓦礫を撒き散らす。そんな現実離れした光景を、翠の壁に区切られた中から、アッシュは呆然と眺めていた。
「―――――ぐっ」
間隣りから聞こえてきたのは、苦しそうな呻き声。
驚いたアッシュが見たのは、僅かに顔を歪めるシルヴィアだ。
「これほど、とは――――――」
まるで、連続して叩きつけられる雷の奔流を風越しに受け止めることそれ自体が、彼女に大きな負担を強いているかのよう。いや、ようではなく、事実そうなのだろう。
周囲を覆う風の壁を維持すること自体が難しくなるほど、男の放った雷撃の威力が強力であることを示していた。
「だ、駄目だ。それ以上は―――――」
思わず言葉を投げかけてしまったアッシュに、シルヴィアは首を振った。
「この結界が消えてしまえば、私はともかく、普通の人間の貴方では耐えきれない。守るべき民である貴方を、ここで死なせるわけには―――――いきません……!」
両手を前に突きだす格好で顔を顰める彼女は僅かに歯を食いしばった。
「………やはり、下級の術式では、受け止めきれない」
蒼い視線が向けられる先。今も尚雷の奔流が叩き付けられている部分の風の結界に。
――――――ピシッ。
硬質な音を響かせて、縦方向に大きな亀裂がはしった。
パキパキと連続してその亀裂は広がっていく。縦横斜め、全方向に一斉に拡散するその綻びに。
「………致し方ありませんね」
ぽつりと、自分に言い聞かせるように呟いたシルヴィアは、目を閉じた。
「――――国内における下級以上の術式行使は、戦時特令以外では許可が下りませんが」
隣にいるアッシュでも聞こえないほどの小さな子でそう呟いたシルヴィアは、両手から力を抜き、だらりと下げた。
まるで、抵抗することを諦めたような動作をとった彼女に、違和感を覚えたアッシュだったが、しかし彼女が諦めたとは到底思えなかった。
「―――――任せましたよ、エリザベス」
彼女の体に纏われていた精霊力が、より力強く脈動するのを、真横に居たアッシュは誰よりも早く、敏感に感じ取った。
先の精霊術を行使する時よりも更に大きな力が彼女の元へ集っていくのが分かる。
シルヴィアの纏っている翠色の輝きがより色濃く、より眩いものへと変化し、天へと舞い上がるように沸き立つ。
鮮烈に輝く、青々しい若葉を思わせる翠の極光。生命を象徴する様な光の奔流、そのまぶしさにアッシュは目を細めた。
(すごい……こんな精霊力、いくら精霊使いだとしても――――)
彼女が今発している力は、ランスヴェール家で出会った精霊使い達と比べても、あまりにも卓越している。
いくら貴族位を授かっている精霊使いとはいえ、これほどの力の規模は見たことがない。
これほどの力の行使が可能なのだとしたら、それこそ、数多の精霊使い達の中でも最高位に近い能力、九大貴族にも匹敵する能力がなければ。
(彼女は、一体―――――)
「自由の王に願い奉る 嵐よ 境界となりて 全てを拒め――『疾風大壁』
彼女が告げた瞬間、二人の周囲を覆っていた風の壁の亀裂が淡い光を放ったと思った瞬間、より強い翠の輝きが駆け抜け、亀裂自体が洗い流されたかのように消え去っていく。
壁の全てに見たこともない複雑な幾学模様が浮かび上がり、嵐の壁が二人を中心に領域を拡大するように外側へと一気に拡散。荒れ狂うように叩きつけられていた雷の奔流を、いとも容易く蹴散らし、吹き飛ばした。
「うあっ――――――」
吹き荒れる嵐は外側だけにとどまらず、中心にいたアッシュたちにも襲い掛かった。
既に風の壁が消えていることは分かったが、あれだけ大規模な壁に使われていた風が、何事もなく一瞬で消えるわけもなく、当然といえば当然なのだが。
問題なのは、その風が人一人を吹き飛ばすことなど余りある力を、未だ持っていたこと。
