ある夏祭りの幼馴染の話 前編
夏祭りにはまだ少し早いですが、ネタが降ってきたので。
よろしければ最後までお付き合いくださいませ。
私はきっと、誰よりも幸せだった。
小さい頃からずっと、彼がいてくれたから。
「あ、おはよう!」
家の前で幼馴染の彼に出会う。
私は嬉しさを隠せないまま、満面の笑みで挨拶をした。
けれどそれが、凍りつくのはすぐのことで。
「…え、あ…お前、誰?」
え、という言葉すらも出ない。
衝撃に喉がひりついて、心臓の音がやけに耳につく。
「…人違い、だったみたい。ごめん、なさい」
あ、ああ、という微妙な返事を背に、私は逃げ出した。
それが、一ヶ月前のこと。
*
ある日突然、彼が私を忘れてから一ヶ月が経った。
良くしてくれている彼の勤め先の大司教様がそれとなく探ってみても、私のことだけを綺麗さっぱり忘れているらしい。
人が人のことを、それも昔から関わりのある人だけを忘れてしまうのは、強い心因的ショックからだと大司教様は言った。
あまり刺激せず、自然と思い出すのを待ったほうがいい、とも。
だから私は今、できるだけ彼と会わないように生活している。
それでも彼の姿を見つければ視線が追いかけてしまうし、名前を呼んで駆け寄りたくなるが、必死に堪えた。
名前を呼んでほしい。
いつものようにぶっきらぼうに「おはよ」と、返してくれたら。
なんて、叶わない夢を見る。
私の知っている彼はもう、どこにもいないのだ。
――そう思わないと、生きていけないような気がした。
「イークちゃん」
名前を呼ばれて振り返れば、近所のお姉さんが私を見て手を振っている。
こんにちは、と会釈をして、浴衣姿のお姉さんを見返した。
「今日は一年に一度のお祭りよ?そんな辛気臭い顔してないで、これでも着て楽しんできなさいな」
その言葉に、そうか、彼女はこの一ヶ月で概ねこちらの事情を理解しているのかと、察する。
その上で気分転換にどうかと、気遣ってくれているのだろうと理解した。
手に持つ桜柄の浴衣は、淡い薄紅色が白地に散っていて、可愛い。
普段ならその可愛さに心が踊って、彼に着て見せたら褒めてくれるだろうかと考えたけれど――。
『…え、あ…お前、誰?』
――それも、もう無意味なことで。
「…ありがとうございます。わざわざ、浴衣」
受け取って、ぺこりとお辞儀をする。
それから、家のどこに着付けに必要なものを仕舞ったか頭の中で思い返した。
「いいのよ!気にしないで、楽しんできて。今年はいつもと違うんだから!」
いつもと違う?と問い返そうとして、道の先に見えた姿に、口から出てきたのは違う言葉だった。
「それなら、祭りまでに着付けもしなければいけませんし、一度帰りますね」
挨拶のハグをして、ではまた、と片手を振れば、お姉さんもにこやかにまたね、と手を振り返す。
足早に逃げるように去れば、後ろから「ルーファス君じゃない!」と、お姉さんの声がした。
*
「これでいい、かな」
一年ぶりの浴衣を身に付けて、鏡の前で最終確認をする。
毎年ここで何回も最終確認をしていた記憶が、ふっと脳裏を過った。
もう、そんなことをする意味もない。
「時間は…いいぐらい、かな。行こう」
夕焼け色の雲が空を泳ぐ。
お祭り近くの大通りを、家族連れや、恋人らしき人達、友人同士のグループや、私と同じく一人の人達が、様々な格好をして、様々な表情をして、行き交っていた。
――どこか、空気が違うと思った。
一度そう思ってしまえば気になってしまって。
いったい何が違うのかと、他の人達の邪魔にならないよう道の端で足を止めて、ぼーっと行き交う人々を眺めながら、ふと。
そういえば、彼は来ているのだろうか、なんて。
「っ」
考えてしまったのが運の尽き。
無意識に視線を巡らせた先に見えた、覚えのある人物。
上等な浴衣を纏って歩く大柄の男性は、金の髪を揺らし、隣の女性と何かを話しているようだった。
「…ルー」
彼を見つけ出してしまう、自分が憎い。
到底平静ではいられないくせに、目を逸らせない自分が、私は。
「美味しいよー!」
「出来立てだよー!」
「ねぇ、あれ食べよう?」
「いいよー」
