どうしようもない幼馴染の話 前編
『…ぃ!イー………おい!』
朝、目が覚めて。
『イーク!』
大切な人の顔を見られる幸せが、どれだけ私を支えていたことだろう。
『…悪い夢でも見たのか?』
伏せた瞼の裏に浮かべることは、こんなにも容易くできるというのに。
その温もりを得ることは、こんなにも。
「………大丈夫だよ、ルー」
“大丈夫”と、繰り返した。
*
さぁ、と吹いた風に、結いていない金の髪がふわりと靡く。
陽に透ける髪越しにどこか懐かしい街並みを眺めながら、私は片側の髪を耳にかけて風に攫われないよう押さえた。
同時にもう片方の手に下げている荷物も持ち直して、晴れ渡った青空を見上げる。
抑えきれない喜びが、今この時、全身から溢れているような気さえした。
「長かったなぁ」
自然と呟いた言葉とともに、吐かれた息が白く染まる。
寒さに身を震わせて歩き出せば、見覚えのある景色に見覚えのある顔が、そこかしこに並んで、行き交って、在る。
その中に会いたい人は、いなかったけれど。
「ただいま」
小さくそんな言葉を零しながら長く空けていた家に入れば、当然床には埃が積もっていて、思わず何度か咳き込んだ。
しかし一歩進んでみれば、なぜか玄関の周りだけ埃が少ないと感じて、首を傾ぐ。
次いでまさかと視線を向けた先には壁があるのみだったけれど、その向こうにきっと今も住んでいる彼の存在を感じた気がした。
「心配、させちゃったかな」
囁くように言って、苦く笑った後、慣れたように家を歩き回る。
街を出たときと、埃が積もっていること以外に変わりはない、私の、家だ。
いつも遠征から帰ってくるときに感じる思いが、私の胸を強く締めつけて。
「…さ、早めに整理しちゃおう」
誤魔化すように両手で頬を叩いた。
小気味の良い音が部屋に響くのに遅れて、じんわりと頬が熱を持つ。
強く叩きすぎて僅かに痛いそこを両手で押さえ、涙目になりつつもどれから手をつけようかと辺りを見渡したのだった。
*
段々と暑くなってきた頃、私は一ヶ月を予定した少し長い遠征へと赴いた。
初めて行く場所だった。
たまに遠征先で会うことのある同業者と予定を立てて、同じ場所を調査するつもりで、私は故郷を出た。
*
翌朝、私は彼に会いに行くことにした。
歩いて一分もかからない彼の家の前で一度立ち止まり、心の準備をするために深呼吸をする。
白い息が空気に溶けて消えるのを数秒、眺めていた。
それから彼がまだ出掛けていないことを祈りながら呼び鈴を鳴らそうと片手を上げたとき、扉の向こう側から、ガチャリ、と、音が、して。
扉が、やけにゆっくりと、開いて見えた。
「………イー、ク?」
懐かしいような、愛おしいような、苦しいような、とにかく沢山の感情が、溢れる。
その姿を見るだけで、声を聞くだけで、きゅー、を通り越して、ぎゅー、っと、胸が締めつけられるような、感覚。
「ルー」
さらりと大好きな金色が風に揺れて、似た色の焦がれた双眸に見つめられる。
思わず照れてしまって軽く笑いながら、それでも視線だけは逸らさないで、私はいつもみたいに彼を見上げた。
「お、ま」
信じられないと言うような、驚いた顔だった。
私は何を言うべきか少し迷って、結局、私と彼の間にある確かな現実を口にする。
「ちょっと、髪、伸びたね?」
直後、伸びてきた腕の中に掻き抱かれた。
近くに感じる息遣い。
強い圧迫に、心臓ごと掴まれたような気がした。
「イーク…!お前っ、ずっと、どこに!」
今にも血を吐きそうな、声だった。
苦しいどころか痛いほどに抱きしめられる。
抱きしめ返すことすら、許してはもらえそうになかった。
「…ごめん、ね?すぐに、帰ってこれなくて」
できるだけいつも通りの調子で返事をした。
同時にもぞもぞと腕を動かして、どうにか彼の背中に腕を回す。