「あっ―――――」
しまったという顔をしたシルヴィアだったが、既に時遅し。
何とか踏ん張ろうなどというものではない。人が抵抗できる範囲を遥かに超えた、竜巻にも等しい規模の突風がアッシュの体を持ち上げ、背後の廃墟の壁へと猛烈な勢いで叩き付けた。
「が――――――っ」
背中から体全体に伝わる衝撃に、アッシュは息が詰まる。
胸が痙攣するように震え、上手く空気を吸うことが出来ないまま。
(この子、無茶苦茶だ…………)
少年の名前を叫びながら、こちらへと走り寄ってくる白髪の少女を霞む視界で眺めた直後、アッシュの意識は暗転した。
吹き抜ける突風が頬を撫でる。
今日は少し風が強い?いや、そんなことはない。きっと、間違いなく、あの場所で解き放たれた巨大な力を秘めた精霊術が原因であろう。
「――――失敗だな、お前らしくもない。尻拭いをし損ねたか」
ぽつりとそう呟いたのは、鈍い輝きを放つ仮面を着けた男だった。
仮面の男が立っているのは、煉瓦造りの屋根の上。かなりの高度があるそこは、吹き抜ける風も相まって、一歩でも足を踏み外せば、転落を免れないような場所。しかし、男は体全体を揺らすような突風の中にあっても全く体幹を揺らさず、どこか威風堂々とした立ち姿で、ある一点を見つめていた。
「そりゃあねえよ、大将。俺だって出来ることはしたつもりなんだがなぁ」
仮面の男の真横に腰を降ろしたのは、隆々たる肉体を持った禿頭の男だった。
黒いローブをなびかせた男は、仮面の男が視線を向ける先を一瞥した。
「しっかしまあ、あの術者には驚いたなぁ。俺の一撃をどう受け止めるか少し気になってはいたんだが、まさか下級を超える上級の精霊術で、力づくで吹き飛ばすとは」
くつくつと含み嗤いをこぼす男は楽しそうに言った。
「大将、この国は確か、下級以上の術式行使は禁止っつう、糞面倒な法律がなかったか?」
「ああ。ジルヴェリアは法と秩序を維持することには異常なまでの意識を割いている。国を守護する精霊使い達ですら、建造物や国の行政に支障をきたしかねないという理由で、平時における一定以上の精霊術行使は禁じられている。それが許可されるのは、緊急時と王室が判断し、戦時特令という開放令を出した時のみだ」
「てこたあ、あの術者は法を堂々とぶっちぎりやがったってことか?案外破天荒なところもあるなぁ。あれだけの術者だ、間違いなく、貴族……それも、上位に位置する奴だろうに」
視線の先、崩れた廃屋の瓦礫の中に倒れこむ灰色の髪の少年を介抱する白髪の少女の姿を見下ろしながら、男は唇を持ちあげた。
しかし、仮面の男は何ら感情を示すことはなく。
「彼女は九大貴族の一角。お前の斬撃に耐えきるのもある意味当然のことだ」
「ああ!?九大貴族!?マジかよおい!」
驚愕の表情を浮かべた男は叫び、頭をガシガシと掻き毟った。
「クソ、さっき全力で殺しておくべきだったか?」
「いや、それは止めておいて正解だったろうな。お前と彼女が全力でぶつかり合えば、この周囲一帯は消し飛んでいただろう。そうなってしまえば、最早我らの実験どころではなくなってしまう。我らは戦争をしに来ているわけではないのだ、それを忘れるな」
へいへいと軽い返答を返す男を一顧だにすることなく、仮面の男は視線を上空へと持ちあげた。
「それに、彼女とて不用意に上級術式を使ったというわけでもない」
「あ?」
どういう意味だと視線で問いかけるも、しかしもうひとりの視線は相も変わらず上空にあった。
「結界だ」
「なに?」
禿頭の男が目を細め、同じように頭上を見上げる。しかし、広がっているのは空ばかり。
何の異常もないし、違和感を感じない。結界特有の空気が淀む感じもない。
いつもと同じ、雲一つない蒼空だけが広がっていた。