「ママー!かき氷!」
「はいはい」
賑やかな喧騒。
その中で、すれ違う人が一度は振り返る、可愛らしい女性。
背は私よりも小さく、彼と比べると結構な身長差はあるものの、彼と似たような生地の、上等な浴衣を纏って、綺麗な簪を差している。
敵いやしないと、否が応でも察した。
けれど私のほうがきっとずっと、彼のことを、なんて、心の中で無駄な張り合いをして、彼らとは別方向に逃げるように歩き出す。
見たことのない、彼が着ていたあの浴衣は、あの女性に贈られたものなのだろうか。
それとも、あの女性と揃えたものなのだろうか。
流石に彼が買ってあげたとは考えづらいが、可能性としてはなくもない。
だが何にせよ、揃いの柄ではなかったことが、まだ救いとも言えた。
これでもしもお揃いだったら、私はきっと、立ち直れなかっただろうから。
*
歩き続けて着いた場所は、喧騒が遠く聞こえる小さな寂れた空き地。
日も暮れて、涼しい風が辺りを吹き抜けた。
「…花火まで、まだ少し時間があるんだ」
石段の上に座って、はぁ、と一息吐きながら呟く。
毎年豪勢な花火が綺麗に見られるこの場所は、他に誰も知らない穴場だった。
お祭りから少し遠く、座る場所もないただの空き地だから、わざわざ来たがる人もいないのだろう。
毎年来ているが、他に人を見たことがないのだから、つまり、そういうことなのだ。
みんな、ここで見られる花火を知らない。
私と、彼以外、誰も。
*
暫く待っていれば、ドンッ!と最初の一発が打ち上がって、夜空に白い花が咲く。
結局、出店を回ることはできなかったな、と、ぼんやり思った。
それから、家を出る前に軽くお腹に食べ物を入れてきていなければ、この感情にも空腹にも苛まれて、きっと今年のお祭りを良い思い出にはできなかったんだろうなぁ、とも考えて。
「…綺麗だなぁ」
零すように、自然と口から出てきた賛辞。
なんて感情の篭らない賛辞だろうと、思った。
もうこのままここで一人、最後まで花火を見ていたって、仕方がないんじゃないかと考える。
だからいっそ、今年は最後の連続花火も見ずに帰ってしまおうか、と考えて、ふと。
足音が、聞こえた。
視線を動かして音の主を探せば、見覚えのある姿が祭りの方向、私が来た道からやってくるのを見て、驚愕から固まってしまう。
「こんなところで何してるんだ?」
金の髪を揺らしてここまで来た彼が、数歩分の距離を置いて私にそう問うて。
一ヶ月ぶりに見る、彼の瞳に囚われる。
どう答えようかと僅かに逡巡し、浮かんだ正直な答えは速攻で却下した。
けれど、誰も聞いていない心の中でならと、あなたのことを考えていたよ、なんて、詮無いことを呟いて。
「花火を見ているの」
表情も変えずに静かに呟いた言葉は、喧騒の音が遠く、花火の音しか聞こえないこの場によく響いた。
「…ここからだと、よく見えるから」
だから、そんな、間違ってはいない答えを、じっと見つめていた金の瞳から目を逸らし、花火に視線を移しながら嘯いてみる。
今にも花火の音にかき消されてしまいそうな、静かな声。
どこか空虚にも感じる、力のない言葉だと、自分で思った。
「あぁ、本当だ。よく見つけたな」
それでも彼は私の言葉に顔を上げ、同じ方向を見て、得心がいったように頷くと、また花火を見ている私に視線を戻し、言葉を返した。
だから私も彼を見て、困ったように、曖昧に笑ってみせる。
彼は金の瞳でそんな私をまっすぐに見ながら、静かに、けれどよく通る声で問うた。
「…一人か?」
それは、どっちだろうと、ぼんやり赤い花火を見ながら思う。
一人で来たのか、それとも一人でいたのか。
後者なら見ればすぐにわかることだろうから、きっと前者だろう。
もう少し待てばこの場所に私を尋ねてやって来るような人も、いないのだから。
「まぁ、そう、だね」
どうでもいいという内心が出ない程度に取り繕って、頷いた。
「…隣良いか?」
そんな私から視線を外し、彼は私の座っている何もない隣を見ながら聞いてくる。
同時にその足は数歩分の距離を詰めていて、すぐ近くで私を見下ろす気配を感じた。
「…どうぞ」
