逃亡の話、してもいいかな……
ここ数日の生あたたかく湿った大気のせいなのか、それとも年齢のせいなのか、このところ過去を回想することが多くなった。
それは、私がまだ二十代半ばだったころの話である。
今後の行く末を期待するでもなく杞憂するでもない、ただ毎日 生きていることが新鮮に思われていた年頃であった。
当時働いていた中小企業の工場では、いつも年度末になると極端に忙しくなり、時には月の残業が100時間を超えることもあった。だが、それなりにやりがいもあり、職場の雰囲気も良かったので、忙しいことは全然苦では無かった。
しかし、程なくしてこの工場を辞めることにした。
理由は、労働組合が結成され私はその中心に巻き込まれて、消耗しきってしまったからである。
そもそも、私という人間は、何かの組織に縛られるのが嫌いである。一言で括ると、会社という組織に仕方なく属しているのに、更に労働組合という反対勢力に縛られもっともらしいことを言うのは肌に合わないのだ。
真っ平ごめん、とばかりに逃亡を企てることにした。
片岡義男という作家がいる。
1970~80年代、トレンディ小説として流行の先端にいた人だ。
氏のエッセィか何かで「7月のある日、会社を辞めようと決める。辞表を出した後、そのまま海を見に行った」というくだりがある。妙にそれが私にはかっこよく感じられた。そして氏は「気まぐれ飛行船」という、深夜放送番組のパーソナリティーもやっていた。リスナーからの悩み事の手紙などに対し、淡々と語っていたように記憶している。
実のところ、私は当時いた工場を辞めるにあたり、仕事仲間に対して「裏切り者」となってしまうことで、暫くはウジウジと悩んでいたのである。
しかし片岡義男氏のドライな空気感に触発され、それを払拭することが出来た。
そして、私は逃亡を企てた。
「そうだ、スペインに行こう」