仮面の男は片腕を持ち上げると、何もないはずの空に向かって、人差し指を折り曲げて。
その折り曲げた指を弾くような動作をした。
直後、破砕。
仮面の男が指さきを向けた場所、何もないはずの空に、大穴が穿たれた。
見慣れた青空を背景に、突如として現れた真円状の穴はその向こう側に同じような青空を映している。いや、より正確に言えば、少し白みがかった空、というべきだろうか。
そこで、漸く禿頭の男も感づいた。
「空が、蒼すぎる」
穿たれた穴の向こうに見える空は、多くの雲が流れ、白く濁っている個所もあるのに対し、その周囲の空は雲一つない、完全なる晴天。雲一つ見当たらない、蒼一色に塗りつぶされた空だった。
そして、崩壊。
調和が崩れ去った積み木や端から崩れていくように、空を覆っていた蒼の帳も、大穴を中心に亀裂が入り、木端微塵に砕け散った。
音はない。無音のままに消えていくそれに、仮面の男は腕を下した。
「物理的な影響力はない。恐らくは精霊力の流れのみを遮断する結界だろう」
「……けっ、俺に欠片ほども気づかせることなく、こんだけ大規模な結界を張れる奴がいるとはなぁ……おもしれえじゃねえか」
仮面の男は獰猛な笑みを浮かべるもう一人を見下ろし、告げる。
「結界の主のことを鑑みれば、お前が気づけなかったのも当然だろう」
「………まさか、大将が言ってた奴か」
「九大貴族の第三位。この国を代表する強大な術者だ。彼女が相手では、少々分が悪い。この国最高の氷使いと称されているのみならず、『古代級』の精霊とも契約を交わしていると聞く」
「へっ、おもしれえじゃねえかよ。想定よりも随分と早く接点が持てて助かるぜ。俺が直接――」
「――――いや、お前が相手をすることはない。その場合は俺が相手をする。お前に別件で動いてもらわねばならないからな。それよりも―――――そこに転がっているモノはなんだ」
仮面の男の視線の先には、両手を縄で縛られた空色の髪の少女の姿。
戦いの機会を素気無く奪われたことに眉を吊り上げた男は、打って変わって目を見開く。
「……ああ、大事なことを言い忘れてた。こいつぁ、『基点』だよ、大将」
「――――――なに?」
僅かに固まった仮面の男に、禿頭の男はニヤリと笑う。
その顔が見たかったとばかりに、両手を広げた。
「『反転結晶』の適合者だよ。偶然に、という言葉は付け加えねえといけないけどなぁ」
「驚いたな。アレを受け入れることが出来る者がいようとは。見たところ、精霊使いではないようだが」
「ああ。この小娘は、負の感情のみで結晶を受け入れた。素質も何もねえが、それだけに面白い素材だと思うんだよなぁ、俺としては」
仮面の男は暫し考えるような仕草をした。
彼が何を考えているのかは分からない。だが、もう一押しだとばかりに言葉を重ねた。
「なあ大将。俺は此奴を『基点』として使いてえんだ。どの道、ド派手に暴走させるつもりだったんだろ?それよりは、制御しやすくて良いと思うんだけどよ」
「………確かに、お前の考えにも一理はある。だが、問題点もある。この娘の肉体が、果たして『基点』としてどこまで耐えられるのかということだ。我らの御使いたる―――『反転精霊』の母体としてな」
仮面の男は倒れ伏す娘を見下ろし、そっと手をかざす。
頭部から胸部、腹部から足元へと、まるで何かを探るように手をかざしていた男だが、ふっと息を吐いた。
「……だが、面白い。この娘に適合した結晶体、驚くほど根が馴染んでいる。精霊使いではないというのに、興味深いことだ」
「だろう?俺も、結晶体を埋め込もうとした時点で、拒絶反応が出て廃人になる可能性も考慮してたんだが、この娘の体は拒むどころか、あっさりと受け入れやがった」
その言葉決定打になったのか。仮面の男はひとつ頷く。