手を動かして隣を指し示すこともなく、ただ花火を見上げていた視線を横にずらして、合わせた金色に言葉を返す。
見慣れた金の髪が、吹いた風に揺れていた。
それから彼が拳一個分程度の距離を空けて私の隣に座ったのを、青い花火を見ながら感じる。
意識が全て、隣の存在に奪われてしまっているのを、否が応でも感じ取った。
「ここには、よく来るのか?」
同様に花火を見上げる彼を横目で確認し、紫色の花火に視線を戻す。
「そう、だね。来る…かな」
特に何も考えずに、ただ答えを返した。
「毎年来てるのか?」
うん、と頷く。
「一人で?」
また、うん、とは、頷けなかった。
「………ううん」
浮かぶのは、何よりも愛おしい金の色。
そこかしこにある金色の中でも、光に透けて変わる、暗いところで変わる、彼特有の金の色。
色とりどりの花火が上がる度に、微妙に変わる綺麗なそれが、こんなにも簡単に、思い出せるのに。
「毎年、誰かと来ていたのか?」
うん、と頷いて。
「――誰よりも、大好きな人と」
そっと、花火を見上げながら、愛おしむように頬を緩めて呟いた。
「…今日は、いないのか」
青い花火に辺りを照らされる中、ふっと、何も言わずに笑う。
言えるはずもなかった。
私の知っている彼は、もういない。
「今は、うまく行っていないのか?」
ああやけに、いろいろと聞いてくるな、と思った。
私に会話を広げる気がないことなど、彼にもとっくにわかっているだろうに。
いっそ無視でもすれば飽きるだろうか、なんて、できもしないことを考えながら、僅かに黙る。
うん、とも、ううん、とも、返せない問いだった。
「…どう、かな」
首を傾げて、曖昧に誤魔化す。
それから流れを変えるために、今度は私から問いかけることにした。
「ところで、祭りのときに見かけたんだけど、一緒にいた人は…どうしたの?」
綺麗なブロンドの可愛い女性。
私なんかじゃ、到底太刀打ちできるはずもない。
もしも置いてきているのなら、早くその人のところに行けばいいのにと、思う。
まさか彼が誰かを置いて、別の場所に長く居座り待たせるような人物じゃないとわかっていて、それでも。
「あぁ、急用ができて帰ったよ」
そう、と返しながら、やっぱり、と、思う。
同時に、ここに来てしまったことを後悔した。
少なくともこの状況だと、花火が終わるまでは彼とここで過ごさなければならない。
今の私には、今の彼と過ごすのが、苦痛で仕方がなかった。
しかも、よりにもよって、この日、この場所で、なんて。
「っと、一服良いか?」
見覚えのある箱を取り出して、軽く揺らしてみせる。
私は一瞬そちらに顔を向けてそれが何かを確認したことを示すと、どうぞ、と軽く頷いてまた花火に顔を向けた。
同時に、ドンッ!と黄色と緑の光が辺りを照らし出して、彼がタバコを取り出し火を付ける動作を浮き彫りにする。
見覚えのある仕草、覚えのある香りに、ふと、胸の奥の奥が熱く疼いて、ひどく泣きたくなった。
「祭りに来たら、あることを思い出したんだ」
彼がふぅ、と煙を吐いた後、語り出したのはその時だ。
「よく、覚えてないけど。ガキの頃、一緒に来てたやつが、人の波に攫われて、はぐれてな。探すのに一時間くらいかかった」
それは、十年程前のお祭りで起きた、私と彼の、思い出話だった。
最も、彼はその相手が私だとはわからないのだろうけれど。
「で、そいつを見つけると、普段人前では泣かない奴だったのに、俺を見るなり大泣きして宥めるのが大変だった」
悲しさと、懐かしさと、申し訳なさに瞼を伏せる。
彼はいつも迷惑に思ったことはないと言ってくれていたけれど、やっぱり私は彼に迷惑をかけてばかりだった。
だから、こうなったのは、彼にとって良いことなのではと、思わずにはいられない。
「でも、花火が打ち上がると、泣き止んで、はしゃぎ出したりしてたんだよな」
彼と私の縁は、一ヶ月前に突然、何の前触れもなく切れたのだ。
それはもうきっと、繋ぎ直さないほうが、いいのだろう。
「…なんて、そんなこと考えて歩いてたら、いつの間にかここに来てた」
そう考えて、敢えて話を広げないように、ギュッ、と、彼からは見えない左手を握りしめながら、無難な返事を口に出した。