「っ、一ヶ月だって、言ってただろうが!それがどうして、半年もっ!」
声を出さずにごめんね、とまた唇を動かすと、私は眉を下げて困ったように笑った。
「………私も、定期的には無理でも、せめて一回くらい戻ってきたかったんだけどね。ダメだったの…で、でもね、もう何も言わずにいなくなったりしないから!心配かけて本当にごめんね!」
ぎゅっと腕に力を込めれば、彼は一瞬私の息が止まるほどの力で私の体を抱きしめた。
それから一歩距離を取ると、伸びた後ろ髪を揺らしてどこかぶっきらぼうに呟く。
「悪ぃ、取り乱して。本当にもう何も言わずにいなくなったりしないんだな?」
慌てて、うん、と念を押してくる彼を安心させるために頷けば、とりあえずそれで納得してくれたようで、彼は大きくため息を吐きながら私の頭に手を置いて。
「お前も髪、伸びたな」
笑ってみせた。
ほんの一瞬、そこに複雑な感情が確かに覗いて見えたのに、彼はすぐにそれを隠してしまう。
彼が何を思っているのか、長く幼馴染をしていても、私にはわからないことのほうが多いけれど、それを寂しいと強く感じたことはなかった。
仕方のないことだと、私と彼は違うのだからと、いつだって内心を上手く隠して誤魔化してしまう彼に諦めていたのに。
「…うん」
彼の言う通り、私の髪はこの半年間ずっと切っていないから、もう随分と伸びて、今では前髪が目元を完全に隠すほどにある。
一応見た感じ彼も半年前と比べて後ろ髪が結構伸びているから、後ろ髪は切らずに伸ばしていたのだろうと察するけれど、それに対して前髪が切られてるのは、きっと邪魔だからなんだろうなと、少し考えた。
そもそもなぜ、後ろ髪を切らずにいたのかはわからないけれど。
だから、そんな。
私と彼の間に生まれてしまった乖離を、この半年間を、只管に、惜しいと思う。
私が彼と過ごせたはずの時間が、季節が、思い出が、なくなってしまったことが、寂しくて仕方がなかった。
「じゃあ、俺は教会に行くけど。イークも来るか?」
頭に置かれていた彼の手が私の頭をぽんぽんと撫でて離れるのを眺めながら、ゆっくりと首を振る。
見上げた彼は相変わらず何を考えているか読めなくて、私は胸中の寂しさを誤魔化すように笑った。
「まだ帰ってきたばかりだから、荷物の整理をしなくちゃいけないの」
そうして私の態度と言葉で重ねられた否定の返事を一言、そうか、で受け取ると、彼は家の鍵を施錠して私に背を向けた。
「じゃ、またな」
彼の手がひらりと揺れる。
「うん、またね」
それは、いつも通りのやり取りだった。
けれどそこで彼は一度足を止めて立ち止まり、なんてことのないような態度で振り返る。
「忘れてた」
私が首を傾げて前髪越しに金の双眸を見返せば、全く変わりのない態度で彼は言う。
「おかえり、イーク」
――いつも通りの、やり取りだった。
*
彼と半年ぶりの再会を果たしてから、早くも一週間が経っていた。
その日は前日からよく冷える日で、それの前兆は確かにあったんだと思う。
何の気なしに外に出れば、はらはらと冬の花が見慣れた街に降っていて、白い息が溶けて消えた。
ああ、冬だと。
否応なしに時の流れを感じた。
「………一週間、か」
そっと、吐く息と共にそう零す。
毎年来月の中旬前後に降り出す雪が、何の悪戯か例年よりも早く降り出したようで。
もしも彼の言う神が、主がおられるのなら、きっとこれは祝福なのだろうと、詮無いことを考える。
「イーク?」
無意識に声のしたほうに視線を滑らせれば、舞い散る白の向こうに金が見えた。
ああ、彼だと、思う。
「おはよう、ルー」
喜びを隠しきれずに、ふわりと微笑んだ。
出掛ける前に、あわよくば会えたらなんて考えた私の願いは、どうやら叶ったらしい。
「ああ、おはよう」
変わりなく挨拶を返してくれる彼に、ふと、ある考えが浮かび上がる。
――一週間なら、いいよね?