「良いだろう。元より、是はお前が造った『基点』だ。そこに関しては俺がとやかく言うつもりはない――――だが、この娘を利用するにあたって、またお前は厄介事をひとつ背負いこんだな」
「………なんのことだ?」
「シラを切るつもりか。あの少年のことだ」
その言葉に、男は目を見開いた。
予想外だった。まさか、そっちの方にも意識を割いていたのか。
あの灰色の少年と出会ったのは、この少女と偶然に出会ったのが切欠だ。まさかそこまでは知られてはいないだろうと思っていたのに。
「……見てたのかよ、大将」
当然だ、と呟いた仮面の男は視線を廃墟区域の方へと移す。
そこで今も少女に介抱されている灰色の髪の少年を静かに見下ろし。
「――――彼には極力手を出すな」
だから、密かに自分が楽しみにしていたとっておきを潰されたことに、目を見開いて硬直し。
「………何、言ってんだ、大将?冗談だよな、そりゃあ」
信じられないとばかりに顔を歪めた。
「冗談ではない。その娘を『基点』として使用する代わりに、俺が提示する唯一の条件だ」
「………理由は、あるんだよな」
禿頭の男が浮かべる鋭い視線。常人であれば恐怖のあまり崩れ落ちてしまうほどの圧が込められたそれを、仮面の男は微風のように受け流し、告げた。
「――――教主よりの命だ」
最初はその言葉を理解することが出来なかった。
あまりに大きすぎるその衝撃が徐々に読み込めていくに従って、禿頭の男は驚愕し、口元を引きつらせた。
その言葉の真の意味を、理解してしまったが故に。
「馬鹿な。あの小僧が………?」
「ああ。それにこれは、この国で活動するにあたり、前もって交わされていた盟約のひとつでもある」
男は沈黙し、その言葉を聞いていた。
何らかの葛藤の表れなのか。その瞳は揺れていたが、観念したように瞼を降ろし、舌打ちをひとつ。
「………教主様の命じゃ仕方ねえ、か。だが、なんで教主様があの小僧を。大将もあの小僧の素性ぐらいはもう分かってるはずだろ」
「彼の境遇は理解している。前回の実験に立ち会ったひとりであることも。だが、それとこれとは無関係だ。我らは命を遂行する、ただそれだけの為に存在している。余計な思考は必要ない」
「――――――ちっ」
舌打ちをした禿頭の男から、仮面の男は眼下へと視線を移す。
ジルヴェリア王国の街並みを睥睨する彼の眼差しが如何様なものなのかは、仮面越しで見ることは出来ない。
眼下で笑う人々を。明るい賑わいに満ちた王都の広がりを。そして、それらの遥か彼方に聳え立つ、国の中心たる真白き城を。その全てを視界におさめた男は、さあ、と仮面の奥の眼を見開いた。
「――――これより、実験を開始する」
――――――――。
声が、聞こえた。
――――――さん。
聞き覚えのある、声だ。
ごく最近、聞いた声。純白の髪に、蒼い瞳を持つ少女。
現実離れした、幻想的な雰囲気を纏う彼女の声に、間違いない。
――――――だけど。
何故だろう、この声を聞くたびに、酷く、懐かしい感じがするのは。
―――アッシュさん。
間違いない。
どうして、今まで気づかなかったんだろう。
僕はこの声を――――今よりもずっと前に、聞いたことがある気がする。
――――アッシュさん。起きてください。
けど。
前って一体、どれくらい前だっけ。
…………嗚呼。駄目だ、思い出せないや。
水の底へと沈んでいくような、現実感のない夢うつつの中で、そんな脈絡のないことを思う。
どうしてそんなことを思ったのか、もう分からない。
ただ、直に目が覚めるのだろうということだけは、すぐに分かった。
水中から勢いよく引き上げられたかのように、意識が一気に浮上する。
そして―――――――。
「…………あ」
ぼんやりと揺らぐ視界の中で見えたのは、白髪蒼眼の少女――シルヴィアの顔だった。