「そう、なんだ」
彼が、どこを、どこまで、どのように覚えているのか、わからなかったから。
何を言えばいいのかわからなくて、きっと、何も言わないほうがいいのだろうと結論付けた。
本当に、彼の記憶の中で、私はいったい、どう、なっているのだろう。
「ここは、お前にとってどんな場所なんだ?」
なんて、黄色い花火をぼんやり眺めてそんなことを考えていれば、彼は唐突に質問を投げてきた。
私は視線を落とし、橙色の光に照らされた風景を、ゆっくり眺める。
「…大切な、場所かな」
ドンッ!と、毎年見ているはずの風景を、緑色が照らし出した。
同時に、ああ、と、思う。
その色が、褪せている。
「お前には、今話したような思い出話はないのか?」
また、不意に問われて横を見れば、花火を見ていた彼がチラリと私を一瞥して、空に視線を戻した。
「………思い出話」
私もぼんやりと、打ち上がって咲き誇り、散っていく色とりどりの花を眺めながら、零す。
「いつも来ていた人とお祭りに行ったある年に、私ははしゃぎ疲れてここで眠ってしまったの。その人は私に肩を貸してくれて、起きるまでずっといてくれた。私もそんなに長い時間寝ていたわけではなかったけど、起きたら最後の花火が打ち上がっていて。それから、二人で帰った、かな」
まさに、今と同じような位置で、もっと近くに座っていて、こてんと首を傾ければ良い具合の角度で凭れることができたのだ。
多分もう二度と、起こり得ない思い出。
「最後の花火は見れたんだな」
ヒュー、と吹いた風に髪を煽られながら、彼が呟く。
自然と頬に触れる横髪を横目に放っておきながら、私はええ、と頷いて。
「でも、そんな時間まで付き合うなんて、変わった奴なんだな」
返された言葉には、無関心を装って流すことも、放っておくことも、できなかった。
「………優しい人だから」
なんと答えるか迷って、迷って、絞り出すように彼の言葉を否定する。
優しい彼を、変わっているだなんて、例え本人だとしても言ってほしくはなかった。
「優しいだけじゃ、そんなことまでしねぇだろ」
けれど自分のこととも知らない彼は、何も知らないまま言葉を重ねる。
「そう、かな」
私は困って、ただぽつりと呟くことしかできなかった。
「昔から、近くにいることを許してくれていたから」
それでもどうにか絞り出した言葉を、彼はまた否定する。
「近くにいることを許してるだけじゃ、やっぱりそんなことしねぇ気がするな」
彼本人から実際に彼がどう思っているか聞いたわけでもない私に、彼本人から告げられる言葉を、否定することはできなかった。
遂には黙ってしまった私に、ふぅ、とまた煙を吐いて、彼は呟く。
「…なんか、別に理由があったんじゃねーの?」
理由?と、彼の言葉を繰り返し、視線を花火から移して隣を見れば、そこには赤い光に照らされた彼の横顔があった。
花火の色を反射し、綺麗に輝いた金の髪が風に揺れて。
一瞬、動きが止まる。
ハッと我に返って慌てて視線を外すが、確かにあの瞬間、彼に見惚れてしまった自分を自覚する。
ただ、何かを考え込んでいる彼には気づかれていなかったようで、それがまだ救いと言えるかもしれない、とぼんやり思った。
そこで、彼は例えば、と一言前置くと、少し黙った後、考えるように上を向き、花火を見ながら呟いた。
「傍にいて落ち着くとか、居心地がいいとか、守りたいからとか…もしくは………好きだから、じゃねーの?」
ドンッ!と、黄色い花が散る。
私は衝撃にえっ、と声を漏らしかけて、慌てて飲み込んだ。
それから、僅かに躊躇った後、意を決して口を開く。
今しかないと、思ったから。
「…じゃあ、あなたなら。あなたがその人の立場なら、どう思って…傍にいるの?」
聞きたくて、聞けなかった、問い。
知りたい答えは、すぐそこにあると思った。
「んー…俺だったら」
少しの間ですら、もどかしい。
焦れるような心持ちで、続きを待つ。
けれど。
「――好きだから、傍にいるんじゃねーかな」
唇を、噛みしめる。
聞かなければよかったと、後悔した。




