ミハシラ=アーカイブス (9)
生者の霊廟と呼ぶに相応しき捩れた宮殿から出てきて吸った空気は、堪らなくウマかった。
その場の気まぐれで、駐車場までエレベーター脇の非常階段をテクテクと降りてゆくことにした寅吉は、前を歩く環からメンソール(大人と子供の相の子の為の嗜好品)を受け取り、その不浄の煙を肺一杯に溜めて言った。
「知っていましたね?」
「当ッたり前でしょ」
小柄な環の頭は、段差の所為もあり驚くほど低い位置にある。彼女はいつもの、キンキンと響く高音金管楽器のような声量を取り戻しつつあった。
「そんな上辺だけの情報で、はいそうですかと納得するほど、記憶と――イヤこの世界といい加減に向き合っちゃいないわよ」
「いつから気付いてたんです」
「そりゃ最初からずっと。いくら暈けて不合理な行動をしていたとしても、ああも繰り返し同じ動画を食い入るように見つめるには、相応の動機が必要だっていうのが何よりも明らかじゃない。動機解明。察するに、アレは衰え耄碌したからこそ凝り固まった妄執だったのよ。ホラ歳を取ると最近出会った人のことはキレイさっぱり忘れても、小学生時代の幼馴染はよォく思い出せるなんてことがあるじゃない。それと一緒。大須邦明さんにとっては、それが妻であり娘のことだったのよ。能動的な好色家というより、女性に良いように振り回されてしまう優柔不断でだらしがない人だったみたいでね。きちんと結婚まで漕ぎ着けた佳世さんないしはその産物たる沙世さんのことは、一際強い印象があったみたい」
「じゃああの戦地レポートっていうのは――」
「アレは態の良いカッコつけよ。映像作家としての収入は頭打ちで、エロビデオのモザイク掛けを含む動画編集で糊口を凌いでいたみたいだから、幸いにしてプロ意識の塊で第三者の立場を崩さなかった作品を偶々取り扱って、悪用しようって思いついたのね。別にあの遺書だって沙世さんに見せるために作ったわけじゃない。もしそうだとしたら、居場所まで調べ上げていたんだから送り付けるなりいくらでも方法はあったはずよ。ということはただの気休めで――寂しさを紛らわせる方便だったわけね」
寅吉はまだ納得しかねる様子だった。
「でも判りませんね。久世輪太郎博士の産みだした〈ミハシラ=アーカイブス〉は、ある種の極秘計画だったわけでしょう? どうして沙世さんは、私たちが他人の記憶を垣間見る術を身に着けていて、その技術を悪用した誤魔化し《ペテン》だと気づいたんでしょう」
「別に悪用も何もしていないじゃない。ありゃただあなたの早とちりだった」
環は嗤った。
「でも一つ言えるのは――津山沙世は、本当に父親の存在なんか気にしちゃいなかったし、〈ミハシラ〉のことも知らなかった。いくら根拠薄弱でも、今まで自分に言い聞かせてきた不在証明を裏付けるモノがもう一つさえあればそれで充分で、それをずっと待ち侘びていた――」
環はそこで言葉を切り、また歩みも急に止めたため、寅吉は危うく躓いて階段から足を踏み外しそうになった。
その無様な姿を環はいとも可笑しそうに眺め、いささか子供染みた笑みに顔中を綻ばせ、こう言うのだった。
「+《プラス》はかく語りき。かくに人の記憶も、その記録も不確かなもの。ゆえに世界は完全ではなく、書庫は永久に未完成。だからこそそこに虚数の入る余地があり、明白さ隠避さも表裏一体、メビウスの輪が如し――だからこそ世界は面白い!」
* * *
その〈記憶〉は今も〈ミハシラ=アーカイブス〉の母なる碑の脇、本が雑多に積まれた机の片隅で、青拍子の詩集の下敷きとなってそこに在る。
風が吹けば飛ぶようなちっぽけな機器で、いずれは埃と共に壁蝨に喰われる運命にあるといえた。
〈記憶〉の主はかつて長い長い冬眠に着き、春に目覚めた。
暗い積雪の下から這い出て、目の前に広がっていた春の朝は眩しく、またとても腹が減っていた。ゆえに当初、〈智〉に飢えていた主は貪欲に〈世界〉を咀嚼し、己が身体の一部に取り込んでいったのである。
けれど雪解けの刻から幾年か。
主は〈世界〉に慣れ、自らの縄張と称して闊歩するまでになった。
〈智〉の渇望は薄れた現在、彼女が古い萎びた知識を口にすることはないだろう。
怖いのではない。
思いのほか美味しくなさそう。
ただ、それだけのことだった。
《終》