こちらを見下ろし、目が覚めたことに驚いているのか、大きく目を見開いている彼女は、ほっと安堵するような表情を浮かべた。
「……良かった。目が覚めたのですね」」
どうして真上に彼女の顔があるのか。それを考えてみてやっと、アッシュは自身の頭がシルヴィアの膝の上にあることに気づいた。
えっと、これは。
どうして僕は、彼女に膝枕なんてしてもらっているんだろう。
「すいません。貴方が気絶したのは、私の所為なのです」
彼女の言葉によれば、どうやらあの時、精霊術の余波に煽られて、壁に叩きつけられたことで全身を強く打ってしまったらしい。思い返してみれば、確かに、後頭部に激しい痛みを感じたような。
「一応、私の方で外傷の確認はさせてもらいましたが、どこか痛むところはありませんか」
「いえ、別にどこも――――」
年の近い少女に膝枕をされる、そのことに若干の恥ずかしさを感じたアッシュは、そそくさと体を起こすと、さりげなく彼女から距離をとった。
そこでやっと、自分の居る場所が先ほどの廃墟区域でないことに気づき、周囲を見渡した。
「ここは……」
「申し訳ないとは思ったのですが、貴方が気を失っている間に、貴方の体を運ばせていただきました。ここは、馬車の荷台の中ですよ」
木製の荷台。隅に置かれている小さな木箱が、ガタガタと小さく揺れている。
「この振動……移動、しているんですか」
「はい。あのまま同じ場所に留まっているのは、あまり得策とはいえませんでしたから」
どうやら、乗っている馬車は移動しているらしい。だけど。
「あの、一体どこに向かって―――――」
「我が主の所まで、ですよ」
「っ!」
シルヴィアではない。突然聞こえてきた第三者の声。見ると、開かれたカーテンと、その先に座って手綱を握る御者の姿があった。
黒塗りの執事服を着込んだ男性の後ろ姿に、アッシュは目を見開いた。
彼の姿には見覚えがあった。
確か。
「貴方は……あの時の」
カプリコルで発生した事件の時、突然現れた人物。
確か、セバスと呼ばれていた男性だ。
「はい。こうして御目にかかるのは二度目ですが、お言葉を交わすのは今回が初めてで御座いますね」
どうして、この人が。というより、何故彼が御者をしている馬車に乗っているんだ。
今の状況に全く思考が追いついていないアッシュに対して、シルヴィアは彼に向けて軽く頭を下げた。
「……セバスさん、ありがとうございました。あのままあそこに留まっていたら、どのような騒ぎを呼んだか」
「いえ、これも主の命、お気になさる必要はございません。それに此度の一件、相手も相手ですから。黒の旅団、よもや貴女様が手傷を負わされる程とは、想像すらしていませんでした」
彼の視線の先はシルヴィアの二の腕。衣服が切り裂かれ、真っ赤に染まっていた。
既に止血と応急処置は終わっているのだろう。血が止まっているのと、白地の包帯が巻かれているのが切り裂かれた衣服の上から窺えた。
「……私の想像を遥かに超えた威力でしたから。あれほどの力、ただの精霊器ではありえない。恐らく上位、もしくは最上位に近しい“名持ち”だったのかもしれません」
二の腕をそっと撫でた彼女は、ため息をこぼした。
「とにかく、今一度礼を。本当に助かりました」
「……ふふ、困りました。この様なことで礼を言われてしまっては、シルヴィア様に申し訳が立ちませんね」
シルヴィアの礼に黒執事は背後を一瞥し、薄く微笑んだ。
彼のかける片眼鏡がキラリと光る。
「こちらとしては、とても良いものを見せて頂いたところですから」
「――――?」
眉を顰めた彼女に黒執事は笑みを湛えたままで言った。