「ねぇ、ルー」
半年前に街を出るまで、よく彼に甘えて許してもらっていたこと。
この一週間、街に戻ってきてからは一切しなかったこと。
「なんだ?」
どうかまた、仕方がないなと言いたげな雰囲気で許してほしい。
「今日、一緒に寝てもいいかな?」
金の瞳がよく見えた。
次いで、何かを言いかけるように唇を開いて、閉じる。
「…変わんねーな」
どこか安心したような、力が抜けた笑みだった。
思わず奥歯を噛みしめる。
全く違和感を与えずに過ごすことは元々不可能だとは思っていた。
けれど彼に言われた瞬間、この半年という月日の長さを、振り返ってしまった。
きっと彼の記憶にある私と、今の私は、少し違うのだろう。
ああ、やっぱり、長い。
「だ、ダメならいいよ」
許されたも同然の空気に臆して、思わず前なら言わなかった言葉を口にする。
「いや、別に構わねーよ」
そして彼も、前とは違う言葉を口にした。
「…いいの?」
前はこんなにすんなりと頷いたりしなかったのにと、目を丸くして彼を見上げる。
「いいって言ってんだからいいんだよ。ほら、どうせ遠征から帰ってきたら暫く休みなんだろ?今日も暇なら教会に顔見せに来い」
ぽん、と頭を撫でられて、一瞬見えないように顔を顰めた。
溢れてくる感情を耐えるように、抑えきれなかった感情を隠すように、強く瞼を閉じる。
「…うん、行く」
どうやら半年という期間は、私だけでなく彼にも、多少の変化を齎したようだった。
私は頭の上にあった彼の手が離れると同時に、いつもと変わらない笑顔を浮かべて頷いて。
「よし、じゃあ行くぞ」
そこでふと、考える。
相変わらず優しい彼にとって、私はどの位置にいるのだろうと。
一番高くに置いてほしいと思っていた時期が、遠いように感じた。
今だってそう思わずにはいられないほど、こんなにも、想っているのに。
「うん!」
神父である彼の勤める教会に、二人で並び歩いて向かう。
ただそれだけの行動が、ひどく懐かしくて、暖かかった。
教会の人とは一週間のうちに顔を合わせていたから、特に大きな反応はされずに済んだ。
最初に顔を見せたときの反応と比べれば、今はもう、たまに懐かしげに目を細める人や安心したようにこちらを見る人がいるくらいで、穏やかなものだった。
しかもその人達はみんな私が教会へ来るときに挨拶なりを交わしていた相手だったから、如何に私が彼に会いたいがために教会へ通って、結果知り合いを作っていたかがよくわかった。
勿論、不穏な視線が一切なかったわけではないけれど、それは半年前からずっとそうだから、気にする必要もないと無視をする。
それから彼より先に教会を出た私は、着替えを取りに自宅へ寄った後、久しぶりに彼の家に合鍵を使って入った。
覚えのある空気に包まれて、不覚にも泣きそうになる。
「変わってないなぁ」
ぐるりと見渡して、半年前と大差ない彼の家を進んだ。
多少は冬仕様に変わっているが、部屋の間取りも、家具の配置も、コーヒー豆の位置だって、前に来るまでと変わっていない。
「…えいっ」
僅かに逡巡して、思い切ったようにきちんと整えられた彼のベッドに飛び込んだ。
冷たいはずのシーツがどこか温かく感じて、それが昂る感情に上昇した自身の体温のせいだと気づく。
ここで、私はよく眠っていた。
いっそ自分の部屋よりもずっと、安心して眠れる場所だった。
またここで眠ることのできる喜びと、いくらでも思い返せる彼との思い出が溢れてくる。
「…るー」
内緒話をするみたいに、そっと、囁いた。
小さな声は部屋に響く前に枕に吸い込まれて消えて、私の意識は睡魔に襲われる。
僅かな不安が、ここにいるだけで溶けていくような気がした。
「ルー」
ベッドの右側で丸くなって目を閉じる。
そうすれば抗いがたい眠気に逆らう気のない意識はゆっくりと、ゆっくりと落ちていって。
完全に落ちきる直前、瞼の裏に、金が揺れた。
*
「…ーク。イーク。起きろ、イーク」
どこか浅い所を揺蕩っていた意識が引き戻されて、ハッと目を開ける。
目の前には教会から帰ってきたばかりのような神父服を着た彼の姿があって。
「ルー?」
反射で名前を呼べば、彼は片手をベッドについて言う。