「この国“最高傑作”と謳われるシルヴィア様の本気の術式など、滅多なことでは目に出来ませんから。必要と判断すれば、即座に介入するつもりでしたが、シルヴィア様であれば問題なしと、判断しました」
それって、つまり。
アッシュが彼の言葉の意味を反芻していると、先ほどまでとは打って変わって、シルヴィアの声が若干低いものへと変化した。
「………成程。貴方もあの場にいたと、そういうことですか」
背筋に悪寒がはしるような、シルヴィアの冷たい視線を向けられても、彼は微笑んだままだった。
「一体、いつから」
「初めから」
セバスの視線がアッシュへと移る。
「アッシュ様が戦い始めた時からです。とても見事な体捌きでした。このセバス、感服いたしました」
………僕の戦いまで、見られていたのか。
あの時、僕は全力で戦った。それこそ、自分自身の立場を取り繕うことができないくらいに。
だけど、この人の表情は何も変わらない。この場車で顔を合わせた時から浮かべている笑みのまま。少なくとも、僕が城下街の人間だということは知っているはずなのに。
この人にとってはどうでも良いということなのか。
それとも――――。
「では、やはりあの場に結界を張ったのは」
「はい。僭越だということは分かっていたのですが、主より授かった命を遂行するためには、あの場の出来事を万に一つも、周囲の人間に気づかせるわけにはいきませんでしたから」
「……そうですか。精霊力を遮断する結界をあれほどの広範囲に展開させるとは。相変わらず、大した力ですね」
「いえいえ、私の力など。我が主やシルヴィア様に比べれば、小手先の技術ですよ。それに、精霊力自体は、主のものを使用しましたから、大したことではありません」
御世辞なのか、本当にそう思っての言葉なのか、はっきりとしない曖昧な彼にシルヴィアは呆れたように目を細めた。
「貴方に舌戦で敵うわけもありませんか。そういうところは、主従そっくりですね」
「お褒め頂き光栄です」
「別に誉めたつもりはありませんが………。いえ、話しを戻しましょう」
彼女はアッシュへと視線を戻す。
「アッシュさん、この場車は今、ある場所へと向かっています」
「ある場所?」
「はい。此度の一件。私たちが遭遇したあの男のこと。そしてその過程に至るまでを、全て証言していただく必要が出てきたからです」
ハッキリとした言葉とは裏腹に、彼女の表情は曇ったまま変わらない。
なんだろう。
シルヴィアの表情に若干の違和感を覚えたアッシュが首を傾げるよりも早く、彼女は告げた。
「―――――貴族街」
「っ!」
驚きに目を見開いたアッシュに、彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。
「申し訳ありません。巻き込まれただけの貴方を連れていくことは私としても不本意ではないのですが、それが許される場合ではなくなってしまいました」
貴族街……か。
彼女の言葉で感じた衝撃を抑えようと、アッシュは胸に手を当てた。
爵位を授かった貴族、もしくは精霊使いしか立ち入ることの許されない場所。そして、3年前まで、アッシュが暮らしていた場所。
だけど、今は違う。今のアッシュはただの平民。間違っても、城下街の人間が入ることが出来るような所じゃない。
「貴族街に同じく此度の黒の旅団の一件を調査してくれている私の仲間がいます。彼女に事情を説明するために、当事者である貴方にも、来て頂きたかったのです」
「………でも、僕は」
「貴方の立場は理解しています。心配ありません。貴族街への越境行為に関しては、私たちが保証人として貴方の保護を行います。ですから、今回に限っては何も心配いりません」
「そう、ですか」
胸がざわつく。
まさか、こんな理由で戻ってくることになるなんて。考えてもみなかった。
全てはシルフィーを助け出す為にと行動した結果が、まさか、かつての古巣に戻ってくることだなんて。
と、その時、今まで感じていた揺れが止まったのが分かった。
「―――――大障壁ですね」
シルヴィアの言葉通り、城下街と貴族街の境目に到着したのだろう。
荷台のカーテンが、中を覗かせないとばかりにサッと締め切られる。御者のセバスが誰かと話しているような声が聞こえてきた。
「……アッシュさん」
二人きりの荷台の中で、シルヴィアが静かに呟いた。
「あそこで、貴方が見せたあの動き」
………やっぱり、彼女にも見られていたのか。
でも、考えてみれば無理もない。共に行動していた以上、見られるという可能性は避けられないものだった。
ランスヴェール家で鍛えあげられた体術技。長年に渉って、日々繰り返し肉体に刻みこまれた体捌きは、たかが3年程度、実践から遠のいた程度で消え去ってしまう物じゃない。
今までは、ふとした時、反射的に出そうになるその身体能力を、アッシュは隠し隠しやってきた。
だけど、あの時ばかりは抑えることなんて出来なかった。シルフィーを害されたことが分かった時にはもう、全力で一歩を踏み出していた。
気がつけば城下街で行き倒れていたアッシュにとっては、記憶すら曖昧である以上、あの体術だけが、かつてランスヴェール家の一員だった頃の名残であり証のようなもの。
「貴方のあの動き、アレはどこかで習ったモノなのですか?」
「………」
言えない。言えるわけがない。例えこの人がシルフィーを助け出す為に協力してくれている恩人だとしても、過去を公にするわけにはいかない。
九大貴族ランスヴェール家。この国における最高位、数多の精霊使いを輩出してきた名家。その名が、到底軽いものでないことは最早言うもまでもない。
もし口にしてしまえば、どの様な騒ぎになるか分かったものじゃない。
(それに)
あの男は言っていた。あの黒い精霊は、自分たちが与えた力だと。それはつまり、ランスヴェール家と黒の旅団が繋がっていることに他ならない。
最高権威の一角が、世界中で指名手配されている犯罪者集団と関係を持っているなんてことが明らかになれば、取り返しのつかないことになる。
それならばいっそ、全てを隠し去ってしまった方が良いのかもしれないとすら、今は思う。
知っていたのであろう義理の父は、あの時にはもう。
幸い、このことを知っているのは、恐らく僕だけ。
「―――――言えませんか」
黙秘をつづけるアッシュにシルヴィアは目を閉じた。
二人の間を沈黙が包む。
ガタンという小石で跳ねるような大きな振動を感じてやっと、とっくに馬車が動きだしていたことに気づいた。
いつの間に大障壁を超えたのかすら、アッシュには実感できなかった。
「………構いません」
「えっ……」
「貴方の素性は、正直とても気になる所です。ですが、今は――――――」
彼女の言葉はそこまでだった。
その先は一言も口を開くことはなく、沈黙するだけだった。
シルヴィアが何を考えているのか、アッシュにはわからなかった。
城下街に住む平凡な少年。それがいきなりあり得ない動きを目の前で見せた。
疑って当然。ましてや、精霊使いであるのなら、少年の素性を探るのは当然だろうに。
どうしてこの人は、何も聞いてこないんだろう。何ならいっそ、貴族として命じれば、平民であるアッシュには断ることすら出来なくすることも可能なのに。
「—————————到着いたしました」
セバスの声が、カーテンの向こうから聞こえてきた。
馬車はもう止まっていた。どれだけ走ったのかは、全く見当がつかない。周囲のことが気にならなくなるほどに、深く考え込んでいたのか。
「………アッシュさん」
びくりと、体が跳ねた。