「寝るなら着替えてから寝ろ。あと、布団もちゃんとかぶれ。飯は食ったか?お腹は空いてないか?」
なんて、ぶっきらぼうに。
まるでいつもと変わらない調子でそう聞いてくるものだから、私は思わず困ったように眉を下げて笑った。
「ご飯は、大丈夫。お腹は空いてないよ」
世話焼きな幼馴染の質問に順番に返していく。
彼は納得したようにそうか、と頷くと、着替えるためにか枕の横に置いていたらしい服を持って部屋を出ようとして、一度立ち止まった。
「お前も寝るなら着替えておけよ。何か食べたかったら勝手に食べていい。俺は疲れたから早めに寝る」
そうして金の瞳は逸らされ、彼は私に見つめられたまま部屋を出る。
「…ルーが寝るなら、私も寝よう」
ぼんやりと、呟いた。
それからいそいそとベッドを出て、彼が戻ってくる前にと手早く服を取り出して着替えてしまう。
また元の位置に今度は布団をかぶって潜り込めば、一度は霧散したはずの眠気がやってきて。
「イーク」
ちょうど戻ってきたらしい彼の声が届いた。
「なぁに?ちゃんと着替えたよ」
袖を握った手だけを布団から出して振ってみせる。
長い袖の生地が揺れた。
「…お前も寝るのか」
どこか呆れたような、諦めたような、逆に安心したような、声だった。
軽く体を起こして彼の顔を見てみても、ただ無表情なだけでその心情は図りきれない。
「ダメ?」
困ったように目を伏せて笑えば、彼はこちらに近づきながら答える。
「別に、ダメじゃない」
空いていた左側、私からすると右側に布団を捲って入ると、彼は体を横たえて布団をかぶった。
向きは、外側。
私が彼のほうを向いて横になっても、金の髪が見えるだけで、その瞳も表情も見えやしない。
いつもと、半年前と、変わらない。
「ルー。おかえりなさい」
額をそっと大きな背中にくっつけて、更にお疲れ様、と囁く。
僅かに時間を置いて、ああ、と短く返された。
それから静かになった空間で私は少し躊躇って、けれどそっと、腕を伸ばす。
緩く、彼の体に腕を回した。
「なぁ」
腕を掴まれて、驚きにびくりと体を震わせる。
どうしたのかを問うて彼を見れば、彼は布団越しに私の腕を見ているのか下を向いていた。
大きな暖かい手で、袖越しに掴んだ腕の太さを確かめるように握られる。
「やっぱり。お前、痩せただろ」
目を見開いて、苦く笑った。
彼には見えないと、届かないと理解した上で、声を出さずに唇だけ動かして彼を呼ぶ。
「うん。結構ね、大変だったの。食べ物は美味しくないし、仕事は大変だし、何より、」
――何より、ルーが、いなかったから。
「…よく、眠れなかったから」
そっと、微笑んだ。
「ふーん」
もぞもぞと振り返った彼の金と目が合う。
驚いて広くなった視界を、彼の顔が堂々と占めていた。
「じゃあ、すぐにまた一緒に寝よー、って、来なかったのはなんでだ?俺と一緒だとよく眠れるんだろ?」
よく覚えていたねと、また驚く。
彼にとっての私は存外、高い位置にいたのかもな、なんて、困ったように笑った。
「それは…えーっと」
もごもごと言いながら、すい、と逸らした視線の先に彼と二人でかぶっている布団が映る。
彼の視線を感じて落ち着かない気持ちをどうにか宥めて、小さく息を吐いた。
「あのね、私、いつもルーにお世話になってばっかりだったなって、思ったの」
ずっと見ていたいと思うような彼の瞳を、覗き込むように見る。
少しの照れ臭さを誤魔化すように、笑んだ。
「いつもごめんね、ありがとう」
傍にいられること、いてくれること、名前を呼べること、呼んでもらえること。
「大好きだよ、ルー」
心からの感謝を、想いを、伝えられること。
例え相手に正しく意味が伝わっていないとしても、受け入れてもらえること。
それは、どんなに。
「あ、ああ、そうか。まぁ、あんまり気にするなよ」
ぽん、と頭を撫でられる。
大きな手、大好きな手、ずっとこの手に守られてきた。
じんわりと涙が滲む。
彼に気づかれないように、そっと自然に瞼を閉じた。
変わりなく甘やかしてくれる、この手が、彼が、愛おしくて仕方がない。
「…うん」
――目眩がしそうなほどの、幸せだった。