「………これだけは、覚えておいてください。貴方が何者であろうと、今の貴方は私が守るべき民であることに変わりはない。私は、いえ、私たちは、貴方の敵ではないということを」
今は、それだけです。
そう言って立ち上がった彼女を、アッシュは茫然と見上げた。
そのとき、荷台の扉が開かれる
日の光が荷台の中に差し込む。その眩しさで若干視界がくらむ。
「お降りください。ここから先は、少々歩かざるを得ませんので」
開かれた扉、その脇に立つセバスは薄く微笑んだまま、片手を外側へとそっと向けた。
「行きましょう、アッシュさん」
シルヴィアの言葉に従って、アッシュもまた、荷台から降り――――そして。
驚愕に、目を見開いた。
目の前に聳え立つ、巨大な屋敷の姿がそこにはあった。白亜の屋敷の周囲には、翠と白が基調の、無数の花々が咲き誇り、見たこともない蝶たちが優雅に舞う。
さっき見た先頭の記憶が吹き飛んでしまうような、あり得ない光景に、アッシュは立ち尽くした。
「参りましょう。我が主が、御二方をお呼びです」
黒執事が歩き出す。そのあとに続くシルヴィアの歩みにも、淀みはない。
だけど、アッシュの足は凍り付いたように止まったまま。どうしやっても、足が動くことを拒否しているみたいに、動かない。
「あの、紋は――――――」
アッシュの視線は、前方にある両開き式の扉。そこに描かれたある家紋に向けられていた。
天に向けて吠える巨狼。その文様には、見覚えがある。
この国で、間違いなくたったひとつしかない、ある家柄を指し示す象徴ともいえるもの。
いや、だけど、そんな。だとしたら、ありえない。
「アッシュさん、どうかしましたか?」
「あ―――――いや、これは」
彼女は、気づいていない?いや、そんなことはないだろう。知っている。だけど、知っていても、彼女にとってはそんなことは、些細な問題だということか?
まずい。これは、踏み入れてはいけない場所に、来てしまっている。少なくとも、僕が来てはいけなかった場所だ。
「アッシュさん?」
だけど、ここで引き返すのはもっと駄目だ。ましてや、ここは間違いなく貴族街の中。
どうも見た限り、周囲は壁に覆われていて、景色を見ることは出来ないが、間違いなく、ここは大障壁を超えた先に広がる、特権階級者たちの住まう世界。この屋敷を飛び出したところで、アッシュが踏み入れていい場所などない。
ある意味、この場所だけが、今のアッシュに足をつけることを許された唯一の安全地帯。
………。
ゆっくりと、一歩、また一歩と歩を進める。
何とか二人に追いついたアッシュは深呼吸をひとつ。距離は大したことないというのに、すでに背中は汗だくだ。全部冷や汗なのは、間違いない。
たどり着いた扉を前に、セバスは軽く扉をたたく。すると、わずかな間も置かず、ゆっくりと、重低音を響かせて、扉がアッシュたちを招き入れるように開き始める。
『――――――――おかえりなさいませ、セバス様。ようこそいらっしゃいました、お客様』
扉の向こう。深紅の絨毯が敷かれた広間、その左右を、こちらに向けて頭を下げる無数の執事とメイドたちの姿があった。
頭を深く下げる彼らの間を三人は進んでいく。
どこをどう進んだか分からない迷路のような通路を進んでいき、やがてひとつの扉の前にたどり着いた。
先導するセバスがここへきてようやく振りかえる。
「この先に、我が主がおられます」
扉の取っ手を、彼は数度叩きつけた。
『どうぞ』
聞こえてきた声に従って、開け放たれた扉の先は豪華絢爛な一室。赤と金が基調の一室のその最奥。黄金のシャンデリアと真紅の絨毯に満たされたその場所に、座るのは一人の女性。
「ようこそ、二人とも。随分と大変な戦いだったみたいね」
金色の髪に碧眼の瞳を持つ女性が、両肘をついて椅子に腰かけ、こちらへ微笑んでいた。




